8.アマリリス

「映画でも行く?」

 頷いて、さり気なく繋いだ奏多の手を、私は更に強く握りしめた。

「どうしたの、突然」

「たまにはちゃんとしたデートしたい、って言ってたろ?」

 昨夜の固い決心も虚しく、今こうして奏多が隣にいるのは、今日も彼からの誘いを断れなかったから。

『今すぐ正門に来て』

 と電話が掛かってくる直前までは、今日できっぱり終わりにしようと決めていたのに。

 声を聞いた瞬間に、何もかもどうでも良くなってしまった。

 それでも私は奏多のことが好きで、諦めるなんてそう簡単にはできない。いつまでも私だけの彼であってほしい、彼だけの私でありたいと思ってしまう。

 こんな小さな温もりだけでしか、今を保てないのに……。

 そんな時、見知った顔が前を横切って、私は咄嗟に目で追っていた。

「え?美緒、さん?」

 私がそう呼んだのが先だったか、彼女が寄り添った見知らぬ男から慌てて離れたのが先だったか、そんなことさえわからなくなる程に気が動転していた。

 不意に立ち止まった私を見て、奏多が呑気に、

「どーした?」

 なんて聞いてくるから、余計に腹が立った。

「奏多はちょっと黙ってて!」

 彼女は、兄の婚約者だった。

 ふたりは長い付き合いだったから、私は美緒さんと兄が結婚することを信じて疑わなかった。

 それなのに。

「美緒さん、どーいうことですか」

 何故知らない男と楽しそうに寄り添っていたのだろう。

 兄妹?友達? 

 まさか、と思いながらも、恋人だなんてふざけたことを言い出さないだろうかと不安に駆られる。

「天ちゃん……いずれ、あなたたちご家族にも報告に行くつもりだったんだけれど」

「何を、ですか?」

「この人との結婚が決まって」

 美緒さんの声が遠くに聞こえた。

「結婚?美緒さん何を言ってるの?どうして?」

「どうして、って……」

 彼女は困ったように、一瞬眉を顰めた。

 言葉を濁し、躊躇うように一度隣の男をちらりと見る。

 やがて、彷徨った視線は足元に落とされた。

「お兄ちゃんは美緒さんと結婚するつもりでいたんだよ?それなのに、何で?」

 美緒さんは私が祝福するとでも思ったのだろうか 兄が喜ぶとでも言うと思っていたのなら、とんだ勘違いだ。

「ひどい!」

 彼女の円らな瞳をきつく射る。怯えたようにそれを泳がせた彼女。

 自分だけ幸せになろうだなんて、許せない。絶対に許さない。

「美緒さん何か言ってよ。お兄ちゃんを愛してくれてたんでしょ?ねぇ」

「ごめんなさい」

 呟くように言った美緒さん。

 目をきつく閉じようが、両手で耳を塞ごうが、そんなことは関係ない。

 容赦はしない。

「あの日……お兄ちゃんの葬儀の時、美緒さん言ったでしょ、愛してるって。ずっと愛してるって、言ったよね?」

 涙を流しながら愛を囁いたあの時の言葉は、ウソだったのだろうか。

 本当に兄を愛してくれていると思っていたのに。

「嘘つき!」

 美緒さんに掴みかかる勢いで吐き捨てた私は、

「天、やめろよ」

 奏多に腕を掴まれ、制される。

 振り払おうとも、驚く程強い力で拘束された腕は微動だにしない。

「彼女を責めても仕方ないだろ」

「離してよ!私間違ったこと言ってない!」

 兄と美緒さんが楽しそうに笑い合っていたあの頃が、まるで昨日のことのように感じていたのは私だけだったのだろうか。

 周りの者までも幸せにさせてくれるようなふたりの愛に憧れていたのに。

「ごめんなさい」

 と小刻みに震えだした美緒さんを、隣にいた男が背中をさすって宥める。

 それが余計に、腹立たしい。

「元はといえば、誰のせいよ!」

 3年前のあの日、彼女の忘れ物を届けにいくと家を飛び出して行った兄。

 すぐに戻ると言っていたのに……車道に飛び出した子どもを助けて頭を打ちケガをした。

 その時は軽症だったが、数時間後に倒れそのまま亡くなった。

 車がもっとゆっくり走っていたら?

