遅咲きのつぼみ
道草家守
遅咲きのつぼみ
柔らかい初夏の風が、袂と襟をなでてゆきました。
涼しいはずなのに、体中が熱くほてります。
わたしの胸は早鐘のように波打っておりました。
音が、聞こえてしまわないかしら。
さらさらとレェスのカーテンと黒の髪がまじりあい、あの方の表情を覆い隠し。
桜に色づく唇がそっと開いて、吐息がふれて――
「あかりさん」
自分の名前を呼ばれて、わたしははっと我に返りました。
そこはいつもの教室です。
規則正しく机が並ぶ間に、そろいの紺色の袴に、思い思いの着物を合わせた少女たちがさざめいておりました。
話しかけてきたのは、私のお友達。
「なあに?」
慌てる気持ちを抑えて見上げれば、お友達は洋猫のように目を細めて、とっておきのお話をするように声を潜めていいました。
「桜子お姉様、『イージー』をされたそうなのよ」
周りに集まっていらっしゃったお友達から黄色い歓声が上がりました。
ほんのりと非難めいた、ですがあこがれがにじんだ声音でした。
元号が明治から大正に変わり数年たった今でも、自由恋愛というものはほど遠昨今。
殿方のことについて語り合うことなど、はしたないととがめられておりました。
女学校に通えるご学友の中にはもう、婚約者をお持ちの方も少なくないのです。
ですが、それでも刹那の出会いや刺激を求めて繁華街へ殿方にと知り合いに行く、ことは、世間ではイージー恋愛と称して密かなはやりとなっていたのでした。
「一緒にいらっしゃった葵お姉様から聞いた話ですと、向こうからお声をかけていただいたそうなの。とても身なりの良い青年でたいそう楽しそうにお話をされていたんですって。気を利かせて、喫茶店で二人きりにして差し上げたそうよっ」
「まあ」
まるで物語のようなお話に、お友達たちのまなざしがきらきらと輝くのが分かりました。
カーテンがなびきます。
桜色に色づいたつぼみが、そっと開きます。
表情には、出ていないでしょうか。体は震えてはいないでしょうか。
お友達が無邪気に問いかけてきました。
「あかりさん、桜子様と仲がよろしいのでしょう? 何か聞いていらっしゃらない?」
わたしは、冷たくなった指先をそっとにぎりこんで、微笑むしかありませんでした。
放課後、先生のお手伝いを終えて教室へ戻ってきたわたしは、立ち尽くしてしまいました。
窓際の椅子にしゃんと姿勢を正して座っているのは桜子お姉様でありました。
紺色の袴に、柔らかな藤色のお着物を合わせた姿は、お姉様の大人びた雰囲気によく似合っております。
静かに書物を開くその姿が見たくて、お声をかけずに見つめていたこともありました。
ですがまっすぐな黒髪に飾られているわたしと交換したすみれ色のリボンを見たとき、わたしの心に墨のように黒く染まってゆきます。
どろりとしたそれに息ができないで居ると、りんとした横顔がこちらを向きました。
「あかりさん、お疲れ様」
いつもとあまりにも変わらない、お姉様でした。
一昨日、年上の殿方とお話ししたという噂も、昨日わたしをお家に招いてくださったとき、わたしに……
動けないでいるわたしの下まで歩いてきたお姉様は、さらりと小首をかしげました。
「その様子だと、聞いたみたいね」
殿方のような、簡素で、簡潔な言葉。
さっぱりとした物言いを怖いと言う子もいるけれど、進歩的な考え方を持ったお姉様にあこがれてい子も多かったのです。
わたしも、その一人でした。この方に妹として選んでもらえたときに喜びよりも、なぜが勝ったくらい。
ずっとずっとあこがれでした。
なのに、それが今は恨めしかったのです。
「なん、で」
「それは何に対してかな」
「どうして」
「おや、かわってしまったぞ」
おどけた口調でからかわれるのもいつものこと。
いつものわたしでしたら、怒ったふりをしながらもぽうと胸が華やいだのに、今はぐるぐると気持ち悪いよどみが這い回ります。
何も言えなくて口ごもっていますと、柔らかくお姉様の目尻が下がります。
「昨日のこと、だね?」
桜色の唇が弓なりになった。それだけなのに、わたしの顔は真っ赤に染まります。
そう、たった昨日のことなのです。
お姉様の家に遊びに行って。ケェキを楽しみながら、わたしの苦手なピアノを教わって。
夢中になって弾いていたら疲れてしまって、わたしはうとうととしてしまって。
ふっと目が覚めたら、お姉様の切れ長の瞳が目の前にあって。
桜の香りに包まれたのです。
「君ってあんなに力が出せたんだって、びっくりしたよ」
「お姉様!」
ですが息が感じられるほど間近にいらっしゃったことに驚いて。
わたしはお姉様を突き飛ばして、その場から逃げ出してしまったのでした。
