第6話

「ガッ……!いってぇ……なんだ!?」


 天地がひっくり返った。

 大げさな話じゃない、天井が床に、床が天井に。その衝撃で俺は目を覚ました。

 異常はそれだけじゃない。

 俺は全身がびしょびしょに濡れていることに気がついた。手のひらが水に浸かっている。


 周囲では凄まじい勢いで何かがテントに叩きつけられ、轟音が鳴り響いている。

 ほどなくして、俺はそれが雨音だと気づいた。


 まずい。そう直感した俺は、歪な形にゆがんだテントのジッパーを急いでこじ開ける。


「うぁあああああ!?」

 水が、テントの中に流れ込んできた。慌てて入り口を閉めようとするが、ジッパーはピクリともしない。


 テントに入り込んだ水は、幸いなことにすぐに水位の上昇をとめる。


 ようやく俺は自身の置かれた状況を把握した。

 増水だ。今が何時なのかはわからないが、あの時降り始めていた雨が勢力を強め、川の増水を招いたに違いない。


 俺と荷物の重さでなんとかテントは流されずに済んでいたようだ。

 自身の思慮の足りなさを嘆く暇は無かった。

 俺は即座にリュックとキャリーケースを掴み取り、テントから脱出する。既に踝ほどにまで増えた川の流れに足を取られながらも岸への脱出を試みる。


 ここから離れなければ。

 そう焦って行動を起こしたものの、全ては遅すぎた。


 空気が細かく振動し、突風が吹いた。

 次の瞬間、俺の腰ほどにまで達する激流が俺を襲った。

 立つとかそういうことを考えられるレベルじゃない。俺の身長の半分程もない流れに俺は文字通り飲み込まれる。



≪死ぬ≫


 俺にまとわりつく水が、そのまま恐怖にとって代わる。

 がむしゃらに岸へたどり着こうと手足を動かした。

 しかしまるで前に進む手応えはない。

 流れに逆らわない。遠い昔誰かに聞いた知識が、頭をよぎった。

 邪魔なリュックも外し、全ての手荷物を捨てる。

 水流に沿うよう進路を取り、必死に手足を動かし続ける。


 永遠にも思えたが、実際には数十秒ほどのことだっただろう。

 体が地面に触れ、手が草を掴んだ。

 必死にそれにしがみつき、陸へ揚がる。新鮮な空気を胸いっぱいに吸い込み、言いようの無い歓喜と疲労感に包まれる。

 夢中になって深呼吸を繰り返した。

 しばらくしてようやく呼吸が落ち着くと、俺は周りを見渡す。


 空はが雲に覆われ視界はすこぶる悪いが、目が慣れてきたのかうっすらと川の広さが伺える。

 元来た道も当然濁流へと変貌し、引き返すことなどできそうにない。

 川の規模は何倍にも広がり、今もその勢いを増そうとしているようだ。

ここから逃げなくては。

 俺はもう完全に恐慌状態に陥っていた。

 足場や視界の悪さを意に介すことなくとにかく前へ前へ、その場から離れることに必死で体を動かした。



●●●



 どれくらいそうしていただろうか、少し頭に冷静さが戻ってきた。

 痛い、脚が焼けるようだ。

 靴も履けなかったのだ、恐らく傷だらけだろう。

 だがそんな痛みが気にならないほど、とにかく寒かった。

 未だ雨は降り続き容赦なく俺の体温を奪い去っていく。自分がどこにいるのか、この雨がいつ止むのか、何一つわからない。

 ただ一つわかることといえば、俺はこのままだと確実に


『死ぬ』



 再び、死へのイメージが首をもたげる。

 人生で一度も感じたことのなかったそのイメージは、

 寒さからではない心の底から湧き出る恐怖で俺を震るわせた。


「やだよぉ……やだぁ……」

 恥も外聞もない。俺は声を上げて泣き、涙や鼻水色々なものを垂れ流し俺は再び歩き始めた。

 行き先などあるわけが無い、ただ自分から命を取り上げようとする死神から逃げるために、歩みを止めるわけにはいかなかった。


 歩き、歩いて、歩き続け、転んだ。


 何かに蹴躓いたのかもしれない、足場がどうなっているのか、もう感覚が薄れてよくわからない。

 口一杯に泥の味が広がる。


 最後の晩餐が泥って…はは、ありえねぇ

 本当の本当にどうしようもない、動きたいと思っても動けないのだ。

 俺はこのまま死ぬ、それは確実だろう。

 だがまだ頭は動く、体は駄目でも、何かを考え続けることで終わりの時を遠ざけようとする。

 俺がこの世に生まれ、育ち、何をしたのか。

 薄れゆく意識の中でそのようなことを考える。

 俺は何だったのか、何がしたかったのか、自分の中に未練を束ねれば、奇跡か何かで体が動くようになるかもしれない。

 俺は、俺は、俺は………




 何も、ねえな。




 何も、ない。

 日々をただ生きるという意志すら持たずに生きて。

 自分が生き続けることになんの疑問も持たず、ただ生きて。

 その命を繋いでいたのが俺だ。

 そんな俺を生かした人に、世界に、全てに俺はなにをしていただろうか。



 何もしてない



 頼っていたという自覚すらなかったのだ、今この段に至っても後悔こそすれ感謝という気持ちはピンとこない。

 何かをしようとして生きていたわけではなく、ただ死ぬのは嫌だから生きただけ。

 本来生き物が生きる目的においての逆転現象が、俺をこうも空虚な存在にした。

 これはその報いなのだと、俺は理解する。

 そして同時に、俺は自分がどんな存在であったのかを知った。


 俺は、誰でもなかった。

 他人の、友人の、家族の。

 皆誰かの何かとして生きているのだ。

 その積み重ねの先に社会が、国が、世界が成立している。

 俺はなんだったのだろう。

 俺を唯一必要としていたはずの家族からは棄てられた。友人なんて一人もいない、他人のことなんて考えたくも無い。

 頼り続け、逃げ続け、誰からも傷つけられない場所に閉じこもった。

 誰かを傷つけ、傷つけられ人は誰かの何かになっていく。

 そんな当たり前の営みから逃げ出した俺は、きっと誰からも必要とされてはいなかった。



 寒い、寒い、体だけではなく心が凍てついていく。

 生きるということへの熱、それが喪われていくのがわかる。

 いいじゃないか、全てがここで終わるなら、それもありだ。

 もう全てが手遅れなのだ。

 俺を受け入れてくれる人はもう誰もいなくなってしまった。

 今更新しくどこかで生きるには、俺はこの世界のことを知りすぎているし、この世界は俺のことを知りすぎている。

 もし生まれ変わりなんてものがあるのなら、その時こそ本気を出すさ。

 色々な理由をつけて恐怖を和らげようとした。



「い"や"だぁ"……!」

 後悔はとめどなく、胸の内を巡る。

 どこにも届くことのない悔しさに溺れる。

 暗い森の中、一人泣きじゃくる俺を死の眠気が包み込む。

 人気の無い木立の中、東雲甲は静かに意識を手放した。

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