第8話

「………はっ!?」

 俺は、叫んだ勢いのまま目を覚ました。

 グズグズの地面が非常に気持ち悪い。

 両手を使い体を起こす。

 やけに体が軽かった。


 周囲を見渡すと、木々が目に入る。

 そう、俺は森で遭難したのだった。

 しかし何か様子がおかしい、景色がやけに白んでいる。

 そのせいで、夜のはずなのに周囲の光景がやけにはっきりと認識できる。 

 そして何よりも、誰もいるはずのないこんな森の奥、目の前で呆けたように俺を見つめる一人の少女がいた。


 闇の中でさえ輝きを放ちそうな美しい金髪。

 月光を宿したかのような二つの瞳が俺を見つめている。

 俺もまた、彼女を見つめたまま動くことができない。

 そのあまりに現実離れした美しさに、見惚れてしまっていた。

 やがて少女に変化が現れる。

 肩を小さく揺らしたかと思うと、その両目が真珠のような涙で満たされた。


 胸に軽い衝撃が走る。

 それと同時に俺に飛来した天雷の如き衝撃に比べれば羽毛よりなお軽いであろう、小さな小さな感触。


 少女はこ汚いジャージを両手でひしと掴み、俺の胸で泣いていた。


「よかった……!よかった…‼︎」

 少女はそう繰り返す。

 悪い夢から覚めたかのように。親の元に駆け寄る幼子のように。

 小さい。ごく平均的な背丈の俺でも、両腕ですっぽり覆い隠せてしまいそうだ。

 

 長い……。

 ボーッとなすがまま、立ち尽くす俺は小さな彼女の頭をただ眺める。

 その髪の長さ身長ほどもあり、この雨のせいか所々泥で汚れている。

 そこに指を通したくなる衝動がなんども俺を襲ったが、生来の臆病さがその行動を思いとどまらせる。


 どれくらいそうしていただろうか。

 少女のすすり泣きも随分と収まり、俺はついに沈黙に耐えきれなくなった。


「ええと、君は……?」

 精一杯の勇気を振り絞りだした言葉はきっと震えていたに違いない。

 だが幸い言語としての最低水準はクリアしていたようだ。

 一瞬、彼女の肩が小さく跳ねる。

 そして次の瞬間、その顔がこちらに向かって真っ直ぐに向けられた!


「こんにちは!」

 誰が言ったのだろう、一瞬意識が飛んでいた。

 彼女だ。ここには俺とこの娘しかいない。

 しかしまっすぐにこちらを見上げ、神にそうあれと設計図を引かれたかのような爛漫な微笑みを向けられてしまったのだ。

 だだそれだけで、俺が前後不覚に陥るには十分だった。


「ボクの名前はイルミア。君の名前は……コウ、そうだよね?」

「……へ、へい!」

 間の抜けた俺の返事にも彼女は微塵も気に留めず、顔をほころばす。

「ああ、よかった……。僕はずっと、君を探していたんだ!」


 ああそうか、彼女は俺を探していたのか。

 それはよかった、会えて光栄です、コンゴトモヨロシク。

 

 いや違うだろう!

 刺激が強すぎて脳が正常に機能していないのがハッキリとわかる。

 だが少なくとも、ここが今生の世界から離れた世界だったとして。


 俺がこんな娘から好意の塊をぶつけられるなんて状況はありえない…!


 悲しきかな、かような自罰思考により俺は若干の冷静さを取り戻すことに成功した。

 拳を固く握りしめ、ふわふわした感覚を必死に引き締め俺は声を張り上げた。

「そうなんだ!でも俺は君のことを知らないんだ、ごめんね!どこかで会ったことあったかな!?」


 OKだ。完璧な受け答えができたと心の中でガッツポーズ。

 男らしくハキハキとした俺の対応に、彼女が心なしかポカンとしている気がするのは気のせいに違いない。


「あ……うん、そうだね。君が正しい。僕と君は初対面さ」

 意外なほどあっさりと、彼女……イルミアは肯定を示した。

 ならば彼女はいったいなぜ、どこで俺を知ったというのだろう。

 


「率直に言わせてもらうね。コウ、僕は異なる世界から君を探してここにやってきた。君に、僕の世界についてきてほしい」

 ごく当たり前の疑問を、遠い親戚さんかな?外人の親戚なんかいたかな?なんて頭の中で転がしていたところ、すさまじい勢いの必殺パンチが飛んできた。



 異なる世界……?

