5.良くないけど良しとしよう

 和希カズキが家にたどり着いたのは、学校を出てから一時間以上がってからのことだった。下手をすると、二時間弱。

 道中、荷台から降りようとするサチを、「走ってる途中で飛び降りたら、バランス崩してボクも倒れるからやめてね」と脅しながらのことだから、余計に時間をった。

 その上に、雨は、随分と景気よく降りそそいでくれたのだ。


「とりあえずタオルとお風呂。話はその後だね」

「俺はいい」

「はーい、帰らない。事情説明したくないならそれはそれで、良くないけど良しとしよう。だけど、そのままってのはなしでしょう。そりゃ、家に送らないで勝手に連れてきたのは悪いけど」


 いくらなんでも動転していたのだ。


 しかし幸は、反論もせずに背を向ける。和希は咄嗟とっさに、その肩をつかんだ。

 自転車に乗ったまま体をひねったものだから、バランスを崩し、思い切り幸に体重をかけてしまった。

 ぐらりと、その身体がかしぎ、二人と自転車は、濡れきった草地に倒れ込んだ。


「ごめん…!」


 体を起こそうともがき、焦ったことで、余計に幸の身体を踏みつけてしまう。

 どうにか起き上がったときには、二人とも、草で身体がき出しの部分を切ってしまっていた。


「…ごめん」

「気をつけろ」

「うん。本当に、ごめん。だけど、この間は支えられたよね?」


 雨の中だからといって、負荷が強かったとはいえ、あそこまで無様に倒れるのは、普段から考えると珍しい。一昨日は、平気だった。


「何が起きてるのかは知らないけど、疲れてるのは確実だ。雨が止むまでだけでも、休んだ方がいい」

「構うな!」


 怒鳴り声に、思わず身をすくめてしまう。

 しかしそれは、赤ん坊の癇癪かんしゃくのようにも聞こえた。


「俺に構うな! 俺は…ッ」

「こんな状態の友人を放っておけというのか。ボクは、ボクを見そこないたくはない」


 逆に静かな声で、睨みつける。

 行動の基準は、結局のところは自分だ。誰かのために事を起こして、何かあったときにその誰かを恨むのだけはいやだ。

 それくらいなら、ただのわがままを通したい。

 和希を睨み付けた幸の顔は、泣きそうにゆがんでいた。雨に、泣いたところで隠れてしまうだろう。


タカラが、殺された」


 昨日、夕飯を一緒にと誘われた人。もしかしたら、それは今日実現していたかもしれない。話をしてみたいと、思った。


「俺がここにいることを、あいつらは許しはしない。いままでずっと、宝がかばってくれてたんだ。…だから、殺された」


 嘘だろうと、問いただしたくなる。

 人が死ぬ事自体は、珍しくない。突然の事故や、老衰、病死。どこにでも、転がっているものだ。

 それでも、殺されたということは、同じようにあるはずなのに、妙に遠い。


「宝まで手にかけたんだ。他の奴に、容赦するわけがない」

「きっと、もう遅い」


 こぼれ落ちた声が、思った以上に冷静だと、どこか痺れた頭の奥で思う。

 雨に濡れきって、身体は芯から冷えていた。蒸し暑さよりも、冷たさがまさる。


「姿を見られてる。制服だし、自転車の鑑札かんさつだって読み取れたかも知れない。キミがどこかに行ったからって、ボクが安全だなんて保障は、どこにもない」

「このまま残るよりは、ましなはずだ」

「どうだろうね。キミがいなくなったら、ボクは探すよ。そうしたら、口封じでもされるかな」


 泣き顔に、歪む。

 和希は、そっとその頭を撫でた。濡れた髪は、安物の皮のような感触がする。

 二人とも、言葉もなく、どのくらいかそうしていた。

 足音と人の来る気配に、身を固くした。


「和希さん…何してるんですか、そんなになって!」

節子セツコさん」


 見慣れた顔に、つい、安堵の息が漏れる。幸は警戒したまま、押し黙る。


「声がすると思ったら…風邪を引きますよ、ほら。あなたも。何か着替えを用意します」


 きっぱりとした強い言葉にき立てられ、幸も無言で立ち上がった。


 自転車を置いてきますから、すみませんけど和希さん、タオルを自分で出してください。


 そう言われて、幸をともなって玄関へと向かう。節子が自分の差している傘を貸してくれようとしたが、これだけぬれたら同じだと、断った。

 雨は、一向におとろえる気配がない。

 玄関の引き戸を開けて、早くタオルを出そうと靴を脱ぎかけた和希の腕をつかみ、幸は、感情を押し殺したようなささやきを発した。


「あの人も、全て、失うかも知れないんだ」

天秤てんびんにかけるには、情報が少なすぎるよ」


 足を踏み出すと、靴下から水がにじみ出る感覚がして、床の木材が水を吸うのが判った。    

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