EPISODE:9 せめて、無垢なるままで/Sweet,Sweet Memories
翌日。放課後の図書室。
翔はいつも通り、図書委員としての仕事を黙々とこなしていた。カウンターでの受け付け業務、新しく入荷した本へのフィルムがけ、返却された本の整理、埃かぶった本棚の掃除――カウンター脇で頬杖をつきながら、今時珍しい委員長気質な性格の彼女を見ていると、不真面目を地で行く明は身につまされる思いだった。
夕暮れ時の窓から差し込むオレンジ色の陽射しが、翔の横顔を淡く照らす。
気がつけば、彼女の姿に目を奪われてしまう。黄昏時に時間の感覚を忘れてしまうこの時だけは、全てのしがらみから離れることが出来た。
しかし、夕日が陰り夜の兆しが見える頃、容赦ない現実が、否が応でも自分を追い詰めてくる。
――天塚翔の父親、
確かに、翔が父親と二人暮らしだという事は、以前から親しく話す中で知っていた。しかし彼女の父親がメトセラ製薬の関係者で、その上レイブンに一番深く関わっていた人間だとは予想だにしない事実だった。だが普段の口振りからすると、翔が父親の研究内容に通じていたとは思えなかった。噂話にも疎く、むしろ都市伝説の怪物騒ぎに怯えていた彼女が、事件の関係者だとは全くもって考えられなかった。
とはいえ、もし仮に、白いレイブン――通称スノーホワイトの正体が天塚丈一郎ならば、彼に一番近い人間は娘の翔以外に存在しない。
だから、直接探りを入れようと決めた。言い出したのは明本人だった。
晴臣曰く、明が研究所に潜入したあの日、天塚丈一郎もラボに出勤していたのだと言う。レイブンの生物兵器転用に関する主任研究員である彼が、明が交戦したタイプ・スコーピオンを解き放ったのでは無いかと晴臣は考えていた。ラボのシステムにおける管理者権限を持ちうるのは天塚丈一郎と、副管理者である古嶋晴臣のみ。明と晴臣が研究所からの脱走を企てているのを察知し、試作型の戦闘用レイブンを用いて侵入者ごと排除しようと試みたのではないかと、晴臣は考えていた。
そして、レイブンが街に解き放たれる大きなきっかけとなったイゼヤ重化学工業爆発事故。この爆発事故にも天塚丈一郎の関与が疑われていた。外部に持ち出されていた研究データとその後出現した白いレイブン――スノーホワイトの正体。
レイブン関連の事件全てに天塚丈一郎の関与が疑われるにも関わらず、警察は彼に一切関与せず、今も彼は自宅と会社を平然と行き来している。
しかし飛鳥の調べによれば、ここ最近天塚丈一郎は欠勤が続いており、自宅に籠り切りなのだと言う。自宅で家事をしているのが翔ならば、あるいは丈一郎の状況を知っているはず。飛鳥が付近に取り付けた監視カメラで二十四時間動向はモニタリングできる。後は内部事情を知ることができれば、丈一郎の秘密を暴く事が出来る。
こんな
本棚を整理し始めるふりをして、席を立つ。「よし」と小さく声に出し、明は翔に話を切り出そうとした。
しかし。
「玄崎くんってさ」
声をかけようとした矢先、
明は本棚を整理する手を止めた。
「もしかして、カノジョとかいる?」
「……ぶっ!」
あまりに唐突な質問に、つい噴き出してしまった。
「い、いないよ。なんで」
「この間、きれいな女の子に学校まで送ってもらってたでしょ? 一緒にバイク乗ってたから、カノジョさんかなって」
飛鳥の事を言っているのだと気付く。確かに研究所から古嶋晴臣を救出した後、彼女の運転するバイクの後ろに乗せてもらって、寝不足のまま登校した事があった。森園女学院の美少女優等生が、ドゥカティの新作バイク、Xディアベルを吹かして陰気な男子を二ケツしてきたと見れば、それは注目の的になるのも仕方なかった。
