第2話

 到着した島は文明に取り残された手つかずの自然に溢れた無人島というよりは、住んでいた島民がみんな自分たちの居住地を捨てて本土に帰ってしまったあとという感じだった。もちろん、高利貸がこの島を買った後に手を加えただけかもしれないが、一代で築いたにしては風化した人工物が散見された。例えば山の斜面に沿って積まれた落石や山崩れ防ぐコンクリート壁、海岸線に飛び出すように積まれた石積みの埋め立て地は島民が手漕ぎの小舟をそこに横づけして港にしていたことだろう。

 私たちが乗った船は新たに増設されたコンクリートの港に収まる。渡した橋を歩いて上陸するわけだが、波の影響かかすかに揺れていた。

「神菜、足元気をつけて」

 私が手を差し伸べると、神菜はその手を握り、ぴょんと跳んで陸に渡った。

「ふふっ」と神菜が私を見上げて笑う。「なんだかお姫様みたいです」

「きみが望むのなら」と私は跪き、空いた手を胸に当てて恭しくお辞儀する。

「ほらほら、早く行きなって。島の主がお待ちなんだから」

 叔父に催促され、私たちは開けた土地に建つ豪邸を目指した。どうやら屋敷はコの字型らしく、階層は四階建てだった。一人一部屋をあてがわれても余り過ぎる。

「見てください、あそこに窓があります」神菜が指さす先は黒い屋根で、緩やかな斜面を描いている。その屋根に数か所小さな三角屋根のついた出窓があった。「屋根裏部屋ですかね。あそこから出れば屋根に上れそうですよ」

「ああ、きっと眺めはいいだろうな。けど、神菜。ひとりで行ってはダメだよ」

「じゃあ、あとで一緒に行きましょう」


 主への挨拶は荷物を置いた後で、と老紳士に言われ、各々あてがわれた部屋に向かった。神菜は私と同じ部屋だった。おそらく叔父は自分が遊ぶため、私に神菜の面倒を見させようという腹だったのだろう。

 部屋は私が借りているワンルームマンションよりも広く、なかはふたつに分かれていた。ベッドがふたつにサイドテーブルやクローゼットが完備された寝室。リビングには円卓と椅子が二つ、壁に掛けられた絵画に向き合う形で置かれたソファ。本来ならそこはテレビがあるべきなのだろうが、電波が届かないらしく家のどこにも設置されてないという。携帯を起動してみても圏外。窓から見える海が美しい。文明から閉ざされた生活も短期間なら悪くないだろう。トイレとシャワーも室内にあるが、一階に降りれば大浴場もあるという。

「暖炉がありますね」神菜はそう言って床に手をつき、暖炉の中を覗き込んだ。「だいぶ使われてないのかな」

「神菜。服に煤がついてしまうよ」

「あ、はい」神菜は立ち上がって手をはたいて埃を落とす。「もう行ったほうがいいですかね」

「ああ。主をあまり待たせても悪いからね」


「ようこそ、芸術家諸君」そう言って私たちを歓迎した島の主は着物がよく似合う禿頭の老人だった。「おや、きみもモデルの娘かね」

 老人が私を見上げ、値踏みするように視線を少しずつ下ろして全身を観察した。

「ああ、いえ。この子は僕の姪ですよ。ほら」

「広瀬真奈美です。本日はお招きいただき、感謝いたします」

「ああ、例の慈悲深いお嬢さんか。私は下松(さがりまつ)という。もう聞いておるかね。広瀬君のパトロンだよ」ああ、いや、と下松氏は訂正した。「ここにいる四人のパトロンだ」

 くつろいでいってくれたまえ、と下松氏が言い、芸術家たちと歓談を始めた。しばらくは私もその席に居合わせたが、笑顔を崩さずに話を聞いていた神菜の表情に退屈が滲んでいるように見えた。

「神菜、せっかくだから邸内を見て回るかい?」

「はい! 構いませんか?」

「ああ、自由に見て回るといい」と下松氏が言った。

「じゃあ、行きましょう」

 神菜に手を引かれ、私たちは邸内の探索に出かける。


 コの字型の建物には階段がひとつしかない。幅広で人の行き来に問題はないが、階をまたぐのにわざわざ建物の中央部に行かなくてはならなかった。せめて各辺にひとつずつ階段を設置してもよかっただろうに。邸内は豪奢さを除けば、学校に似た雰囲気があった。

