EPISODE:8 メトセラの十字架/The Thing
古嶋晴臣救出作戦を終えた、その翌日。
学校の授業を終えた放課後、玄崎明は
「今コーヒー淹れるから。ちょっとゆっくりしてて。ブラックでいい?」
明はこくりと頷くと、高級そうな革張りのソファに腰をかけた。程なくして飛鳥が湯気の立つマグカップをふたつ持ち、ガラス張りのテーブルに置いた。コーヒーを口に付けると若干酸味のある芳醇な香りが鼻に抜ける。
「それ、頂きもののハワイコナなんだ。どう?」と飛鳥が何気ない質問を投げかけるが、大してコーヒーの銘柄に興味がない明にはどうもピンとこなかったので、適当に「おいしい」と答えた。
「昨日は大丈夫だった? 学校」
「……うん。でも結局放課後までしんどくて、帰ってすぐ寝たんだ」
結局、研究所を脱出した直後、迎えにきた飛鳥が運転するバイクに乗せてもらい、一時限目の授業には何とか間に合わせることが出来た。しかしあれだけの戦いをした後でまともに授業を受けられるほど明はタフじゃなく、結局、授業のほとんどを机に突っ伏して爆睡する始末だった。あまりの疲労困憊ぶりに、友人の
「まぁ、情報量が多い一日だったもんね……玄崎くんには頑張ってもらったし」
確かに、あの場所に居たのは三時間足らずとはいえ、かなり多くの真実を知ってしまった。噂にあったメトセラ製薬の陰謀が本物だったということ、レイブンがヒトを元にして作られた人工生命体であったということ。古嶋晴臣が語る真実をすぐに現実のそれとして受け止めるには、些か重すぎる事実ばかりだった。
「古嶋さんは?」
「もうちょっとで来るって言ってた。あ、ほらね」
トントン、と扉がノックされる。飛鳥が鍵を開けると、扉の向こうから
「や、こんにちは二人とも。待たせたね」
真っ白なシャツにジーンズといったラフな格好は相変わらずの理系男という感じだが、監禁されていた時の憔悴しきっていた様子はない。無精ひげはさっぱりと手入れされ、にこやかな表情からは随分と爽やかな印象を受ける。
「ほんとは大人らしく何か手土産でも……ってところだけど、生憎ボクは追われてる身でね。申し訳ないけど手ぶらで失礼するよ」
「なによ謙遜して。一番大事なお土産は、あんたの脳味噌でしょ?」
「ま、そういうことにしておこう」
と、古嶋は苦笑いをして、革張りのソファに腰を降ろした。
「そういえば、君にはきちんと自己紹介が出来てなかったね。改めて、ボクは古嶋晴臣。良ければこれから、ハルって呼んでくれ。この間は助けてくれてありがとう。玄崎明くん」
一昨日とはうって変わって快活な笑顔で差し出された右手。
「よろしくお願いします……えっと、ハルさん」
不慣れな握手に戸惑いながらも、明は心良く、晴臣の手を握り返した。
「あ、ボクはしばらく、飛鳥ちゃんに匿ってもらうことにしたよ。迂闊に外に出たらいつ殺されるかわかんないし。代わりに出来ることなら何でも協力させてもらう。こんなにすごいマンションに住ませてもらうなんて、贅沢すぎて落ち着かないけど」
「そうそう。私のヒモなんだから、しっかり働いてよね」
「ヒモって……言い方がひどいなぁ。そういう所は本当、おじさんにそっくりだ」
良い歳の男が若い女の子の尻に敷かれている様子は傍目で見てもおかしくて、明もつい微笑ましく思ってしまう。
「とはいえすごいんだここ。下手な町病院よりも医療設備が整ってるし、大学レベルの研究機材まで持ち込んである、ボクみたいな人間にとって時間つぶしには事欠かないだろうけど、一体なんのためにここまで……」
確かに、奇妙な部屋だと明も思っていた。芸能人やセレブが好んで住みそうな高級マンションにも関わらず、豪勢な家具やインテリアの類は一切置かれていない。代わりによく分からない実験器具や研究機材、加えて医療設備がそこかしこに配置され、あらゆる機器の配線が根っこのように床を這っている。
「ここはおじさんが準備してたセーフハウスの一つだったの。おじさんはここで、あらゆる世界の陰謀を暴き散らしてやるって息巻いてた。本当は闇医者とかメトセラから離反した科学者とか、協力者のあてが沢山あったみたいで、その人たちに使わせるために研究機材や医療器具を用意してあったみたい」
「協力者――ハルさん以外にも、いたんだ」