一限に間に合ったのは良いことだが、正門以外の場所で降ろしてもらうところまで頭が回らなかった自分のアホさを、今更呪いたくなる。
「あ、あれは違うよ……何というか、友達っていうか、その――」
友達という関係でもなく、かと言って知り合いと言うには些か関係が深過ぎる。お互いに知ってはいけない秘密を知り過ぎてしまっている辺り、涼城飛鳥との関係に適当な言葉を当てはめるのだとしたら。
「……共犯者?」
考えていた言葉がそのまま口に出てしまった。まずいと思ったが、既に翔は訝しげな顔で、明を怪しんでいるように思えた。
「あの玄崎くん、なんか隠し事でもしてる? 最近授業中寝てばっかりだし、体調も良くなさそうだし……相談事とかあったら、いつでも聞くからね」
明の顔をのぞき込んで、綺麗な黒目でじっと見つめる翔。この純粋な瞳にウソをついている自分に罪悪感がつのる。しかし切り出すなら、今このタイミングしかない。
「うん、それより、さ――」
なあに?という感じに翔は首を傾げる。
「付き合って欲しい、場所があるんだけど」
顔から火が出そうなほどに緊張しながら、明は人生ではじめて、女の子とのデートの約束を取り付けることに成功したのであった。
EPISODE:9
『Sweet,Sweet Memories』
週末。
鴉ヶ丘市中央区新都心駅の西口改札にて、明は翔と待ち合わせをしていた。無数の企業ビルが立ち並ぶ中、スポーツやコンサートなどが頻繁に開催されるアリーナに加えて、大型ショッピングモールや映画館など多くの商業施設が併設された鴉ヶ丘新都心は、休日ということもあり、多くの家族連れやカップルなどで賑わっていた。
沢山の人々が行き交う改札出口の中で、明とは言えば、緊張のあまり待ち合わせの一時間以上前に到着してしまっていた。普段は馴染みのない整髪料でヘアスタイルを整えたり、鏡の前でファッションセンスがおかしくないか何時間も悩んだりして、出発直前、不安になった挙句飛鳥に電話して、助けを求めてしまった。
「ネックレスとかチェーンとか、中学生じゃないんだから」と夜通し考えたコーディネートを飛鳥にばっさり否定され、結局、シンプルなシャツに薄手のパーカーを羽織るという無難極まりないファッションに纏まった。女性に対してウブな青少年丸出しな感じだが、飛鳥のおかげで何とか常識的なファッションをこしらえて、待ち合わせ場所に来ることが出来た。
今日は『女友達の誕生日なんだけど、一体何をプレゼントしたら良いかわからなくて』という口実をつけて、翔をデートに誘うことに成功した。本当のところは彼女との会話の中で天塚丈一郎の動向を探るというのが目的だったが、正直なところ、明は翔と一緒に出かけられるということだけで舞い上がっていた。飛鳥からは「んまー、せっかくのデートなんだし、普通に楽しんでくれば?」と楽観的な様子で送りだされた。一応、明の服の襟元には小型ピンマイクが取りつけてあり、会話の内容はすべて録音している。会話の最中に突然手掛かりが出てきても聞き逃す心配はない。
とはいえ、もし彼女が来なかったらどうしよう――と何度も時計の針を見やり、スマートフォンを確認する。不安な気持ちが巡りに巡り、今か今かと待ちわびた集合時間。その丁度五分前に、ぽんぽん、と後ろから肩を叩かれる。
「ごめん、待たせちゃったかな?」
振り向くとそこに、
小花柄に彩られた、可愛らしい薄桃色のワンピース。その上に薄手の白いカーティガンを羽織っている私服姿は、いつも見慣れたブレザーの制服とは打って変わって、翔の柔らかい印象を女性らしく際立てていた。明はより魅力が増した彼女の姿を正面から直視できず、不意にどぎまぎしてしまう。
「どうしたの?」
思わず挙動不審になる明に、きょとんと首をかしげる翔。