 現実離れしたイルミアの出で立ちにつられてしまったのだろう、ピリリとした興奮が軽く体をなぜる。

 だがそれはすぐに呆れと同義の弛緩へと転じ、こわばった肩がストンと下がる。

 なんだ、そういうことか。

 俺も好きですよ、異世界モノ。

 でも実際目の当たりにすると、結構キツいね。


「お断りします」

「ええ!?」 

 驚き顔のイルミアの愛らしさと、超絶電波美少女がこんなところまで人をコケにしにやってきたという悲しみがないまぜになり思わず目頭を抑える。


「そう……だね、いきなりすぎた。ちゃんとした説明もするべきだよね。実は」

「興味がないので」

「はえっ⁉︎」


 対人会話スキルパターンE「絶対拒否」発動。

 著しく人間性を消耗する代わり、あらゆる会話を強制終了することができる。訪問セールス、宗教勧誘特攻。

 傷ついた表情を浮かべる彼女を無下に扱うことに少し、いやかなりの罪悪感を感じながらも、正直もうこの状況は俺の手に余る。


 本当にこれでいいのかというざわめきが、心の内を軽く撫ぜた。しかし彼女がここにいるということは人里もしくは森の出口が近くにあるということだ。

 遭難の事実を真摯に伝え、避難を乞おう。

 緊急事態と心の中で区切りをつける。


「ええと……イルミアさん、実は……」

「結論を急がないで!きっとこれは、お互いに必要な」

「いえですので興味がないので……申し訳ないんですがそれより」

「君が死んでしまうとしてもかい⁉︎」

「ええ実際死にかけてまして、この森からの出口をですね」

「足元を見て!」


 なんなんだろう、随分としつこい。

 足元になんて見ても、目に入るのは落ち葉や泥くらいでしかないだろう。

 と思いつつも、素直に視線を下に落とす。すると……



 そこには、誰かが倒れていた。

 ボサボサの黒髪に痩せぎすの体型。

 泥まみれで顔もよく見えないソイツが誰なのかを、俺はよく知っていた。



 …………俺?

 それは無謀な野営を行い身を危険に晒し、今まさに命を終えようとしている俺だった。

 だがそれは、どう考えてもおかしい。

 俺はここにいるんだ、俺が二人いることになってしまう。


 倒れた自分を、自分が見下ろしている。まるでこれじゃ幽霊じゃないか。

 これが何かの冗談だと言ってほしくて、俺は恐る恐る顔を上げた。

「そう、それは君だ」

 そう答えるイルミアの瞳はどこまでも真摯で、俺に逃げ場を塞がれたような焦燥感を与えた。

 そして意識を失う寸前、あれほど体を苛んでいた苦痛が消えていた理由にようやく思い当たる。


《痛みが消えたのではない、感覚が消えつつあるのだ》


 意識した瞬間、自身の体が自分の体であるという感覚が急激に失われていく。

「なんで……やっぱり死んで……‼︎」

 立ち上る吐き気を、手で押さえる。

 一度浮かんだ希望が、すぐに絶望に取って代わった虚しさに涙が頬を伝う。

 またあの寒気がやってきた。足元から急速に凍てついてゆき全身を包み込もうとする。

 

 だが、それは突然に止まった。

 力なくぶら下げた手に、暖かい熱が灯ったのだ。

 

「落ち着いて。目を開けて、僕を感じて」

 いつの間にか寒気は消えている。

 優しく握られた両手の先から伝わる熱量には、どこか覚えがあった。

 熱はやがて形を変えていく。

 自分が死んだかもしれないという事実、その先を見つめる勇気へと。


「コウ、僕が君を探していたように、君もボクを呼んだんだ。ボクの話を、どうか聞いてほしい」

 俺は今度こそ頷いていた。

 イルミアは満足げに微笑むと、ゆっくりと口を開いた。


「コウ、今君は間違いなく死に瀕している。そして僕はそれを止めることは……できない」


 そんな。そう声を上げる前にイルミアは言葉を続ける。

「でもだからこそ、僕はここにいる。実は今、君と同じ様に避けられない死を迎えた男がいる」

「男……?」

 それがどうしたというのだろう。

 だが俺は、ついさきほど彼女がどこから来たと言っていたのかを思い出した。


「その人は……コウ、僕の世界の、君自身なんだ」

 まさか。そんなことがあるものなのか。

 フィクションの題材として、幾度となく見聞きしたものだ。

 平行世界、もう一人の自分。

 だがなにも、死に時なんてものも同じだなんて。

 いや、同一人物だからこそなのか?

 イルミアの言葉がじわじわと脳に浸透していく。

 しかし理解に対しての行動が、いまだ追いつかない。


「君には僕の世界に来て、彼の代わりに人生を歩んでほしい。それが、僕が君にする最初で最後のお願い……です」

 イルミアの言葉はどんどんと小さくなっていき、最後に絞り切るようにそれだけ言い切ると、口を閉ざした。


「なぜ……俺なんです?」

 それは愚問だったに違いない。

 今彼女は言ったではないか。彼女の世界で死にかけているのはもう一人の俺なのだと。


 でも、それでも……!

 違う世界に俺がいるのなら、なぜそれが一人と言い切れる?

