12.善人じゃないぞ

「わざわざそれを外そうなどという人間には、はじめて会った」

「え? 杉岡スギオカさんは?」

「あれはましな部類だが、それでも、ワレと会うことは避けていた」


 そう言えば、怖がっていたと言っていたなと、和希カズキは思い出す。

 淡々とはしているが、話すこと自体をんでいる様子はなく、それが少しばかり意外だった。

 だがそれはそれとして、和希は思い出して紅茶をすすり、砂糖を入れすぎたと顔をしかめた。


「でも、これ自体は昔からあったわけじゃないですよね? そもそも、あなたは――って、どう呼べばいい?」

「………吾か?」

「それ以外に誰がいるんです。サチと同じだって言うならそう呼ぶけど、ちょっと違うでしょう? 水無瀬ミナセさん、飲むなら食べる」

「はいはい」


 話を聴いてはいるが、会話をしようとはしない水無瀬は、黙々とアルコールを消費している。

 和希はそれを睨みつけ、スルメをちぎってむところを見守り、ようやく視線を戻した。

 「それ」は、ふうっと遠くを見ているかのようだった。和希の視線に気付き、微苦笑を浮かべた。


「アサギ」

「浅葱?」

「…そう呼ばれていたことが、あった」


 そこで一度口を閉じた。先がありそうで、待った和希は紅茶に口をつけ、うっかりと甘さを忘れていて再び顔をしかめた。

 そうして、甘さを覚悟して、飲み干す。

 塩辛さを求めた和希があられの小袋を開けていると、ぽつりと言葉が落とされた。


「…少し、話をしてもいいか」

「どうぞ」

「ミナセ、といったか」


 本題に入るかと思いきや、話を振る。巽がどこか面白そうに頷くと、浅葱は、一度目を閉じた。


「この辺りの郷士ごうしか。そういう一族がいた。土地にちなんで、そういう号を名乗っていた。水の瀬、と」

「え? 水の無い瀬、だよ。この辺りには、大きな川もないし」

「字を変えたか。吾がいなくなったからな。川は多分、枯れたのだろう」


 本当に水神なのかと思うが、これ以上さえぎろうとも思わず、和希は、短く応じて続きを待った。あられを噛み潰す。


「あの娘は、その家の出だった。なんでもないことで笑って、泣いて。いつも幸せそうだったのに――吾といるところを見られて、その後はずっと、泣いていた。吾は――水瀬の家にとらわれ、いつ頃までだっただろう。時だけが流れ、その石が発見され、あとは、ほとんど眠っていたようなものだ。ろくに覚えてはいない」


 流れた年月に比べ、短く簡潔に過ぎる言葉。

 和希は、そんなところに幸の姿を見て、考えずに口を開いていた。


「幸は?」


 名を呼んだ後で、ゆっくりと頭が動き出す。

 浅葱が話すのは、もしかすると、梅雨際の大本おおもとの出来事だったのかもしれない。

 龍神を捕らえ、水を制御する力を手に入れ、故意にか偶然か、引き裂かれた男女が悲劇の主人公へと反転した。

 だが本当のところ、和希にとって、それは今はどうでもいい。

 知りたいのはただ、浅葱が昔から生きてきたとして、では、長良ナガラ幸は何なのかと、そういうことだ。


「眠っていたと言うなら、幸は? 夢の中のことだった? 杉岡さんと一緒に暮らして、甘いものがやたらと好きで、無愛想で、ボクと梅雨蔡に出たのも、全部夢?」

「夢――ああ。そうかも知れない」

「…」

「長良幸は、何も知らない。吾がどうして囚われたのか、水気をどう扱うのか。そんな厄介なものを外せば、怯え暮らす必要もないことも。――吾は少し、あいつが羨ましい」


 少し顔を俯かせて、浅葱は、和希の腕を取った。小さな金属音を立てて、腕環を外す。


「水無瀬。過去の因縁と諦めて、もう少しばかり、付き合ってくれないか」

「ご指名か? 悪いが俺は、先祖かもしれないというだけの奴らが犯した罪に責任を感じるほど、善人じゃないぞ」

「善意で付き合えというつもりもない。退屈はしないだろう?」

「なるほど。いいだろう」


 一人でブランデーの瓶を空けた巽は、わずかに頬を上気させ、にやりと笑う。つまみにはろくに手をつけていないが、それを怒る和希の言葉もない。

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