第3話

 翌朝、私は日課のランニングとして島を一周した。帰ってきてシャワーで汗を流し、寝室を覗いてみると神菜はまだ眠っていた。昨夜、私が大浴場から戻ってきたときにはすでに熟睡していたが、まだ起きる気配はない。屋敷に帰ってきた直後、執事の三木本氏から朝食の準備ができたと告げられていたため、安らかな寝顔を崩すのは忍びないが、彼女を起こさなくてはならない。

「神菜。もう朝だよ」カーテンを開けて陽の光を室内に取り込むと、神菜は少し呻いて布団の中に潜り込んでしまった。「早くしないと朝食が冷めてしまうよ」

 しばらく反応はなかったが、やがて「はい」と寝起きで喉が渇いているのか低くしわがれた声が返ってきた。そして、布団をめくり上げてもそもそと起き上がってくる。

「おはよう、神菜」

「おはようございます、真奈美さん」

 神菜は伸びをひとつし、ようやくいつもの笑顔を取り戻した。

「すぐ準備しますね」

 そう言って神菜は私の横を抜け、洗面所に駆け込んでいった。


 朝食の席に叔父の姿がなかった。大方、昨夜の興奮が冷めやらず夜更かししていたのだろう。

「起こしに行きましょうか」と神菜が言ったが、元来だらしない生活を送る人だったので、無理にこちらのリズムに合わせることもない、と勝手に起きるまで放っておくことにした。

 朝食後は神菜に誘われ、再び邸内を探検してまわることになった。新たな場所を探るのかと思っていたら、彼女が向かった場所は昨日入れなかった四階の部屋だった。

「全部確かめないと気が済まないんです」そう言って神菜が扉に手をかけると、昨日と違い、取っ手が回った。「鍵、開いてますね」

 ゆっくりと扉を開ける。なかは大きな一部屋で、絵画や彫刻が置かれていた。空間デザイナーがきちんと仕事をしたのか、ひとつひとつの作品が存在感を持ち、複数個並んでいても埋没しているものはなかった。さながら小さな美術館。なかには叔父の作品もある。若いころの下松氏の肖像画だった。

 強化ガラスのショーケースに近づくと、ナイフが陳列されていた。そのナイフが普通と違っていたのは、刃に鮮やかな色がついているところ。一つ一つに但し書きのように鉱石の名称がある。石を削り出して研磨し、ナイフの形にしたようだった。刃先は鋭いが、あまりにも光沢の強い刃の切れ味はせいぜいペーパーナイフ程度しかなさそうに見える。おそらくは下松氏の手になじむように加工された木材のグリップにトルコ石の涼やかな青がよく映える。ほかにも瑪瑙や翡翠などの刃もあった。目の前でかざされたとしても、武器としての脅威を感じるよりもその美しさに目を奪われてしまうことだろう。しかし、水晶の但し書きがあるところにはなにも置かれていなかった。それはきっと透明な刃で、ひと際美しかっただろうに、見ることができなくて残念だ。落として折れてしまったのだろうか。

 神菜はあらゆる芸術品には目もくれず、天井を睨みつけていた。

「ありました」

 神菜が指さしたところは、長方形に切り取られた区画に蓋をしたような箇所があった。円形の取っ手がついており、火かき棒のような長物を使って降ろす仕組みだった。

「なにか棒があるといいんですけど」神菜はあたりを見るが、部屋には美術品しかない。「これでいいかな」

 神菜が選んだのは西洋甲冑が持っていた槍と斧がひとつになったハルバートだった。

「神菜、触ったら危ない」

「わわっ」

 言っているそばから、神菜は槍の重さに耐えきれずよろめいた。

「おっと」槍を掴み、神菜を支える。「だから言ったじゃないか」

「すみません、真奈美さん」

「これに懲りたら――」

「ぼくの代わりに開けてくださるなんて」

 神菜は期待に満ちた眼差しで私を見上げ、行動するのを待っていた。

 やれやれ、と私は槍の尻で天井を押した。すると、カチッという音とともに、天井から階段が降りてくる。槍に重さをかけ、少しずつ下がってきているので、力を抜けば一気に落ちてしまう。それなりの重量を感じながらも、音で人を呼んではいけない、と少しずつ階段を降ろした。

