EPISODE:7 ブラックサイト/ Dark Side of the City

 明朝午前四時。鴉ヶ丘市郊外、株式会社コスモス・サイエンステクノロジー。通称CST先端技術第二研究所前。辺り一面は深い緑に囲まれており、木々が風にそよぐ音以外には何も聞こえない、穏やかな夜開け前。大企業の研究施設が集まるこの近辺だけが、暗闇の中、蛍光灯が作り出す人工的な光で浮かび上がっている。


 玄崎明くろさきあきらは隣接する企業施設の屋上から、侵入予定の研究所を睥睨していた。


「聞こえる? 玄崎くん」

「感度良好。そっちはどう?」


 左耳に装着したBluetooth式ヘッドセットから、涼城飛鳥すずしろあすかの声が響く。同時に、明の目の前に、浮遊する物体がゆっくりと近づいてくる。


「感度視界ともに良好。きみの顔もばっちりよく見える」


 クアッドコプター型のドローンがふよふよと、明を茶化すかのように上下する。

 四つのプロペラモーターで空中を自在に浮遊、赤外線カメラを搭載し、暗所でもリアルタイムで映像を中継出来る仕様に加えて隠密作戦向きの静音仕様。飛鳥曰く、米軍の特殊部隊で運用されている装備と同じ仕様のドローンを独自のルートで購入し、更に自己流で改造したのだと言う。


 飛鳥のおじは離れた場所のアパートを数か月前から借り受けており、救出作戦実行の前線基地として計画していたらしい。飛鳥がそこからドローンを遠隔操作し、明に作戦の指令を出すという手筈だ。


 僅かな駆動音を響かせ、ドローンが空中を滑るように移動する。ほんの少し離れてしまえば都市迷彩仕様の黒いボディは夜の闇に塗れて見えなくなり、クアッドローターの駆動音も全く聞こえない。隠密偵察にはうってつけの道具だ。


『入口に三人、屋上にひとり。手筈通り、あと数分で警備員の交代時間。その隙を狙って侵入。準備はいい?』

「了解」


 侵入経路は屋上の扉。交代時間になり屋上の扉を開けた警備員を無力化し、ロックの解除された扉から侵入。明の侵入を確認次第、飛鳥がセキュリティシステムに直接干渉、セキュリティが無防備な状態になったその隙に、電子ロックが解かれた扉を明がこじ開けるという手筈となっている。


「……にしても、こんなスパイ映画みたいな作戦とは、思わなかったけど」

「きみはそこらのエージェントより相当すごい能力ちから持ってるんだから。大丈夫、心配しないで。きっとうまくいく」


 正直な話、明は未だに、この作戦が上手くいくのか一抹の不安を覚えていた。けれど、今は、彼女を信じるしかない。そう思って、覚悟を決めた。


『作戦開始!』


 飛鳥の指令が撃鉄となり、明は弾丸のように走り始めた。トップスピードを維持したまま屋上の縁を全力で踏み切り、建物と建物の間、およそ十メートルを超える距離をひとっ飛びに跳躍する。虚空に放たれた状態で落下地点を見据えると、交代時間を間近にした警備員が退屈そうに欠伸をしていた。


 着地音に振り向いた警備員は、フードを被った黒ずくめの男に驚愕の目を向けた。何も事情を知らない彼らに罪はない。けれど今は少し、眠ってもらう――明は即座に彼我の距離を詰めると、警備員のみぞおちに高速の拳を打ち込み、一撃で昏倒させる。間もなく屋上への出入り口を開けて現れた交代要員も、背後から頸動脈を絞め気絶させた。


 念のため二人の警備員を結束バンドで拘束し、懐からセキュリティカードを拝借すると、明は研究所内への侵入を果たした。


「研究所内に入った」

『オッケー、そのまま非常階段から三階へ』


 非常階段を降り三階に辿り着く。研究所内は既に消灯され、フロアは暗闇に閉ざされていた。しかし職員のほとんどが退勤しているにも関わらず、どのフロアにも常時交代制で警備員が巡回していた。防犯カメラが死角を隈なくカバーしているあたり、何か重要なものを隠していると見て間違いなさそうだった。非常階段の踊り場から外に出てしまえば、警備員と防犯カメラの監視の目からは逃れられない。