「屋根裏部屋にはどうやって行くんですかね」

 神菜はきょろきょろとあたりを見回した。確かに、階段は四階に到達したところで終わり、その先には行けそうもなかった。

「行けないなら仕方がない。きっとあの窓は飾りなのさ」

「いえ、どこかに隠し階段があるはずです。多分、天井に収納されている」と神菜は天井を丹念に見上げながら四階の廊下を練り歩いた。

「見つかったかい?」

「いえ。きっと、部屋の中ですね」神菜は手近な部屋の扉を開け、中に入った。

「神菜、勝手に入ったら」

「下松さんが自由にしていいって言ってました」

「それでも限度はあるだろう」

 神菜はすたすたと中に入り、天井をぐるっと見渡す。宿泊客はみな二、三階に部屋を持っているので、そこは空室だった。室内は私たちの部屋と大差ないが、神菜にとってはそんなこと興味もないらしい。そうしていくつかの部屋を見ていると、鍵のかかった扉が現れた。

「怪しいですね」

「下松さんの私室かもしれないな」

「じゃあ、開錠してもらうのは難しいですかね」そう言いながら神菜は鍵穴を覗き込む。「鍵があるってことは、貴重品か、見られたくないものがあるのかも」

「じゃあ、ここはパスして次の部屋に行こうか」

「いえ、行きます」

 神菜が背負っていた猫のリュックを降ろしたとき、廊下から足音が聞こえた。

「ああ、よかった。ここにいたのか」とやってきたのは御堂筋氏だった。「下松さんがきみをディーラーにポーカーをしたいらしくてね。探してたんだよ」

「せっかくここまできて、また賭けですか」

「まあまあ、神菜ちゃんはどうやら私にとって勝利の女神らしくてね。今日なら下松さんにも勝てそうなんだ」

 どうかな、と御堂筋氏は食い下がった。肝心の神菜は構いませんよと微笑んでいた。

「そうだ。竜崎君は参加しないらしくてね。一緒に島を見て回りたいって、真奈美ちゃんを探していたよ」

 あまり気乗りしなかったが、賭け事に参加するのも嫌だったので、私は仕方なく頷いた。

「ええ、喜んで行きましょう。彼はどこに?」

「玄関のほうにいると思うよ。しかし、彼は若いから羨ましい」

「と、言いますと?」

「いやね、三木本さん曰く、この島を一周するのに二時間はかかるというんだよ。私にそんなハイキングはできやしないからね」

 確か、彼は叔父と同い年だったはずだ。それにしては少々老け過ぎているが。

「わかりました。それじゃあ、それぐらいには戻ります」

 私は竜崎が待つという玄関に向かう。

「オールボワール」

 神菜はそう言って、変わらぬ笑顔のまま手を振っていた。


 島を海岸線に沿って歩きながら、竜崎の身の上話を聞いた。叔父と同じ画家だそうだが、ジャンルは抽象画で、カディンスキーに傾倒しているらしい。写実主義を掲げる叔父とは正反対である。

「そういえば、広瀬さんは勘当されていると聞いたんだが、きみとの交流があるのはどういうわけなんだい?」

「さあ、よくわからないな。叔父がどうしようもない人間であることは確かなんだが、どうやら私は彼を憎めないらしい」まだ叔父が勘当されていなかった時分を思い出す。「私が幼いころはよく似顔絵なんかを描いてくれてね。そのころの思い出を引きずっているんだろう」

 へえ、と竜崎は短く答え、顔を上げた。島の裏手は切り立った崖のように岩肌をさらした山の斜面が私たちを威圧し、ごろごろと転がっている丸い石が足元をおぼつかなくさせる。

「満潮時はここも海の下だね」と竜崎は石にこびりついた藻を踏みながら言った。「おや、あれは」

 竜崎はひょいひょいと石の上を歩き、剥き出しの岩肌に近づく。あとを追うと、そこには屈まなくても入れるほど大きな穴が開いていた。洞窟というには距離が短い。わずかだが光が通っており、すこし歩けば島の表に出られそうだった。竜崎は右手の腕時計をちらと見た。

「そろそろ時間も迫ってきているし、近道でもしようか」

 そう言う彼は楽し気で、穴をくぐるのは時間短縮というよりも小さな冒険が目的に見えた。

 洞窟の中はひんやりとしていて、夏場だというのに身震いが起きる。体を横にして狭い道を通ると開けた空間に出た。そこからの道幅はあまり変わりがなく、表に出るときは身体をぶつける心配をしなくてもよさそうだった。

「ねえ、真奈美ちゃん」と竜崎が振り返り、私を壁際に追いやった。「屋敷には人がいるけど、ここならなにも気にしなくていいと思わない?」

 そう言って首筋をなぞり、私の顎に手を添えた。

「私を口説くのなら、もうすこし背を伸ばしたほうがいいな」私は竜崎の手を払った。「キスのたび、高さを合わせて屈んでやる気遣いはできないよ」

 やはり彼といても不愉快なだけだった。こんなことなら、ポーカーの見学でもしていればよかった。肩をすくめる竜崎を置いて、私は先に洞窟を抜けた。差し込む夕日の眩しさに目が眩むこともない。帰れば、夕飯にちょうど良い時間だろう。


