第5話
「中條さん」彼の部屋を訪ね、ノックするが返事はなし。「いないのかな?」
ドアノブに手をかけようとしたとき、扉がわずかに開いた。
「ちゅう――」
覗いた目は竜崎。続いて現れたのは鉱石でできた青い刃のナイフ。ショーケースで見たときと違い、その刃先は赤く血塗られていた。まっすぐに伸びてくる。腹に刺さる!
「ぐ……っ、ぎぃ!」
ナイフが私の腹に到達する寸前、神菜が扉に体当たりをかまし、竜崎の腕をはさんだ。その拍子に落ちるナイフ。
「逃げなさい!」
なかから中條氏の叫び声が聞こえた。
「真奈美さん!」
神菜は落ちたナイフをかすめ取り、私の手を握って走り出した。
「待つんだ。中條さんが」
「もう手遅れかもしれません」神菜は走りながら言った。「真奈美さんまで殺されるわけにはいきませんから」
「つまり、一連の事件は竜崎が犯人だったのか?」
「いえ」と神菜は言った。建物中央の階段に着いたとき、その足が止まった。「おそらく、ぼくたち以外全員でしょうね」
神菜のことば通り、私たちの行く手を阻んだのは執事の三木本氏だった。
「御夫人はいないのか」
「竜崎さんとともにいるはずですが」と三木本さんが言った。「ここでおとなしく捕まり、主の意向に沿ってはいただけませんか」
「できませんね。あなたの主は間違っていると言わざるを得ない」
「それは百も承知。しかし、従う以外の生き方を存じませぬ故」
三木本氏は日本刀の鞘を捨て、構えた。それも主が集めた美術品のひとつなのだろう。
「真奈美さん、武道の心得はありませんか?」
「剣術なら。日本刀も振るったことがある」しかし、どうやってそれを奪うか。
「任せてください」
神菜はそう言って私の手を離し、無防備に前進した。
「それ以上近寄ると、肌に傷がついてしまいますぞ」
神菜は剣先を喉元に向けられてなお微笑みを絶やすことなく三木本氏に近づく。剣先が神菜に触れた。
「くっ」
三木本氏は剣を引き、切っ先を神菜から逸らした。彼女はその隙を逃さず、三木本氏に体当たりをかました。同時に、彼の腿に鉱石のナイフを突き立てる。
「神菜!」
バランスを崩した三木本氏もろとも、神菜は階段を転げ落ちていく。階段を下りて彼女たちに近づくと、神菜は三木本氏をクッションにしていたのかすぐに立ち上がり、刀を奪って放り投げた。
「行きましょう」
「刀は持って行かないのか」
「真奈美さんに物騒なものは似合いませんから」
神菜は再び私の手を引き、屋敷を飛び出した。目指すのは港。
「神菜。もうあんな無茶はしないでくれ。つぎは殺されてしまうかもしれない」
「いえ、それは大丈夫です」
神菜の声は確信に満ちていた。
「下松さんはぼくに対して、美術品と同様の価値を感じています。だから、傷つけることは許さないはずですから」
そこに付け込みました、と神菜は舌を出した。
港に着き、船に乗り込むが、それを動かす鍵がない。それに、運転手も。
「長居は危険だ。竜崎たちが追ってくるかもしれない。ここは一度身を隠そう」
「ええ。でも、ちょっと待ってください」
神菜がなにかしら船の上でごそごそとやっている間、私は屋敷に目を配って追っ手を警戒していた。ぼそぼそと独り言ちている神菜。一度見たものは忘れないと言っていた彼女はまさか、船の操縦手順を見て覚えている?