「神菜、階段の近くに行っては危ないから、もう少し下がってなさい」神菜は期待と好奇心からか、何度注意してもいつのまにか設置を終えていない階段に近づいているのであった。

「これでいいかな」完全に端がゆかについた階段を一度踏み、安全を確かめてから神菜を振り返る。「これで大丈夫だ」

「ありがとうございます、真奈美さん」

 じゃあ行きましょう、と神菜は私の手を引き、階段をぐいぐいと昇る。たどり着いた屋根裏部屋は予想に反して埃っぽくなかった。定期的に掃除されているのか、窓から差し込む陽光で煌めく塵は見えるが、今からでも寝泊りできそうな清潔感を感じた。部屋を見渡すと、どうやら絵画などの保管室として機能しているらしく、棚には銘の入った小さな木箱や薄い箱が収められていた。神菜はそれらに見向きもせず、窓に駆け寄って掛け金を外していた。窓を開けると、かすかに風が吹き込んでくる。

「外、出られますよ」神菜は出窓に手をついて体を浮かせ、外に身を乗り出した。「屋根に乗って、海を見ましょう」

 ここまできたなら、一番良い景色を見ようか、と神菜が転落してしまわぬよう気をつけつつ、窓から外に出た。一気に広がる景色。窓の桟に腰かけ、海を見る。

「すこし荒れてますね」神菜は立って海を眺めていた。「今晩は雨かもしれません」

「低気圧が近づいているらしいが」と私は昨日の朝に見た天気予報を思い出しながら言った。「台風ではないし、問題ないだろう」

「このあたりは時化になりやすいみたいですよ」

 ほう、と私は海よりも、それを眺めている神菜の愁いを帯びた横顔を見ていた。


 昼食時になっても叔父は姿を現さなかった。さすがにだらけ過ぎだ、と私は神菜とともに叔父を起こしに行った。しかし、ノックをしても返事がない。

「さて、どうやって起こしたものかな。携帯は通じないし」

「鍵を開けて入るのが早いと思います」

「だな。三木本さんに言えば、スペアキーがあるかもしれない」

「いえ、僕が開けますよ」神菜は猫のリュックから革のケースを取り出した。中に納まっていたものは十徳ナイフのように展開する、さまざまな細さの金属棒だった。神菜はそこから吟味した一本を鍵穴に差し込む。

「神菜! 誰かに見つかったらどうするんだ」

「見張っててください」

 階段のほうを窺うが、人が来るようすはない。

「いや、そうじゃない。神菜、もうやめなさい」

「もう開いちゃいました」と神菜は悪戯っぽく笑い、ぺろっと舌を出した。「おじさま、もうお昼ですよ」

 神菜は言いながらゆっくりと扉を開けた。

「え?」

 目の前に現れたのは、腹を真っ赤に染めて倒れている叔父だった。

「ダメだ!」私はとっさに神菜の目を覆い、倒れた叔父を見えないようにした。「見てはダメだ、神菜」

「はい、あの」

「このまま部屋を出て、人を呼んできてくれ」

「わかりました」

 神菜は走って食堂に向かった。私はそれを見届け、叔父のそばに駆け寄った。現状維持に務めねばならないとわかっていながら、私は叔父の手首をとって脈を確かめた。続いて首筋。どちらも感じない。叔父は目を見開き、息を詰まらせたのか苦しそうに大口を開けて絶命していた。腹に空いた線状の穴。おそらく刃物で刺したのだろう。一突きだった。

 せめて、と私はその開ききった瞼を降ろしてやり、ため息をついた。


 屋敷にいる全員が食堂に集まった。御堂筋夫妻、下松氏、三木本氏、竜崎、神菜、私、そして、下松氏とは古い付き合いだという男、中條。彼は行きのバスで私と同乗していた屈強な老人だった。

