EPISODE:3 侵食変異/ Shadow awakenning

 目が醒めると、自宅のベッドの上にいた。二階建てのアパート。特別これといった個性もないワンルームの部屋。枕元の時計を見ると時刻は午前九時。閉め切ったカーテンの隙間から、が明るい日光が差し込んでいた。曖昧だった意識が次第に輪郭を取り戻すと、明は反射的に胸をまさぐった。


 血がこびりついたシャツに胸が破けた学生服。それを見た瞬間、昨夜の出来事が濁流のように思い出された。


 廃工場の死体。蜘蛛の姿をした怪物。そして白き羽根の天使。


 ――あの時、自分は殺されたはずだった。


 全身から消えていく体温、霞んでいく視界。死に際に視た白き天使。


 どこからが現実で、どこからが幻想だったのかすら判別が付かない。そもそもあの廃工場からどうやって自宅まで帰り着いたのかすら覚えていない。


 胸の穴は綺麗に塞がっており、そもそも貫かれた痕跡すら全く無い。鳩尾の部分は傷など無かったかのような状態だ。しかし血と泥に塗れた学生服とシャツだけはれっきとした証拠として残されている。


 だから夢ではない。しかし胸を貫かれて殺されたにも関わらず、完璧に傷は塞がった状態で、玄崎明はこうして生きている。


 再び時計に視線を向ける。既に学校は始まっているが、こんな状況で登校する気にはならない。明は血塗れの学ランとシャツを洗濯籠に放り込むと、シャワーを浴びようと浴室に入った。蛇口を捻り、頭から、熱い湯を浴びる。全身にこびり付いた汗と泥、そして乾いた血が洗い流され、一気に体が軽くなったような気がした。


 しかし、どこか体の調子が悪いように思えた。頭がぼうっとし、若干の悪寒を覚えていた。殺されかけたのはさておき、制服のまま寝てしまったせいで風邪を引いたのかもしれない。よく分からない状況のまま出かける気にもならないし、今日は安静にしていよう―――明はそう思いながらシャンプーを手に取り、いつものように頭をこすった。さっぱりとした気分の裏側に、微かな違和感を覚えて、何となく掌を見る。


 

 大量の髪の毛が頭皮ごと、掌にこびり付いていた。驚いて取り落とした髪の毛が浴室のタイルにべちゃりと落ち、排水溝に詰まった音を立てた。


 焦って鏡を見ると、額から頭頂部に欠けてごっそりと頭皮が剥がれていて。

 剥がれた頭皮のその下に、黒い甲殻じみたものが覗いていた。


「……っ!?」

 皮膚の下に、昆虫の甲殻のようなものが存在していた。真っ黒で、そして艶めいた黒色の物体は硬質な感触で、およそ人間の皮膚とは程遠いものだった。パニックになって浴室から出ようとした瞬間、明を唐突なめまいが襲った。


 視界がぐにゃりと歪み、真っすぐ立っていられない。直後、猛烈な吐き気に襲われ、裸のまま脱衣所にて嘔吐する。


 吐瀉物までもが重油の如く真っ黒と来たら、普通の体調不良や病気の問題じゃ無いことは明らかだった。何か深刻な事態が自分の体に起きている――呼吸が困難な状態で救急車を呼ぼうとするも、スマートフォンはベッドの脇に置きっ放しだった。


 明の意識が途切れた。呼吸はそこで、止まっていた。


 

EPISODE:3


『Shadow awakenning』


 三日が過ぎた。


 玄崎明は再び学校に通い始めていた。いつも通り家を出て、放課後はまっすぐに家に帰る。元のように平穏な日々、飽きる程に繰り返した日常のルーチン。


 あの日。気を失ってから、数時間後に目を覚ました。剥がれた頭皮は髪の毛も含め元の形に戻っており、額から覗いた黒い甲殻じみた物体は影も形も無くなっていた。頭皮の下には頭蓋骨の感触しかなく、体調も元のように戻っていた。


 念のため地元の総合病院に足を運んだが、何にも異常は見受けられず、医者にはむしろ健康そのものだと言われた。血液検査に加えてCTスキャンまで行うほどに徹底した検査をしてもらうも、結局体の何処にも悪い所は無く、むしろ、以前と比べて調子が良いように思えた。どんよりとした肩の重みが無くなり、羽でも生えたように体が軽い。霞がかっていたような思考はどこまでも澄み渡って、おまけに視界までもがクリアに見え、むしろ見える風景がどこか眩しく見えるくらいだ。