 ここからが勝負どころだ。


「所定の位置についた――本気、なんだな」

『私を舐めないで。もしかして、ここに来てビビってる?』

「まさか」

『なら、私を信じて。カウントダウンは三分二十秒。それ以降は保証出来ない』


 明は腕に巻いたGショックにタイマーをセット。


「――スタート!」


 カウント開始。

 瞬間、目の前の扉のロックが解除される。セキュリティシステム全般がダウンし、研究所の施設全てが無防備な藁の家と化す。


 明は舌を巻いた。涼城飛鳥の実力が本物だと証明された瞬間だった。


 正直、飛鳥に作戦概要を聞かされた時は思わず「冗談だろ」と声が出た。所謂ハッキングで施設のセキュリティシステムを掌握し、監禁場所の電子ロックが一時的にオフになった瞬間を狙って突入、ターゲットを救出するだなんて馬鹿げた話だと思った。ハッキングだなんて映画や漫画の話じゃないか――とその時は思っていた。


 しかし改めて考えれば、どうして彼女が監視カメラの映像を持っていたのか、またインターネット上での明の活動や個人情報について必要以上に知っていたのか。思い当たる点は沢山ある。


 飛鳥の叔父曰く「悪い奴と戦うには、悪い奴の中身を知らなければいけない。その為には普通の視点じゃ見えないものを視る必要がある」との事らしく、飛鳥は叔父のコネクションを利用し、数年前に世間を騒がせた国際的ハッカー集団のメンバーに、非合法的なサイバー技術の手解きを受けたのだと言う。


 飛鳥の叔父の残したファイルの中には施設の見取り図と共に施設のセキュリティシステムに作用するマルウェアが添付されていた。お膳立ては充分。後は飛鳥の仕事だった。


『ちょっと前に、ここに勤務してる職員を尾けてみたの。しばらく見てるとセキュリティ意識もコンプライアンスもクソもない社員だってわかったから、ソフトウェアのサポートに偽装したメールにマルウェアを添付して彼の社用アドレスに送ったの。案の定、会社で添付ファイルを開いてくれたから、既にプログラムは社内ネットワークに感染済み。あとはスイッチひとつでBANG!ってわけ』


 飛鳥が仕込んだ爆弾は、確かに景気良く爆発した。セキュリティシステムはダウンし、復旧を要するまでの間、完全に無防備な状態をもたらしている。


 レイブンとして強化された視力が無ければ闇の中で動く事は不可能だった。扉を開けて踊り場から飛び出ると、巡回する警備員を即座に無力化、扉の前に居たもう一人の警備員も同じようにみぞおちを突いて黙らせる。そして電子ロックが解除された扉の目の前に辿り着くと、飛鳥が遠隔操作で扉を開けた。


「きみは、一体……」

 扉の中では古嶋晴臣こじまはるおみが、怯えた目つきでこちらを見ていた。拷問や暴力を振るわれている様子はない。長期の監禁の割には存外見た目は綺麗に見えたが、元から細い体は白衣の内側で更に痩せており、憔悴しきった様子だった。


