空の花
蒼月 水
空の花
早朝の青空に風が高く飛ぶ。
太陽の光が昇り始め、あたりが新しい世界に溶け出してゆく。昨夜の雨も去り、朝露だけが残されていた。濡れた土に立つ草木は青々と茂り、花々はその美しい色を世界に届ける。
車いすの少年は、外に出るのが億劫であった。
外は晴れ渡り世界を祝福しているのに、少年の心はまだ曇り空であったから。蒼く広い空を見ていると、少年は魂が吸い取られてしまうような錯覚に陥り、うつむく。水分の残る焦げ茶色の土の方が、まだ心を許せた。
庭先に出ても、少年の世界に変化が訪れることはなかった。看護婦が「いい天気だね」というそれは、少年にとってどこか苦しさを感じさせるのだった。
よく冷えたそよ風が、少年の頬をなでる。
「これ。」
目の前に差し出される一凛の黄色い花。少年の灰色の世界には少しまぶしすぎた。顔を上げると立っていたのは、一人の少女だった。
歳も身長も少年と同じくらいだろう。
「これって。」
「あげる。」
手渡された黄色は少年を、よりみすぼらしくみせた。少女はニコリと笑う。
「あるけないの?」
「うん。病気なんだ。」
「そっか。」
少女は少年の前から駆けてゆく。再び静けさが還ってくる。ただ、ひとつ違うことといえば、少年の手元には黄色の花があった。
病気であるけないのは、半分本当で半分嘘。足に思ったように力が入らない。
しかしそれ以上に少年には足を動かすという気力がなかった。
「はい。」
少女は少年に白い小さな花を手渡した。
「見たことある?」
少女は期待した顔で、少年をのぞき込む。
「ない、、かな?」
「これは向こうに咲いてるやつだから。」
「へぇ。そっか。」
少女は少年の反応を注意深く観察する。
「あ、ありがとう。」
少年にはどう返せばよいか分からなかった。確かに見たことのない花だった。でも、少年にはちっとも興味がなかった。
「へへ。」
少女は笑う。
「歩けないなら、見たことないものばっかりでしょ。」
少女はワクワクした表情で言う。
「私が全部もってきてあげる。」
その日から少女は毎日、少年のもとにやってきた。来る日も来る日も違うものを持ってきた。青い花、赤い花。小さな花、大きな花。日を追うごとに、少女の持ってくるものは種類が増えていった。
ある日は小さな虫を見せてくれた。ある日はきれいな石を。またある日は、少女が描いた絵を持ってきてくれた。雨の日はお休み。晴れた日は元気に、少年の前へ現れた。
少年はいつしか、晴れの日を待っている自分に気づいた。あれほど鬱屈だった、青空も、今では雲に隠れてほしくない。いつまでも晴れの日が続く方が幸せだった。
ある日少女は何も持ってこなかった。代わりに涙を浮かべている。
「どうしたの」
少年は泣いている理由を尋ねた。少女は答えない。
少年は困ってしまった。どうして泣いているのか分からないことよりも、少年は今までにその時と同じような気持になったことがなかった。
「あのね、、」
少女はついに口を開く。少年はその言葉を待つ。
「今日はお花を持ってこようと思ったの。」
「なんのお花?青いやつ?赤いやつ?」
少女は首を横に振る。少年にはどんな花なのか見当もつかなかった。少女はこれまでに一度も同じものをもってきたことはなかった。
「空の花。」
少女はそう言った。
「何それ?お空にあるの?」
「うん。」
少年にはそれが何なのか分からなかった。
「それじゃ仕方ないよ。お空にあるんだもの。」
少女は泣き止む。少年は微笑みかける。
「今までありがとう。」
少年はそう少女に言った。
「でも、もう大丈夫。僕、自分で歩くよ。」
「本当に?」
「うん。」
その日少年は決意した。歩くことを。
その日を境に少女は何も持ってくることはなかった。でも、毎日少年の前に姿を見せた。少年には立ち上がることも精いっぱいだった。
少女はそれからも毎日少年のもとにやってきた。少年はどうにか立つことに専念した。自分の為ではなかった。少年には、少女に自分が隣で歩く姿を見せてやりたかった。
少年が初めて立てたのは、初めて少女と出会った季節と同じだった。その間、少年は努力を重ね、ようやく自分の足で地面を踏みしめた。
歩こうとすると体がぐらつき、不意に地面に吸い込まれるように倒れてしまう。それでも少女は嬉しかった。少年も嬉しかった。
少年が立ち上がってから、歩くまでにそう長い時間はかからなかった。人の支えがあれば完璧に、一人でも数歩なら進むことができるようになった。
そのあたりから少女は姿を見せなくなった。雨の日はお休み。曇りの日も少女が現れることはなかった。そして晴れの日も。
それでも少年は一人で頑張った。少年はあの時とは違った。少年の心にはしっかりとした意思があった。少女がいなくても、どこかで見ているかもしれないと思い頑張った。
ついに少年は一人で歩けるようになれた。少女がいなくなってから、しばらくたってしまった。でも少年は悲しまなかった。だって、少年には自分の足があるから。
少年は自分の足であたりを探した。一日であまり多くの距離は探せなかった。それでも日を追うごとに、探せる範囲は広がっていった。
裏庭の花壇にはいつしか少女が持ってきた花々が咲いていた。公園にはきれいな石が。
少年は気づいた。あれだけたくさん少女が運んできてくれた世界は、本物のほんの一部分にしか過ぎなかった。世界は色であふれていた。
いつしか少年は最初の目的を忘れ、世界を散策していた。見たこともないような虫。嗅いだこともないような花。はじめて出会う者に心を躍らせていた。
それでも、少年には見つけられないものがあった。『空の花』だった。
少年は『空の花』のことを考え、少女のことを思い出した。今、あの娘にもう一度聞けばいい。少年はそう思った。
少年はいくら探しても、ついには少女のゆくへを見つけられなかった。
ふと思い、看護婦さんに聞いた。看護婦さんはすぐに少女のことが分かった様子だった。
少女は亡くなっていた。
少女はもともと不治の病気を患っていたことを知った。
少年は泣いた。こんな感情初めてだった。目からは出た滴は止まることを知らなかった。こんなに悲しい気持ちは初めてだった。
それから、少年は元の少年へと戻った。少年の世界から色は再び失われていた。ただ、ひとつ違うことといえば、少年には車いすは必要じゃなかった。
その日の朝の空は晴れ渡っていた。少年の心は曇り空なのに、広く蒼い空は我が物顔で世界を照らす。少年には、少し苦しい色だった。
少年はふと空を見上げた。忘れていた記憶がゆっくりと動き出す。少年が思っていたより、空はきれいだった。様々なことがフラッシュバックしていく。少女と出会ったあの日、少年の世界は色を持ち始めたのだ。少女がいなくなったあの日から、少年は自分の世界から再び色が失われたと思っていた。
しかしそれは違った。少年の世界はそれでもまだ色にあふれていた。何か悔しかった。少女がいなくなったのに、自分の世界は何も変わっていなかった。
一筋の涙が少年の頬をかける。少年の視線の先には大空が広がっていた。
ついに少年は見つけるのだった。『空の花』を。
-完―
空の花 蒼月 水 @Aotsuki_Titor
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