 子どもが飛び出さなければ?

 美緒さんが忘れ物なんてしなければ?

 今さら何を後悔しても仕方がないのは十分わかっている。

 何通りもの“もしも”を考えたところで何も変わらないけれど。

「それなのに、自分だけ、幸せになんて」

「天、いい加減にしろ」

 私の手首を力一杯掴んだ奏多は、ついに泣き崩れた美緒さんから私を引き離して、走り出した。

 彼の手を噛み千切ってでも、美緒さんの心を知りたかったのに、力では勝てない。



 私は、引かれるままに走った。

 彼の歩幅で、今学校から歩いて来た道を逆走する。

「ど、どこ行くの?」

「黙ってろ」

 学校の正門を通り過ぎて住宅地に入っても歩を緩める気配のない奏多。

 このまま真っ直ぐ行ってしまえば、怖くてずっと避けていた場所に出てしまう。

 それだけは、嫌だから。

「離してよ、奏多!どこに行くの」

「わかってるだろ」

  よく考えてみれば、憧れの陸上選手と一緒に走ったのはこれが初めてだった。彼にとってはただ流している程度なのかもしれないけれど、私には速すぎる。

 足のケガはどこへ行ったのだろう。

 ペースが速すぎて転びそうになるのを必死で堪え、彼の手を振り払うことで立ち止まる。

「わかんないよ!」

 止まった瞬間、風が止み火照った身体から一気に汗が噴き出す。

 渇いた喉がはりつき、狂ったみたいに息が上がる。

 いつから降りだしたのか、大粒の雨がひたひたと乾いた地面を染めていた。

「いいから付いてこい!」

 強めに言われて、仕方なく彼に従う。

 少し前を行く奏多の表情は読めないけれど、声が冷たい。

 彼を怒らせてしまった時みたいに、何を言っても聞き入れてはくれない。

 イヤだった。

 行きたくない、思い出したくないから。

 たどり着いたのはもうずっと遠ざけていた場所。兄の眠る霊園。

 彼は迷いもせずに我が家のお墓の前で足を止めた。

「どのくらい来てない?」

 聞いたこともないような低い声だった。

「え?何で奏多にそんなこと言われなきゃならないの?」

 いろんな疑問が次々とわき出てきて、もう訳がわからなかった。

 忘れてしまえば悲しまなくてもいいからと、ずっと避けてきた場所に何の心の準備もなく突然連れてこられ、おまけに説教されるなんて。

「妹がずいぶん来てないのに、お前んちの墓すげー綺麗だよな?」

  薄笑いで軽々しく言ってのける奏多。

「そりゃそーよ。月命日には親が手入れしているはずだもん!」

「それだけか?」

 ?と眉根を寄せる私をじっと見つめて、彼は続ける。

「俺んちの墓すぐ裏でさ、じいちゃんの墓参りの時、さっきの女の人見かけたことあるよ…その花もって」

 その花、と彼が指差したのは寂しい墓地に一際目立つアマリリス。

 そういえば、兄はよく美緒さんみたいな花だと言ってプレゼントしていた。

 きっとふたりの思い出の花。

「だとしたら余計に分からないよ。お兄ちゃんを捨てて結婚するくせに」

 忘れたいのか、忘れたくないのか。

「そんな言い方ないだろ!何もお前だけが被害者じゃねーんだぞ。お前の親も、あの人も!」

「奏多に何がわかるの」

「わかるかよ、お前の気持ちなんて。…辛いのが自分だけだと思ってんじゃねーよ」

「だってあの人のせいでもあるんだよ!どーして美緒さんをかばうの?」

「そーいうわけじゃ、」

 その先を濁し口をつぐんだ奏多。

 愛しい人を忘れ、新たな道を歩きだした人なんかを、なぜ。

「そっか。新奈さん…」

「え?」

「奏多は新奈さんと美緒さんを重ねてるんでしょ?新奈さんにも大好きな彼を忘れて自分を見てほしいって!」

 吐き捨てるように言ってしまった後で、もう戻れない程彼を傷つけてしまうことになると気付いた。わかっていたけれど、止められなかった。

「そんな簡単に人の気持ちは変わらない。忘れて良いはずない!……絶対に、許さない」

 雨のせいなのか、俯いた彼の表情が心なしか泣いているように見えた。




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