「玄崎明と言います。白石光一の知り合いです。あなたを助けに来ました」


 明は古嶋専用にもう一つ用意してあったヘッドセットを投げ渡す。古嶋は当惑した顔で眼鏡の位置を直すと、ヘッドセットを装着する。


『待たせたわねハル。彼は私の相棒の玄崎くん。早くそこから出て!』

「飛鳥ちゃん……? そうか。やっと来てくれたのか!』


 ヘッドセット越しに知り合いの声を聞き、古嶋の表情が明るく変わる。


「時間がない。早く脱出しない、と……?」


 明は古嶋の手を掴んで引くが、どこか躊躇った様子で足を止めていた


「古嶋さん?」

「……悪い。アレを残したままでは行けない」

「いったい、何を言って――」

「地下のラボに向かう! まだボクの管理者IDは生きてるはずだ。直通エレベータに向かえば……」

「ちょっ、そんな場合じゃ」


『玄崎くん聞こえる!? そっちに警備員が二名向かってる。感づくのが早い奴らね。うっそ、銃器で武装してる。そんなデタラメ――』


 監禁部屋から外に出た瞬間、明と古嶋にレーザーの赤い光点が照射された。クリス・ヴェクター短機関銃を構えた警備員――もといたちが、明と古嶋に銃口を向けていた。「まずい」と古嶋が呟いた瞬間、警告の一つもなしに警備兵たちが発砲、光学照準器ホロサイトを装着した近未来的フォルムの銃身から連続で吐き出される無数の弾丸が、棒立ち状態の二人を襲う。


「っ――装殻レイブン!」


 しかしフルオートで放たれた弾丸は玄崎明の肉体を破壊する寸前、全て漆黒の甲殻に阻まれていた。リノリウムの硬い床に、潰れた45口径の弾頭が次々と落下する。


 硝煙漂う暗黒の中。鴉羽色の騎士が降臨する。


「変身……!? そうか。君があの、黒いレイブンか!」


 驚愕の表情から一転、古嶋の声は歓喜に震えていた。

 対する警備兵たちも、目の前の不審者が怪人に変化したことに驚きを隠せない様子だった。しかしすぐさま我を取り戻すと、再び発砲を開始した。


 今更そんなこと、無駄に決まっている。


 明は瞬く間に五メートル以上の距離を詰め、警備兵二名の懐に入り込むと、その拳でまず一名を昏倒させる。もう一名の警備兵が突如現れた怪物を迎撃しようと銃を向けるが、引き金を絞る動作よりも早く、鳩尾に強烈な鉄拳が叩き込まれる。


 即座に行われた迎撃は、古嶋の視点からしてみればまさに一瞬。人間の目では追い切れない超速度の戦闘を終えた明が変身を解くと、古嶋が急ぎ足で歩み寄ってきた。


「玄崎くん……って言ったね。すごい、自我を保ったままレイブンになれるだなんて……カラダは何ともないのかい。気分は? 精神に異常は? あれだけ研究しても人間ヒトとしての自我は宿主に発現しなかったのに、一体何がきっかけで――」


 研究者としての性か、古嶋は好奇心を剥き出しにして明の体に触れようとするが、心底苛立っている明は古嶋の伸ばした手を敢えて冷たく払う。


「――いい加減にして下さい。わざわざ危険を冒してまで助けに来たんだ。ワケ分かんないこと言ってないで、早く脱出を」

「す……すまない。ボク自身も混乱して、何が何だかわからなくなってるんだ。確かに、まずは助からなきゃ話にならない。それは分かってる。けれど申し訳ないが、地下一階に行かないことには出ていくことはできない」

『……ハル、あなたが必死になる理由って、もしかして』


 困惑する明とは裏腹に、飛鳥は古嶋が脱出を躊躇う理由に気付き始めていた。


「ああ、ボクが監禁されていた理由のひとつだ。ボクが自分でケジメを付けなきゃいけないものがそこにある』


 古嶋晴臣は、黒縁の眼鏡越しに明を見据えて、明確に言い切る。


「レイブンだ。ボクの創り出したレイブンが、ここにいる」


EPISODE:7


『Dark side of the city』


 増援が追いつく前に明と古嶋はエレベーターに乗りこみ、地下実験室を目指した。


『ごめん、玄崎くん。先に謝っとく』

「……? えっと、何が」


『あなたたちを危険に晒してしまったから。事前の調べでは警備員がまさか銃器で武装しているだなんて分からなかったから、もし見つかっても何とか出来ると思ってた。私の迂闊な判断のせいで二人とも命を落とすところだった。本当にごめん』