「そう。いたはず……なんだけど、おじさんの死後以降、誰にも連絡がつかない。多分おじさんが殺されたのは、そいつらが裏切ったせい」
飛鳥は怒りと悲しみが混ざった口調で、吐き捨てるように呟いた。
「信頼は金で買えるっておじさんは言ってた。けれどそれは『信用』とは違うもの。立場や事情が変われば金で積み上げた信頼なんて簡単に崩れ落ちてしまうものだって、おじさんは自分で分かってたはずなのに」
長い年月で築き上げてきたコネクションや膨大なバックボーン、そして協力する対価としての金銭。白石光一は自らが持ちうる全てを賭してまでこの世の裏側に這い回る巨悪の正体を暴こうとしていた。
「ごめん。重い話しちゃった。遅くなったけど、本題に入ろっか。ハル?」
「……了解。ちょっと長くなるけど、いいかい?」
晴臣は珈琲を一口啜った後、ぽつぽつと、話し始めた。
「突然だけど、きみたちは地球外生命体の存在を信じるかい?」
「……地球外、生命体?」
「E.Tとか、エイリアンとかのことさ」
「いやそのくらいは分かるけど……」
飛鳥は当惑した顔で、首を横に振った。「玄崎くんは?」と振られた明は「月刊レムーリアで読むくらいには」と答えた。つまり二人とも、信じていないということ。けれど、怪人が街中で人を襲い、挙句自分自身も同じ怪物に変わってしまった現在だったら、正直、宇宙人でも
「確かに。普通の人の認識はそのくらいだろう。UFOはトリック写真で、宇宙人の解剖フィルムも作り物だ。ただ――僕は地球外生命体の存在を確信している。なぜならボクは、この目で見ているからだ」
「この目で見たって……Xファイルの見すぎじゃない? もしかしてあんた、エリア51で働いてたりしたの?」
冗談めかして軽口を言う飛鳥だが、彼女は目線を訝しげに細めていた。
あくまで疑いの姿勢を崩さない飛鳥に対し、晴臣は口調を変えずに続ける。
「生憎グレイ・タイプとは縁が無かったよ。けれど、紛れもなく地球外生命体は実在しているんだ。それも、ボクらのすぐそばに」
晴臣は明の胸を人差し指で、こんこん、と叩く。
「ここに、ね」
この人は、いったい、何を言っているのだろうか。
呆然として、明は生唾を飲み下した。
EPISODE:8
『The Thing』
「玄崎くん、が――?」
「厳密に言うと彼の中にいる、だね」
「……僕の中に、何、が?」
明の声は震えていた。
こんな時に限って、下手な冗談はやめて欲しかった。しかし晴臣の口調は至って真剣そのものだった。
「どこで見つかったは分からない。鴉ヶ丘で発見されたのか、それとも他の場所で発見されたのか。少なくとも僕がメトセラの研究チームに配属された時には、そいつはもう、研究室の試験管の中で生きた状態で存在していた」
晴臣は立ち上がると、抱えていたノートパソコンを開いた。そこには先日研究所から持ち帰ったUSBメモリが刺さっていた。晴臣がパソコンをプロジェクターに接続すると、白い壁面に映像が投影される。
「チームは外部機関から招聘された研究員ばかりで、詳しい事情を知るものはほとんどいなかった。でも、そんなことはどうでもよかった。目玉が飛び出るほどの高額な報酬と、最先端の研究機材が用意されたラボ、何より知的好奇心を満足させてくれる研究対象が、イコール口止め料だった。人知を超えた地球外生命体をこの手で研究出来るだなんて、またとない機会だと、ボクも含め、皆が喜んでいた」
クリックの後、ビデオカメラによる記録映像が再生される。ガラスケースの中にある粘性を帯びたスライム状の黒い物体を、白衣を着た研究員が囲んでいた。スライム状の物体は微動だにせず、平面に伸びていた。
「落下した隕石に付着していた地球外生命体だと聞いた。あれは姿形を持たない不定形生物だ。研究の結果、非常に高い可塑性と延性を持ち、様々なかたちに変化出来る極限環境微生物の集合体だと言うことが分かった。極度の高温、極低温の状態でも生存可能で、休眠状態のまま宇宙空間を生き延びたと考えられる」
ガラスケースの中に、実験用マウスが落とされた。何も知らない無垢なマウスは餌を求め、鼻先を細かく動かしている。
「ここからだ」
部屋の全員が、マウスの動向に注目する。すると突然、マウスの白い体に、黒い不定形生物が絡みついた。
