女神はいつも裸で微笑んでいる

音水薫

第1話

 女神はいつも裸で微笑んでいる。

 今の私にとっての女神はピンナップに写るセクシー女優だった。コンビニで立ち読みするだけのつもりだったが、熟れて少しだけだらしなくなった肉があまりにも扇情的で、肉欲をそそるものだからつい買ってしまった。それを眺めながらバスに揺られること二時間。もはや乗客は私を含めても三人しかいない。気品溢れる老齢の女性と強面の老人。女性は真ん中の優先座席に腰掛けており、老人は最前席。私は最後部座席と、見事にバスの大きさを十全に活かした三角形ができていた。

 手入れもされていない山の斜面と防波堤に挟まれた往来の少ない道路を走る。山の丘陵に合わせてうねる道の先にあるのは寂れた小さな港だった。小銭をチャラチャラ鳴らして料金を支払い下車すると、夏の熱気がむわっと顔を撫でた。しかし、その不愉快さも海から吹く潮風がかっさらっていく。

 風でうねる前髪を押さえて小さな休憩所に入ると、周りの迷惑を顧みずに騒ぐ大人たちがいた。中年オヤジ二人に若い男がひとり、若くはないが熟れきってもいない女の合わせて四人がポーカーに興じていた。そのようすが珍しかったわけじゃない。それでも私の目がその集団から離れなかったのは、ディーラーを務めていた少女があまりにも幼かったから。まだ一〇歳そこそこだろう一四〇センチにも満たない小さな体躯の彼女は一喜一憂する大人たちにニコニコと笑顔を振りまきながらカードを配る。コール、カード交換、レイズ。大人たちの駆け引きが始まる。たとえ手札が悪くても勝つ事ができる。まあ、可能性は限りなく低いが。私はとりわけ、体の大きな中年オヤジの動向を注視した。案の定、彼は負けてしまう。手札をテーブルに放り投げ、大仰に悔しがってみせるが、懲りることはないのだろう。ここまでくるとむしろ、負けることが好きなのではないかと思ってしまう。

 次のゲームが始まろうというとき、幼い少女が大きな男の肩を叩き、私を指さした。男が振り返り、笑顔を浮かべて立ち上がる。

「おお、真奈美ちゃん! よく来たね。元気だったかい」

「ああ、叔父さんこそ、相変わらずみたいで」

「来てくれないかと思ったよ」叔父は言いながら皆に私を紹介してくれる。「姪っ子の真奈美ちゃんだ」

「ああ、噂通り」と女がけらけらと年不相応な笑い声を出す。足を大きく開けるものだから、タイトなワンピースの裾がめくれて下着まで見えてしまう。「本当に大きいのね。一八〇はあるんじゃない?」

「いや、はは。さすがにそこまでは」

 一八〇センチに迫る背丈はいつもからかいの対象だった。ざっと見る限り、男連中を含めても私は背が高い。背の順なら叔父の次に私が来るだろう。

「こちらは香苗さん。御堂筋君の奥さんだ」と叔父がさきの女性と小柄な中年男性を紹介した。

「どうも~」と軽いノリで手を振る奥方に対し、旦那のほうは妻の素行に呆れているのか、申し訳なさそうに苦笑いながら会釈するだけだった。

「で、こちらが竜崎君だ」

「初めまして、竜崎です」若い男はやや長髪で、眉間をくすぐる前髪を跳ね除けながら笑った。「広瀬さんの話よりよっぽど美人じゃないか。ねえ、真奈美ちゃん?」

 馴れ馴れしく名前で呼ばないでほしいものだ。それだけで彼がいけ好かなくなる。私は肩をすくめ、叔父にアイコンタクトする。そんなことよりも、次に待ち構える魅力的な人を早く紹介して欲しい。