「あ、いや、大丈夫。大して待ってないよ。こっちこそ、休みの日にわざわざ来てくれて、ありがとうというか、何ていうか」
「ううん。どうせ家に居てもいいことないし。それじゃ、早速行こっか!」
早速、二人で並んでショッピングモールへの道を歩き始める。
改めて考えると、年頃の男女が週末の盛り場で遊んでいるというシチュエーションがいかにもデートらしい感じという事を再確認して余計緊張してしまう。
しかし、一緒に歩き始めると、本来の目的をすぐに忘れてしまった。ハンドメイドコスメのお店で化粧品を使ってみたり、はたまた流行りの服を試着してみたり、話題のスイーツを二人でつまんでみたり。柄にも無くはしゃぐ翔に「早く早く」と手をひっぱられ、様々なお店を見て回った。一体なにから話せばいいのか――と、話のネタまで考えていた昨晩だったが、何か言葉に詰まると「ねえ、玄崎くん」と、翔のほうから自然と会話の糸口が紐解かれ、お互い話題には事欠かなかった。
本当に、夢のような時間だと思った。
レイブンとの戦いやメトセラ製薬の陰謀にまみれた毎日とは打って変わって、こんなに楽しい時間を過ごすのは生まれて初めてかもしれなかった。レイブンに襲われてから今日まで過ごした毎日が、タチの悪い冗談のように思えてくる。
――けれど、自分の体は既に化け物に変わってしまっている。
自分たちの笑顔の裏側で、今も喰い物にされている人たちがいるかもしれない。
逃れられない現実から目を背け、途方も無い幸せを肌で感じる度に、自分の中に巣くう名前のない怪物が、耳元に囁き掛ける。
お前は人を殺している。だからもう、戦うことから逃げられないのだと。
「玄崎くん?」
翔の呼びかけに、ようやく我に返った。
「あっ――ごめん。ちょっと考え事してた」
「そろそろお腹空かない? 丁度お昼時だし、なんか食べたいものあるかな」
お互いに歩き疲れたという事もあり、明は翔の勧めで大手チェーン系列のコーヒー店に入ることにした。飲み物は勿論、デザートから定食まで何でもありの有名店舗で、世間に疎い明の耳にも馴染みのある店舗だった。昼時という事もあってそれなりに混雑はしていたものの、二人で雑談している間に順番はすぐに訪れた。
飛鳥は山盛りの生クリームが乗ったイチゴ味のフラぺチーノ、明はチョコレート味の同じものを注文した。加えてアイスクリームが乗った三枚重ねのパンケーキに蜂蜜がけのフレンチトーストを平らげればお腹一杯。女性にしては目を見張る食欲を見せた翔に対し、明は目を丸くしていた。
「ご、ごめん、がっついちゃって。はしたないよね。やだ、わたしったら」
ふと我に返ってしおらしくなる翔に対し、明が慌ててフォローに入る。
「い、いや。よく食べるんだなって。大丈夫。ちょっと意外だっただけ」
「最近すぐお腹すいちゃって。ダイエットしなきゃとは思ってるんだけど、どうにも止まんなくて……」
「僕も甘いもの好きなんだ。チョコレートとかスイーツとか、ついコンビニとかで見かけると買っちゃうから、すごいわかる。そういうの」
「ありがと。こういう所って、誰かと一緒じゃないとこないから、ついはしゃいじゃって……久しぶりに目いっぱい遊んでる気がする。ね、午後はどこいこっか」
「そうだな……まだ観たい所とかある?」
「あ、じゃあ二階の雑貨屋さんとかどう。玄崎くん、一人暮らしでしょ。いい感じの家具とかインテリアが売ってるお店、あるらしいんだ」
「うん、じゃあ午後はそこに決まり」
「やだな……私ったら、今日は玄崎くんのお買いものに付き合うはずだったのに、つい。こんな風に遊ぶの、実は初めてなんだ」
「意外だな。友達とか家族とはこういうとこ、来ないの?」
「私、結構学校とか休みがちでしょ。体が弱いこともあって、お父さんがあんまり外に出るのとか許してくれなくて。友達の誘いとかも断わらなくちゃいけなくて、それで結局、親しい付き合いの友達もいなくなっちゃったし」