粘性を帯びた体が触手のように変異し、マウスの全身を瞬間的に覆い尽くした。突然の襲撃に抵抗するマウスの口を強烈な力で無理やりにこじ開けると、ずるりと、間髪いれずその体内に滑り込んだ。
「……っ!」
不定形生物がマウスの体内に侵入を果たすと、マウスは反り返った状態でじたばたともがいていた。しばらくしてマウスの動きが少しずつ弱まり、最後には力尽きたように動きを止めた。死んでしまったのか――と明が思った直後、マウスは突如、赤い目をかっと見開き、機敏な動きで立ち上がると、何事も無かったように動き始めた。
――いったい、何がどうなっているのか。
呆然としている明を置き去りに、更に動画は続いていく。
研究員がガラスケースの中に、もう一匹のマウスを入れた。新しく入ってきたマウスが、寄生されたマウスに興味を示し、鼻先を近づけた。一方、不定形生物に寄生されたマウスは動物的な好奇心を一切無くしたかのように微動だにしない。
代わりに。
寄生されたマウスの体表が蠕動を始めた直後、その全身に真っ黒な甲殻が形成される。甲殻は四方向に伸びると湾曲した鍵爪のように展開、鋭い先端部にてもう一匹のマウスを勢い良く串刺しにした。全身を尖った甲殻で貫かれたマウスはか細い断末魔を上げ絶命、傷口から飛び散った鮮血が清潔なガラスケースを赤黒く汚した。
「これは……っ!」
明は無意識に椅子から立ち上がった。驚愕のあまり後ずさりしてしまうも、目の前に映し出される映像に、明は誰よりも既視感を覚えていた。
「そう、これが『レイブン』だ。君の体内にもおそらくこいつがいる」
絶句する明をよそに、尚も映像は続く。
串刺しにされ絶命したマウスの死体を、甲殻に覆われたマウスが食らい始める。口蓋部には発達した犬歯が見え、次第にその手足にも目に見えた形で筋肉が発達していく。進化の過程をビデオテープで早送りしているかのような形態変化を続けながらも、マウスは無我夢中で同族を貪っている。
カメラの視線に気付いたかのように、寄生されたマウスが血走った眼を向けた。敵意を剥き出しにして睨みつけると、マウスはガラスケースの壁面に体をぶつけ始めた。繰り返し体当たりを受けると、強固なはずのガラスにヒビが入り始めた。慌てて対処しようとした研究員の姿を最後に、記録映像はそこで途切れていた。
「あのマウスは体長二メートルにまで成長し、駆けつけたセキュリティチームに射殺されるまで動きを止めなかった。最終的に研究員が二名、犠牲になった」
空いた口が塞がらなかった。飛鳥も同じく、口元を抑えて何かを考えこんでいる様子だった。あの黒い液体が本当に
「生物の肉体に侵入し、即座に神経系統を掌握。主要臓器、最後には精神までもを乗っ取った挙句、宿主の体に遺伝子変異を誘発。より攻撃性の高い肉体に変異させることにより、更なる宿主への寄生を目的とする地球外侵略種だ。隕石に付着して地球に来たこの生命体に、メトセラは異常なまでの可能性を見出していた」
言葉を失った明と飛鳥を見やり、古嶋は既に冷めたコーヒーをひと口啜った。
「研究の結果、奴らは動物にのみ反応を示すことが分かった。宿主に寄生し、遺伝子に作用することで宿主に急速な進化を誘発させる。ボクたちはこの生物に脅威を感じながらも実験を繰り返した。爬虫類や両生類、昆虫、イヌ、ネコ、チンパンジー、ボノボ――そして、ボクたちは最後に禁忌を犯した」
「ヒトに、実験を」
古嶋が頷き、スライドが切り替わる。手術台にベルトで固定されたまま、苦悶の表情で口腔内に寄生生物を流し込まれる被験者の写真や、異常発生した甲殻に全身を埋め尽くされ絶命している死体の写真、被験者の頭蓋を生きたまま切開し、前頭葉に金属端子を埋め込み、変異過程における
「こんなことをして……許される、わけが」
気がつけば明の掌に、じっとりと脂汗が滲んでいた。
「わかったろ。人間は目的の為なら、どこまでも残酷になれる生き物なんだって」
自らの過ちを告解し続ける罪人の如く、古嶋は続ける。
「研究チームの中でも意見が分かれた。ついていけないと離反するメンバーや、外部にレイブンの存在を公表するという者も現れた。しかしどういう訳か、不穏な態度を見せた研究員はそのうち姿を見せなくなった。けど、ボクたちは気にしなかった。もともと変人揃いの集団だったし、研究を邪魔する人間はラボに要らないと思うようになっていたからだ。地球外生命体を誰よりも早く研究出来るという知的好奇心に、ボクたちはいつのまにか狂っていた――きっと始めからそれが目的だったんだ。気付いた時にはもう、誰にも倫理観なんて残っていなかった。科学の為、人の為という大義名分を掲げてボク達は人間を実験道具にすることに、躊躇いを持たなくなっていた」