「いや、謝らなきゃならないのはボクのほうだ。奴らが銃を持っていたのは知っていたけど、まさか本気で撃ってくるだなんて……もっと用心すべきだった。けどこれで分かったよ。奴らは何が何でもボクを外に出したくないらしい。レイブンの研究者として外に出られるくらいなら、警告無しに殺す、って言いたいらしい」


 自らの非を詫びる両者だったが、正直な話、明は別の事が気になっていた。


「あの、ここにレイブンがいるって――どういうことですか」

「言葉の通りだ。ボクはここの施設でレイブンを創っていた。きみが倒したレイブンも、全てこの施設から生まれたものだ。人工子宮で培養し、ある程度成長したら別の施設に移送し、そこで新たなる実験体とする。いわばこの研究所はレイブンの育成、培養を担う牧場みたいなものだ」

「……やっぱり、人工的な生命体だったんですね。レイブンは」


 予感はしていた。あんな生物が自然界に存在する訳が無いと常々思っていたし、進化の過程で生まれるはずもない。メトセラ製薬が関与していたという噂を耳にした時点で、誰かの意図によって作り出された存在だとは考えていた。


「そうとも言えるし、そうでないとも言える。詳しい話はここを出てからにしよう。まずはこの地下施設を無力化する」


 古嶋は明が倒した警備兵から、クリス・ヴェクター短機関銃を奪っていた。細身の体に薄汚れた白衣を纏った姿には、物々しい銃器は不釣り合いに見えた。


「その後の脱出経路は?」

『上の階は完全に警備兵が見張ってる。屋上から侵入されたのも既に気づかれてる。地下一階にいるのがバレるのも時間の問題かも。出来るだけ妨害してみる』

「いや、非常用地下通路がある。以前脱走を企てた時に見つけたんだ。そこなら五分もかからず外に出られる」

「……初めからそこから出ればよかったんじゃ」

「武装した警備兵が常時付いてる状態だったからね……常にチャンスは伺ってたよ。まさか、そのチャンスが今日とは思わなかったけど」


 エレベータが地下1階に到着する。本来ならば静脈認証と虹彩認証システムを利用した厳重なセキュリティが施されているものの、現在はシステムを掌握する飛鳥により無効化されていた。


 清潔な印象を受ける白い廊下を進むと、ラボラトリへの自動ドアが開いた。そこには広大な地下空間に敷き詰められた最新型の実験器具と、数多くの培養槽が立ち並んでいた。ラボに入ると古嶋はすぐにメインコンピュータに接続し、白衣の内側から取り出したUSBメモリを接続した。


「よし……管理者権限でログイン出来た。データをバックアップするから少し待っていてくれ」

『こっちも監視カメラのモニタリング完了。地下一階に行ったのはまだ気付かれてないみたい。しばらく監視を続けてるから、何かあったら知らせる』

「よろしくね。飛鳥ちゃん」


 古嶋がコンピュータに向かっている間、研究所の内部をあちこち見回していた明は、ある光景に目を釘付けにされてしまった。


 培養槽の中に浮かぶ、人間の姿に。


「これ――は」


 年端もいかない少女が、培養槽の中に浮かんでいた。胎児のように丸まった状態で呼吸用マスクを付けられ、体に繋がった管からは何らかの薬品が投与されている様子だった。他の培養槽の中にも同じように人間が浮かんでいて、その多くは幼い子供だった。中には既に人間から異形へと変わりつつあるものもいて、それらの体表には甲殻が形成され、触手や爪が生え始めているものもいた。


「もしかしてこの子達が――」

「――そう。レイブンだ」


 冷徹な研究者然とした声音で、古嶋は言った。

「気づいてたろ? レイブンの元は紛れもない人間ニンゲンだって」

 明はごくりと、生唾を飲んだ。



 確かに、今まで自分が狩り殺してきたレイブンには全て人間の面影が残っていた。昆虫や動物など、他の生物の特徴を有しながらも全てのレイブンには人間らしいシルエットが残っていた。その上で、明はレイブンを「怪物」として殺してきた。


