8.時間も無限ではありませんし

 和希は、窓を閉めて玄関に視線を戻した。

 サチは、何が起きているのか判っていないらしくわずかに困惑顔だが、対する男の方は、口元に笑みを浮かべる余裕すらあった。


「同席許可は取ってあるよ」


 和希の身柄みがらと単なる退席と、どちらが目的だったのかは知らないが、簡単に応じるつもりもない。そのつもりなら、昨夜、あの「長良幸」を見た時点で手を引いただろう。本人の希望通りに。

 そしてここでの宣言は、抜き差しならない状況におのれと幸を追い込むものだと、理解しているつもりだった。

 まるで小説や漫画フィクションだ、と、皮肉交じりに思わないでもないが、実際の現実だ。

 祖母と節子セツコは無事に家を出られただろうかと、それだけは気に掛かった。

 迎えを寄越よこさせると言っていたことと、この黒スーツの男が示唆以上を見せなかったことから、大丈夫だろうと、言い聞かせる。

 最後の切り札に取っておくことも考えられるが、果たして和希は、そこまで重視されているのだろうか。

 男は、軽く肩をすくめた。


「それでは、時間も無限ではありませんし、本題に入りましょうか。杉岡スギオカ氏は、現在私どもの施設にて休養を取られています。是非とも、あなたにもいらっしゃってほしいとのことです」


 どこが本題なんだか。

 そう、声に出さずに呟く。ここまできたら茶々を入れるつもりはないが、表皮だけの慇懃いんぎんさが鼻につく。

 とにかく、これで目的地までは連れて行ってくれるはずだ。勿論、その先には、おり門扉もんぴを開いて待っているはずだが。


「…タカラが、本当にそう言ったのか」

「そうですね。多少は、違ったと思います」

「行く」

「幸!」

「文句は言わせない」

「わかった。それなら、ボクも一緒に行かせてもらう」

「駄目だ」


 敵意であるはずはないのだが、強い意思を込めて、睨み付けられる。さすがにこれでは、軽口の出ようもない。

 ぴんと張った空気を伴い、見つめあう二人を、黒スーツが面白そうに見やっていた。


「ここまで来て、それはないだろう。ボクも行くということで、話はついていたと思ったけど?」

「勝手に思い込んだんだろ」

「幸。もう一度、そんなことでボクと言い争うつもりか」

「…頼む」


 静かに、言っただけだ。静かに、たった一言。

 深々と、和希は溜息をついた。


「わかった、好きにすればいい。それが君の望みと言うならね。学校には、ちゃんと戻るのか?」

「さあ、どうだろうな」

「お話は済みましたか」


 嫌味な冷笑を浮かべて、黒スーツが口を挟む。

 それを睨み付けて、どうぞと、和希は幸の肩を突いて送り出した。幸は、和希と向かい合っているというのに、見ようともしない。無理に、視線を外して顔をそむけていた。そしてそのまま、行ってしまう。

 扉が開き、閉まる。

 そうして、二人が出て行くと、和希は、部屋の受話器を取った。無断借用だが、このくらいで怒りはしないだろう。


「――はい。和希です。――ええ。そちらはどうです? ――それなら良かった。――いえ、ただの確認ですよ。――ええ。そうですね。車を一台、回してもらえると助かります。――はい。では、また後ほど」


 祖母との長くはない通話を終えると、和希は、ぐちゃぐちゃの部屋を最後に一瞥いちべつして後にした。じょうのかかる音がすると、それで、和希がここに残る理由はなくなった。

 さあて、長い一日になるか短い一生になるか。

 声には出さずに呟いて、和希は、アパートの前で大人しく、迎えの車を待った。

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