 あの時、自分の頭に覗いた黒い甲殻のような物体。自分が吐き出した真っ黒な吐瀉物。全ては高熱でうなされている間に見た幻覚だったのだろうか。そう思いたい。


 けれど、あの日を境に、間違いなく自分の体は、異常をきたし始めている。

 学校を休んでいる内に、少しずつ、分かってきたことがある。


 ――だから、幾つか試したいことがあった。


 二限目の体育。今日の授業は球技大会に備えてのバスケットボール。体育館に集合した生徒は赤青のビブスを着用し、二組のチームに分けられていた。


 明は以前から球技が嫌いだった。体育会系の部活に入っているチャラい奴らがこぞってボールを持ちたがり、やたら良い格好をしたがる上に、下手な人間がボールを持てばミスをこぞって叩きたがる辺り、心底鬱陶しく思える。正直なところ、適当な理由をつけて保健室でサボっていたい明だったが、内申点に響くとあれば無理してでも出なければいけないのが体育の授業の憂鬱な所だった。


 だけど今日は、少し違う。むしろ明は、体育の授業を楽しみに待っていた。


 プレーが始まる。


 トスアップを奪ったのはサッカー部の菊池だった。赤いビブスを着た菊池は明の相手側チーム。身長は180センチ超えで、170センチに満たない明よりも体は大きく、おまけに運動神経も相当良い。


 ただし性格は最悪で、教師や審判の見ていない所で過激なラフプレーを連発し、一部の生徒からは怖がられている存在だ。目の前に無気力で突っ立っている明を、菊池はドリブルで抜き去ろうとする。おまけに肘鉄でも食らわせてやろうという魂胆なのだろうか――露骨に接近した菊池が明の脇に接近する。


 直後、

 一度、二度。三度。ボールを地面に突いて、これ見よがしに菊池の方を向いた。


 ――やっぱり、出来てしまった。

 驚きの裏側で内心、にやりと笑う自分がいた。


 呆気に取られている菊池を見て、明は体の変調を再認識した。菊池が近づくにつれて、彼の動作が手に取るように理解出来た。時間が止まったような感覚。ボールを突く手の平、ドリブルの足運び、菊池が見ている方向。ボールがどう動き、そして相手が次の瞬間、如何に行動するかが明には本能的に理解できてしまった。すれ違い様に少し手を伸ばしただけで、ボールは明の手元に吸い込まれるように誘われていった。


 いつもの自分ではこんなこと、あり得なかった。小学校の頃から今の今まで運動神経は最悪。体育の授業では常に運動部の連中からのけ者にされていた自分が、まさか菊池からボールを奪えるだなんて。


 明の鼓動が、少しずつ高鳴りを始めた。

 実験の続きだ。


 ボールが奪われた瞬間に、相手チームの生徒が明の元に群がってくる。数にして三人。すぐさま目線を光らすと、足下の隙間を縫った高速ドリブルで瞬時に抜き去った。もう一人をロールターンで軽々に躱すと辿り着いたゴール下で滑らかなレイアップ――明が放ったボールは易々と、自然な軌道でリングの中に吸い込まれた。


 たった数秒の出来事。体育館が静まり返る中で、ボールが床に落ちてバウンドする。敵味方全ての注目が、青いビブスを着た玄崎明に集められていた。数秒で四人を置き去りにしてのシュート。今目の前で起きた出来事は一体何なのか、このスーパープレイを生みだしたのは本当に玄崎明なのか。


 道筋が見えていた。人と人との間の隙間。どこを走れば効果的に移動でき、相手を抜き去れるのかという明確なラインのようなものが、明には無意識下で理解出来てしまっていた。相手を見た瞬間、頭で考える間も無く、体がそう動いていた。


 気づけば体育館の全生徒の視線が、明に集中していた。


 他クラスの生徒、体育教師。そして隣でバレーボールをしていた女子生徒まで、全ての生徒の注目が、玄崎明の元に集まっている。


 ――まずい、やり過ぎた。

 脳内に駆け巡る絶頂感が醒めていくと、潮が引いたように襲い来る焦燥感。


 ちょっとした実験のはずなのに、つい調子に乗り過ぎてしまった事に気づいて、明の顔が青ざめていく。明はボールを近くの生徒に渡すと、そそくさと逃げるように体育館を出ていった。


                   *


 体育の授業の後、明は学校を早退した。現在時刻は午後の八時。日中気温が高くなり始めたこの季節、都会の生暖かさが残る夜風が、玄崎明の頬を撫でていた。


 制服から着替えて、フード付きの黒いスポーツジャージにボディバッグを背負うラフな格好。明は雑居ビルの屋上に、一人佇んでいた。複数のテナントが混在する七階建ての典型的なビルからは、鴉ヶ丘市の夜景が見える。高層ビルと集合住宅が密集する合間に色取り取りのネオンが煌く街並みを望みながら、明はずっと、考えていた。


