第9話 無責任な人

 今、背筋に走ったゾクゾクした気持ちは、好意なのか、趣味なのか。

 俺に、男に罵られたいという悪癖…いや、癖があって、それはこれまで眠っていたのだろうか。石原のような口の悪い男とつるんでいても平気だったのはそういうことだろうか。

 後藤のことは、石原絡みでずっと気になっていた。まじめで気の弱い、石原みたいなやつに振り回されやすい、ちょっと可哀想な奴だと思っていたが、本当は、この気の強さに気が付いていたのだろうか。


 ここでヘンな事言ったら嫌われるのか。

 いやいや、もう十分嫌われているだろう。何を今さら気にすることがあるんだ。

 嫌われても平気じゃないのか。

 いや、できればこれ以上嫌われたくない。嫌われたくないというか、できれば嫌な気持ちにさせたくない。その気持ちは少し前から増してきていた。

 この感情って、何?

 今、俺は後藤に対して何を言ったらいいんだろう。正解が見つからない。

 こういう気持ちになったこと、あったっけ。

 後藤、俺のこと睨んでるな。後藤が怒っている。後藤は石原が好きで、俺が邪魔なんだ。俺は部外者。傍観者。

 俺は…。


 人を好きになる気持ちがどんなものだったか思い出せない。

「後藤…」

 やっと発した声は掠れて、相手に届いたかどうか分からなかった。俺はギュッと目を閉じて、大きく頷いた。

「わかった。帰る」

 後藤は、返事をせずにこちらを睨み付けているだけだった。

「…帰る」

 帰るって、どうするんだっけか。

 ええっと、駅に向かって歩けば良かったのか。

 後藤…後藤はどこに向かってた?職場の方向へ歩いていたように見えた。でも本当の目的地は聞いていない。

 死んだりとかはしないって言ってたから、大丈夫。放っておこう。大丈夫だ。また職場で会えるから。しつこくするべきではない。

 後藤が生きて動いていればそれでいい。

 あ。俺、石原のことコンビニ前に置いてきた。まあ、それも構わないだろう。あいつが悪い。ちょっとはあいつが悪い。

「じゃあ、また」

 そう言って、とにかく駅まで歩くことにした。自分でもかなり混乱しているなと思った。


 自分のことを、冷静だと思っていた。これまで大抵のことは落ち着いて対処してきたつもりだった。なのにこの混乱は何だろう。やはり、この気持ちは『好き』とか、そういうものの一種なのか。

 今まで男に興味を持ったことはなかった。あの白ムチ肌の石原に迫られても、好きとか、女性に抱くような感情は生じなかった。

 少し歩いて、振り返った。

 後藤の姿はもう無かった。



 癖のない顔。真面目そうな、役所とかにいる若い職員みたいな雰囲気。グレーのスーツ。シャツはストライプが多くて、ネクタイはライトブルーのものがほとんど。靴はリーガルの濃茶と、ノーブランドの黒。腕時計はカシオの数千円のもの。左手の薬指の、手の甲側にほくろがある。

 覚えてるなぁ。俺、あいつのことかなり覚えている。

 身長百七十五センチメートル、体重五十五キロ、これは最近入手した情報。痩せてる。もっと鍛えた方がいいと本当に思う。

 ただ興味で観察しているつもりだった。

 後藤の、石原への感情を疑い出してからは、それを理由に更に観察していた。


 これが好きという気持ちだとしたら、『好き』って、結構しんどい。


 自分から告白をしたことがない。思い切って自分にぶつかってきてくれる女の子に情が湧いて、次第に好きになっていった。相手がこっちを好きだという前提で好きになるから、相手の気持ちを疑う必要も、探る必要も無く、少しずつ心を開けばいいだけだった。

 …相手にこれほど嫌われているのに、こっちが好きになるなんてことが起り得るのか。

 なんなのお前、って言われたぞ。

 俺はこの気持ちの整理をどう付けていく?



 次の日、石原は俺に何も訊いてこなかった。

 どう説明しようか迷っていたから拍子抜けだ。

 後藤も、当たり前だがちゃんと仕事に来た。

 しかし、石原に嬉しそうに尻尾を振る犬のような表情はもう無かった。やはり、昨日の一件は堪えたと見える。もう諦めるのか…どうなるんだろう。

 正直、後藤の笑顔が消えたのが辛い。どうせ俺には苦笑しか見せない。せめて石原に笑いかけているのを見ていたかった。

 観察するなと言われたが、それはやめられないと言っておいたから、このまま見ていてもいいだろうか。

 先日とは別のセミナーの講師のところへ挨拶に行くと言って、石原と後藤の二人で部屋を出ていく。


『お前にその気が無いなら泊めるなよ』


 少し咎めるような気持ちで石原を見た。

『分かってるよ』

 石原が小さく頷いた。

 世界で一番、何の保証もない無責任な頷きだと思った。



 






 

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