「……分かってはいました。けど実感は、無かったです」


 ゆえに人間を殺している自覚は無かった。しかし実際のところ、玄崎明はヒトとしての意識を持ちながらレイブンに変身して戦っている。もしかしたら、自分が今まで殺してきたレイブンも元は人間なのかもしれない――という疑問を持ちつつも、その可能性から敢えて目を背け続けて、今まで戦ってきた。


 だが今、目の前の培養槽に浮かんでいる少女が、未来のレイブンなのだとしたら。


 ――僕はやっぱり、人殺しをしていたのか?


 頭の中に浮かんだ疑問に、不意に吐き気が呼び起こされた。


「じゃあ、ボクと君は似たようなものだ。ボクも罪の意識と向き合えないままに、この子たちを実験台にしてきた。つまり、無自覚な殺人鬼だ」


 古嶋晴臣は作業の手を止めず「一番タチが悪い」と後悔に満ちた声色で言う。


「ボクらにとってヒトは単なる素材でしかなかった。レイブンを作る為に連れてこられた素性の知らない人々を、ボクらは容赦無く実験台にしてきた。金に釣られて騙された浮浪者や世捨て人、人身売買で取引された子供たち。研究の為に魂を売ったつもりだった。でもボクはどうやら、最後まで悪魔になることはできなかったみたいだ」


 キーボードを操作しながら、古嶋は懺悔じみた告白を続けた。


「限界が来た。毎日子供や大人を切り刻んで、化け物に変える仕事はうんざりだった。良心の呵責に耐えられなくなって、自殺しようと思った。でもそこに、白石さんがコンタクトを送ってきた。奴らの悪事を暴こう――とね。例え死刑になろうとも全てを語る覚悟があった。だから白石さんに協力して、表舞台に立とうと決めたんだ」


 辺りを見回せば、室内には数多くの手術台が立ち並んでいた。今は研究員は誰もおらず、室内は清潔な状態に保たれている。しかし古嶋はここで多くの実験体にメスを入れ、無垢な人々を怪物に変える手術をしていたのだ――と、明は表情を硬くした。


「……でも、白石さんは殺された」


 キーボードを打つその手が、一瞬止まる。


「今思えば、体制に疑問を覚えて研究から離れたメンバーは沢山いた。なのにレイブン絡みの事情が一切露見しなかったのは、つまりだったのかもしれない。事がバレて、ボクはこの施設に監禁された。でも奴らには依然として技術が必要だった。だから研究中だけは外に出してもらえた。いつか脱出して、白石さんの敵を討つチャンスを伺っていた」


 データのバックアップが終わった。古嶋がコンピュータからUSBメモリを抜いてしばらくすると、周囲のサーバーや電子機器の電源が次々とシャットダウンされる。


「重要なデータは全部ここに入ってる。システムも全てシャットダウンした。ここで研究を続けることはもう出来ない。あとは――」

 古嶋は脇に立てかけてあったクリス・ヴェクター短機関銃を手にすると、周辺のサーバーや電子機器に向けて躊躇なく引き金を引いた。


「こ、古嶋さん!?」

『な、何、敵襲?』

「物理的に破壊しなきゃ意味がないだろ?」


 フルオートで放たれた弾丸が電子機器を破壊し、盛大な火花を散らした。驚きの声をあげる明と飛鳥を気にも留めず、マガジン内の弾丸全てを撃ち尽くすまで、古嶋は引き金から指を離さなかった。弾倉が空になった銃を無造作に投げ捨てた古嶋は、怒りと哀しみが混ざった表情で、破壊された電子機器を見つめていた。


