13.だとしたら、随分な皮肉だな

 端から夕闇に包まれる空に、星々がうっすらと光を取り戻していく。白くうすらぼんやりとしていた月も、空が濃い色になるにつれ、白々とした光で主張する。

 三人は、山のほこらにいた。

 家屋に被害を出したくない、というタツミの言葉に移動したのだが、興味が手伝い、人気のない場所ならいくらでもあるだろうこの無背ナセの中で、梅雨蔡の言わば主役の祠を選んでいた。

 これでは巽の家屋に被害は無くとも、祠だけならまだしも、下手をしたら向かいの校舎を壊しかねないという和希カズキの主張は、気付けば却下されていた。

 今更文句を言うのも面倒で、和希は、刻一刻と染まっていく空を、祠の側の岩に腰かけて眺めやっていた。しかしこれで、今夜来なければ相当間抜けだ。


「無背の由来って、さ」

「なんだ急に」

浅葱アサギさんの話聞いてて、ふっと思ったんだ。元々の話し言葉っていうか、ヤマト言葉での意味は知らないけど、漢字は、水無瀬ミナセの水が取れて何かの拍子に漢字が変わっただけかもしれないけど、どこかで誰かが、意味を込めてたかもしれないなって」


 はじめは「水の瀬」だった号が、「水の無い瀬」へと変わったように、多くのものは移り変わる。

 和希は、古典の授業で引いた漢和辞典の「背」の項を思い出した。

 「背水の陣」を学んだときに調べたものだ。そのときの国語教師は、漢文の授業では、ひたすらに辞書を引かせたものだった。

 わかっていると思っている漢字ほど意味を取るのが難しいんだ、なにしろこれは漢文、漢つまり中国の文章で、漢和辞典というのは古語の中日辞典なんだからなと、何故かきと語っていた。

 せいぜいが二年前の出来事だというのに懐かしいと感じた和希は、鮮やかに蘇らせることのできる記憶との対比に、面白いものだと一人で感心した。

 そして、脱線しているなと頭の片隅で苦笑する。


「背という漢字には、そむくという意味がある。背信とか背反とかは、その意味で使ってるね。それに打消しの無をつけると、裏切らない、裏切ることはない、って、そういう意味になるんじゃないかなって。逆らうことはない、かも知れないけど」

「だとしたら、随分な皮肉だな」 


 巽が、軽く肩をすくめた。サチには反応らしい反応は見られず、そこで、静かに沈黙が立ち降りた。

 梅雨の合間のよく晴れた一日だったからか、空気も、いくらか湿度が低いようだ。木々を揺らしていく風を感じながら、和希は、ぼんやりとそんなことを考えた。

 月明かりに、影が落ちる。こんなに明るいのわざわざ電気をつけるなんて馬鹿だなあと、度々たびたび思った。


「漢字をてたのは、時代を下ってのことかもしれない。だからこそ、今度は裏切らないと、そうしたとも考えられるね」

「…お前は」


 何、と首を傾げた和希を、幸はまぶしげに目を細めて見遣った。だがすぐに、ついと視線を木々に戻してしまう。


「恥ずかしくないのか。そんな綺麗事を、平気で口にして」

言霊ことだまという考え方があるね。口に出したことが力を持つ。さいわいわざわいも、口に出さなければ顕現しない」

「……馬鹿か」

「かも知れないね。だけどボクは、伝えなかったことで後悔なんてしたくないんだ」

「カズ――」


 怪訝けげんそうな幸のかおと気遣うような巽の声音は知っていたが、三人同時に、人以外の生き物の声が消え、風とは違った草木のざわめきが聞こえることに気付いていた。

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