集団心理の怖さだ――と、古嶋は言う。
「けど、転機があった」
マグカップを握る古嶋の手が、ぴたりと止まる。
「事故が起こったんだ。当時、
「爆発事故? うさんくさいわね。そういえばどっかで聞いたような……」
飛鳥がパソコンに向かって検索を始めた。
「調べてみるといい。イゼヤ重化学工業爆発事故って検索してみれば、多少は記事がヒットするはずだ。小規模な事故として報道されたが、現実は違う」
「あった……これね。化学物質の漏出事故として報じられてる」
一部のニュースサイトに小さく掲載されている以外に、取りわけ多くの報道がなされているわけではなさそうだった。記事によると事故は一夜にて沈静化し、大きな被害を出すことなく収束したと報じられている。
「ああ。だけど不自然な点が非常に多い。通常であれば消防が出動し、事故の鎮圧にあたるのが普通だ。しかし実際には警察も消防も出動することなく、化学工場の爆発事故として水面下で処理された。それはいったいなぜか」
「爆発事故が、誰かに仕組まれたものだった?」
飛鳥が即答する。誰が言わずとも、答えは明白だった。
「その通りだ。ボクは事件の後、メトセラに不信感を抱いて調査を始めた。すぐに分かったよ。事件に乗じて外部に研究データが持ち出されていた事、そして脱走したレイブンの行動パターンが逐一マッピングされ、詳細にデータ化されていたことに」
晴臣がノートパソコンを操作すると、プロジェクターにて鴉ヶ丘市内の全体図が表示される。そこには全ての実験体から放たれる信号が、複数の光点として赤く表示されていた。
「培養育成されたレイブンの体内には追跡用マイクロチップが埋め込まれている。脱走時の特別対応プロトコルも用意されていたはずなのに、一切それが行われず、実験体が街中に野放しにされていた。民間人に危害が及ぶ可能性もあるに関わらず」
「つまり、レイブンの脱走は事件のシナリオに織り込み済みだったってこと?」
「ああ。なぜ事故が引き起こされたのか、真の目的までは分からなかった。けれど事件の後、鴉ヶ丘市内に脱走したレイブンの行動様式がデータ化され、それを元に新たなレイブンを作ることが研究チームの課題として要求された。その一端として創られた実験体がタイプ・スコーピオン――玄崎くんがこの間戦ったレイブンだ。拉致した人間を被験者にするだけじゃ飽き足らず、奴らはこの鴉ヶ丘市を、新たな生物兵器を産み出す実験場にしようとしていた」
明は既に五体のレイブンを狩り殺している。しかしその戦いがメトセラにより観測され、新たなレイブンを産み出す土壌となってしまったと考えると、浅はかすぎる自分の行動を悔やまざるを得なかった。脱走した実験体は今も街中に蠢いている。加えて新たなレイブンが何処かで創られていると考えると、もはや居てもたっても居られなかった。
「大分、長くなってしまったね。これが、レイブンの正体と、メトセラ製薬――ボクたちがやってきたことだ」
晴臣が話を終えてしばらくの間、部屋中に重苦しい沈黙が漂っていた。晴臣に対して聞きたいことも、言いたいことも沢山あった。しかし明にはどの言葉から口にすればいいのか分からなかった。頭の中に渦巻く感情が濁流となり、巧く考えをまとめられずにいた。
そんな雰囲気の中、最初に口を開いたのは飛鳥だった。
「話は、分かった」
険しい顔をしていた飛鳥は座っていた椅子を回転させ、古嶋のほうに居直った。
「あなたがした事、関わっていた事について私たちが何をどう言う権利もない――けれどひとつ、疑問があるんだけど」
飛鳥が明のほうに居直る。
「レイブンが生物に寄生して、宿主から主導権を奪うのは分かった。けれど、じゃあ一体どうして玄崎くんは、こうして人間としての理性を保っているの?」
飛鳥の疑問は当然だった。確かに、同じ疑問を明も抱いていたからだ。レイブンに寄生された明の体内には、今も地球外生命体が存在しているのだと古嶋は言った。しかしだとすれば、なぜ脳が乗っ取られず、未だ自分の意識を保てているのだろうか。
