第9話 赤本
「こりゃ赤本だな。とても使えねえ。」
彼らの作った資料を見るなり、田尾は言った。
<赤本>とは、建築の各工程の金額が書かれている本で、建築の単価の指針が掲載されている書籍として一般に売られており、赤い表紙からそんな風に呼ばれている。
大工が一日働いたらいくら。基礎工事は、メートルあたりいくら。といった価格が書かれているが、基礎工事であれば、地盤面が高い場合は一般的なコストよりも、土を多く出し、処分する費用が必要であるのに、一律いくら。としか書かれていなかったり、大工仕事の一日いくら。といった単価も見習いのような若手大工と、熟練のベテラン大工の作業単価が同じというように書かれていたり、塩ビパイプや合板といった材料も、ある特定のメーカーの定価が書かれているだけなので、実際に流通している価格とはかけ離れているものも多い。
現場や単価を知っている者が、これらの資料をみれば、うまくアレンジしてコストをつくるが(そもそも、ベテランは、こんな本を見ないが・・・。)実務を知らない若い建築家が、この本をアテにして、工事単価を計算して設計してしまい、いざ、工務店に発注したら、とんでもない予算オーバーになって、計画がとん挫してしまった・・・。というような話がよく出てくるいわくつきの本で、この資料は、まさにその様相を呈していた。
そして、もうひとつの問題は・・・。
「私たちが時間をかけてつくった資料ですよ。いったいどこが不満なんですか?」
高橋が、自分達が作った資料を遠慮なくこき下ろす田尾にいらだちを隠せず、抗議する。
「失礼ですが、どのくらい前から製作を開始したのでしょうか?」
「この計画が始まってから、すぐにですよ。」
建築の
長い期間、一般的な商品価格の大きな変動がないのは、国内が安定している日本ぐらいのものだ。
発展途上国や、政権が不安定な国では、2倍、3倍どころではなく、100倍、1万倍というとんでもないくらいレートが変動する国もある。職人の
今、いすみ達のいるこの街は、「王都」ということで、国の中央都市なので、経済的な統制をかけているようなこともあるのかもしれないが、1年も前のレートがそのまま通用しているとは考えにくい。
いすみも、安西事務所の仕事で南米某国に行ったとき、一晩で通貨レートが一気に変動してしまったため、ギャランティをドルで払ってくれなければ働かない。と言われ、現場が止まってしまった経験もあった。
・・・そんな経緯もあって、自分たちで実際にこの世界を調査してみよう。ということにしたのだ。
実質、この部門を仕切っている高橋は、いすみの申し出に、自分たちの仕事を否定されたと思ったようで、そんな必要はない。と強硬に抵抗したが、最後は安西の説得で折れた。
<安西正孝>という名のブランド力は官民あわせてとにかく強い。
「安西先生に免じて、現地調査を行うことは許可しますが、くれぐれも現地人とはイーブンでやってくださいね。」
高橋の含みのある言葉にいすみが答える。
「イーブンとは?」
「仕事をするためだけに動いてくださいってことですよ。現地人から余計なマージンを受け取ったりしないでくださいってことです。工務店っていうのはそういうことをする専門みたいなところですからねえ。」
未だに一部の建築家や官僚は、工務店が同じ職人や大工をコンスタントに使うのは、仕事を出す代わりに、彼らから常にマージンやその他のものを受け取っているから。と信じている者が多い。
そういった見解を受けて「毎回違う工務店を競合で選びます。」とか、「工務店を通さず、施主さんに、直接、職人に工事を発注していただきます。」なんて商売をやっている建築コンサルタントや建築家もいる。
毎回、違う業者や職人が現場に入るということは、「技術が保証されていない」業者や職人が現場作業にあたるリスクが跳ね上がり、さらに、それぞれが初めて会う職人同士で、連携が取れるかどうかもわからない現場になってしまう可能性もある。
場合によっては、途中で職人が「バックれて」現場の進行が頓挫してしまう場合もある。
工務店が職人を抱えるのは、常に同じメンバーで、「以心伝心」で現場を進められる。というメリットのほかに、職人にとっては、「この現場でヘタこいたら、次の仕事をもらえなくなる。」と、コンスタントに受けられる受注先を失うことにつながることもあるため、彼らが安定して現場を進めることもできるメリットもある。
ただ、そういった関係を築くのは一朝一夕ではできない。長い時間をかけて、工務店は「工事チーム」を作り上げ、それで建物を建てていく。
ただ、それを「なれあい」や「競争をさせないで、同じ業者や職人ばかりを使うと工事の質が落ちる。」と信じ続ける人たちも多い。
◇◇◇◇◇◇◇◇
「で、どこから行くよ」
田尾がいすみに聞く。
「まずは、この世界の仕事のやり方のヒアリングだな。建材のレートとか、
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