「そして僕が広瀬正臣。きみの叔父さんだ」

「あなたじゃあないんだ。紹介して欲しいのは」

「わかってるさ」と叔父は少女の背を押した。「ほら、ご挨拶」

 カードを置いた少女はわざわざ私の前まで駆け寄り、顔を仰ぎ見るように上を向いて満面の笑顔を浮かべた。

「東(ひがし)赤(あか)石(いし)神(か)菜(な)です。初めまして、真奈美さん」

 神菜が首をかしげると、ツーサイドアップにした長い黒髪が犬の垂れ耳の如く揺れ動く。愛らしく動く唇がやたらと赤く見えるのは、透き通るほど白い肌の上にあるせいだろう。私を見上げる大きくて丸い瞳は開かれると同じように黒が浮いて見えるのかと思えば、肌の白に溶けて消えてしまいそうな淡色の青。しかし、よくよく覗き込んでみると虹彩が透明度の高い海が波打つたびに煌くように輝いていて、この瞳は決して溶けてしまわないだろうことがわかった。美しくて、強い。その存在に儚さのないようすは宝石と同じで永遠のものだろう。アクアマリン。ビスクドールの瞳に、最高級のアクアマリンを使ったとしても、この輝きには叶わないことだろう。

「あの」と神菜が不思議そうに首をかしげた。「どうかしましたか?」

「ああ、いや、なんでもないんだ」

 神菜に笑顔で手を振り、私は叔父の手首を掴んでみんなから離れたところに彼を連行した。

「叔父さん、あの子は、神菜はどうしたんだ。彼女の親も来てるのか」

「ああ、待て待て待て。言いたいことはわかる。わかるが、その前にだ」叔父が手を差し出す。「五万貸してくれ。さっきの負け分が払えないんだ」

「まさか、そのために呼んだのか」

「いやいやいや、正真正銘、今日はバカンスだよ。賭けはほんの成り行きだ」

 私は財布から言われた額を取り出すが、伸ばされた叔父の手を素早くかわす。

「おいおい、意地悪しないでおくれよ、真奈美ちゃん」

「神菜の話が先だ」

「まあ、ちょっと訳ありでね。いまは僕の娘ってところかな」

「は?」次のことばが出てこない。叔父の娘、私の従姉妹? いや、ありえないだろう。独身の彼に突然一〇歳そこそこの娘ができるだなんて。

「ああ、皆さん、もうおそろいですか」落ち着いた優しさがにじみ出たような声に振り返ると、そこにいたのはタキシードを着た真っ白髪の紳士だった。「船の準備が整いましたので、どうぞ、ご乗船ください」

「ああ、じゃあ、真奈美ちゃん。この話は後だな。みんな、行こうか」

 叔父が合図を出すと、テーブルについていた三人が立ち上がり、各々の荷物を持って休憩所から出ていった。神菜はカードを集めてケースに入れ、背負っていた黒猫の背を開いてそこにしまった。ぬいぐるみかと思ったら、そういう形のリュックだったらしい。

「行きましょう、真奈美さん」背負い直した神菜は自分のスーツケースを引き、歩いだそうとした。

「ああ、いいんだよ、神菜。そんなことをしなくても」私は神菜のスーツケースを叔父に押しつけ、空いた手を繋いだ。「じゃあ、行こうか」

「はい!」

「おいおい、おじさんを荷物持ちに使うだなんて酷だなあ」

 そんな小言も聞こえない。私は可愛い神菜を船までエスコートするのに忙しいんだ。


 船に乗ったのは全員で八人だった。テーブルを囲っていた私たちと、紳士に加え、バスで同乗していた強面の老人が一緒だった。

「あの方もお知り合いなのか?」私が叔父に尋ねるも、彼は肩をすくめてわからないと答えた。

 バスに揺られて尻が痛くなっているところだというのに、なんという追い打ちだろう。船に乗ってさらに六時間もかかるという。たかが海水浴ならわざわざ無人島まで行かなくても、と思うが、どうやらほかの方々はそうでもないらしい。なんと、ポーカーに興じていた四人はその無人島の所有者に莫大な借金があるとか。高利貸の機嫌を損ねてはならない、と島への招待に応じたのだとか。