 夕飯時の神菜は非常に行儀のよい子であった。巧みにナイフとフォークを使いこなすさまは、テーブルマナーを弁えた大人と違いがない。元々良家の出身なのか、叔父が仕込んだのかはわからなかったが、ほかの芸術家たちよりよっぽど上等であった。

 夕飯が済むと大人たちはまた遊戯室に行き、ポーカーを始めた(叔父は先も負け越したらしく、私に追加の五万をせびってきた)。暇を持て余すこともなかろう、と竜崎に誘われ、私は遊戯室の一角にあるビリヤードに興じていた。

 そんななか、ポーカーのテーブルが盛り上がりを見せていた。

「二枚チェンジ」叔父は神菜からカードを受け取り、にんまりと笑う。「ここはいくつか上乗せさせていただこうか」

 叔父は掛け金を増やし、御堂筋氏に順番を回す。

「私は三枚チェンジで」カードを受け取った氏は眉間にしわを寄せた。「上乗せはやめておこう」

「三枚チェンジ」香苗さんはカードを受け取るも、それを放り出してしまった。「今回は降りるわ」開示されたカードはノーペア。いまのメンツにブラフは通用しないと思っていたのだろう。

「一枚チェンジだ」下松氏は手札を見て、満足そうに頷いた。「私もレイズさせてもらおうか」

 氏はさらに掛け金を増やし、叔父に順番を回した。

「じゃあ、僕はさらに上乗せよう」

「あまり調子に乗っていると、また大負けするぞ」

「いえいえ、毎回負けてばかりじゃあないですよ。さあ、つぎは御堂筋君だ」

「私は降りるよ」御堂筋氏は手札を捨て、そう言った。開示された札はジャックのスリーカード。

「ああ! あんたはなんでもっと攻めないの」夫人が声を荒げる。

「あとは僕と下松さんの一騎打ちですね」

「さらに上乗せ、と行きたいところだが、これ以上はきりがなさそうだ」そこでどうだね、と下松氏はいやらしい笑みを浮かべた。「例のやつを、ここで賭けないかね」

「はっ……!」叔父が息を飲んだ。

「例のやつ?」私が竜崎に尋ねるも、彼は肩をすくめるだけだった。

「私が負けたら、きみの借金をすべてチャラにしてもいい。が、勝ったら例のやつをただでもらおうか」

「いや、しかし。もとはあれで帳消しにしてくれるはずじゃあ」

「ではさらに、借金と同額を払ってあれを買おう。どうだね」

 叔父は手を震わせ、唾を飲んだ。ちらとディーラーの神菜を見たあと、ひとつ頷く。

「いいでしょう」

「おいおい、広瀬君、負けたらどうするつもりだ」御堂筋氏が叔父を止めた。「せっかく返済の当てができたのに、欲を出したら」

「やかましいぞ御堂筋よ。これは私と広瀬君の勝負だ」

 御堂筋氏は、気圧されたのか身を引いた。同時に、下松氏が手札を開けた。

「キングのフォーカード」

「いーっ!はぁーっ!」

 叔父は突如として奇声を上げて立ち上がり、手札をテーブルに叩きつけた。

「ナインのファイブカードだ!」

「なっ!」

 そこにいた全員が手札をのぞき込んでいた。同じ数字四枚とジョーカー一枚からなるファイブカード。一二万回に一度しか出ないといわれている役で、ロイヤルストレートフラッシュよりは出やすいが、役としてはこちらのほうが強い。つまり、ほぼ最強の手札が叔父のもとに来ていたのだ。

「これで借金はチャラだ!」

 神菜も嬉しそうに笑っていた。

「もう一回だ! もう一戦するぞ!」

 下松氏は躍起になっているのか、そう言いだした。

「そろそろ神菜は寝る時間じゃあないですか」卑怯だとは思ったが、私は下松氏の再戦要求を遮った。調子に乗った叔父がせっかくの機会を水の泡にしてしまうのは見ていて忍びない。「今日はもうお開きにしましょう」

 神菜は口元を隠し、欠伸をかみ殺した。

「そうですね。普段なら、ぼくはもう寝てる時間です」

 私は彼らに引き留められるより早く、神菜の手を引いて遊戯室から出た。


 部屋に戻り、ようやく息をついた。ディーラーさえいなければ、叔父たちも諦めて解散するだろう。

「神菜。せっかくだし、大浴場に行かないか? 星空が綺麗だというよ」

「すみません。ぼく、もう眠くて」

「そうか? なら、仕方がない。一人で行くとするよ。お休み、神菜」

「はい。お休みなさい」

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