2.それがどうかした

 無背ナセという地名は、今では存在しない――ことになっている。

 数年前、流行に乗ってうっかりと合併してしまったためだ。せいぜいが、町名と県立高校や市立図書館の分館に名前が残る程度だ。

 それでも、地元では未だに、「無背」と呼ぶ。

 そこには、市名を決めるときに、県内で一番北に位置するなどという、安直な案が通った腹立ちもこもっている。

 無背は、よく言えば自然が多く、悪く言えばただの片田舎だ。

 そして今時珍しく、地域の人の結束は強かった。人情に厚く、因習が残っている。田舎の豪族を主張するかのような日本家屋も、あばら屋のような民家も、依然として残っていた。


 そのうちの一軒の前で、自転車を押すサチとそれに乗った和希カズキが立ち止まった。


「悪いね、送ってもらっちゃって。お茶飲んでいく?」


 意外に広い背中を見るとはなしに見ながら、和希は、学校から歩いて自転車を押してくれた幸に話しかける。

 自転車は和希のもので、二人乗りをすれば、少なくとも途中までは早かったのだが、幸はがんとして聞き入れようとしなかった。

 妙なところで突っぱねる。

 幸は、軽くひねって湿布の貼られた和希の右足首にちらりと視線を寄越よこし、無愛想に首を振った。


「いや」

「そう? 今日は、節子セツコさんが駅の方まで出るって言ってたから、明月堂メイゲツドウ羊羹ようかん買ってきてくれてると思うんだよね」

「明月堂?」

「えっ、知らない?」


 思わず身を乗り出して幸の顔を覗き込み、本当と知って絶句した。明月堂だよ明月堂、と、意味もなく言葉を繰り返す。


 市街地中央、この辺りでは一番大きな電車の駅の近くにある和菓子屋は、ちょっとした有名店だ。

 例えば、無背の外れにある真田貴和子は、老齢ながらのんびりと茶菓道を教えて暮らしているが、去年孫が無背高校に通うようになり、頻繁に尋ねるようになって以来、その孫に頼んで茶菓子を明月堂から購入してもらうようにした。それ以来、突如生徒が増えたらしい。

 祖父母のもとで育てられた和希だけでなく、同級生たちにも愛好家は多い。


「知らないなら、是非一度食べるべきだよ。甘いもの好きだよね?」


 捻った足も忘れて、自転車から飛び降りそうになった和希の腕を、幸が咄嗟とっさにつかんだ。困惑したように、眉間にしわを寄せている。


「…家、入ると迷惑だろう」

「迷惑って何が」 

「俺は、異物だから」


 本気らしい自嘲の言葉に、和希は思いきり顔をしかめた。

 一応足を気遣ってそろりと着地し、自転車のハンドルを握る幸の肩をつかんで、正面から向かい合う。

 うっかりと、思い切り体重をかけてしまったが、びくともしない。


「そりゃあそうだよ。キミはボクの家族じゃないし、節子さんみたいに働きに来てるわけじゃあないからね」

「そういう」

「ことじゃないなら何。鬼子おにごだって呼ばれてるから? それがどうかした。鬼子だろうが番長だろうが、キミがボクの友人であることには変わりないと思うけど?」

「…番長?」

「気にしないで、ただの連想だから」


 問題児、異端者として呼ばれる「鬼子」の名称に「不良」を連想し、そこから安易に「番長」を連想したのだが、そこまで説明する必要もない。


 何かしら他者とは違った雰囲気をしており、遠い血縁だという人物と二人暮らしのいわくありげな状態、中学時代、別の片田舎でクラスメイトに刺されてその生徒と教師を殴って入院させたという噂。

 絶対に外さないリストバンドは、リストカットより深刻な何かがあるに違いない、と皆がささやく。

 退屈と表裏一体の平穏な無背では、明らかに浮き立っている。

 そして溝を、本人が認め、一層深く掘り下げていることも、和希は知っている。しかし和希には、それを放置しておくつもりは全くなかった。


 正義感からでも義務感からでもなく、それは単に、利己的な問題だ。


 「とにかく出来がよく」「豪士の跡継ぎ」という方向でではあるが、同じく周囲と距離のある和希にとって、おそらくは唯一、愚痴を言える相手だろうからだ。

 友人は多く、無背全体でも人望が厚い和希だが、それだけに、本心をさらけ出しての愚痴や弱さを見せられる人がいない。

 そして、衆目を集めるからには、和希自身のことにではなくても反感を持つ者もおり、下手なことをすれば陰湿な攻撃が待ち受ける。

 勝手ながら、幸を同盟者と定めてしまっているのだ。せめて自分相手には堀をほらないで欲しいと、はなはだ自分勝手なことを思う。

 今回の相手に名乗りを上げたのは、親しくなろうという魂胆こんたんを持ってこのことだ。


「とにかく、ボクはボク以外の人間が勝手に自己完結をしているのを見るのは好きじゃないんだ。それがじめじめと鬱陶しい方向ならなおのこと。そんなわけだから、遠慮だか自虐だかは却下するよ」


 いつもは怒ったように結ばれた唇の端が、わずかに持ち上げられる。眉間のしわは一層深くなっている。

 しばしの間を置いて、笑いをこらえていると知って、和希は、正直なところ当惑した。

 自分勝手と自覚があるだけに、怒られるかも知れないとは予想したが、笑われるとは思っていなかった。

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