 ――レイブンに襲われて、目を覚ましてからの自分のことを。


 変調を自覚してから、少しずつ実験を続けていた。


 自覚しているのはまず、異常なまでの身体能力の向上。運動音痴だった自分が、いつの間にかバスケットボールで運動部の連中を手玉に取れるまでの反射神経と動体視力を身に着けていたということ。


 怪物に襲われたことに因果関係があるのは間違いない。一体自分に何が起こっているのか、そしてこれからどうなるのか。


 ただ、今の自分の体でどれだけ、どこまで出来るのかを試してみたかった。


 屋上の淵に立ち、隣のビルに目をやる。

 空調機や貯水槽が立ち並び、配管が網目状に張り巡らされた屋上が見えた。距離は少なく見積もっても五メートル程度。明の眼下にはアスファルトの地面が見える。この高さから落ちてしまえば少なく見積もっても大怪我、下手をすれば即死だろう。それを理解して、明はスニーカーの紐を結び直す。


 何故だか、失敗するというビジョンは見えなかった。少し躓いただけで待ち受けるのは一直線の死。しかし理性を司る器官が麻痺してしまったかのように、恐怖という感覚が欠落していた。


 思い切って、右足を踏み込んだ。

 駆け出した瞬間、明の体が重力から解き放たれる。

 虚空に放たれた明の体は一瞬にして五メートル以上の距離を跳躍し、向こう側のビルに易々と着地していた。


「――はぁ、はぁ、はぁ」


 膝を付いて振り向いた。目線の先に、先ほど居たビルの屋上が彼方に見える。

 これも、出来てしまった。


 緊張の糸が切れた瞬間、忘れていた動悸が戻ってきた。冷静を努めていたが、存外に自分が恐怖を覚えていたことが可笑しく思えてしまう。あんな簡単に飛べてしまうとは思わなかった。この調子なら、もっと高く飛べるかもしれない――そう、内心で確信している自分がいた。


 動体視力や反射神経に加えて、筋力や瞬発力まで向上している事が分かった。この分だと、自覚していない身体能力も同様に向上しているに違いない。


 頭を掻いた。ほんの少し、ポロリと零れ落ちる何かがあった。

 足元に落ちていた、石ころの欠片のような物体を拾い上げる。艶のある黒色をした、黒曜石のような物体。


 ――もう、夢ではないと分かっていた。

 


 寝て目覚めると、ベッドに残る黒い欠片が残るようになった。垢やフケと同様に自分の体から排出される硬質な欠片は、昆虫の甲殻のようなものに似ていた。一体これが何なのか。研究機関に提出すれば然るべき答えを出して貰えるのだろうか。しかし病院に行っても精密検査の結果異常は無いと言われ、黒い欠片を渡しても取り合ってはもらえなかった。


 自分は怪物に変わりつつある。身体能力の向上は、レイブンに変わる過程のものなのかもしれない。自我を失い、人食いの怪物になってしまうのか、あるいはこのまま死んでしまうのか。


 両目を瞑り、都市の静寂に耳を澄ました。そしてゆっくりと目を開ける。


 この付近――ビル近くの小さな公園で、僅かな悲鳴を上げた女性がいた。仕事帰りのOLが、三人の屈強な男性に大通りから連れ込まれ、目隠しをされている。声を漏らした瞬間に頬を殴られ、口に布を押し込められていた。公園に面した通りには白いワゴン車が停車しており、暴れる女性を無理矢理連れ込もうと抑え込む。


 三日前からずっと、聞こえていた。


 この街で善良な人々を食い物にする犯罪者の嘲笑。そして。姿形が見えずとも、確かに存在する都市の巨悪に、明は感づいてしまった。聴覚や五感の領域を超えたどこか得体の知れない感覚が、本能的に警鐘を鳴らしていた。気づいてしまえば、無視することは出来なかった。


 戦う術は手に入れた。ならばそれを行使する為の実験が必要だ。

 ポケットから取り出した黒いバンダナを口元に結ぶ。フィンガーレスのグローブを装着。そして、フードを顔深く被る。準備は既に出来ている。


 ――あとに必要なのは、勇気だけだ。


 生唾を、飲み下した。明は意を決して屋上の淵から飛び降りた。所謂パルクールに倣う疾走。七階建ての雑居ビルから徐々に低い建物や非常階段を伝い、眼下の公園まで跳躍を繰り返し駆け抜けた。僅かな木々に囲まれた公園の入り口にいとも容易く着地すると、猫のような前転の受け身で勢いを殺した。


