7.大切な人
突然襲われた大雨に、私は慌てて商店街のアーケードに身を隠す。
今朝、母に雨が降るからと傘を持たされたのに、運悪く学校に忘れてきてしまった。
さっきまで晴れていたのに、いつの間にかぶ厚い雲に覆われている。
太陽に炙られて上昇した大気が久々の雨に触れて、徐々に緩和されていくよう。
去年の今頃は雨続きて体からカビが生えてきそうだったのに、今年は農作物だけでなく、私自身も雨を待ちわびていた。
風もなく、まっすぐ地面に打ち付ける雨。いつまでたっても止みそうにない。更に激しくなるばかりで。
こうしていても仕方がないと、私はアーケードから飛び出した。
走れば、5分もしないで家まで辿り着けるだろう。
雨粒も、心なしか温かい。
しかし、水溜まりを踏む度に水が靴に染み入って足取りを重くさせる。
髪から滴る雫にも視界を遮られ、私はついに足を止めた。
最近部活をサボっているせいだろうか、すぐに息が上がる。陸上部のくせに。
「天、ちゃん?」
その時突然、私の周りだけ雨が止んだ。
完全にバテ切っていた私は、驚いて顔を上げる。
「お疲れ様」
そう言って優しく微笑んでくれたのは、新奈先輩だった。
「せ、先輩……ありがとうございます」
「天ちゃんって、佑李の…奏多の彼女でしょう?」
「彼女なんかじゃ…ないです」
奏多は親しい男友達からも名字で呼ばれていた。けれど先輩は今、名前で…
私も一度名前で呼んでみたことがあったけど、怒られたのに。
「奏多はまだ、先輩のことが……あ、いや」
言葉を濁して、上目使いで先輩をちらりと見やると、
「先輩はやめてくれる?恥ずかしいから」
「ごめんなさい、えーっと、新奈さん?」
「ありがとう。ねぇ天ちゃん。ちょっと、時間ある?」
返事をすると彼女は、小さく笑った。
傘だけでなく、フェイスタオルまで貸してくれて、私は髪を拭きながら歩いた。
商店街を抜け、人通りの少なくなった国道沿いの歩道を、新奈さんと相合い傘で歩く。
彼女は陸上部のマネージャーをしていたが、3年生の担当マネのためあまり接点がなかった。
綺麗な人だな、と思ってはいたけれど話す機会もないまま今に至る。
「どこに行くんですか?」
「ちょっと、ね」
しばらくの間、沈黙が続く。
無言のまま、けれど不思議と気まずいとは感じなかった。
彼女は、そう思わせない程の柔和な雰囲気を纏っているせいだろうか。
そして国道から、駅へと続く道との交差点に差し掛かかった時、先輩がふと足を止めた。
「新奈さん?」
「天ちゃん、奏多のこと、好き?」
「え?」
ぼんやりとどこか遠くを見つめていた彼女は、答えに困るようなことをさらりと聞いてくる。
「 私にも好きな人がいるの。安心して、奏多じゃないから」
「ホント、ですか?」
「本当よ。私は奏多の元カノでもなんでもないわ」
新奈さんは信号が青になったのと同時に歩き出し、横断歩道を渡りきったところでまた立ち止まる。
「ほら、そこに1高のグランドが見えるでしょ?」
1高とは、文武両道を唄う第1高等学校のことで、近道をすれば我が2高とも割りと近い位置にあった。
高めのフェンスに囲われたグランド。新奈さんは何も言わず、私にフェンスの向こうを見るように指で促した。
「え?」
一度は弱まった雨だったが、また徐々に強い降りになってきた。
彼女が示した先には、ぬかるんだ雨のグランドに佇む人影がひとつ。ずぶ濡れの、ジャージ姿の男性。
彼は突然走り出したと思ったらすぐに止まり、しばらくしてまた走り出す。それを何度も繰り返していた。結局トラックを一周するのにかなりの時間がかかっていた。
「知ってる人、ですか?」
「ええ。
新奈さんが笑う。
「彼氏さんですか」
「元、ね」
「え!ご、ごめんなさい」
「気にしないで。私は彼が今でも大好きなの」
いつものように優しげで、完成された微笑み。
彼女はそのまま綺麗に笑っているものだと思っていた。
新奈さんは美人で頭もスタイルも良く、私にはない物を何でも持っている大人の女性だと思っていたから。
だから、
「あの人ね、義足なの」
言葉の意味が理解できず、
「え?ギソク?」
頭の回転が、変換が追い付かない。
「去年のバイク事故で右足を失なった」
「ジコで、アシ、を…」
繰り返すと、彼から視線を離し私を見た新奈さんが、静かに頷く。
「スピードの出し過ぎっていうだけのただの単独事故だったから大きいニュースにはならなかったけれど」
「そんな……」
雨音が、何故か遠くに聞こえる。急に怖くなって、手が震えた。
突然それ意外の雑音をすべて消されたかのように。
私には、何も言葉を返すことが出来なかった。
何を言えばいいのか、わからなくて。
彼女を慰めたいだとか、立ち直らせたいだとか、そんな大それた気持ちからではなくて、ただ、怖いと思ったから。
「こんな暗い話ししちゃってごめんね。でも、歩くことすらままならなかったのに、すごい回復力でしょ?半年かけてやっと歩けるようになって…どんな日も毎日毎日練習してるみたい」
「すごいです」
何かを失う事、それを受け入れるだけでも時間がかかるだろうに、乗り越え踏み出す事ができるようになるまで、どんな心の葛藤があっただろうか、私にはとても計り知れない。
兄の死をいまだに誰かのせいにして受け入れず、忘れようとしている私なんかには。
「事故で彼はすべてを失なった。私にも重荷になるからと言って別れを告げて」
「そんな」
「もちろん、重荷だなんて思っていないし、別れたくなんてなかったけど…彼にはきっと、もっと大事なものがあるんだと思うわ」
そう言ってまた悲しげに笑った。
新奈さんの過去を知った事で、奏多の心にも一歩近づいた気がした。
彼の流した涙の理由。心の中にいる新奈さんの存在。
ひとりであれこれ悩んでも仕方がないのに、考えずにはいられない。
私は、誰に聞かせるわけでもなく、大きなため息と共にベッドに転がった。
昨日は天気も良かったから、きっと布団を天日干しにしてくれたんだろう。
シーツからは、まだ太陽の良い匂いがする。
制服のまま横になるな、といつも母から厳しく言われていたけれど、今はスカートの皺なんかを気にしていられるほどの余裕はなかった。
さっきから鳴りもしないスマホを握りしめ、想うのは、もちろん奏多のことばかり。
奏多は、情緒不安定な新奈さんの心をずっと支えてきた。
敵わない恋とわかっていても、きっと彼女の事を想い、忘れることが出来なかったのだ。
他の女の子で気を紛らわせ、自分を保っていたに違いない。
私も、その内のひとり。
それ以上を初めから期待してはいけなかったのに。
新奈さんには勝てないのだから、もう諦めた方がいいのかもしれない。
私自身が傷つかないためにも――。
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