 こんな物語の主人公のような役回り、それに見合うだけの才能も、人格も、持ち合わせていないことなど……自分が一番良くわかっている。

 もっとマシな俺が、どこかにいるのではないのか。

 だからこそ、俺は問わずにはいられなかった。

 イルミアの言葉を待つ。緊張が全身に広がった。


「それは……さっきも言った通りだよ」

「それじゃ答えになってない!」

「僕は世界を渡る力を持っている……でもそれは、本来他人に干渉できるような大それたものじゃないんだ」

「でも……実際に君は、ここにいる」

「そう、僕にとっても賭けだったんだ。それも限りなく分の悪い。そしてその通りに、僕の声には誰も反応しやしなかった……君以外は」


 結局のところなぜ俺のもとにイルミアが現れたのか……その理由はわからないらしいということだけがわかった。

 ならば、この話に拘るのはやめだ。

 俺はついに話の核心へと歩んだ。


「イルミア、俺がもし君の世界に行くことを拒んだら……俺はどうなる?」

 何を選ぶにせよもう一度、今の俺の置かれている状況をハッキリとさせておきたかった。

「それは……さっきも言ったとおり、このままじゃ君は死んでしまう。僕が直接今の君に干渉することはできないから、誰か君の世界の人間が今すぐこの場に現れればあるいは。でもそれは……」

 イルミアはうつむきがちになり細々と言葉を紡ぐ。


「そうか…ありがとう、イルミア」

 何度聞いてもその事実は気持ちのいいものではない。

 長い時間をかけ、俺はその残酷な現実を嚥下していく。

 つまり、道は二つに一つなのだ。


<イルミアと共に行くか、このまま死ぬか>

 

 これだけ見るとまるでイルミアがとんでもない悪女に思えた。

 しかし俺が死にかけている理由に、イルミアは一切関わりがない。

 東雲甲は自分の意思でこれまでの人生を歩み、そしてこんな状況に陥っている。それだけは確かだ。

 イルミアの到来はまさしく宝くじ一等なんて目じゃない奇跡そのもので、俺の人生に現れた天使様に違いない。


 選ぶ道なんて、一つしかなかった。 


 

 だが。

 俺は選べずにいた。

 何もなかった、空虚な十数年。

 手綱を失った風船のような人生が、どうして今こんなにも愛おしいのか。

 その理由は、なんとなく検討がつく。


 怖いんだな、俺。

 イルミアが来た、こことは違う世界。

 未知そのものに飛び込む勇気が、俺にはないのだ。

 なぜなら、俺は拒まれ続けてきたから。

 深く思い出すのも御免こうむるが、だから俺はあの部屋に引きこもったのだ。

 誰かと会うのが嫌なんじゃない。誰かと会って、自分を傷つけられるのが怖かった。

 自分の心を傷つけられたくない。その欲求は、時として生きたいという気持ちすら押しつぶす。



 押し黙る俺をイルミアは険しげに見守っていたが、それが緩んだかと思うとこう言った。

「君がこの世界で身を朽ち果てさせたいという思い、それを否定することは僕にはできない。家族……が君にはいるんだと思う。その人達に別れも告げさせてあげれないんだ、君の逡巡は当然だよ」

 家族。イルミアのつぶやいた何気ないワードが俺を貫く。

 俺を待つ家族なんてもういない。

「違うんだ。イルミア、俺は…!!」

 自分の意気地のなさを良いように捉えるイルミアを訂正しようとしたが、それはイルミアのさらなる言葉で遮られる。


「でも僕は!!……僕には、君が必要なんだ…!」

 また両目に涙を浮かべつぶやくイルミアを前に、俺のすぐそこで止まろうとしている心臓が大きく跳ねた。そんな気がした。


「僕の全てを、キミに捧げる!僕の全てで君を守る!だから、だからお願いだ。僕を……僕を一人にしないで……!」

 なぜこの少女はこんなにも懸命なのだろう。

 世界を渡る、そんな途方もない力を持っているというのに。

 俺とは違う、「選ばれた存在」のはずなのに。

 彼女は、孤独なのだ。



 また俺の胸で肩を震わせるイルミア。

 だが俺もまた、これまで散々流したものとは決定的に違う涙で頬を濡らしていた。


「イルミア、俺行くよ」

「……え?」

「連れて行ってくれ。イルミアの来た、その世界に」

「でも……!いいの?本当に!?」


 突然意見を一転させた俺に、反問百面相で答えるイルミアの姿をやはりどれも愛らしいと感じつつ、俺はいつしか笑っていた。

 なぜなら、気がついたからだ。

 俺はあの時、自分が誰からも必要とされなかったことが怖かった。


 だが今、目の前には俺を必要としてくれる少女がいる。

 俺が今際の際に抱いた希望が、ここにある。

 だったら……それに応えればいいだけなのだ。

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