29.好きなもの
汗を拭って、やっと追い付いた彼の名を呼ぼうとしても、あがる息のせいで声がでない。
乾いたのどが張り付きそうだった。
「さすが陸上部だな。速い速い」
奏多はいつものベンチに寝そべり、リラックスモードに入っていた。
「何か用?」
仰向けで組んだ手を枕がわりに、目を閉じたまま言う。
「眠いんだけど」
「ごめん」
ようやく息を整え、
「やっと会えたのに…何も伝えてなかったから」
「俺はできれば会いたくなかった。海吏がしつこく電話してくるから、仕方なく」
「海吏が……そっか」
あまりの言われようにショックを受けつつ、逆に潔よくて笑えてきた。
海吏のおかげだったんだ。
「海吏にくれてやったのに、何してんだよ、お前は」
「……」
黙っていると、ようやく目を開けちらりと私を見る奏多。
「何で泣かないんだよ。いつもすぐ泣くくせに」
「えーん」
「ふざけてんのか!」
そうやってすぐ怒鳴るとこ、口が悪いところ…何でかわからないけれど、嫌いになれない。
「ふざけてなんてない。ただ私は、奏多が好きなだけ」
「……聞こえない」
「は?女の子に何度も言わせないでよ。だから、奏多のことが、」
「うるせぇっ!」
ガバッと飛び起きたかと思うと、いきなり胸ぐらを掴まれる。そのはずみでボタンが飛んだことも気にせず、彼は鋭い目付きで私を見た。
聞こえないのかうるさいのか、一体どっちなんだろうと考えていると、
「俺が、どんな思いで…」
その手が徐々に震えだす。
「奏多、大丈夫?」
「大丈夫じゃないのはお前だろっ」
怒鳴り声と共に、掴まれた襟元ごと引っ張られたかと思ったら、次はドン、と背中から全身に痛みが走る。
「痛っ」
ものすごい力で冷たいコンクリートの柱に抑えつけられた。
「泣けよ…やめて、って叫べよ!」
怒鳴る度に、掴みあげられた胸元が締め上げられるようで苦しい。
私が苦しいのに、彼もまた眉根を寄せ震えだした唇をぐ、と噛み締めている。
「どうして、奏多が泣くの?」
彼はハッとしたように目を見開き、涙すらないが潤んだ瞳が僅かに泳いだ。
「俺さえ、いなければ……」
「ホント奏多って陰気でドM」
「は?」
「まだわからないの?さっき絢斗くん、言ってたよね?『ごめん』じゃなくて『ありがとう』だって」
徐々に彼の手から力が抜けていくのがわかる。
「お兄ちゃんがいたから、絢斗くんが元気でいられる。奏多がいたから悠生さんはリハビリを頑張れた…どうしてプラス思考で考えれないかな。私は奏多がいたから、ん!」
ほとんどぶつかるように口を塞がれたせいで、その先は続けられなかった。
とても大切なことだったのに。
「ちょっと奏多、」
「やっぱお前、うるせぇよ」
「は?」
「黙ってろ…もう、ガマンしねぇからな」
もう一度キスをされた。
今度は深くゆっくりと…苦しくて逃げようとしてもまた捕まり、熱く絡み付いてくる。
あまりの激しさに足に力が入らず、座り込んでしまいそうな体を、腰に回された腕に支えられる。
「奏、多…も、やめ…」
もう立っていられなくてバランスを崩し、柱を背に伝い落ちるようにして座りこんでしまった。
「誰がドMだって?」
さっきまで泣きそうだったくせに、不敵な笑みさえ浮かべ、伸びてきた大きな手に頬を捕らえられる。
また近づいてきた彼の向こうに見える、空。
「好き」
「何が?」
「…私の、色」
「え?」
唇が触れるすんでのところで止まる。その隙に彼の口を掌で遮って、続ける。
「今日の空…真空色は別名、天色って言うんでしょ?」
「知ってたのか……いいから、邪魔すんなよ」
隔てていた手を振り払われるが、負けじと両手でバチン、とほっぺを捕まえてやった。
「痛っ!」
「聞いて」
「なんだよ」
逃れようとするのを制して、
「奏多が好きなものは私も好き。だから、私の一番好きなものも好きになって」
「一番好きなもの?何?」
「奏多佑李」
「名前を出すな」
「なんでダメなの」
「恥ずかしいんだよ、女みたいで」
「なんだ。それだけ?佑李も好きになってよ」
「それだけって…。俺は、天を幸せになんてできない」
きっと、怖いんだと思う、と。けれどそれは、私も同じだから。
「幸せにしてもらおうとなんて思ってないよ。ただ私は、」
「もうわかった!もういいから」
黙れと遮られる。しばらくして、
「――きだよ」
「え?」
「だから!…好きだよ、天」
はじめて言われた。嬉しすぎて言葉がでない。
素直な彼の表情は、とても柔らかく子どもみたいに可愛らしい。
「泣いてもいいよ。ずっと傍にいるから」
たまらなくて、捕まえたほっぺを軽く引き寄せる。キスした瞬間に、彼の瞳から大粒の涙が溢れだす。
そして徐々に声をあげて泣き出した。小さくも感じる彼の体を優しく抱き締める。
「よしよし。でもまずはその乱暴な口調、なんとかしないとね。…未来の先生なんだから」
「うるせぇ」
私はこれから夢を見つけるところから始めないとだし、将来のことなんて全然考えられない。
けれどそこには、隣に彼がいてほしいから。彼を支えていたいから。
これから先、絶対に後悔しないように、なんて無理だけれど……なるべく後悔しないように、生きたい。
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