分水嶺

 あれから数時間、瑞樹は何とかお仕置きを耐え抜く事に成功し、今は何故かエレナと湯船に浸かっていた。エレナとオリヴィア、二人からは労いの意味だったのだが瑞樹にとっては大人の階段を上り始めたエレナと混浴など、お仕置きよりもむしろ拷問に近い状態で、邪な気持ちが生まれないように悟りの境地を必死に開いていた。


「あの…エレナお嬢様。これ程湯船が広いのですからそんなに近づかなくても…」


 瑞樹が言うように、その湯船はまるで大衆銭湯のように広々としていて、しかもエレナ専用の浴場というのだから大したものである。にも関わらず、エレナはにやりと悪い笑みを浮かべながら瑞樹に近付き、むにむにと自らの柔肌を押し付けてくる。


「あら、いけずですわ。いずれ私の旦那様となろのですから、恥ずかしがる事は無いでしょう?」


「…御令嬢ならばもう少しお淑やかにするべきかと存じますが」


 そう瑞樹が苦言を呈すと、エレナは少し顔をむっとさせて瑞樹から離れる。それは人一人分の距離で、肌が触れ合う程の間柄になるには今暫く時間が必要なようだ。


「そういえば、先程の氷はエレナお嬢様とオリヴィア様の魔法ですか?」


 ふと思い出した瑞樹はエレナに尋ねる。するとエレナはふふんと鼻を鳴らしながら得意気に説明する。


「勿論ですわ。代々この家は水の魔法を得意としています、故にあの程度造作もありません」


 へぇと瑞樹は感嘆の声を漏らすと同時に、もう一つ疑問が生まれる。


「オリヴィア様はこの家に嫁いで参ったのですよね?やはり水魔法が得意だからですか?」


「そうですわね。ただ私も二人の馴れ初めは存じませんが、政略では無くあくまで恋愛から発展したと聞いています。貴族の家の大体は特定の属性の魔法を得意とします。故に相反する属性と婚儀に発展しないのが現状ですね」


 瑞樹はエレナの瞳はどこか遠い場所を見ているように感じた。どこか不安で、悲しそうなその表情は、瑞樹の視線を感じるとにこやかに微笑み、素直な気持ちを吐露し始める。


「本当は…私は怖いのです。これから何か良からぬ事が起きる気がして…故に私は貴方様をお仕置きと称して少しでも触れ合える場を設けたかったのです」


 エレナは少し目を赤くしながら瑞樹を見つめる。良からぬ事…瑞樹は引っかかる部分もあったが、エレナの本心を聞いて正直嬉しかった。ビリーやノルンの他にもこんなに自分の事を想ってくれる人がいる事に。


「エレナお嬢様…大丈夫ですよ。私はどこにもいきません、約束です」


 そう言って瑞樹は右手の小指をエレナに差し出すが、エレナはきょとんとしていた。


「あの…これは?」


「あぁ申し訳ありません、説明をしていませんでしたね。私の故郷では…こうやって小指を絡ませて約束事をする習慣があるのです」


 瑞樹はエレナの手をそっと取り、自らの小指とエレナの小指を絡ませる。エレナは少し目を丸くするが、徐々に目を細め優しくその手を見つめる。


「出来ない約束は…するものではありませんよ?」


「大丈夫です、今度は絶対に守ります。お約束します」


 エレナはまぁと言いながらくすくすと笑う。その後指切りの呪文を二人で復唱し、手を放す。エレナは名残惜しそうにしていたがいつまでもそうする訳にはいかないのが指切りのお約束だ。だがもう一度とエレナが催促してくるので瑞樹は話題を変えようと、もう一つ忘れていた事を話す。


「そういえばエレナお嬢様にアートゥミでのお土産を買ってきたのですが、今回は急でしたのですっかり持ってくるのをわすれていました」


「まぁそうでしたの?…ですがちゃんと約束を守っていればこんな事にはならなかったのでは?」


 瑞樹は痛い所を突かれうっと唸ると、エレナはくすくすと苦笑する。


「それはまた逢う日まで楽しみに取っておきます」


「はい、ではまた逢う時にお渡し致します」


 二人はその後、邸宅内で楽しい時間を過ごし、お仕置きと称して二人仲良くベッドで就寝する。


 翌日、瑞樹は邸宅で朝食を頂いた後、帰宅するための馬車をエレナの部屋で談笑しながら待っていたその時。


 ドタドタと外の廊下がやけに騒がしく、それがどんどんとエレナの部屋に近付いてくる。二人は何かあったのかと、目を合わせながら首を傾げていると、突然扉が勢い良く開かれ二人はビクッと肩を竦める。


「ちょっとお父様、もう少し静かに入ってくださいませ」


「済まないが、それどころでは無い。瑞樹、私に付いてきなさい」


 エレナは静かにメウェンを窘めるが、当の本人はそれどころではないと一蹴する。その尋常ではない様子に、瑞樹とエレナは顔を強ばらせる。そこに私に付いてこいとは、瑞樹は今までで一番嫌な予感をさせていた。


「急ぎなさい、時間が無い」


「うぇっ!?ちょ、ちょっと待ってください!」


 メウェンにぐいっと手を引っ張られ、瑞樹は素っ頓狂な声を上げながら部屋を後にする。エレナはその背中を不安そうに見つめていた。嫌な予感を感じていたのは瑞樹だけでは無かったのだ。


 いつもより遥かに足早に廊下を進むメウェンに、瑞樹は何とか食らいつきながら疑問をぶつける。


「メウェン様、良い加減教えてください。一体何があったのですか?」


「おぉそうだったな、忘れていた。落ち着いて聞いてくれ」


 視線を前に向けたまま、メウェンは自らに言い聞かせるように話し、一度深呼吸する。瑞樹はすの様子を見ながらごくりと固唾を呑む。その後、遂に意を決したメウェンの口から瑞樹の想像を遥かに超える人物が出てきてしまった。