 女性を引きずりワゴン車の後部座席に押し込もうとしていた男達が、明の着地音に振り返った。犯行の瞬間を見られてしまった男達が、明に向かってくる。普通の声に加えてイントネーションの怪しい日本語も聞こえてくる。蒼白い街灯に照らされた明は改めてフードを被り直すと、意を決して男達に対面した。


 予告なしに繰り出された右ストレートを、明はそのまま掴む。全ては見よう見まねだった。動画サイトで見た格闘術。敵の力を利用し、重心移動と足運びのみで相手を倒す技。明は醒めきった表情で真っ直ぐに殴り掛かってきた男の手首を掴むと。


「――っ」


 外側に引き付け、背中をほんの少し押すだけ。そのまま地面に、叩き付けた。出来た。これも、出来てしまった。明はいとも簡単に男を倒せてしまった自分に鳥肌が立った。迫り来る拳が止まって見えた。全ての動きが、手に取るように理解できた。バスケの時と同じく、自分は以前に比べて格段に運動神経が上がっている。


 ――やっぱり、僕は強くなっている。


 背後から迫り来る金属バットを僅かな所作で躱すと、低い姿勢で肘鉄を喰らわせた。腹部に一撃、呻き声を上げて腹を抑える男の膝に蹴りを加えて地面に這いつくばらせる。痛みに悶えている男達に対し、哀れみの気持ちは一切湧かなかった。

 残りは一人。しかし姿が見えない。尻尾を巻いて逃げ出したのだろうか。


 女性はワゴンの後部座席に押し込められていた。何度も顔を殴られて憔悴しきっている様子で、一人で逃げることは難しそうだった。 


「大丈夫、ですか」


 きっと大丈夫じゃないだろうけど――出来るだけ声色を変えて、拉致されかけた女性を助ける。目を見開いて怯えた呻き声を上げている。口元には布を突っ込まれた上にガムテープを貼り付けられていた。


 女性が急激に目を見開き、体をよじって呻き始めた。彼女の仕草に気づいて振り向くと、目の前にサバイバルナイフを掲げた男がいた。刃渡り十五センチほどの分厚い白刃が街灯に照らされ、凶悪に煌めいている。勢いよく逆手で振り下ろされた刃を、明は反射的に庇った左腕で、正面から受けてしまった。


「……づっ!」


 しかし、明の左腕に刃が辿り着く事は無かった。何故なら明の腕を瞬間的に覆い尽くした甲殻が、サバイバルナイフの白刃を食い止めていたからだった。


 ナイフを持った男の驚愕に、明も目を見開いた。街頭に照らされ艶めく漆黒の甲殻は、自分の体から零れ落ちる欠片と全く同じ質感をしている。ナイフ相手に傷一つ付かず、明の右手を保護するよう、自動的に腕を覆っていた。


 明は左腕で男の手首を掴み、ナイフを持つ手を一瞬で捻りあげた。見よう見まねの格闘術だったが武装解除には成功、男がうめき声をあげ取り落としたナイフを蹴飛ばすと、うつ伏せに倒した男の上に馬乗りになる。


 子供時代を除けば、まともに喧嘩などしたことは無かった。いくら反射神経や動体視力が向上しているとは言え、複数人をいきなり相手にするなんて無謀過ぎたと明は反省していた。失神した三人を尻目に、今でも動機が止まらない。一歩間違えれば殺されていたかもしれない――と明はナイフで斬り付けられた左腕を見る。


 しかし、そんな心配すら要らないのかもしれないとも思う。

 左手を覆っていた黒い甲殻が、一瞬で細かい欠片と化して剥がれ落ちた。


 倒れた男たちを全員、ボディバッグから取り出した結束バンドで拘束する。捕まっていた女性を解放すると、匿名で警察を呼んだ。女性にしきりに礼を言われ、名前や助けてくれた理由など色々と聞かれたが、明はじっと黙っていた。パトカーのサイレンが近くに聞こえ始める頃に、明はビルの非常階段を伝って屋上までジャンプし、現場から去って行った。


 いったい何故――と聞きたいのは、正直なところ明のほうだ。運動神経の向上に加えて、自分の右腕を覆った黒い甲殻。いよいよ、自分が人間から外れてきた兆しを、肌で実感する時が来てしまったのかと、明は身震いを抑えきれなかった。


 ――僕はもう、人間じゃないのかもしれない。

 けれど、これで、自分がある程度戦える存在だと言うことを証明出来た。

 顔を隠した明の姿が、都会の闇の中へと消え去った。

 最後のステップに、進もうとしていた。


EPISODE:3 End.

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