新しい町

 あれから一週間、瑞樹は至って平和な日常を送っていた。養子の件を考えない様に、というより無かった事の様にして心の奥底に鍵をして閉じ込めていた。日々給仕に厨房手伝いと、なかなかハードだが悪くない、充実した毎日を過ごしている。そんな時にとある冒険者がこんな事を話していたのを耳にする。


「今度温泉に行きてぇな」


「あぁ、あそこか?確かにたまには良いかもな」


 温泉、この世界にもそんなのあるんだ知らなかったな。瑞樹は聞き耳を立てながら思考する。というのも瑞樹はここに来てから湯船を見た事が無く、メウェンの邸宅にいたときでさえ確認出来なかった。まぁあの時は色々あったので仕方ないが。


 この世界の庶民は身体を洗うときは大抵近くの川で水浴びするか、自宅の水瓶に溜めたものを使うくらいしか選択肢が無い、土地柄かどうかは不明だが瑞樹は付近に井戸見かけた事が無かった。ともかく水場はあるので、面倒だが不便には思わなかった。幸い石鹸の様な物はあるが、正直鼻に付く臭いであまり使いたく無いが贅沢は言えず我慢していた。ただ問題は髪だ。シャンプーなんてものは無く、石鹸で騙し騙し髪を洗っていたが案の定髪がパサつき、何より臭い。どうしようかと悩んでいた時、あれを使ってみようと思い、言霊を使う。


『俺の髪は一生高品質を保ったままになる』


 効果があったかどうかはその時判断出来なかったが、多分成功したと思う。何故ならば、水浴び中にやったら思いの外魔力を消費して動けなくなり、瑞樹はあやうく溺死するところだったからだ。何でこんな事で命を賭けてんだと、自分の馬鹿さ加減に溜め息を吐きながらも、髪質を保ったままにする事に成功したのであった。ちなみにその日、瑞樹はビリーに特大の拳骨を頂戴したのは言うまでも無い。


 話しを戻し、その温泉はここから西の街道を馬車で一日かけて走ったところにあり、馬車はここから寄り合いが出ているので問題無い。あとは家主の許可だけだった。


 その日の夜、瑞樹は家主のビリーにその旨を話す。折角だからビリーも行こうよと誘うのだがいまいち気乗りしていない、ならばと瑞樹は必殺技上目遣いを繰り出した。 なぜかビリーはいつまで経ってもこの必殺技に耐性がつかないのであえなく撃沈、同行する事となった。その後の話し合いで出発は二週間後の八月頭、滞在期間はおよそ一月と長期滞在が決まる。瑞樹が折角一杯稼いだんだからパァッと使おうと言ったのでこれほどの滞在期間になった。


 翌日、今度はオットーに今回の旅行の計画を話す。およそ一月の間、仕事をお休みにするのでその代わりを見繕ってもらわなければならなかった。そこは流石ギルドマスターと言うべきか、ちゃんと代わりを見つけてくれるとの事。ただしこの後、瑞樹は給仕仲間二人にあたしもつれてけとしつこくせがまれる事となる。この旅行は瑞樹とビリーの二人だけの予定なので残念ながら今回は駄目だけど、ちゃんとお土産買ってくるからと宥めると渋々了承された。


 さらに翌日、瑞樹は侯爵邸へと向かう。何故かと言うとあれから一度も顔を合わせず、お嬢様が大変ご機嫌ななめになってしまったのでなんとかしてほしいと、半ば拉致のような様相で連れられていた。機密事項は何処へやら、愛娘の為にギルドまで馬車を寄こすのは勘弁してほしいと、瑞樹は頭を抱えた。


 邸宅に到着し、メウェンへの挨拶もほどほどに足早にエレナの部屋へ向かう。多少負い目があるのか、瑞樹が苦言を呈すと、メウェンはしゅんと肩を竦める。その姿を見て瑞樹はほんの少しだけ仕返しが出来たと、溜飲が下がる。部屋の前に着き、従者が「瑞樹様が参りました」と言うと、中から「どうぞ」と返ってくる。いつも通り従者が扉を開けると、中にはあの日初めて見たぼろぼろの女の子の姿は無く、髪や肌に艶が戻り、薄く化粧をしてピンク色のドレスで着飾った可愛らしい少女、エレナの姿があった。その可憐な姿に瑞樹は見惚れていた。男子三日会わざればと言うけど、女子もここまで変貌するとは、言動はちょっとアレだけど間違いなくオリヴィアさんの娘で、将来美人さんになるだろうと改めて思い知らされる。一方エレナは瑞樹が部屋に入ってくるまでは怒っていた、それはもうカンカンに。あんなに貴方様への愛を必死に説いたのにまるっきり会いにも来ないだなんて、この際だから精一杯おめかしして見返してやるんだからと意気込んでいたは良かったものの、瑞樹の顔を見た途端にそんな考えは霧散し、逆に瑞樹の視線に耐えきれず顔を真っ赤にしてしまっていた。


 とにもかくにも瑞樹は依頼を果たそうとお嬢様のご機嫌伺いをするが、その直後瑞樹は地雷を踏んでしまう、その内容は勿論旅行の件だ。一月町を離れるのを言っておかなくてはと瑞樹は軽い気持ちだったが、エレナは違う。一月も会えないなんてイヤだと、ならば一緒に行くと、ついにはわんわんと泣き出してしまう。ご機嫌を良くしてもらうためにこれでは本末転倒で、瑞樹は考えに考え抜きある決断を下す。それは一月我慢すればその後すぐにエレナへ会いに行き、一日自分の事を好きにしていいという条件だ。それを言った瞬間、エレナはピタリと泣き止み快く承諾してくれた。若干危ない約束をしてしまった感があるが、致し方ないと瑞樹は自分を納得させる。帰る間際、メウェンは瑞樹を呼びつける。


