第4話
私が閉じ込められたのは四階の一室であった。荷物はすでに移動させられており、神菜と同室ではなくなったこと以外、大した変化はなかった。その部屋もまた客室で、ベッドやシャワー、トイレが清潔な状態にされていた。
私はベッドの上で膝を抱え、時間が過ぎるのを待った。犯人は私じゃあない。では、誰か。叔父はナイフで一突きにされていた。大の男にナイフを突き立て絶命させるなんて所業、相当な腕力が必要なはずだ。かつ、あの部屋は神菜が開けるまで密室だったはず。しかし、自殺者があんな表情で死ぬだろうか。あれは苦しみに悶えていたのではなく、理解できない恐怖に襲われた。そう物語っているようであった。凶器は刃物だろうが、パッと見た限り、部屋には残っていない。広い屋敷とはいえ、刃物がある場所なんて限られている。キッチンから包丁が一本でも欠けていたら、三木本氏が気づくだろう。それに、あの老人、中條氏が元刑事だというなら、アリバイ以外の捜査も怠らないはずだ。きちんとしてもらえれば、私が犯人ではないとすぐに証明されるはず。そのときを待つ。今の私には、それしかできそうもなかった。
目を閉じて悶々と考えていると、いつの間にか夜になっていた。部屋は真っ暗で、外は風雨のために窓が軋んでいた。一人でいると、こんなにも寂しい場所だったのか。部屋の明かりをつけようとベッドから降りたとき、なにか物音が聞こえた。ひたっ、ひたっと濡れた足で硬い床を歩くような音。部屋の扉に耳を当てて廊下の音を確かめるが、なにも聞こえない。
「気のせい、か」
入り口に来たついでに明かりをつけ、部屋に戻ると下半身があった。
「はっ?」
暖炉から伸びる白い脚に続いて胴が、ぬるんっと落ちるように神菜が現れた。
「ボンソワール、真奈美さん」神菜は煤で黒くなった手を振り、笑顔を見せた。髪はしっとりと濡れ、服は肌に張りついてすこし透けていた。「お待たせしました」
「神菜? これはいったい」
「くしゅんっ」
「風邪をひく前にシャワーを浴びたほうがいい」
「はい。ありがとうございます」
「屋根を歩いてきたのかい?」
「はい。そこから煙突に。もうすこしスムーズにいく予定だったんですけど」
神菜は舌を出して笑った。雨で滑ったらどうするんだ、と注意したいところだったが、彼女が危険を冒してまでこの部屋を訪れてくれたことが嬉しくて、非難のことばを飲み込んだ。
「なぜ、この部屋に?」
「真奈美さんが犯人じゃあないってことは知っています。けど、それを証明するためにはこうするしかなかったんです」ごめんなさい、と神菜は頭を下げた。「この事件はまだ、終わってないと思います」
「つまり、どういうことなんだ?」
「まあ、それはおいおい」
私は神菜をシャワールームに連れていく。
「犯人は左利きでした」
「見たのか? 犯行を」
「いえ。ここに来る前におじさまのところに行ってきたんです。現場保存のために施錠してあったので、煙突からですけど」神菜はひとまず洗面台で手を洗った。「左から、体の中心めがけて刃物が刺さったような傷になってたんです。それだけで、犯人は絞れますよね。真奈美さんは?」
「右利きだよ」
「じゃあ、候補は御堂筋さんとぼくですね」
「ん? 竜崎も左じゃあないか? 彼は右手に時計をつけていたが」
「ポーカーを見る限り右利きでしたけど、両利きですかね?」
神菜の手についた煤は手洗いだけでは完全に落とせなかった。服に汚れがついてしまわぬよう、私が神菜の服を脱がせてやる。
「明日が勝負です」と神菜は裸になって微笑んだ。「あと、真奈美さんの服、貸してくださいね。部屋に置いてきちゃったので」
神菜とともに寝て、朝を迎えた。扉には外から鍵がついていて外出できなくても、日々の習慣から規則正しく目を覚ましてしまった。二度寝を試みても、生来の目覚めの良さからかえって居心地悪く感じてしまい、シャワーを浴びて着替えた。朝食はどうなるのだろう、と考えていると、ノック音。扉を開けると、中條氏だった。
「おはよう、お嬢さん」彼の面持ちは暗かった。「昨夜はひどいことをしたね」
「それで?」
「きみの容疑は晴れたと言っていい」
「いや、よかった。誇り高い刑事なら、きちんと捜査してくださると思っていましたよ」
「そうじゃあないんだ」中條氏は言った。「もう一件、事件が起きた。御堂筋殿が殺害された」