「警察に連絡は」と私が言うと、下松氏がテーブルを叩いた。

「警察に通報なんぞしてみろ。不名誉な噂に呼び寄せられた下衆な記者どもが私の島を侵しに来るだろう! それだけはならん」

「どちらにせよ、この波では、今日明日に船を出すことは叶わないでしょう」と三木本氏。

「しかし、だ」下松氏が言う。「殺人者がこの中にいることは間違いない。諸君らはそのような輩と同じ空間にいられるかね」

「つまり、犯人捜しですね」と神菜は言ったあと、私に耳打ちした。「ぼく、推理小説が好きなんです。まさか、ふふ。自分が参加者になるなんて思いもしませんでした」

「神菜……」私は叔父が亡くなったというのに、場違いにも浮かれているようすの神菜にどう言ったらよいのかわからず、彼女を諫めることばを飲み込んだ。

「左様。幸いこの男、中條は元刑事だ。彼主導のもと、これからひとりずつ話を聞かせてもらう」

「その聞き取り、ぼくも立ち会っていいですか?」

「ならん。子供が首を突っ込むことじゃあない」

 下松氏に睨まれ、神菜は唇を尖らせた。

「ぼくだって推理したいのに」

「神菜、遊びじゃあないんだ」

「では、取り調べは別室にて行う。順番が来るまでここで待機するように」

 そう言って下松氏と中條氏は席を立った。最初に取り調べを受けたのは御堂筋氏だった。それから夫人、竜崎、神菜、三木本氏。私は最後だった。三木本氏が食堂に戻ってきたので、私が腰を浮かすと、彼に続いて下松氏と中條氏も帰ってきた。

「私の取り調べがまだですが?」

「その必要はない」と下松氏が言った。「犯人が特定されたのでな」

「随分ことを急ぎましたね」と竜崎。「それで、その犯人とは?」

「広瀬真奈美君。きみだよ」と下松氏は私を見据えた。「取り調べを受けた全員にアリバイがある以上、残ったきみが犯人だ」

「ちょっと待ってくれ!」全員の視線が私に集まるなか、私は抗議のために席を立った。「自分の叔父だぞ。動機がない。いや、そもそも私はなにもやっていない」

「目上の人間に随分乱暴な口を利くじゃあないか」

「失礼」私は咳払いし、すこし自分を落ち着けた。「しかし、私は叔父を殺したりしていません」

「動機ならあるだろう。きみは広瀬君を恨んでいるはずだ」

「たかが五万一〇万の借金で恨むとでも?」

「広瀬君がきみたち家族に勘当された理由」そう言って下松氏は嫌らしい笑みを浮かべた。それは本当に下衆な笑いで、手汗にまみれた手で背中を撫でられたような不快感の伴う怖気に襲われた。「彼は小学生だったきみのヌードを描こうとして、無理やりに服を脱がそうとしたらしいじゃないか」

「それは」

 その通りだった。なぜ私はいままでそのことを忘れていた? トラウマになるほどの恐怖を感じたから? そんなはずはない。だって、そのときの私はそこに性的なものがあるとは思っていなかったし、母の介入がなければそれは芸術的行為で、おかしなことだとは思っていなかったのだから。だから、叔父を恨んでなどいないはずだった。

「それがトラウマで、男性不審なのだろう。その証拠がこれだ」下松氏はそう言って、一冊の雑誌を掲げた。それは私が行きのバスで読んでいたアダルト誌。「まともな若い女子の鞄にこんなもの、あるはずがないからな」

「勝手に漁ったのか!」

「きみはあの夜、遊戯室から帰った後のアリバイがないだろう」

「神菜と一緒だった。部屋にまっすぐ帰りました」

「しかし、ひとりになった時間もあるな?」下松氏は神菜を見た。

「真奈美さんはひとりで大浴場に行きました。それから、いつ戻ったのかはわかりません」

「神菜?」私が彼女を見ても、神菜は目を合わせてくれなかった。「それは、戻った時にはもう神菜は寝ていたから」

「つまり、いくらでも犯行は可能だったわけだ」下松氏が言うと、三木本氏、竜崎、御堂筋氏が立ち上がり、私を囲んだ。「この女を部屋に閉じ込めておけ」

「待ってくれ。私じゃあない」そう言っても、男たちは私の腕を押さえつけ、無理やりに食堂から連れ出そうとした。「神菜!」

「オールボワール、真奈美さん」

 神菜はそう言って私をじっと見つめていた。

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