そういえば、翔が友人と親しく話している姿を、あまりクラスで見たことなかったなという事を、明は改めて思い返す。同じ孤独を抱えているもの同士、彼女に対して再びの親近感が湧くが、どこか遠慮させているのではないかと不安な気持ちが湧く。
「――そう、なんだ。今日も無理させちゃった、かな」
「あ、ううん、そうじゃなくて! お父さん、最近お仕事で忙しいみたいで部屋に缶詰状態みたいなの。『出かける』って行っても全然反応なかったから、勝手に出てきちゃった。せっかく玄崎くんが誘ってくれたんだもの。断るわけないよ」
監視カメラからの情報によると、天塚丈一郎は殆ど外出せず家に引き籠りがちの様子だった。確かに、飛鳥が言っていた話と食い違いはない。この分だと、翔はあまり丈一郎に関する情報は持っていなさそうだと明は思う。確かに、自分の父親がどんな職業に就いていて、どんな仕事をしているか理解している子供は珍しい。明の父親も大企業勤めだと聞くが、一体何の業務に就いているのか特に関心が無かった。従って、翔からもあまり有用な情報は聞き出せなさそうだと――と、明は本来の目的とは逆に、安心する。もし何か、事件に深い関わりがあったり、あるいは彼女に危険が及んでいたりしたら一体どうすれば良いのかと思っていたが、少なくとも今日のデートは、無事に終えられそうだと、明は胸をなでおろした。
*
買い物をしているうちに、既に時刻は夜の七時。高級レストランやお洒落なダイニングバーなどが立ち並ぶ大通りの中、結局ふたりは普段から馴染みのある、チェーン系列の洋食店に入ることにした。一応男女同士の夕食ということで気負っていた部分があったのだが、お互いそんな緊張感を察したのか「まぁ、ここでいっか」と、年頃の学生らしく、苦笑いしながら妥協した結果だった。
「あーつかれた。結局、一日中歩き回っちゃったね。午後もいろいろ振り回しちゃったけど、付き合ってくれてありがと」
テーブルを挟んで二人、窓際の席に腰を下ろす。
窓際からはショッピングモールの煌びやかなイルミネーションが見える。昼間から比べて人の行き来が増えており、家族連れに加えて、年若い男女の姿も目立つようになった。
「いや、こっちこそ。天塚さんのおかげで、良いプレゼントが見つかった。これで、恥かかずにすむよ」
明がプレゼントに選んだのは紅茶の詰め合わせセットだった。可愛らしい色遣いの缶の中に様々なフレーバーのティーバッグが入っており、おまけにオリジナルデザインのカップまでもが付属している。翔のお墨付きということもあり、何やら女性からの人気は非常に高いらしい。デートの口実とはいえ実際に買ってしまった以上、飛鳥にでも渡せば喜んでくれるだろうか――と明は考えていた。
「えへへ、どういたしまして。私の買物にも付き合ってくれて、ほんと楽しかった」
話している間に、定食が運ばれてくる。明は粗挽きハンバーグのセット、翔は半熟卵のオムライス。お互い食事をぺろりと平らげたその後も話は弾みに弾み、次第に話題はお互いの私生活のことに移っていた。
「――そういえば玄崎くんって、一人暮らしなんだっけ?」
デザートのチョコバナナパフェをスプーンで掬いながら、翔は明に聞いた。
「うん、そうだけど」
相変わらずよく食べる女の子だな――と微笑ましく思いながら、明は答えた。
「偉いよね。高校生なのに自分で洗濯物とかご飯作ったり、全部自分で管理してるんでしょ? 自立してるの、前からすごいって思ってた」
「そんなことないよ。色々サボったりして、今も洗濯物溜めちゃってるし」
