第7話

 ここはどこだろう。

 俺はよくわからない場所を、一人漂っていた。


 ここには全てがあった。

 俺には触れることも理解することもできないが

 様々な色、様々な大きさ、そういった限りない何かが、ここでは一つになっていた。いうなれば糸玉のような。

 ならば俺はその糸玉を構成する糸、それを構成する糸を構成する…細い細い糸。

 ………だった。

 つい先ほど、俺はあの糸玉から抜け落ちてしまった。


 もはや何物にも繋ぎ止められず、何にも頼れず。

 俺はただ漂う。

 地面……なんてものがあるのなら、やがてそこに落ち着くのだろうか。

 ともかく、俺は漂う。漂いながら徐々に徐々に、あの糸玉から遠ざかっていっていた。

 

 まずい。よろしくない。

 非常に悪い状況、だと思う。

 しかし、何が悪いのだろうか。もうそういった分別がつかなくなってきている。

 それに、俺だけじゃないのだ。

 周囲には、俺と同じように糸玉から抜け出た糸が無数に漂っている。

 俺と同じようにふわふわと漂い、たまにちょっと光ったりして。

 あ、消えた。

 

 すぐ近くを漂っていた糸が、くしゃくしゃに揺らいだかと思うとまっさらに消え失せた。

 俺もやがてはああなるんだろうか。

 まずい。よろしくない。でもなにが?

 それを延々と繰り返す。




『誰か!!』




 突然、静寂のさなかにあったこの空間に音が降った。

 澄んでよく通る、少女の声。

 それは俺を激しく揺さぶった。

 声が大きいとか小さいとかそういう話じゃない。

 何もないこの空間で、何かの意思に触れる。そういった現象が、もうとんでもなく大事件だったのである。

 あるかないかあいまいな目玉を瞬かせ、周囲に意識をやる。

 声はそれからも断続的に降り続けた。


『誰かいないのかい!?』


『助けて!』


『誰か!お願いだから答えて!』


『お願い……』


『誰かぁ……』



 最初は必死に張り上げられていた声が、やがて悲痛なうめきに代わる。

 どうやら誰かを探しているようだ。

 返事をしてやりたくても、あいにく漂流の身。身動き一つできない。

 そのうちに声はどんどんとか細くなり、そして消えてしまう。

 なんだ、消えてしまうのか。

 俺は寂しく思った。


 寂しい…?


 そう、寂しい。

 俺は寂しいんだ。

 この何もない空間で唯一聞こえたあの声を、もう一度聞きたい。

 小さな執着が、俺に宿った。

 それは、枯草に落とされた種火。

 乾ききった俺の全身を、瞬く間に包み込む。


 炎は俺に熱を与え、熱は生への渇望を生んだ。

 だが足りない。俺はもうあの糸玉から抜け落ちてしまったのだ。

 俺がどれほど焦がれても、手を伸ばしても、もうあそこに戻ることはできない。


 でも、もう一度……

 俺に熱をくれたあの声。

 あと一度でもあの声をもしもう一度聞けたなら。

 そして、その時は訪れた。




『わあああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ』




 誰かに呼びかけ、返事をもらえず疲れ果て。

 そんな彼女は、大きな大きな、とんでもない泣き声をあげた。

 彼女の悲しみが、口惜しさが、空間を伝わり俺を震わせた。



 すると無意識のうちに握っていた両手の感覚を、確かに感じた。

 宙に放りだされた両足の強張りが、全身に広がった。

 きっと今ならできるだろう。何が、なんて考える必要もない。

 

 俺は俺を包む熱をありったけに詰め込んで、こう叫んだ。




「泣くなぁー!俺が、ここに、いる!!!」

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