「準備はこれで終わりだ」


 そして、培養槽の実験体が、液体に溶けるように崩壊していく。人魚姫が海に還るかのように、実験体の少女は眠りについたまま、泡になり消えていった。


「これが、僕なりのけじめの付け方だ。僕がここから居なくなる前にせめて、彼女たちだけは眠らせてあげたかった」


 少女が消えゆく光景を網膜に刻みつけるよう、古嶋はずっと培養槽を見つめていた。


「……あの、古嶋さん。ひとつ聞きたいんですけど」

「脱出経路はこっちだ。さ、行こう――」

「あの培養槽、何が入ってたんですか」


 研究所の一番奥。明が指差すその先に、ひときわ巨大な培養槽があった。中から培養液が零れ、分厚い強化ガラスは内側から割られて床に散らばっている。


「……おかしい。昨日まではあそこにのに。今日の間に移送されたのか? あれは安全性に大きな問題を抱えていて、実戦投入にはまだ調整が――」


 培養槽から外に向かっては、大きな足跡が点々と続いていた。散乱したガラスの中には『TYPE:SCORPION』と書かれたラベルが培養液に滲んでいた。


 嫌な予感が、頭をよぎった。


「違う玄崎くん、上だ!」


 間に合わなかった。完全に気配が消されていた。見上げた時にはもう遅かった。

 天井に張り付いていたサソリ型のレイブンは、玄崎明と古嶋春臣が部屋に入った瞬間から、虎視眈眈と獲物を捕らえる機会を待っていた。サソリ型レイブンは巨大なハサミを振りかざし、明を瞬時に捕らえ空中へと攫う。


「ぐ――装殻レイブンッ!」


 万力のような締め付けで体が真っ二つにされる前に変身、即座に展開した右腕のブレードで胴体を斬りつけると、ハサミの力が僅かに弱まった。辛くも拘束状態から脱出したが、落下した状態から、全身を床に叩きつけられる。


『玄崎くん? 大丈夫!? 玄崎くん!?』


 異変を察知した飛鳥の声に、明は再び立ち上がって「大丈夫」と返す。


「タイプ・スコーピオン……まだ調整段階なはずだぞ! 何で解放――いったい誰が!?」


 同じく天井から降り立ったサソリ型レイブン――タイプ・スコーピオン。身長二メートルはゆうに超える巨躯を青白い灰色の甲殻で包み、人間と同じく直立二足歩行の巨人が、仁王立ちの状態で明を睨みつけていた。右腕だけが巨大なハサミと化した左右非対称な外見が特徴的だが、先端に太い毒針が付いた尻尾を背面から伸ばすことで、強靭な肉体のバランスを取っていた。


 もし一瞬たりとも判断が遅れていれば、今頃自分はあのハサミに真っ二つにされていただろう――と怖気立つが、今はそんなことを考えている暇など全くない。


「この……ッ!」


 明は右腕のブレードを振りかぶり、甲殻と甲殻の間の隙間を狙い、再び攻撃をする。が――タイプ・スコーピオンは悠然と仁王立ちを崩さぬまま、明の斬撃を真正面からその胴体で受け止めた。


「何っ……!」


 切りつけられた甲殻に、傷一つ与えられなかった。狙いは正確、しかしタイプ・スコーピオンは明の攻撃など物ともせず、ただ無機質な視線で睨み付けていた。


 明は戦慄に目を見開いた。


 瞬間、ただの予備動作も無しに放たれた尻尾の薙ぎ払いを受けて、明は研究室の反対側へと吹き飛ばされる。速度、威力、正確さを全て伴った強靱な一撃。火花を散らす実験器具を背中にし、明は激痛が全身を掻き乱す中で再び、立ち上がる。


「畜、生……!」

「聞け玄崎くん。奴は以前君を襲った蜘蛛型レイブン――タイプ・スパイダーの発展型だ。『スノーホワイト』との交戦データを基に改良を施してある。奴の重装甲は並大抵の武器じゃ貫けない!」