「やっぱり」と神菜が起きてきた。「昨晩、真奈美さんに犯行は不可能でした。だから、一件目の犯人も別にいる、とお考えですね?」
「ああ。同一犯なら、という前提だがね」
「その話はあとにしましょう。せっかくお許しが出たわけですから、まずは朝ごはんです」
重い空気の中、朝食を終えると神菜は「調査に出かけましょう」と私を屋敷の外に連れ出した。
「現場を見るんじゃあないのか?」
「きっと施錠されてますから。見るのは夜ですね。また、煙突から入ることになりそうです」
神菜は島をぐるりと半周し、裏手の海岸を目指した。
「ここにはなにかあるのかい?」
「どちらの事件も凶器が見つかっていません。捨てるとしたら、ここかな、と」
「見つかるかな」
「凶器自体は無理でしょうけど、人が来た痕跡があれば十分ですよ」
潮だまりが多く発生しているあたりに来ると、中條氏が神菜と同じく足元を探しながら岩場を歩いていた。
「こんにちは、中條さん」
「ああ、きみたちか」
「中條さんもここが怪しいとお考えですか?」
「ああ、この島で証拠隠滅を図るなら、海に捨てるくらいだろう」
「それなら」と私はふたりの会話に口をはさんだ。「港のほうも探すべきでは?」
しかし、それにはふたりとも否定的だった。
「港に物を投げても、潮の流れで浜に返ってくるんです。けど、こちらなら戻るどころか遠ざかっていきます」
「そんなこと、素人にわかるのか?」
「少なくとも、僕たち以外の人は何度かバカンスに来ているはずですよ。そこでお話を聞いていても不思議じゃないです」
「おや」と中條氏は潮だまりのなかになにかを見つけたようだった。「コインかな?」
「ぼくが取りますね」と神菜はしゃがみ、水に右腕を突っ込んだ。「んっ、あれ?」
腕の長さが足りないのか、神菜は水をかき回し、砂を巻き上げて水を濁らせるばかりだった。
「神菜、私が代わるよ」
「いえ、もうすこしで」と神菜は前のめりになる。「届きますから」
「神菜、それ以上無理は」
「ありました!」と神菜は勢いよく腕を引き上げようとした瞬間、バランスを崩して潮だまりに落ちてしまった。
「神菜!」
尻餅をついた神菜は胸下まで水に浸かり、舌を出して笑っていた。怪我はないようで、ホッとする。
「真奈美さん、これ」と神菜は私に右手を差し出した。拾ったものを受け取れということなのだろうが、神菜の手にはなにも握られていなかった。「あれ?」
あたりを探す神菜。
「落ちるとき、落としちゃったみたいです」
「まあ、仕方がない」と中條氏が言った。「幸い流れのない潮だまりだ。濁りが取れたころ、また探せばいいさ」
「すみません」
しゅんとする神菜に手を貸し、陸に引き上げる。
「風邪をひく前に、風呂に入ったほうがいい」と中條氏の気遣いに甘え、あとの捜査を任せて私と神菜は屋敷に戻った。
「一歩リードです」そう言って神菜は嬉しそうに手のひらを見せてきた。そこに握られていたのは螺鈿細工のボタンだった。
「それは?」
「さっき海に落ちてたものですよ。コインじゃあなくて、ボタンだったみたいですね」
「ちょっと待ってくれ」神菜はさっき、落としたと言っていた。「いつの間に」
「マッスルパスっていうんです。マジックの一種ですよ」
神菜はそう言ってボタンを右手のひらに乗せ、親指と小指の付け根でボタンを挟み込んだ。そして、親指側をわずかに動かすと、ボタンは弾けたように飛び出す。神菜は飛んだボタンを左手で取った。
「ほらね」そう言った神菜は少し得意げだった。「海に落ちるとき、こうやってボタンを左手に移しておいたんです。そうすれば、刑事さんにばれることなく回収できますから」
「そんなことしなくたって構わなかったろうに」
「あの人は下松さんのご友人です。犯罪の痕跡をもみ消さないとは限りません。現に、下松さんに言われるがまま、真奈美さんを陥れたわけですし」
「それは否定しないが」
「刑事さんには味方だと思わせて情報を引き出しましょう。こちらから提供はしませんけど」神菜はボタンを私に手渡した。「これ、誰のだと思います?」
「少なくとも、叔父さんのではないな」
「刑事さんと下松さん、三木本さんのでもないですね」
「じゃあ、竜崎か御堂筋夫妻か」
「シャワーの後、みなさんを訪ねてみますか」
神菜の髪を乾かすドライヤーのスイッチを切ると、部屋の外から怒鳴り声が聞こえた。