自宅の洗濯籠に溜まった衣服の山を思い返すと、正直今でも憂鬱になる。週末にまとめて洗濯をするよう心がけているものの、昼夜共に忙しくしている最近はそれすらも億劫で、いつかはどうにかしないと――と思い、内心で頭を抱えていた。
「ご両親の方針とか? それとも自分から?」
「高校卒業を機会に、自分から家を出たいって言ったんだ。あんまり実家に、居場所が無いって思ってたから」
「……あの、もし嫌じゃなかったら、聞かせてほしいな。玄崎くんのこと」
自分の過去について、進んで語りたくはなかった。しかし、翔に対してならば、自分の嫌な記憶をさらけ出しても良いと考え始めていた。「あまり、楽しい話じゃないけど」と言う明の前置きに対し、翔はこくりと頷いた。
「……滅茶苦茶出来の良い弟がいるんだ。二つ違いなんだけど、全国模試でトップレベルの点数取るくらいの優等生でさ」
「そう、なんだ。初めて聞いた。弟さんのこと」
「その一方で僕みたいなのと来たら、中学でも赤点食らうレベルでさ。そんなもんだから、弟はすごい甘やかされて、僕なんかは相当厳しくされてた」
「……なんか変な話。おんなじご両親が育ててるのに、玄崎くんが失敗したみたいな扱いだなんて」
普段は柔らかい翔の語気が、いつの間にか強まっていた。明はもう、自分の境遇についてはとっくに諦めている。別に今更文句を言うまでもない。しかし翔が自分の境遇に対して疑問を抱き、怒っているのというのがどこか、不思議だった。
「でも、そういうものだろ。頑張ってるほうが報われるのは当たり前だ。僕は勉強も運動も中途半端だったから、多分出来損ないだったんだ。きっと家族にも、居ないほうがいいって思われてた」
「そんなこと――」
中学生にして、ほとんどの教科は平均点以下。内申点を維持することが出来ず、「公立高校に落ちたら中卒で働け」と父親には口を酸っぱくして言われていた。死ぬ気で勉強した挙句、やっとの思いで偏差値そこそこの公立高校に入学することが出来た一方で、弟はと言えば常に学年上位クラスに位置しているエリートだ。今は県内トップの私立高校に推薦入学がほとんど確定だろうと言われていて、そんな弟と比べ、明は常に家族の爪弾きものだった。
「そういう空気を感じ取ってたから、耐えられなくてさ。僕のほうから一人暮らしをさせてほしいって言ったら、すぐに家を用意してくれたんだ。まるで準備してたみたいにさ。せめてバイトでもしようと思ったけど『お前なんかに学業とバイトの両立が出来るわけない』って言われて、結局今は、親の仕送りだけで生活してる」
親に刃向かいたくても、それすらも出来ない。親に対して反抗のひとつも出来ないままに高校生になってしまった自分のような人間は、きっとただの出来損ないなのだと、ずっと思っていた。だからせめて、誰かに迷惑をかけるくらいなら、いっそ自分から消えたほうがいいと考えていた。
「ごめん、暗い雰囲気にしちゃって」
翔は明の話に、じっと聞き入っていた。そんなことないよと、首を横に振る。
「でも、今は凄く気楽なんだ。誰にも気を遣わないで暮らせるし、意外と自炊とかも楽しいしさ……それに今は、何というか、自分のすべきこととか、やらなければならない事が、見つかりそうな気がして」
無力だったはずの自分が、今ではレイブンに変身する事で、誰かを助ける事が出来る。生身の自分に価値が無くとも、怪物として戦い続ける事で救える何かがあるはずだ――それを証明したくて、きっと自分は戦い続けているのかもしれない。
「それが正しいのかどうかは、今でも分からないけど」
でも、人殺しの罪を背負って戦うのが、果たして正しいことなのか――明の脳裏には、メトセラ製薬の実験台と化した人々の写真が過ぎっていた。例え異形の怪物と化した身でも、人間は人間に違いない。幾らレイブンが人間を喰い殺し、社会に害を成す存在とはいえ、それを純粋な悪と断じて殺すことが、果たして正義なのか。
