第4話

 あの、忌まわしいキスから、どのくらい経った頃だろうか。

 終わりが近い、寒い夜だった。

 俺たちはそうとは知らずに最後の哨戒に出ていて、これまでで一番大きな兵器輸送船に遭遇した。

 場所は北の海域で、流氷と粉雪が闇のなかで白く光る季節だった。人間なら、数分も持たずに凍え死ぬような水温だった。

 あんな夜に、海深くに潜ってると、なんともいえない静寂に飲み込まれる。真っ暗闇のなかで、芯まで凍りつく冷たい水と、自分の身体の境目がだんだん曖昧になっていく。やがて、完全に闇のなかへ自分が溶けて、皮膚が擬似的に失われて、魂だけが、あのくらくさびしい世界で、たったひとりで……永遠に漂っている。

 あれこそが、まさに"死"だった。

 なんて、いつまでもセンチメンタルな気分に浸ってられるわけでもない。俺たちは標的である船の通過予定時刻が迫った頃、アンドロイドだかの開発技術を応用した新兵器──まあ結局のところは高性能な魚雷に過ぎないが──を担いで、海底から浮上した。最も、月の光が届く層にあがることはないが。

 俺は魚雷は嫌いだが、渡された武器のなかではまだマシな部類に入ると思ってる。あれは標的を狙い撃ちにするためのものだからな。俺は無差別にあたりを死の世界に変えるような爆弾が大嫌いなんだ。閃光が空を灼き、海が沸騰して、──目を開けたら、兵器も魚も獣もいっしょくたの無数の死体が、一面に浮いている………そういうのは、人間だけでやってろ。

 まあ、つまり、俺は魚雷を撃てと言われれば、躊躇なく撃ったんだ。なぁ。大悪党だろ? 何千人もの同類がその一撃で死ぬとわかっていて、俺は何度も繰り返した。そう、繰り返し、くりかえし……俺たちは潜航して、探って、殺した。

 その晩も当然、同じだった。くりかえし、くりかえし音波で探って、やがて遠くから船が一隻近づいてきてることを確認した。俺たちの音波を感知できないということは、敵の船だ。

 波が荒れていたが、ざっと確認した限り海面が喫水線をかなり超えてたから、通常より積み荷が──つまり、乗員が多かった。これはいい獲物だ。俺たちみたいな海獣が護衛についてるかもしれなかったが、少なくとも俺たちに気づくことなかった。

 俺はフラッシャーとアルバコアに合図した。俺たちは、俺たちにしかわからない音でやり取りできるんだ。輸送船程度じゃ探知できない深さで。だが、このときばかりはまずかった。

 その船には、デケェ最新鋭の空母が護衛に就いてた。空母は戦うための艦だ。俺たちのことも探知できる。

 おそらくは、捉えて解剖した俺たちの仲間のソナー機能を、解析して対策したものだろう、最新のステルス艦。

 気づいたときには遅かった。迂闊に音を発したことを悔いたな、さすがに。

 だが、これまでそんなことは無かったから、よほど運んでる獲物がデカいと思えば、尻尾まいて逃げるわけにもいかねぇ。俺たちは兵器なんだ。戦争に勝てなきゃ意味が無ぇ。

 殺されてもいい。殺した量が価値だったんだ。

 空母は、俺の方へ進路をとっていた。音の反射でわかるが、それはつまり俺の居場所がばれたということだ。

 海のなかでは、陸よりずっと遠くの音が聴こえる。俺には、方向を変えた空母からなにかが飛び立ったのがわかった。俺の方向じゃない。

 アルバコアの方向だ。

 俺たちは発見されたら基本的に逃走するか、深く深く潜航してやり過ごせと習った。捕捉されたアルバコアがどちらを選んだかはわからない。だが、護衛艦がそっちに反応したから、隙ができた。

 今でも覚えてる。あの有機的な離陸音───あれは俺たちと同じ兵器だった。あの戦闘機も、生きてたんだな。

 この研究所に、いるんだろうか。

 なあ、知ってるだろ。テメェらなら。

 いるのか。

 ………冗談だよ。むしろ、答えるようならブッ殺してたさ。

 どうしたかって?

 俺たちが仲間を助けに行くとでも?

 そうだな、そこまでおめでたい頭はしてないよなァ。ご明察だ。自分が狙われてねえならこの上ない好都合ってもんさ。

 俺の魚雷は四本。どっかの国では大層不吉な数らしいが、関係ない。

 いつでもチャンスは一回だ。

 俺は、装填していた魚雷を撃ち尽くした。体が軽くなるのとほぼ同時に、海面の上、水の帳の向こう側で、閃光が迸った。次の瞬間、凄まじい爆音が俺の鼓膜を吹き飛ばしかけ、次いで爆風よりもえげつない水流と、次いで重油と微かな血の臭いがした。