『ハル、何であんたがそんなこと!』

「ボクが作ったからに決まってるだろ! ちくしょう!」


 何か対処法は――とキーボードを叩く古嶋。


 成る程、道理で攻撃が効かないわけだ――と、明は激痛が全身を支配する中で納得する。スノーホワイト。おそらくあの白いレイブンと蜘蛛型レイブンとの交戦経験を元に、タイプ・スコーピオンとやらは調整を施されている。白いレイブンが有しているのは甲殻で形作られた翼を大剣のように使う切断能力。それに対する改良型ならば、刃物に対する耐久性は通常のレイブン以上にあると考えられる。


 右腕のブレードじゃ歯が立たない。以前白いレイブンと戦った時もそうだった。もっと鋭くて強靭な武器が必要だ――明がそう歯噛みした矢先だった。


 天井のスプリンクラーが勢いよく破裂した。


 火の気も無いのにも関わらず天井から噴き出した大量の水が、その真下にいたタイプ・スコーピオンの視界を豪雨のように奪う。


『研究所の防災システムに干渉してやった! 今のうちに体制を!』


 飛鳥がインカム越しに喝采の声をあげた。防災システムにハッキングしてスプリンクラーを動かしたのだ。施設のセキュリティを乗っ取った彼女ならこの位はお手の物だろう。


 まったく驚かせてくれる――明はその間に姿勢を立て直すが、しかし状況は依然として変わらず。有効な攻め手は皆無。右腕のブレードが無用の長物だとしたら、後に信じられるのは己の拳。だったら肉弾戦で仕掛けるしか方法は――


「玄崎くん!」


 右手の拳を握った直後、思考を遮る古嶋の声にはっとさせられた。同時にこちらに投げられた何かを反射的に受け取った。彼が投げて寄こしたのは長方形の黒い物体。二十センチ程の物体は何かの握り手のように加工されていて、人差し指の位置には銃器の引き金を模したスイッチが付いていた。


「これは……」

「『レイブン・ソード』だ! 極秘裏に回収した君の甲殻から開発された、対レイブン用試作兵器だ。電気信号に反応して柄の内部に収納された甲殻が刀身として展開する。トリガースイッチを押してみろ!」


 言われるがままにトリガースイッチを押すと、虚空を裂く鋭い音と同時に、長方形の物体の先端から、長大な漆黒の刃が一瞬にして出現する。


「ソード……カタナか!」


 柄から伸びる漆黒の刃は蛍光灯の明かりで艶やかに反射して、どこか妖しげな鋭さを担い手に主張する。先端科学の粋を凝らして現代に生まれ変わった長刀は、今、目の前に蠢く魔物に対しその切っ先を向ける。


「君のレイブンとしての甲殻特性をより強力に顕在化させてある。その刃でなら、幾ら分厚い装甲でも叩き斬れる!」


 漆黒の刀身は自らの甲殻と同じ色。つまり担い手の意思により研ぎ澄まされる――だとすれば。


 スプリンクラーの散水で霧が舞う室内。眼前の敵を再び見据える。


 研究所に響く咆哮の後、視界を取り戻したタイプ・スコーピオンはその巨体を揺らしこちらに迫ってくる。再び玄崎明を両断しようと右腕の分厚いハサミを振りかざした。挟み込まれればギロチンの如く両断されてしまう絶死の攻撃を――明は流水の如きしなやかな動作で受け流し、そして後方へといなす。


 刀を扱うのは当然初めてだった。ただの高校生に日本刀の間合いや使い方なんて分かるはずがない。けれど剣の刀身が自らの甲殻、つまり肉体の一部で出来ているのなら、それは即ち、自分の腕の延長線上のように思えばいいんじゃないか――明はそう考えた。だから決して、難しくはなかった。


 流れるように後方に受け躱した攻撃。すれ違いざまに交錯する眼光。スローモーションのように緩やかに感じる死合いの中で明はもう一歩踏み込んで、


 右斜め上、逆袈裟に斬りあげた。


 甲殻と甲殻の継ぎ目、一番装甲が薄い部分を的確に狙い、右腕のハサミを狙い澄ました一刀で斬り飛ばした。虚空に舞う巨大な右腕。赤黒い血液が吹き出し、蠍型の怪人は苦悶の雄叫びを上げる。激痛と憤怒に暴れ出すが、冷静さを失った時点で、もはや勝ち目は無かった。