「正直なところ、明確な答えを出すことは難しい」
万事お手上げだ、というように、古嶋は眉を潜めた。
「何らかの原因で玄崎くんの体にレイブンが侵入。どういうわけか脳を乗っ取られず、君自身が寄生体の支配権を有するようになった——としか考えられない。玄崎くん。改めて聞くけど、君がレイブンに変身出来るようになったのはいつからだい?」
「えっと、蜘蛛型レイブンに襲われてからです。奴に致命傷を負わされて、でもいざ止めを刺されるって時に白いレイブン――古嶋さんが言う『スノーホワイト』に助けられて、そこで意識を失ったんです。目覚めたときには、もう体がおかしかった」
「……なるほど、そうか。少しは合点がいった」
古嶋が顎に指を当て、考え込む仕草をする。
「何か分かったの? ハル」
「ああ。おそらくタイプ・スパイダーと玄崎くんに直接的な因果関係はない。僕らは創り出したレイブンの生殖本能をナノマシンで抑制し、代わりに狩猟本能を喚起させることで純粋な生物兵器に転用する試みを行っていた。脱走時にレイブンが繁殖行動を行うリスク回避も含めてだ。だから君が奴に寄生体を移されたって可能性はないだろう。それに、君がスパイダーの形質を受け継いだレイブンならば、既に似たような特性が見えるはずだけど、そうじゃないだろ?」
「確かに、壁に張り付いたり手から糸が出たりとかはしない――ですね」
明はクモ男として戦う自分の姿を想像した。ビルの壁を這いまわり、都会を飛び回りながら戦う怪人。言われてみればそれはそれで有りなのかもしれないと思ってしまったが、それはさておき。
「むしろ、君と白いレイブン――『スノーホワイト』は同型の存在だと、ボクは推測する。姿形も似通っているし、甲殻の分子配列を比較してみてもそっくりだ。何より人間が変身している、というところが決定的だ」
「アレが、僕をレイブンにしたってことですか」
「意図は分からない。けれどスノーホワイトは既存のレイブンとは一線を画した存在だ。あれはそもそも、ボクたちが作ったレイブンじゃない。研究段階で考案されたが机上の空論として破棄された、理論上最強の戦闘型レイブンだ」
「じゃあ、存在しないはずのレイブンが、どうして僕を」
「研究所の爆発事故の後、破棄されたはずの研究データを、何者かが持ち出した形跡があった。それを元に誰かが変身しているんだろう。その証拠に今もスノーホワイトは、確かな目的を持ってレイブンを殺している。玄崎くんとはまた別の理由でね。ボクには一人、奴の正体に心当たりがある」
古嶋がキーボードを叩くと、メトセラ製薬の社員名簿がプロジェクターにて表示され、ある一人の男性が、画面に大きく映し出される。
年齢は三十代半ばと言ったところだろうか。度の強い眼鏡の向こうに落ち窪んだ目が、真っ黒い隈で縁取られている。しかし顔立ち自体は端正に整っているように見え、若い頃から現在までの気苦労が染みついているかのような表情をしていた。
「この人」
無意識に、明の口を突いて出てしまう。
見覚えのある苗字が、そこに書かれていた。
「――知ってるのか? 主任を」
「い、いや。たまたま同じ名字の知り合いがいただけで……」
「待って。今すぐ調べるから」
「別に、ただの偶然だ。気にしないでも――」
明が言い終わる前に、既に飛鳥はキーボードを叩き始めていた。間もなくモニタにはメトセラ製薬の社員名簿一覧が映し出された。一瞬で社内ネットからデータベースにアクセスすると、顔写真付きの個人情報が画面のそこかしこに表示される。
「天塚丈一郎。東京都港区出身、城南大学理工学部卒、現在はメトセラ製薬からコスモス・サイエンステクノロジーに技術顧問として出向中。再生医療開発セクションにおけるプロジェクトリーダーとして勤務。離婚歴あり。現在は高校生の娘と二人で同居中と書かれてる。娘の名前は――」
そこから先は、もはや飛鳥に言われなくても分かっていた。
震える声で、明は口を開いた。
「――
鴉ヶ丘市立八咫第一高等学校二年B組。見慣れたブレザーの学生服を着たその姿が、プロジェクターで大きく映し出される。
「僕の、クラスメイトだ」
EPISODE:8 End.
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