 俺の放った魚雷のうち二本が命中した、船の右舷に。船首の方からも音がしたから、フラッシャーの魚雷だろうと思った。アルバコアは……アルバコアは、見つかったから。

 水中に響く音で、船が傾いていくのがわかる。海の上では、爆発音と鉄が軋む音、そして無数の――の悲鳴が混ざった嵐が、海中の分子を震わせていた。沈む、沈む……こう、わかるものさ。俺たちは海底で待ち構えている。自分達が殺した艦のむくろが堕ちてくるのを。

 俺はよく知っている。兵器たちがどんな扱いを受けているか。

 その船には救命艇がなかった。

 奴らは兵器だから、重大な損失にはなり得ても非常時の救助対象にはならない。ましてや姿は子どもだ。戦力にならない。護衛艦がかんたんに離れた理由がわかったぜ。俺たちを、釣りたかったんだ。

 生物兵器は、細胞が手に入れば遺伝子を解析できる。釣った俺たちを殺して、肉片でも回収すれば、そっちのがその船に積み込んだお荷物たちの、何倍も利益になったんだろうさ。俺たちはだったからな。

 つまり、餌だったんだ。あの何千もの命は。

 奴らだって生きた兵器だ。だから、凍える海に落ちたってそうそう死なない。翼や、毛皮や、角が、奴らの死をいたずらに引き延ばす。何千もの手足が、水底から見上げるあかるい波間でもがいていた。

 三十分も経たなかったかな。残骸と油で水面が真っ黒に濁り、その闇からどろっ…と、流産した赤ん坊みたいに、死体が沈んできた。

 俺たちみたいな水生の兵器がいたら困ると思ったが、わざわざ輸送船を使うくらいだ。救命胴着もなく沈んでくる死体は皆、陸か空の生き物と似た姿をしていた。幻想のように、泡となった魂をまといながら、ゆっくりと薄明の層を落ちていき、やがて俺がいる海底の闇へやってくる。自分たちを殺した者のもとへ。

 やがて、船が沈む。巨大な質量が没するとき、周囲に浮かんでいるものを巻き込む大渦巻きが発生する。

 メイルシュトローム。ノーティラスを飲み込む怪物の咆哮。

 すべてを砕くような濁流のなか、あちこちで光が弾けた。対潜爆雷なんかには捕まらねぇ。俺たちは海の稲妻なんだ。俺は沈んでいく船と、遠くの護衛艦から離れて、暗い海の底で機を待った。夜より暗い、海の底で。

 ………やがて、閃光が止む。

 いかなくては、と思った。挟撃したフラッシャーも、撃ったら即、離脱したはずだ。遠くからでも目標の沈没はわかる。

 だが、俺は動かなかった。

 アルバコアはどこだろう。

 あの女。ぬるりと陰気で、そのくせ俺の中の血を沸騰させる女。

 魚雷の着弾音は、俺とフラッシャーのものしか確認できなかった。

 ──なんであのとき、戦闘が終了してもいないのに海の上にあがろうと思ったのか。月の光に誘われるように。

 任務中、海の上にあがったのは、あのとき一度きりだ。

 凍てつく海に浮かびあがり、月の光をみたあのとき、あの瞬間だけは。

 死んでもいいと思った。

 海の上では、音がなかった。波の音も、鉄が軋む音も、あまりに遠くで、冷たい風にかき消されていた。

 鋼鉄の船は火柱となり、真っ黒な世界が真紅に輝いた。燃え盛る鉄の塔が、黒い海面に飲み込まれていく。俺はそこに聖書の世界を幻視した。バベルの塔が神の怒りによって崩れ落ちるさまを、ソドムとゴモラの街が降り注ぐ火と硫黄によって滅亡するさまを。

 それなら、俺はあのとき、塩の柱になったのだ。

 沈んでいく船をただ見つめていた俺の周り、無音の海に、幾千もの死んだ兵器たちが浮かんでいた。重たい体を持つものは、ばらばらになって渦の底へ飲み込まれていったが、軽い子どもの姿をしたものたちは流れに弄ばれて沈みきれず、結局は海面近くで凍え死んだのだ。

 海の底へ行けなかった子どもたちの屍は、冷たい水の上を漂って、花びらのようにゆらゆらと揺れていた。髪に百合が咲いた少女が、ゆっくりと、波に漂って、俺の隣までやってきた。まだ十歳と少しくらいの子どもだった。こいつは、もう誰か殺したのだろうか。誰も殺したことがないのなら、天国の門が開いて、迎え入れてくれるかもしれない。

 俺の肩に、とん、と少女の頭があたった。長い髪と白い百合が、ゆっくりと俺の鰭棘にまとわりついた。

 それは、自分を殺した相手への糾弾にしてはひかえめで、優しすぎた。とん、とん、と、ずっと……まるで、「あなたはだぁれ」って言うように、あの小さな頭が、風で揺れる花のように俺の肩に当たっていた。