「実は、国王陛下から君を召喚するよう命を受けたのだ」


「冗談…ですよね?」


「馬鹿者。恐れ多くて冗談で国王陛下なぞ出せる訳無いだろう」


 その真剣な目つきは確かに冗談と呼ぶにはあまりにも不釣り合いだった。この国のトップが急に連れて来いとはつまり―


「私の存在が知られた…という事ですか。もしかして目障りだから…」


 瑞樹が呟くように口にすると、メウェンは「恐らく違う」と断じる。


「君も察しが良い方だから気付いているかもしれないが、国の上層部は君の存在は周知の事実だろう。そして今回はあくまで陛下への謁見が目的だ。もし君の事が目障りなら…それこそとうの昔に神の元に還っているだろう」


 瑞樹は自身が国にバレているというのは、以前ファルダンに指摘されていたので心構えはしていたつもりなのだが、いざ面と向かって言われると心に来るものがあり、頭を抱えたくなる程だった。


「それでこれから、国王陛下と謁見ですか?」


「そうだが、今の君の恰好のままでは宜しくない。故に私が若い頃に着ていた物を貸そう」


 というのも瑞樹はこのまま帰る予定だったので、ここに来た時同様酒場の制服を見身に纏っていた。確かにこんな姿で謁見などすれば、不敬であるとそのまま首を刎ねられかねない。連れて来たメウェンも同罪になりかねないとなれば気を遣うのも致し方ない。


「ここだ。中に従者がいる。速やかに着替えなさい」


 そこはそのまま衣装室のような部屋で、様々な意匠の物がそこら中に整然と置かれていた。はぁ~と瑞樹が感嘆の声を漏らしていると、どこからともなく現れた従者によって身ぐるみを剥がされ、職人技によって瞬時に服装と身だしなみがびしっと決められた。


「似合っていますか?」


 部屋の外で待っていたメウェンに瑞樹が尋ねると、笑いを堪えるように手で口を押えていた。


「似合っている…とはお世辞にも言えんな。これではどちらが主役か分からんが致し方あるまい。…では行こう。国王陛下を待たせてはいけない」


 こうして瑞樹はメウェンと共に、馬車で国王のいる城へと向かう。そこは邸宅から程近くにあり、城内にはさらに跳ね橋を通らないといけない程厳重な作りになっていた。跳ね橋を通過するとそこは、まさしく宮殿を形にしたような場所で、優雅で煌びやかだった。瑞樹は馬車の窓から繁繁と観察していると、メウェンからはしたないと窘められ、しゅんと座席に戻る。


「着いたぞ、降りなさい」


 メウェンに促され馬車から降りると、そこは確かに立派な門扉だったが先程見たそれと比べると若干見劣りする。それをメウェンに尋ねると曰く、正面玄関は国王と縁のある者しか使う事が許されず、特例として

催事に使用される。故に平生はその脇にある通称貴族門から入るのよう徹底されている。ちなみに平民はどうするのかというと―


「平民はまず城に来る事は無い。まずその町の管轄の貴族に話しを上げ、そこで陛下へ報告する必要があると判断されればその貴族が出向く事になっている。…そういう意味では君が初めての事例になる」


 との事。ただ瑞樹にとっては正直ありがた迷惑だった。自身も国のトップになんて余程の事が無い限り会いたくない。お喋りはここまでと、メウェンに促されながら門扉の前へ向かうと、門番らしき人物にメウェンが話しかける。


「メウェンだ。国王陛下に謁見する為に参りました」


 そう言いながら手に持っていたペンダントをそっと見せる。瑞樹がそれをちらりと見ると、以前ファルダンが見せた時のように中心の宝石が赤く光っていた。それを確認した門番は恭しく敬礼し、言葉を発する。


「お待ちしておりました。では中へどうぞ。おいメウェン侯爵様が到着したと先触れを出せ」


「了解しました」


 門扉が開くのを待つ間に、門番が他の男性にそう命令すると、駆け足で城内へと消えていく。


「お待たせいたしました。中へどうぞ」


 門番に促され、メウェンと瑞樹は城内へと入る。そこはメウェンの邸宅のようなお出迎えは無く、文官を名乗る女性二人に留まる。国王陛下への謁見は執務に相当する為、従者に任せる事が出来ないとの観点から文官の職務となっていた。


 無言のまま城内を歩かされる瑞樹は、まるでゲームの勇者になったような気分だと、随分と余裕で不謹慎な事を考えていたが、ただ現実逃避をしていないと緊張に押しつぶされそうになっていた為致し方ない措置だった。


「ではこの中でお待ちください」


「了解した。案内感謝する」


「では我々はこれにて」


 メウェンと文官の女性が挨拶を交わすと、その扉の前にいた従者が恭しくお辞儀しゆっくりと扉を開ける。


「瑞樹、ここが謁見の間だ。君は私の隣にいなさい。くれぐれも許可が下りるまで顔を上げないように」


「分かりました」


 謁見の間という言葉聞いた途端、瑞樹は急激に緊張が高まる。痛い程の鼓動を我慢し、中へ入るとそこには色取り取りの甲冑を身に纏った騎士が整然と並び立っていた。しんと静まり返る室内は瑞樹の緊張をより助長させ、辺りを見回す勇気すら失せさせる。


「ここで待ちなさい」


 メウェンはそう言いながらその場に膝を折る。瑞樹も真似をして膝を折りながら頭を下げる。どんな人物なんだろうか、瑞樹のどこからか湧いてくる不安はこの後的中する事になる。

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