「どう致しましたか?」


 メウェンは苦々しい顔で瑞樹を睨み、口を開く。


「温泉に行くなど報告を聞いて無いぞ」


「えぇ、言う機会もありませんでしたし、ただの旅行ですよ?」


 それの何が問題か分からない瑞樹は首を傾げ、さも当然の様に答える。


「ハァ…全く君は…良いかね?確かに君に猶予は与えたが好き勝手やられては困るのだ。その温泉がどこにあるか知っているのか?」


「はい、場所は存じておりますけど…」


何が言いたいか瑞樹はまるで分からずきょとんとしていると、メウェンの眉間の皺がより一層深くなっていった。


「そこは他領主の管轄だ。知らない人物では無いので変な事をするとは思えないが…くれぐれも気を付ける様に」


 メウェンの言う通り、そこは他領主の管轄地で遠回しに付け入る隙を見せるなと釘を刺される。瑞樹はそういう事かと納得し、メウェンのありがたいレクチャーに感謝した。


 さらにまた数日後、懸念された瑞樹の代理もあてがついたとオットーから報告が入る。その人はまだ冒険者になったばかりで、アンデッドの大群を一瞬で浄化せしめた凄腕冒険者に憧れてこの町にやって来たところをオットーにスカウトされた。瑞樹の一件は噂話として広まってしまっていたが、それは冒険者が流したわけではなく町の住人が真相を知らぬまま、人から人へ尾ひれがついて広まった様だ。噂話の張本人が、まさか目の前にいるとは夢にも思わない若い女性冒険者は、瑞樹と挨拶を交わし引き継ぎ事項を日々こなしていった。


 日々のお仕事をこなしながら旅支度も少しずつ進めていく。とは言っても当分の服を買い揃えるくらいな物だがこの時、瑞樹は重大な過ちを犯していた。それに気づいたのはビリーがこんな事を言った時だった。


「なぁ、お前女物の服ばっか買ってどうすんだ?」


「え?あっちで着る為の奴だけど変か?」


 あちらの町へ行けば瑞樹を知る人間は殆どおらず、良からぬ人間が瑞樹を狙うかもしれないので欺瞞工作の意味を込めて女性の様相で過ごそうと思っていた。久し振りに女装が出来ると浮かれていた訳では断じて無い、と思われる。


「いや、おかしくは無いけど…でもお前何の為に行くか分かってるんだよな?」


「温泉目当てだろ?」


「なら女物着てお前はどっちの方に入るつもりだったんだよ」


 盲点だった、確かに女性服を着れば自他共に認めるほど見た目は女性になり人の目も欺けるだろう、だが脱いだらどうなるか。いくら異世界でも湯に入るときは素っ裸になる、そんな場所に瑞樹が行ったら男湯でも女湯でも大騒ぎだ。そんな当たり前の事を失念していた瑞樹は、肝心なところで抜けているというか、間抜けで流石のビリーも頭を抱えている。泣く泣く男物の服を買い揃え、買ってしまった大量の女性服は家で肥やしになる運命を辿るはめになった。


 紆余曲折、というより瑞樹が単に馬鹿なだけだったがいよいよ出発当日になった。出発の挨拶をするためにギルドの方へ向かう瑞樹、中は酒場が始まっていたので給仕仲間が忙しそうにしていた。その時ハンナが瑞樹の存在に気づく。


「お~瑞樹か!そういや今日出発するんだったか、あたし達の分まで楽しんでこいよ?」


「あぁ分かってるよ、ごめんな連れてけなくて」


「良いって良いって、気にすんな。でもまぁ機会があれば今度は一緒に行こうぜ?」


「あぁそん時は俺から誘うよ」


「う、うん。今度はボク達と一緒に行こうね?」


ハンナの後ろからシーラがニュッと姿を現す。姦しい声に気付いたのか、さらにオットーが瑞樹の方へ近づいていく。


「そういえば今日出発だったな、もし何かあればあっちの冒険者ギルドのマスターに頼ると良い。癖はあるが何かと手助けしてくれるだろう」


「分かりましたありがとうございます。ではもうそろそろ時間なので行ってきますね」


 みんなに見送られながら集合位置へ向かう。そこは町の中心部で一番広い場所で。既に五台の馬車が待っていた。向かう場所は全て同じで一台あたり六人乗るので大体三十人の人間が同じ目的地を目指す。集合場所には既にビリーと、我らが愛するワンコのシルバが待っていた。シルバを連れて大丈夫かどうかは事前に確認済みで、しつけが成されていれば別に問題無いとの事。それとは別に見覚えある顔がいた、酒場に良く来る冒険者連中だ。


「あんたらも行くの?でもそんな風には見えないけど」


 彼らは旅行というには随分と重武装だった、それもそのはず、彼らはこの馬車の護衛の依頼を受けて来た。実入りは少ないが、タダ同然で温泉町へ行けるという事で割りと人気の依頼だ。


「姉御達も早く乗り込んでください、もうじき出発ですぜ」


 そう促されて二人と一匹は馬車に乗り込む。中には若い男女と幼女の親子連れがいて、シルバが中に入って来た途端にギョッとする。瑞樹は安全ですからと必死に説明し、その場は収まったが半信半疑な様で、暫くの間ジロジロと視線を送っていた。まだ始まってもいない長い旅行に一抹の不安を抱えつつ、いよいよ馬車が動き出す。楽しく前途多難な長旅はついに始まったのであった。

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