 ひょっとして、あたためて、って言ってたのかもしれない。

「なあ、お嬢ちゃん」

 俺は浮かんだまま、少女の屍に語りかけた。

「俺がお前を殺したんだぜ」

 少女の頭は、まだ俺に触れていた。百合の花は凍りついて、粉雪のようにきらきらと光っていた。

「ここにいるお前たちの仲間は、みんな俺たちが殺したんだ。みんなだ。何千人だ? 全員、兵器なのか?」

 答えはないまま、幾千の子どもたちの亡骸は、俺を取り囲み、踊るようにゆっくりと回っていた。波がうちよせるたび、無音の世界に少しだけ時の流れが響き、それが俺の孤独と、無数の死を際立たせた。

 白く、白く、皓々と輝く月が、黒い海のような夜に浮かんでいた。俺はそれを見上げ、理解した。あれは凍った死に顔だ。月も凍てつく海で溺れ死んだのだ。



 流氷に擬態した母艦に帰投すると、フラッシャーが先にたどり着いていた。装填していた魚雷はやはり撃ち尽くされていて、あの船を沈めたのは俺とフラッシャーの両方の魚雷だった。ひとりきりで船を沈めたのではないとわかるたび、俺は…安堵か虚無かわからないような感覚を味わった。

「トートグ」

 甲板の上で、皮膚を大気に順応させていた俺に、フラッシャーが声をかけてきた。

「今回……離脱が遅かった、ね」沈められたかと思った、と小さな唇だけが音もなく動いた。淡々と、いつもどおりに。俺はなにも返す言葉もなく、ただ濡れた顔を覆って黙っていた。

 フラッシャーは、いつもどおりに攻撃即離脱の作法であの海域を抜けた。あの幾千の屍を目の当たりにしたのは、俺だけだ。

 最初に空母に捕捉され、囮の役目になったのはアルバコアだ。あの、生きた戦闘機と戦ったのは。

 そして、そのアルバコアは、帰ってこなかった。

 俺とフラッシャーは、最終帰投時刻まで待った。予定していた期間が過ぎても、待った。



 もっとドラマチックな別れがあると思ったか? あいつが致命傷を受け、俺の腕のなかで罵られながら息絶えるとか、それとも俺の目の前であいつが機銃に頭でも吹っ飛ばされて、俺はあいつの血と脳みその味を知る羽目になったとか。

 そんなことは無い。

 あいつは誰にも看取られることなく凍った海の藻屑となり、書類の上の数えきれない戦死者のひとりになった。それだけだ。

 それだけだよ。

 そういうもんさ。

 最後の会話もろくに思い出せねえ。あいつはどんな顔をしていた? あいつはどんな声で喋った? 全部を凍った海に置き去りにしてきちまったのさ。死っていうのはそういうもんさ。……

 腹立たしい。今でもずっと。怒りが俺の心臓を動かしてるんだ。

 俺の死を、あいつはかっさらっていった。あの日の銃弾と同じように。俺が先に死ぬと宣言したのに、あいつは俺より早くこの世界からおさらばしちまった。

 

 ありえねえ話だが、頭を離れなかった。あのときあの冷たい海に無数に浮かんでいた子どもたちのなかに、アルバコアもいたんじゃねえか、と。

 アルバコアのオーロラ色の鰭が、スカートのように丸くふくらんでいる。バレエを踊るように、粉雪で化粧した青白いかんばせは虚空を見上げて、瞳は氷だ。

 くちづけは死の味がする。

 俺たちには魂がないから、いつか死体は腐って、最後に泡だけになる。



 その後のことは、テメェら人間の方がよく知ってるんだろ。俺は知らねえ。大量破壊兵器の廃棄方法や、なぜが最後に回されたかなんて。

 なぁ、なんで、一度にやってくれなかったんだ?

 フラッシャーは戦後すぐに逝った。あいつが水槽から出ていく背中を覚えてる。あいつを連れ去っていく人間の白衣と、それから、死の気配。

 俺は待った。寝ている間に順番が回ってこないように、戦時中と同じように、片目を開けて寝た。深海で獲物を狙っていたときのように。

 俺は待っていたんだ。ずっと待った。水槽の水が温くなり、腐り始めてもなお、俺は何もない水槽で待った。そうして、だんだん、海底の砂へ引きずり込まれていくように……冬眠した。必ず、死の順番が回ってくると信じて。

 なあ、どうしてだ?

 なんで、俺だけを残した?

 俺を見つけたとき、俺だけが残っていたと知ったとき、なんで俺を殺さなかった?

 あのときが、俺を殺せる最後の機会だったんだぜ、人間。腐った水のなか、生きた屍となって百五十年間眠っていた、この大悪党を。






 外は嵐か。

 俺が呼んだんだぜ。

 聞こえるだろう、水の音。悲鳴みたいだ。ちょうど、沈みかけた船は始めにこんな音を出すんだ。

 なあ、わかるか。

 雨滴じゃない、足音さ。

 

 人魚には魂がないから、いつまでだってどこへも行けねえ。なあ。

 いつもいるんだ。オーロラ色の鰭が見える。あいつは俺が嫌いだから、あのひらひらした色を俺が嫌うのを知ってて、ずっとそこにいるんだ。

 そこに。

 すぐ、そこに。


 ずっと。

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