くすりくすりと笑うお姉様をにらみつけたわたしですが、不意に、お姉様の表情が愁いを帯びます。
「目の下が、すこし黒ずんでいるね。やはり悩ませてしまったかい」
お友達が誰も気づかなかった変化を、お姉様は気づいてくださいました。
あともう少しでわたしのそれにあの唇が重なっていたことを思い出すたびに、私の心はぎゅうっと引き絞られます。
こっそりとお友達に読ませてもらった外国の小説で、それの意味は知っています。
ですがなぜ、お姉様がそんなことをしようとしたのか、どうしてこのように胸が高鳴っているのか、わたしには分かりませんでした。
だからでしょうか、わたしは顔にのばされる指先を、思わず避けてしまいます。
着物のたもとが揺れ、ふわりとお姉様が袖にいつも忍び込ませている、甘い桜の香りに包まれて、無性に泣きたい心地になります。
ですが、お姉様は気にした風もなくその手を下ろしました。
「私、結婚が決まったんだ」
息が、止まったかと思いました。
穏やかに、今日のお天気の話をするように。お姉様は続けます。
「お相手はお父様の取引先のご子息でね。私ももうすぐ退学する。悔いが残らないようにしたかったんだよ。なにせ私はモガだからね」
それは、どちらに対してなのですか。
そう聞けたら良いのに。わたしの胸はお姉様のわずかに笑んでいるような表情が、あんまりにも変わらなかったから。
この黒くて、痛くて苦しいものを一生懸命押し込めて、わたしは笑いました。
「おめでとうございます」
「……ありがとう。君ならそう言ってくれると思っていた」
一瞬だけ、お姉様の表情がゆがんで、透明な笑顔に戻って。
ああ、わたしは、返答を間違えてしまったのだ、と気づいたのでした。
*
「分かって、いましたのにね」
あの頃とおなじ、柔らかな初夏の日差しと、さらさらとした涼風か頬をなでる中、私はそっと目の前の墓標へ、語りかけました。
「お姉様が、そのようなお顔をされるのは、本当の想いを身のうちに秘められている時だと」
指先でなでた石は、冷たく。私の胸の奥へと痛みをもたらしました。
お姉様は、あれから間もなく女学校をやめられ、ふっつりと連絡が取れなくなってしまいました。
姉と妹というのは女学校の中だけとはいえ、卒業してからも文のやりとりをする方も少なくはありません。
ですが、お姉様はお手紙一つ送ってはくださりませんでした。
勇気を出して送った手紙も、返事がないまま。
それも仕方がないのかも知れないと、思いました。
なぜならば、あのとき私は明確にお姉様を拒絶していたのですから。
あとから、聞いた話です。
お姉様が嫁いだ先は、厳格な華族のお家で。
お姉様は、お姑様や使用人の方々とうまく折り合いをつけられずに体を弱らせ、旦那様のお子を産み落としたあと、はかなくなったのだそうでした。
その聞いた姿は、女学生時代の自由で奔放だったお姉様の姿は見る影もなく、一人きりにしてしまった私を呪ったものです。
これならば、何をしてでも見つけ出して、連絡を取れば良かった。
「ですが、ちがうのでしょう。あなたはとても強い方で、とても意地っ張りだったから。こうなることが分かっていて、私に見せたくなかったのでしょう。だから私が間違えないことを望まれた」
思いあまってお姉様の嫁ぎ先を訊ねていったとき、形見の品として出てきたのは、わたしがお送りした手紙でした。
よれてしわになるまで読み込まれたそれに、真意を見た気がいたしました。
「きっと私が返事を間違えれば、お話ししてくださったのでしょう。想いを吐露して、絆は強固に。けれどあなたはお望みにならなかった。私を妹でいさせたかったのでしょう」
頬の熱さも、胸に広がった華やぐような想いも。そして、殿方と言葉を交わしていたと知ったときのどろどろとしたよどみの正体も。
”わたし”は何も知らなかった。
いいえ、ほんの一押しするだけで、私はあなたの手に落ちたのに、あれだけお膳立てしておいて気づかせてくれなかった、臆病でひどい人。
ですが、あなたは賢い方でした。思いが通じ合ったとしても、別れは必然で。
ならばと、すべてを己の心に秘めて去って行かれたのでしょう。
つぼみのままほころばせず。ただ夢のように美しいまま。
けれど、私の想いは開いてしまいました。
ずいぶん遅くなってしまったけれど。
「お姉様……あのときのお返事を、もう一度させてください」
鮮烈に私の心を攫っていった、口にすることはついぞ叶わなかった、愛しい人。
あの日に間違えられなかった愚かな妹をお許しください。
私はそっとかがんで、冷たい墓標へ震える唇を落としたのでした。
遅咲きのつぼみ 道草家守 @mitikusa
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