 迫り来る尻尾の先端、鋭い毒針をソードの切っ先で斬り落とし、縮地じみた踏み込みで背後に回る。やはり全面に強度を集中させた弊害か、腰の関節部を保護している甲殻は薄く、守りが乏しかった。見据えた一突きにて刺し抜くと、手首を逆さに捻る。そして内蔵を掻き乱したそのままの勢いで斬り上げた。


 スプリンクラーの噴水と吹き出した鮮血が混ざり、室内に淡い赤色の雨が降る。

 戦いは終わった。全身で息をしている明の体から、漆黒の鎧が剥がれ落ちる。甲殻で形成されていたソードの刀身も、同時に崩壊する。


「……ありがとう。今日だけで二回目だ。きみに助けられるのは。借りを作りっぱなしだな。玄崎くんには」


 物陰に隠れていた古嶋が、いそいそと現れる。


「――思うところは沢山あります。けど今は脱出を」


 満身創痍の状態で、明は立ち上がった。二回目の変身に加え、先程の戦いでダメージを負ってしまい、少し動くだけで全身に痛みが走る。少し休めば回復するだろうが、今は僅かな時間とて惜しい。古嶋は明に肩を貸し、脱出口に向けて歩き出した。


「……自爆装置でも作動させてくればよかったな」

「もしかしてあるんですか? そんなもの」


 当惑した明に対し、古嶋は自嘲的に笑う。


「だいたい、悪い組織の研究所にはありがちだろ、そういうの?」

「はぁ。あなたが言うと、全部ホントに聞こえるんですよね……」

「自爆装置はともかく、少なくともレイブン絡みの研究はもうここでは出来ない。マスターデータは全て抜き取った。だがあくまで、だけの話だ」


「他にも、あるんですね。こんな……施設が」

「あくまで氷山の一角だよ。敵は巨大な組織だ。政治中枢や司法機関、経済界やマスコミにまで奴らの手先は入り込んでいる。これだけ騒ぎ立てているのにパトカーのサイレンすら聞こえないのがその証拠だ。今までのレイブン騒ぎに関しても同じ。ボク達が喧嘩を売ろうとしているのは、つまりそういう奴らだ」


 鴉ヶ丘で起きている連続猟奇殺人事件。警察は目下捜査中として、事件は一向に解決の兆しを見せなかった。多くの目撃例があるにも関わらず、怪物の仕業という説は一笑に伏せられていた。警察にもマスコミにも大して相手にされず、インターネットやアングラ系雑誌の片隅でのみ語られる都市伝説の怪物。真実を捻じ曲げ、日の元から隠すことのできる巨大組織、それがメトセラ。自分たちの敵なのだと古嶋は言う。


「ボクは奴らのぶらさげた餌にまんまと食いついてしまった。好奇心の誘惑に負けてしまって、多くの罪を重ねてきた。だから君たちに協力させてほしい。地獄へ行く前の、せめてもの罪滅ぼしに」


 明は何も言えなかった。


 古嶋晴臣という男が背負った十字架の重さは、到底明に理解できるものでは無かった。レイブンという存在。怪物を利用し非人道的な実験を繰り返し続けているメトセラ製薬が、その裏に一体どんな陰謀を抱えているのか。


 古嶋は自らのことを「無自覚な殺人鬼」だといった。だとすればレイブンを狩り続けてきた自分は、古嶋に対して何も言うことはできない――と明は口をつぐんだ。


 長い道の先には非常階段があった。黙ったまま階段を上り、非常扉を開けた。すると、ドアの隙間から差し込む太陽の光が、二人の顔をまばゆく照らした。


 長い夜の終わり。空にはもう、陽が昇っていた。


EPISODE:7 End.

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