第1章
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足元に広がっていくそれが、警護長であり師と仰いだ者の血であることに気づくのにそう時間はかからなかった。
震える体は血溜まりに膝からくずおれ、腕の力で支えるだけで精一杯だった。
服を通り抜けて浸みこんでくるものは妙に生温かい。胃からせり上がってくるものを、口を押さえて必死に飲み下す。
目の前に横たわる体躯は急速に体温を落とし、肩を揺すっても叩いても反応しない。
お願いだから……
目を、開けて……!
「————っ!!」
目を見開き、上半身を跳ね上げて飛び起きた。
肩でする喘鳴混じりな荒い呼吸が、嫌に部屋に響く。
顎から滴り落ちた汗はズボンの青をさらに濃くした。
どうやら椅子の上で寝おちてしまったらしい。首やら腰やらあらゆる関節が鈍痛で、鉛をぶら下げているような感覚に見舞われる。
さっきまで意識があったはずなんだが。
机に投げ置かれている懐中時計は午前3時を指していた。寝不足感は否めないが、今更ベットで寝なおしたとしても余計疲れるにちがいない。
椅子の背に放るように全体重を預け、張り詰めていた体の力をため息とともに抜くと、改めて小さな照明に照らされた机に目をやる。
無造作に置かれた書籍や書類の山。蓋の開いたインク瓶。傍に転がっているつけペン……。
そうだ、休んでいる場合ではない。
積み上がった報告書を左の山から適当に一部引き寄せ、目を通してサインを入れては右の山に投げた。
夕刻締め切りでこの部屋に持ち込まれた報告書は、自分の統括する部隊ばかりでなく、それこそ全部隊の調査結果や報告の類の書類が回ってきていた。
本来ならば警備部隊、警護部隊、調査部隊、軍医部隊の長がそれぞれの隊の報を受け持つのだが、今日に限っては全隊長が出払っており、全ての書類がこの部屋に集められていた。
ここにあるのは、我々の指示一つで動いてくれている兵たち全員の努力、時として命を賭して得てきた情報ばかり。
そうだと思うと、どんなに山のように積み上げられたとしても、時間がないとしても、中身を読まずしてサインするなどという捌き方ができなかった。……いや、本当に努力を形にしたらこんな量では済まない気もするが。
しかし、夜通しやれば朝までには捌き切れると踏んでいたのに、これでは今朝の会議に間に合わないではないか。かと言って誰かを呼べるわけでもない。
各隊長の帰城の報が入ったのは今日の日付が変わった頃。ここで呼べば休息の時間など無に等しくなる。
一つ、諦めのため息をつくと、黒い前髪をかきあげ、地道に一枚ずつペンを走らせることに専念した。
鳥のさえずりが増え、窓の外に目をやれば、闇色だった空が群青を越えて青く冴え渡りはじめていた。
左側で頭上の高さにのぼっていた書類のほとんどは、いくつかの箱に仕分けられて床に置かれ、残りは右側でピサの斜塔を2つほど形成している。
確認済みの資料の山を一つの塔にする気にはなれなかった。万が一雪崩れて未確認資料と混ざったら、それこそ今切れる寸前で保っている気力が全て吹き消されるだろう。
改めて時計を確認すれば、短針は5を超え、長針は垂直に下を指していた。
会議は7時。諦めなければ意外と間に合うものだと独りごちる。
あともう一踏ん張りで全て目を通せそうだったが、6時を過ぎれば来客の可能性も出てくる。先に身なりを整えてしまおうと、凝り固まった体をバキバキ鳴らしながら席を立った。
飾り気のない部屋着を脱ぎ捨てると国から支給された正装用のワイシャツに袖を通す。作業の邪魔にならないよう袖をたくし上げると、ペールオレンジから少し焼けた腕が露わになった。一緒に吊るしてある、朝日を艶やかに反射する黒いパンツに、少々擦れや切り傷の入ったエンジニアブーツに足を通し、手早く編み上げてくくった。椅子で寝落ちたせいでついてしまった髪の寝癖はなかなかに曲者だったが、水で濡らしてしまえばこっちのもの。
滴る水が髪の黒を含み、ドロップの中がオニキスのように輝く。やがて重力に耐えられなくなると、その色を失いながら落下していった。
書類に水が垂れたら非常にまずいと思う反面、面倒だという意識が行動のぞんざいさににじみ出ていた。髪を拭くために腕を上げるのさえだるい。致し方なくタオルで雑に拭いて水気を取るが、湿り気が残っていることは否めない。
まあ、部屋を出るまでに乾けばいい。
「さてさて……ルイ・シガン、行くとしますか」
鏡の前に立つ自分にそう呼びかけるのはもはや習慣。今更意識の切り替えなど要らないとも思うのだが、流れで結局やってしまう。
執務室に戻り、再び椅子に腰掛けて残りの資料を手に取った。
全ての資料が箱の中に収まる頃には日は完全に登り、会議までの時間が刻一刻と近づいていた。
20分前であることを改めて掌の中で確認すると、軽快な音とともに時計の蓋を閉めてチェーンをベルトに引っ掛け、内ポケットに大切にしまった。
議題を頭の中で整理しつつ数枚の資料とペンを携え、黒い鞘に納めたレイピアを腰に据える。そしてレースの如く金の刺繍の細工が施された黒い外套をふわりとはためかせて羽織る。
ルイ・シガン警護隊長の完成である。
扉の横に引っ掛けてある鍵を手に取ると飾り気ない質素な扉のノブをひねり、ゆるりと押し開けた。
部屋の中と外で若干の気圧変化が起こり、流れ込んでくる空気に人の匂いが混ざる。
あぁ、今日もいるのか。
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