僕がしてきた戦いは、間違いだったのか。
――今でも、正しい答えは出せないでいる。
「じゃ、私も似たようなものって言ったら、怒るかな」
「天塚、さんも?」
翔の意外な発言に、明は目を丸くした。
「私ね。連れ子なんだ。今一緒に暮らしてるのは二人目のお父さんで、再婚した後に連れてこられたの。でも、本当のお母さんはいつの間にか、いなくなっちゃった」
知っているとは言えなかった。以前、飛鳥がメトセラ製薬の社内ネットに不正アクセスした際に、天塚丈一郎の個人情報を盗み見たからだ。しかし、ネットに記載されている無機質なデータと、彼女の口から語られる家庭の事情は、全く別のものだ。
「だからね、おうちに居場所が無い気持ちって、よくわかるんだ。お父さんが好きだったのは、私のお母さんだもの。血の繋がってない子供を愛するだなんて、簡単には無理な話だってわかってる。でも、一度家族になっちゃったから、しょうがなく一緒に暮らさなきゃいけなくって――いろいろと無理してるんだ。うちの家って」
「……そう、だったんだ」
翔の話を聞いて、何故だか、明は気恥ずかしさを覚えていた。
自分だけが不幸な人間だと考えていた。世界で一番――とまではいかずとも、下から考えた方が早いくらいには、自分はアンラッキーな人間だと思っていた。幸せな家庭を持つ人間を羨ましく思い、自分の境遇について、全て親の責任にしていた。
もし弟がいなければ、もし両親がまともな人間なら、あるいは自分は幸せな人生を送ることが出来たかもしれない――そう責任転嫁することで、自分は今まで何もしてこなかった。何も成し得ないままに、無意味な人生を過ごしてきた。
でも、つらいのは自分だけじゃない。当たり前の話だが、改めてそれに気づかされてしまった。独りよがりに不幸を気取っていた自分が、とても幼稚な人間に思えた。
「それでも、今はたった一人の家族だから」
翔は不幸な境遇を自嘲することもせず、それでも前向きに笑っている。
「できることからやっていこうと思うんだ。お父さんがお仕事頑張ってる間に、家事とか洗濯とか、私なりに出来ることを見つけて、いつかちゃんとした家族になれればって思ってる」
「強いんだ。天塚さんは」
「――つらいこともたくさんあるけどね。でも私は学校が楽しいから。玄崎くんと、こうしてお友達になれたし」
満面の笑みを浮かべる翔に、明も心から微笑み返した。
「そう……だね。お互い、色々と巧く行ってない同士だけど、だから、その、これからも――」
出来れば、仲良くしてほしい――そう口にしようとした刹那。
明の言葉は突然の頭痛に、遮られた。
「……づっ!?」
瞬間、頭蓋骨の隙間に鋭い針を突き刺されたような痛みが走った。ほんの僅かな間の激痛、それと同時に、あまりに鮮明過ぎるビジョンが脳裏によぎった。
「だ、大丈夫、玄崎くん?」
野生の獣じみた捕食衝動と途方も無い飢餓感を伴った映像が、瞼の裏に残留していた。空中から飛来し、眼下に群がる大量の獲物に食らいつかんとする根源的欲望。
――レイブンが、ここにいる。
店の外から聞こえた絶叫。そしてたった今、誰かが襲われたという確信があった。
明は店から外に出て様子を伺った。遠くから複数の叫び声が聞こえていたと思えば、恐怖に慄く悲鳴はどんどん近くなってくる。次第に通りは血相を変えて逃げ惑う人たちで埋め尽くされ、混乱が混乱を生むパニック状態に陥りはじめていた。
「どうしたの、何かあったのかな」
不安げな顔でついてきた翔の顔をひと目見る。少し考えこんだその後、明は人々が逃げてきた方向をじっと、見据えた。
「ごめん。天塚さん」