「確かに華やかなメンツとは言い難い。しかし、彩りを添える役を私にやれというのは些か酷じゃあないだろうか」

 そう言ったところで、中年たちは船上で飲酒を始め、笑い声で私のぼやきもかき消されてしまう。神菜はどこだろう、と顔を上げると、操舵室で舵を取りながら無線を使っている紳士を凝視していた。

「珍しいものでもあるのかな?」

「真奈美さん」と神菜は私を見上げ、頷いた。「ぼく、初めて船に乗りました」

「ああ、物珍しいわけか」

 神菜は頷き、機器を眺めていた。しかし、それでは私が退屈だった。

「神菜、向こうでお話でもしないか? きみのこと、もっと知りたいな」

「ぼくも、真奈美さんのお話が聞きたいです」

 私たちは船首近く、大人たちがいないところでさまざまなことを話した。神菜は一一歳で、クラスでも背は低いほうだという、言わずとも察せられることから、趣味は読書、父が英国人のハーフであること、尊敬する人はエルキュール・ポワロ、特技は手先が器用なこと。

「じゃあ、家庭科の授業ではお裁縫が上手いんだろうな」

「いえ、それは、はい。得意ですけど、そうじゃなくって。ぼくの器用さはこっちのほうなんです」と言って神菜が猫のリュックから取り出したのはトランプだった。

「そういえば、ディーラーをしていたね」

「手品もできるんですよ」

 神菜はトランプをよくシャッフルし、それを扇形に広げた。

「一枚選んで、ぼくに見えないように絵を確認してください」

 私が引いたカードはハートのジャックだった。

「じゃあ、それを戻してください」

 私が札を束に返すと、神菜は再びシャッフルを始める。

「真奈美さんもどうぞ」

 渡されたトランプをよく切って神菜に返す。このなかから、私が選んだカードを当てようというのだろう。

「真奈美さんが選んだのは」と言って神菜はカードをよく探していた。「これですね。ハートのジャック」

「おお、正解だ」と私は拍手した。しかし、すまない神菜。私はその種を知っている。実はそのトランプは台形で、選んだカードを返す時に向きを変えると、一枚だけ札束から飛び出ているものがあるから、それを選べば正解になるのだろう。

「実は私も同じ手品ができてね」と私はつい調子に乗ってそんなことを口走った。

 神菜からカードを受け取り、同じ要領で一枚選んでもらう。カードが戻ってきて、シャッフルしようという時にようやく異変に気づいた。側面を触れても滑らかで、一枚だけ飛び出しているなどということはなかった。種を知っている神菜が意地悪で向きを揃えたのかと思い、抜き出したいくつかのカードを方向転換させてみても、飛び出すはずの角は現れない。

「どうやら、私は力を失ったらしい。いったい、どうやったんだ?」

「簡単ですよ」と言って神菜はトランプの側面をひとなでし、私に返した。「上から、ハートのエース、クローバーの3、8、ダイヤの5――」

 神菜のことばを聞き、私は慌てて上から順に絵を確認した。ハートのエース、クローバーの3、8、ダイヤの5――。すべて神菜の言ったとおりだった。

「ぼく、指の記憶力がすごいんです」

「指の、記憶力?」

「一度触ったものは忘れません。だから、真奈美さんがカードを抜いたあとの束を撫でれば、どのカードが足りないかわかるんです」

「じゃあ、上から順に言い当てたのは」

「はい。どんなにシャッフルしても撫でればすぐにどのカードがどこにいるかわかりますよ」

 そう言って神菜は私が無作為に選んだ一枚を触れただけで言い当てた。指に記憶力があるなんて、そんなこと初めて知った。私も何度か挑戦したが、カードの側面なんてものはどれも同じ肌触りで、私には見分けがつかなかった。しかし、これを手先が器用と形容してよいものなのだろうか。

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