「どうしたんでしょうか」
二人して部屋の外に顔をのぞかせると、そこにいたのは下松氏と中條氏だった。
「どうかしましたか?」
「ああ、いや」と中條氏が口ごもった。
「どうせ言わねばならん事だ」と下松氏。「きみたち身内には申し訳ないが、広瀬君と御堂筋君の遺体はさきほど、海に捨てさせてもらったよ」
「なんてこと」神菜が呟いた。
「私の島で殺しなどあってはならん。彼らは嵐の夜、船のようすを見に行った際に誤って転落し、波に飲まれた。警察にはそう説明する。よいな」
そんなことできるか! 私が下松氏に怒鳴りつけようとした矢先、神菜が私の腕を引いた。
「神菜?」
ひとつ頷く神菜。
「わかりました、下松さん。そう話をあわせればいいんですね?」
「ああ。きみは利口で助かるよ」下松氏は私を見た。「きみは?」
私は神菜に目で訴えられ、頷くしかできなかった。
「きみたちの、特に神菜。きみの生活は広瀬君に代わって私が保証しよう。今度のことも心配しなくていい」
「ありがとうございます、下松さん。では、ぼくたちはお昼寝の時間なので」
神菜はそう言って扉を閉めた。
「神菜、いったいどういうつもりなんだ」
「まあまあ、落ち着いてください」神菜はべッドに腰かけた。「この島を出る手段は船だけです。しかも、操縦できるのは三木本さんだけ」
「それがどうしたんだ」
「下松さんがその気になれば、僕たちはこの島で飼い殺されるかもってことですよ」
だから、いま下松氏に逆らうのは得策ではない、というのが神菜の意見だった。
「チャンスはいずれ来ますが、それは島を出る目途が立ってからです」
「しかし、犯罪者の脅威におびえているのは氏も同じだろう」
「そこなんですよ」と神菜。「ひとつ、気にかかることがあるんです」
「それは?」
「でも、これを言うと真奈美さんはぼくやおじさまを軽蔑するかもしれません」
一瞬、私はその話を聞くのを躊躇った。しかし、覚悟はすぐに決まる。
「私はいつだってきみの味方だよ」
神菜はにこっと微笑んだ。
「今回の旅行にはひとつの目的があったんです」
「目的?」
「ええ。あの夜、おじさまと下松さんのポーカーを見ていましたか?」
「叔父さんが勝った勝負だな」
「ええ。ぼくがいかさまをして勝たせたんです」
「なぜ?」
「そこが目的のひとつに関わってきます」と神菜。「今回、ぼくはこの島に身売りに来ていたんです」
「身売り? つまり、叔父さんは人身売買のブローカーでもしていたのか?」
「いえ、すこし違います」
私はそれを聞いて少し安心した。しかし、重要な話はまだ終わっていない。
「叔父さんはアパートの隣人だったんです」
神菜の話をまとめるとこうだった。叔父は義母からの虐待を受けている神菜を哀れに思い、彼女たちの貧しさに付け込んで百万円で神菜を買いとった。とはいえ、戸籍上変化が起きたわけでもない。
「それからぼくはおじさまの絵のモデルをやっていたんです」
その絵を見て、神菜を気に入ったのが下松氏だった。彼は叔父の借金、一億円近い値段で神菜を買うと言い出し、今回の旅行で彼女を引き渡す手はずになっていた。
「けど、おじさまはぼくを手放すことを惜しんだんです」
借金のためとはいえ、神菜を譲りたくはない。そう考えた叔父が取った行動こそ、ポーカーによるいかさまだった。乗船前から負け続け、その日はつきがないことを刷り込んでおく。そうすれば下松氏が大胆にも神菜を賭けの対象に持ち出すだろう、と踏んでいたのだ。神菜はトランプの数字を見なくても知ることができる。シャッフルするとき、掴む束を調整すれば、叔父の手元にくるカードの種類を揃えることもできたのだろう。結果、叔父は勝負に勝ち、借金をチャラにしながらも神菜を手放さずに済んだ。
「だから、おじさまはきっと、僕を売らないと言ったに違いありません」
「しかし、あの老人に叔父さんを殺すだけの力があるのか? それに、御堂筋さんまで」
「さっき、刑事さんは下松さんを怒ってましたよね?」
「計画を知らされていなかったみたいだな」
「もしあの人に刑事の誇りが残っているのなら、ぼくたちの味方になってくれるかもしれませんね」
私たちは部屋を出て、中條氏のもとに向かった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます