第2話 鹿内奏太のプロローグ(2)


「あ、奏太、いらっしゃい。今日は遅かったね。学校の用事?」



 部屋に入ると、有紗がベッドにあおむけに寝そべってスマホをいじっていた。

 全体的に細い体を起こしてこちらを向く。そうすると長い黒髪がベッドの上に広がった。



「ううん、なんか気づいたら放課後寝ちゃってたみたい。それに道でちょっと捕まっちゃって、ごめんね」

「? 道でも訊かれたの?」

「あ、うん。まぁ、そんなところ、かな」



 う、失敗した。たぶんあの黒猫のことは誰にも言わない方がいいよね……。



「ふーん」



 さいわい、有紗はそれで満足したのか、深くは聞いてこなかった。助かった、有紗すごく察しがいいから……。



「あ、そうだ。先にノート写してもいい? 授業中寝ちゃって借りてきたんだけど」

「授業中も寝てたの」

「うっ、はい……」

「……ちゃんと夜寝てる?」



 と、心配そうに微笑む有紗。



「えっと、八時間ぐらい?」



 いつも夜の十一時ぐらいに布団に入って、朝の七時前にはお姉ちゃんに起こされるから、それぐらいになるはず。今朝もそんな感じだった。



「んー、それで眠っちゃうのは、ちょっと困っちゃうね」



 と、有紗は苦笑いを浮かべる。



「あ、でも今日は体育あったし、その後の社会の先生も声が穏やかでね、ついついリラックスして眠くなっちゃうんだよねぇ」

「……そんなこと言ってると、来週も寝ちゃうからねー?」



 と、ニッコリした笑顔で釘を刺された。



「はい、気をつけます……」

「ん、よろしい」



 今度の笑顔は一転して晴れやかで、さっきまでの強いプレッシャーがすっと消えていく。怖い笑顔もそれはそれで素敵ではあるんだけど、やっぱり明るい笑顔の方が好き。うん、ちゃんと気をつけよ……。



「えっと、それじゃあ、テーブル借りるね」

「はーい」



 部屋の隅から背の低い木製の丸テーブルを持って来て、その前に座る。おしゃれな丸テーブルは少し小さめで、ノートを二冊広げるともういっぱいいっぱい。



「……授業中寝ちゃった時ってさ、ノートがすごいことになってない」

「すごいことって?」

「自分ではちゃんと書いてたつもりの字が、ぐちゃぐちゃだったり右斜め上に傾いてたり」



 一番下の段の字が途中から上の段に被ってて、下から三行がまるで読めない。これじゃあ、書き写す前に一旦消して書き直さないといけない。



「あはは……」



 ノートを見せると、有紗も苦笑いを浮かべる。



「この辺全部書き直しだよー」



 慎重にノートに消しゴムをかけていく。いつものことだけど、人の部屋で消しゴムかけるのは、ちょっと気を使う。

 正悟のノートは真面目で実直な正悟らしく、丁寧な字で見やすくまとまっている。だからノートを写すのも結構楽だ。



 有紗の方を見ると、またスマホを見ている。ずいぶん真剣な表情だ。目元がしゃっきりしててきれいな顔立ちだから、こういう表情をしているとすごく格好いい。誰かにメッセージでも書いているのかな? 

 有紗の真面目な顔は意外と新鮮だ。なんだかいつも笑っているような印象なのだ。


 そんなこと思っていると、有紗がふいに目線を上げたのでパッと顔を伏せる。



「奏太、わたしの顔に何かついてる?」

「え、ううん、何もついてないよ」

「んー? でも今、わたしの顔見てたでしょー?」

「…………」



 まぁ、バレてるよね。



「じゃあ、なんでこっち見てたのかなー?」



 うー、今ぼくの顔、絶対赤くなってる……。

 それに対して、有紗はすごく楽しそうに笑っている。こっちをからかってくる時、いつもこんな笑顔だもん。そりゃ笑顔ばっかり印象に残るよね! 



「えっと、誰にメール打ってるのかなぁ、って」



 半分は本当。真剣そうな顔に見惚れていたとは、ちょっと言えない。



「ふーん……?」



 有紗は口元にスマホを当てて、依然としていたずら好きな笑顔を浮かべている。



「誰だと思う?」

「え」



 突然の質問に困惑する。



「クラスメイトじゃないの……?」

「んー、はずれかなー?」



 すっごく楽しそうに不正解を告げる。

 な、なんだろ、ぼくが知っている人なのかな?



「じゃあ、うちのお姉ちゃんとか?」

「ぶぶー、奏太の知り合いにメール打ってたんじゃないよ」



 え、ホントにわかんないっ。


 じゃ、じゃあまさか、彼氏、とか……? い、いやそんな素振り全くなかったし、でもでも有紗美人だし、有紗のこと好きになる男の子なんて何人いてもおかしくない……! 



「え、えっと、まさかこい――」

「実はアプリの脱出ゲームやってただけでしたー」



 そう言って、有紗はスマホを見せる。画面には薄暗い部屋が写っている。普通の部屋なのにどこか少し怖い。



「もお! そうだよね、メッセージ打っているとは、言ってなかったもんね!」

「あはは、そんなにむくれないでよー」

「むー、怒ったんじゃないけどさぁ……」



 結構あせったよ……。



「勉強しないでこっち見てるからでーす。女の子の顔、こっそり見るもんじゃないからね」

「う、はーい」

「分かればよろしい」



 そう言って、有紗はスマホに向きなおってしまった。さっきまでの真剣な顔と違って、その表情はずいぶん楽しげだ。



 ぼくも観念してノートを写す作業に戻る。世界史のノートの写しは本当に作業に近い。数学なんかは計算過程を追いながらノートをとるから頭を使うけど、暗記科目だと考えることもなく無心でノートを写すことになる。


 だからついつい、さっきの出来事のことを考えてしまう。


『どんな願いだって叶えてあげる』


 あらためて思い返すと、本当に現実感がない話だ。

 魔法使いになって、人に悪夢を見せる怪物と戦って、たくさん倒したら願いごとが叶う。



 どんな願いでも、とあの猫のような生き物は言った。例えば誰かを生き返らせたり、時間を戻したり、そんなことまでできるのだろうか。


 ……そこまで大それたことが叶うのはかえって怖いな。

 じゃあどんな願いがいいだろう。どんな願いなら、戦ってでも叶えたいって思えるだろう。



 パッと考えてすぐ思いつくのは、恋愛のこと。すぐそばにいる有紗のことだ。今も楽しそうにスマホをいじっている。魔法でこの恋が叶うなら、戦うぐらいしてもいい。

 でもまぁ、それはやっぱり違うよね。卑怯だと思うし、きっと罪悪感で一緒にいられない。ので、却下。



 じゃあ、勉強できるようにしてもらう、とか? 頭をよくしてもらうとか、勉強好きにしてもらうとか。……でもそれもよく考えると怖い。それって、魔法で自分の心や頭の中を変えてしまうってことなんだから。



 んー……、もういっそ、欲しかったゲームソフトとか頼もうかなぁ……。いやぁ、でもせっかくの魔法なのに……。



 意外とぼくって、つまんない人間というか、結構みたされているのかもしれない。叶えたい願いがパッと出てこない。なら、戦ったりしなくていいじゃないか、って思うけど、願いごとを叶えられる機会があるっていうのに無駄にするのも、もったいない気がしてしまう。



「ねぇ、有紗」

「ん、なぁに」



 有紗がスマホから顔を上げて、こっちを見た。



「――、えっと、やっぱりなんでもないや」



 ……ちょっと考えがなさすぎた。途中で言うのをやめる。

 でも、有紗は食い下がってきた。



「む、なんでもなくはないでしょ。何を訊こうとしたの」

「あー、さすがに無神経なことだな、って思うし」



 こう言って、また後悔する。こんな言い訳だと、有紗が納得しないのはすぐ想像できた。



「無神経かどうかはわたしが決めるよ。もやもやするし、奏太が言いたいことなら、みんな聞いておきたい。ね?」



 予想通り、優しい香りのする微笑みで有紗はぼくに語りかける。

 こんなこと言ってもらえるのは嬉しい反面、少し胸が苦しい。こうなるんだから、とっさに止めてしまわずに最後まで言ってしまえばよかった。中途半端に気をつかうことになってしまった。


 後悔をのみこんで、できるだけなんでもないように言う。



「あのね、奇跡か魔法でどんな願いでも叶うとしたら、何をお願いするのか、訊こうと思ったの。でも有紗、足を治すことお願いするんじゃないかな、って思ったら訊けなくなっちゃって」

「あぁ、そういうことね」



 何かをごまかすような、気づかうような、そんな笑みが有紗の顔に浮かぶ。

 優しいその表情に、少し胸がえぐられる。



「まぁ、そうねー。足治してもらうかなぁ、やっぱり。でもそれだけじゃもったいないかも」

「もったいない?」

「せっかくだからもう少し足速くしてもらったり、もっと美脚にしてもらう、とか」

「あー、なんだかハーマイオニーみたいだね」

「え、ハーマイオニー……? なぜ突然ハリポタが……?」

「あのほら、呪いで伸びちゃった前歯を戻すとき、前より短くしてもらったヤツ」

「……そんなシーンあったっけ?」



 怪訝そうな顔をする有紗がちょっと面白くて笑ってしまった。

 そしたら有紗もつられたように笑った。



 一瞬まとわりつくようだったぼくらの間の空気が、それでまた緩む。

 でもまだ胸の痛みは少し残っている。なくしてしまいたくもなかった。



「あ、ノート、写し終わったの?」

「うん、終わったよー。テーブルありがとうね」

「じゃあさ、これやってみて」



 と言って、有紗はこちらに画面をむけてスマホを振る。



「さっき言ってた脱出ゲーム? できなかったの?」

「ううん、できたよ。奏太がやったらどうなるかなって」

「じゃあぼくが有紗より早く解けるか勝負だね」



 こういうパズルゲームの類は全然自信ないけど。


 スマホを受け取ってベッドにもたれかかると、有紗が上からのぞき込んでくる。長い髪が首筋に触れて少しくすぐったくてドキドキる。



「ちなみにストーリーとかあるの?」

「うん。ヤンデレ彼女が寝ているうちに、気づかれないように脱出するの。あまり大きな音立てると、彼女が起きてデッドエンドなので気をつけてね」

「い、いやなストーリーだ……」



 結局ぼくは帰る時間までに脱出できなくて、一か所だけ有紗に教えてもらった。まさか最後に、一度抜いた井戸の水をもう一度張りなおすなんて……。


 ストーリーは意外と感動系だった。




            § § §




「ただいまー」

「おかえりなさーい」

「おかえりー」



 家の扉を開けると、中からお母さんとお姉ちゃんの声がした。



「奏ちゃん、もうご飯出来ているから、鞄置いたら降りてきてー」

「はーい」



 階段を駆け上がり、右側の自分の部屋のベッドの上に鞄を置く。


 居間まで降りると、すでにお姉ちゃんが夕飯を食べていた。鮭のムニエルとサラダとレタスの浮かんだお吸い物、それに白いご飯。暖かいオレンジの蛍光灯は、不思議なくらいに食べ物を美味しそうに見せる。

 お母さんはキッチンで洗い物をしていて、お姉ちゃんはテレビのバラエティ番組を観ながら、鮭の身をほぐしている。時計を見るとまだ七時を少し過ぎたぐらい。



「お姉ちゃん、今日は早いね」



 ぼくは炊飯器から、ご飯をお茶碗によそいながら、そう訊く。



「部活、早く終わったのよ」



 口の中の食べ物をスープで流し込んでから、お姉ちゃんは答えた。ぼくはスープを器に入れる。レタスが結構大きくて意外と入れるのが大変。

 お姉ちゃんは中学の頃から剣道をやっていて、高校でも剣道部に入っている。県内だとだいぶ強い高校らしくて、毎日疲れた様子で帰ってくる。



 ぼくはご飯とスープを、お姉ちゃんの隣に置いて席につく。



「いただきます」



 鮭のムニエルを箸でひとかけらつまんで、口に入れる。脂ののった鮭の身は適度にしょっぱくてご飯によく合う。



「奏太、今日もアレ? 有紗ちゃんのところ?」



 お姉ちゃんはテレビの方を見たまま、そう訊く。



「うん、そだよ」

「ふーん、元気そう?」

「元気だよー、最近お姉ちゃん会いに来ないから、有紗寂しがっているよ」

「あー、そういえば行けてないわね……。でも部活の後は、荷物とか匂いとか気になって行けないし」



 剣道の道着やら防具は、やたら臭くなるのだ。



「有紗はそんなに気にしないと思うよ。お姉ちゃんの匂い、そこまで気にならないし」

「奏太の気にならないは参考にならない。それに有紗ちゃんわたしのこと、結構慕ってくれているから、幻滅させたくないのよねぇ」



 うーんと、箸をくわえたままうなるお姉ちゃん。確かにお姉ちゃん、基本的に毎日部活だし、部活休みの日もずっと勉強していたりする。部活の後来れないとなると、あまり遊びに来る余裕はなさそう。



 お姉ちゃんが黙りこくって考え込むと、耳に入ってくる音は、流しの音とテレビの音と、後は窓の外からかすかに聞こえる車の音ぐらいになってしまった。テレビの中の笑い声がやけに遠くに聞こえる。



 今日のことを思い出す。

 帰り道ずっと考えていた。

 有紗の何かをごまかすような、気づかうような笑顔のことを。



 今日ぼくはきっと有紗のことを傷つけた。『どんな願いでも叶うなら、何をお願いするか』って聞いたからじゃなくて、そう聞くのを一回ためらったから。

 有紗は変に気を使われるのをいやがる。車椅子だからって理由で過剰に遠慮されたり丁重に扱われると、困ったような苦い笑顔を浮かべる。今日のは間違いなく過剰だった。『どんな願いでも叶うなら』なんて、ただのクラスメイトとだってする会話なんだから。



 でもだったら、そのまま聞いてしまえば良かったのかな。いや、そもそもそんな質問を聞こうとしないべきだったのかな。特別でもない、普通の会話なのに? 



 きっとそうなんだと思う。相手のことを思うなら、傷つけてしまうような会話はしない方がいい。有紗の足は確かに不自由なんだから、それにふさわしい配慮がある。フラれたばかりの友人に恋バナをしないみたいに、当たり前のことだと思う。いつもだったらそう思う。



 でも、今日は胸のもやがいつまでも晴れない。

 黒い猫の姿をした夢魔の声が蘇る。


『どんな願いだって叶えてあげる』


 有紗に質問したあの時に思いついたとおり。本当にどんな願いでも叶うなら、有紗の足だって治せる。有紗は自分の足でまた歩けるようになる。



 その発想は強烈だった。

 有紗ともっといろんな場所に行けるようになる。同じ目線で並んで歩ける。同じ学校にだって行けるかもしれない。もうふさわしい配慮だなんて言って、なんでもない普通のことを、傷つけないように遠慮することもしなくていい。

 あきらめていた空想が突然いっぺんによみがえってきて、無責任にぼくの背中を押す。

 でもそれは……、



「奏ちゃん? おかわりいる?」

「へ?」



 お母さんの心配そうな声に手元のお茶碗を見ると、すでにからっぽだ。考え事をしながら食べていたから、いつの間にか食べ終わっていたらしい。



「えっと大丈夫。ありがとうお母さん」

「どういたしまして」



 お母さんはまだ少し心配そうに微笑む。



「食事中に考え事しているからよ」



 お姉ちゃんに険しい声でぼそっと耳打ちされる。うぅ、見抜かれている……。



「ごちそうさまでしたー」



 食器を流しにつけて、自分の部屋に戻ろうと居間を出る。居間の扉を閉めると、薄暗く静かな廊下に出る。階段の位置は覚えているから、電気をつけずに上がっていく。



 もうぼくの心は決心してしまっている。有紗の足を治す為に、怪物とやらと戦うことを。怖いけど戦える。この願いはどんな思いをしてでも叶えたいと、そう思う。

 でもこの願いは、本当に正しい願いなのかな……?



 階段を上りきる。自分の部屋のドアノブをひねると、夜風がドアを勢い良く押し開く。六月末のまとわりつくような不快な空気を吹き飛ばしていく。



「願いごとは決まったみたいだね、鹿内奏太」



 薄暗いぼくの部屋の机の上、美しい黒猫が座っている。星空色の目を輝かせて。




            § § §




「……黒猫さん」



 名前を呼ぼうとしたけど、そういえばまだ聞いてなかったのを思い出してそのまま呼んでしまった。

 突然現れた黒猫に、どこか驚いていない自分がいた。悠然とたたずむ黒猫は、ぼくの部屋に違和感なく溶け込んでいる。



「こんばんは、鹿内奏太。返事を聞かせてもらえるかな?」

「……その前に聞きたいことがあるんだけど、いい?」

「構わないよ。僕たちに答えられる範囲ならね」



 窓から吹き込む風が、ひときわ強く吹いてぼくの髪を逆立てる。



「ぼくの友達にね、事故で足を怪我して歩けなくなった友達がいるの。きみのいう魔法なら、その人はまた歩けるようになる?」

「可能だよ。それだけの願いを叶えるには、少し時間がかかるだろうけどね」

「その人、君たちのこと知らないけど、魔法のこととか教えても大丈夫?」

「大丈夫だよ。むしろ治すには教えないといけない。治療魔法には原則として対象の同意が必要だからね」

「そっか、良かったぁ」



 さすがに黙ってこんなことするわけにはいかないもんね。

 必要なだけの魔力が集まったら、有紗に言おう。足を治せるって。その魔法を使うかどうかは、有紗に任せる。それがいいと思う。



 ……残る問題は……。

 息を深く吸う。すると、冷たい空気が肺の中に潜り込んで心地いい。なんだか頭がさえるような気すらする。



「……ねぇ黒猫さん。ぼくの願いは本当に正しいと思う?」

「……僕たちには難しい質問だね。僕たちは人とは違うから、人の言う正しさは分からない。でも一般的には、怪我を治すのは正しいと判断されるよ」

「うん、そうだよね」



 怪我したら、痛いし苦しい。有紗みたいに、日常生活に支障が出ることもある。あって嬉しいものじゃない。

 でも、あるべきでないと、そう言ってしまうのもどうかと思う。



「んっとね、有紗は今、結構幸せだと思うよ。それをぼくがいうのも、なんか変な感じだけどね。いつも一緒にいて楽しそうに笑っているの。

 もちろんそれは、足が不自由なこととは関係なくて、車椅子の人だって幸せになれるし、自分の足で歩ける人にも自分のことを幸せだって思えない人もいるんだけど……、うーん? ぼく、何言いたいんだろ……」



 頭の中のモヤモヤが上手く説明できない。しゃべっていたら、ますますごっちゃになってきた。うーん、



「多分ぼくはね、有紗が幸せそうなら、わざわざ足を治す必要はないんじゃないか、って思っている」



 苦しそうなら足を治せばいい。それはわかる。原因を取りのぞけるなら、苦しみも和らぐだろう。

 でも、幸せそうだったらどうだろう。もちろん、有紗が足のことで苦労や辛い思いをしていることも知っている。ぼくが知っている以上に、大変なこともあるかもしれない。



 それでも、幸せそうにふるまっているのは確かだ。

 そういう人に、『足を治そう』って言うことは、『君は足が不自由なんだから、不幸せなんだ』って決めつけることなんじゃないか?

 有紗の足を治すのは、今の幸せそうな有紗を否定することなんじゃないか?


 そしてただ、ぼくが『ふさわしい配慮』から、『車椅子の有紗』から逃げてしまいたいだけなんじゃないか? 



 胸の中に暗いものが広がっていく。



 だって、しんどくないわけがない。有紗のあいまいな微笑みをまた思い出す。今日ぼくは、きっと有紗を傷つけた。不用意な発言と無遠慮な配慮のせいで。


 でもそれは、有紗の足のことがあったから、起こったことだ! 


 足の怪我がなかったら、なんでもないことだった!


 絶対に、絶対に、そんなこと考えたくないのに、どうしてもその発想が頭をちらつく。ぼくがしっかりしてなかったから起きたことで、足の怪我のせいにしたって、何にもならないのに。誰よりそのことで傷ついているのは、有紗なのに。



「鹿内奏太? 大丈夫かい?」



 黒猫が抑揚の少ない穏やかな声で、こちらに語りかけてくる。その目の中の静かな星空を見ていると、泣き叫んでしまいたいこの気持ちも少し落ち着いてきた。



「あんまり自信なくなってきちゃったんだ。ぼくの中にずるい気持ちがある気がするの。ぼくは今の有紗が好きなのに、それじゃ嫌だって、今のままじゃ嫌だって気持ちがどこかにあるの」



 有紗の為になにもしてあげられない苦しみとか、小さなことでも傷つけてしまうじゃないかって怖いこととか。

 そういう気持ちがぼくの中にあって、ずっと折り合いをつけてやってきたつもりだったのに、『どんな願いも叶う』と言われて、あふれてしまった。

 有紗の怪我が治ったら、こんな風に思うこともないって。つまり、、って。

 そんなひどい気持ちがぼくの中にあって、消えてくれない。



「ねぇ、黒猫さん。ぼくの願いは間違っている気がする」



 こんな気持ち知りたくなかった。ぼくの願いがこんな気持ちから出来ているなんて知りたくなかった。 

 黒猫は静かにぼくの話を聞いていた。そして一言、



「じゃあ諦めていいのかい?」



 星空色の目で、まっすぐぼくを見つめていった。



 ――それは、違う。



 その言葉を聞いた瞬間、ぼくの心の奥底がそう答えていた。

 だって、嬉しかった。もしかしたら有紗の足が治るかもと思いついたとき、一緒に並んで歩くことを想像したとき、本当に心が弾んだ。未来がきらきらと輝いて見えた。



 うん、そうだ。

 逃げてしまいたいって気持ちもある。それは、どうしてもある。

 でもそれだけじゃない。未来への希望がある。ちゃんとぼくの願いはまぶしくて明るい方向を向いている。

 だから――、



「そうだね、うん、それは違う」



 黒猫のきらきらした目をまっすぐ見つめて、そう言う。



「願いごと、決まったよ、黒猫さん」

「契約するんだね」

「うん」

「君は夢の世界で、悪夢を生み出す怪物と戦うんだよ」

「わかってるよ」



 黒猫は満足そうにうなずいた。



「大丈夫そうだね。そういえば、言い忘れていたけど、戦うとき君たちは別の身体に変身して戦うんだ。それも大丈夫?」

「ん? 魔法使いになるってことだよね?」

「まぁそうだね。別の身体に心を移し変えて戦うんだ。戦闘体って言えば分かりやすいかな?」

「へぇ~、そんなことできるんだね」



 心を移し変えるだなんて、魔法ってのは本当にすごいんだなぁ。



「でも、なんでわざわざそんなことを?」

「もし戦闘中に怪我をしても、君たちの日常生活に影響を与えない為だよ。もちろん痛みはあるから、無理はできないけどね」

「あー、なるほど」



 確かに怪我でもして帰ってきたりしたら、うちのお母さんすごく心配するだろうし、その方が安心かも。



「うん、大丈夫だよ」



 黒猫がニヤリと笑った気がした。



「それじゃあ最終確認だ、鹿内奏太。本当にいいんだね」




            § § §




 逃げてしまいたい、って気持ちもあった。足に障害を抱えた人と一緒にいるのがしんどいと、思ってしまったことがあった。

 まぶしくてたまらない夢でもあった。一緒に並んで手をつないで歩けるって、そう思えただけで嬉しくかった。



 きれいな気持ちと薄暗い気持ち。どちらもぼく自身のもので、どちらかだけにはなってくれなかったから、ないまぜのまま歩き出すことにした。これが正しいのかまだ分からないけど、もしかしたら傷つけてしまうんじゃないかって怖くてしかたないけど、それでもこの願いはずっとまぶしかったから、進むことにした。



 本当に、本当に、真剣な気持ちでそう決めたのに、なんで――――、



「なんで女の子になっているのーーっ!!???」



 こんなの、聞いてないんだけどっ!? 

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