明は無意識に、翔の手を握った。柔らかく、か細い感覚が、手のひらから伝わってきた。ふと明の横顔を見上げる翔を気にもせず、視線は彼方を睨み続けていた。
「先、帰っててもらえるかな。本当にごめん。いつか埋め合わせは必ず、するから」
「え、何、どうしたの玄崎くん。なんかおかしいよ、ねぇ――」
「……みんなを、助けなきゃ」
このまま、彼女を連れて逃げるのが正しいとは分かっていた。
しかし頭の中で繰り返される葛藤とは裏腹に、体が、自動的に動いていた。
「それじゃ、また学校で」
「玄崎くん!」
飛鳥を置いて、人混みの中へと駆け出した。人の流れに逆らって走る途中、ポケットの中でスマートフォンが震えだした。
「聞こえてる明!? 今あなた達がいる場所でレイブンの目撃情報が――」
「分かってる。奴のところに向かう。場所は?」
「その先のセントラルプラザ。既に被害者が複数出てるって警察に通報があった。こんな人気の多い場所でレイブンが現れるだなんて今まで有り得なかったのにいったいどうして――って、天塚さんは?」
「先に帰ってもらった。さっさと始末して、謝らないと」
『帰ってもらったって――まぁいい。こっちも言いたい事は沢山あるけど、とにかくこれ以上の被害を喰い止めないと。すぐそっちに向かうから!』
飛鳥との通話が切れる。
パニック状態の人混みを抜けると、そこには地獄が顕現していた。
「――え」
現実を受け入れられず、言葉を失った。
ライトアップされた噴水の周りに、複数人の死体が転がっていた。子供から大人、カップルから家族連れまで、ついさっきまで週末の夜を満喫していたはずの人々が、既に物言わぬ骸と化していた。赤黒い血飛沫が辺りに撒き散らされているその中心に、甲虫型の怪人が、耳障りな金切り声をあげていた。
タイプ・ビートル。先ほど明のスマートフォンに、
「なんで、こんな……!」
目の前に広がる惨状に、思わず両足が震え始める。
死体は見慣れているはずだった。けれどこれほどまで無残な光景を見るのは初めてだった。子供から大人まで、たった数分の間、無抵抗のままに奪われた罪のない人々の命。助けられなかった人たちへの罪悪感と、間に合わなかったことへの後悔、そして何より自分自身への無力感と、突如現れた殺人鬼へ対する怒りが混沌と渦巻き、抑えきれない感情で全身が震えていた。
「……結局、何が正しいかなんて、分かんないけど」
――ぎり、と歯を食い縛る。
しかし、このような惨状を巻き起こした怪物であれど、レイブンは未だ人間の輪郭を保っている。二足歩行で直立し、頭部にも僅かながらヒトの面影が残っている。レイブンがメトセラ製薬の陰謀により生み出された実験体ならば、あの怪物も一種の被害者である事は間違いない。
「けど、お前らがこのまま、誰かを傷つけるっていうのなら」
だが、レイブンと化した実験体は、新たな被害者を生み出し続けている。彼らが人の命を容赦なく奪う悪魔と化してしまった以上、救いの手を差し伸べられる余地はもはや何処にもない。
助けられないのなら、殺すしかない。
取り返しの付かない咎を背負わされた怪物の宿命を、せめて断ち切る為に。
その力を持つのが、他ならぬ
「――俺が終わらせてやる。レイブンとして、お前ら全部を!」
戦うこと、それ自体が罪だと言うのなら、咎を背負うべき覚悟はあった。
明の叫びを引き金に、一瞬にして全身に纏わり付く黒色の甲殻。闇夜の影が人の形を得たかの如き漆黒の甲冑――鴉羽色の騎士が、その姿を現した。
怒りと悲しみで震える右手にて、漆黒の刃を振り抜いた。
琥珀色に煌めく眼光が、甲虫型の怪物を、正面から射抜く。
それが、殺し合いの合図だった。
EPISODE:9 End.
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