「行きましょう」
しばらくして神菜が船から降りてきた。
「神菜は操縦できないのか?」
「はい。さっぱり」でも、と神菜。「ぼくたちを置いて島から脱出されては困りますから」
船が動かないように細工したということだろうか。私たちは身を隠す場所として、初日の探検で見つけた洞窟状のトンネルを選んだ。
洞窟に入ると、叔父と御堂筋氏の遺体があった。
「きっと、ぼくたちが海岸にたむろしていたせいで捨てられなかったんですね」
「ここに保管しておいたわけか」
私たちは遺体を隅に寄せ、二人並んで座った。
「私たちは助かるのだろうか」
「大丈夫ですよ」と神菜が言った。「真奈美さんは必ず、ぼくが帰してみせますから」
「それは、頼もしいな」
「あ、信用してませんね?」
そう言って神菜は私の膝にまたがり、私の眼を見つめた。
「ぼくはたくさん嘘を吐きますけど、これは本当です。その証拠に」神菜は私の唇に、自らの唇を触れさせた。「初めてのちゅうをあげます。どんな気分ですか?」
「二〇年生きたなかで」と私は神菜を見上げながら言った。「最高の気分だよ」
「よかった」
神菜は微笑み、私に覆いかぶさるような形で抱き着いた。
「もしかしたら、おじさまを殺したのはぼくかもしれませんよ」
「なぜ? 動機がないよ」
「性的な暴力を受けていた恨みから、とか」
まさか、と私は神菜を見たが、彼女はいつも通り微笑んでいた。
「真奈美さんが竜崎さんと探検していたとき、ぼくはあの人たちの前で裸になっていました。みなさん、ぼくの体を描いてた」
「それでも」と私は神菜を抱きしめる。「きみはそんなことしないよ。人を傷つけたり、しない」
「三木本さんを刺したばっかりなのに」
それは、と私が口ごもると、神菜はおかしそうに噴き出した。
「しばらくこうしていてください。洞窟の中は寒いですから」
ああ、と私はいっそう強く神菜を抱きしめた。
もうどれほどの時間そこにいたのだろう。洞窟に入ったときには高い位置にいた太陽はすでに傾いていて、空を赤く染めていた。かしゃんと金属音が洞窟に響いた。
「ここにおったか」
声の主は確かに下松氏だった。しかし、その姿は異様。美術展示室に飾られていた西洋の甲冑を身に着け、槍を構えていた。神菜がゆっくりと立ち上がり、彼の前に立ちはだかった。
「それ以上近づけば、ぼくに傷がつきますよ」
「目立たぬ傷なら構わん。私が欲しいのはその体だけだ。私をコケにする心はいらんよ」ホルマリン漬けなり剥製なりにして飾っておくとするよ、と下松氏は槍の穂先で神菜の顎を撫でた。「最後の忠告だ。大人しく従うなら、広瀬君の姪の命は見逃してやるが?」
神菜は私を振り返った。
「ダメだ、神菜」
しかし、神菜は答えずに下松氏のほうに歩み寄った。
「それでよい」満足そうに微笑む下松氏。しかし、すぐにその表情に陰りが現れた。「なんだ、この音は」
それはヘリコプターの音だった。洞窟の外、開けた平野部のほうから聞こえてくる。
「船の無線を使わせてもらいました」神菜は下松氏を見上げ、にやっと笑った。「手順は一度、見ていましたので」
ヘリから降りたらしい警察官たちの声が洞窟まで届いた。
島から脱出した私たちは叔父の葬式を済ませ、彼の遺品を整理するためアパートに来ていた。とはいえ大半は画材道具や作品ばかりで、私の手にはあまりそうだ。
「ん?」押し入れから出てきた一枚の絵。額縁に収められたそれは神菜の肖像画だった。その絵と一緒に置いてあった数冊のスケッチブックもすべて、神菜で埋められている。しかし、そのどれもが服を着た神菜で、ヌードは一枚もなかった。「どういうことだ?」
てっきり叔父は常日頃から神菜の裸体を描いている者ばかりだと思っていた。性的な暴力云々の話から、そう連想するのも無理からぬことだろう。
「ああ、それ」と神菜がスケッチブックを覗き込んだ。「実はおじさま、一度もぼくの裸を見たことがないんです」
「なんだ、あれは嘘だったのか?」
「館であった写生大会は本当ですよ」けれど、と神菜は照れたように笑う。自惚れかもしれませんが、と。「おじさまは本当にぼくを愛していたんだと思います。とても純粋な人だったから、恥ずかしくてぼくの裸を見ることができなかったんです」
「純粋ならあの日、私の服を脱がそうとはしなかっただろう」
「それは、真奈美さんの発育がよかったからじゃないですか? 描く対象としてしか見ていなかったから、照れもなかったとか」
ああ、と私は頷いた。
「あの人はとんでもないほどのロリコンだったのか」
ええ、きっと。神菜はそう言ってくすくすと笑った。この笑顔を守りたいと思った。その役割はいま、叔父から私へと移ったのだった。
女神はいつも裸で微笑んでいる 音水薫 @k-otomiju
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