第3話

「それを持っていきなさい」

 

 父は淡々とした様子で、玄関を指さす。

 そこには真新しいスーツケースが一台鎮座している。


「なんだよ……これ」

 かろうじてそれだけの言葉を絞り出す。

「見ればわかるだろう、お前の荷物だ。日用品を詰めておいた、これをもって出ていけと言っているんだ」

 挑発気味な四日の言葉が、俺の神経を逆なでする。

「そうじゃねえよ……いきなり、すぎるだろうが……!」

 そう、いくらなんでもいきなりすぎだ。

 部屋にはパソコンも携帯も財布も、俺が生きてきた全てが残っているといっていい。

 そんな言葉に、従えるはずがない。


「せめて部屋に戻らせてくれ!部屋にはまだまだ俺の荷物が……」

「あの部屋に、お前の物なんて一つもない」


 父はゆっくりと、俺に告げた。

 そして冷たい目で俺をジッと見つめると、それ以上の言葉を発さない。

 俺はその場に立っていることができず、逃げるように玄関へと進んだ。

 二人分の視線を背に受け、スーツケースの前で静止する。

 俺はまだ、なにかに期待していた。

 

 振り返る勇気はない。

 先ほどの二人の表情を思い出すだけで、途端に両足が震えだす。

 この状況が早く終わってほしかった。しょうがない奴だと言ってほしかった。

 だが、冷たい沈黙はいつまでもその場にとどまり続ける。


 限界だった。

 スーツケースの取っ手に手を伸ばす。

 しかし……それを握りそうになるのを堪えた。


「ああああああああああ‼」

 苛立ち、悲しみ、プライド。それらを振るいにかけ俺は考えることをやめた。

 スーツケースを蹴り飛ばし乱暴にドアを開け放つ。

 久しぶりの景色を全力で尻目に、俺は走り出した。

 あてもなく、どこかへ。




 そして数時間後。

「はぁぁぁ……」

 公園のベンチに座り、俺は深くため息をついた。

 

「やっちまったぁ……‼」

 虚勢を張ってはみたものの、今の置かれた状況はいささか以上にまずかった。

 ほぼ丸裸だ。着の身のまま、それもヨレヨレのジャージ一枚。

 所持金ゼロ。携帯なし。

 何度目かもわからないため息が、白い蒸気となって目の前を昇ってゆく。


「さみぃ……!」

 季節はもう春といえど、もう時刻は深夜をまわっていた。

 Tシャツとジャージ程度ではさすがにつらい。

 徐々に下がっていく気温と反比例するように、俺のみじめさは膨らんでいく。


「くそっくそっくそっ……!」

 どうして俺がこんな目に合わなくてはならないのだ。

 俺を家から追い出した二人の姿を脳裏に浮かべ、憎しみの炎で体を温める。


「はぁ…」

 しかしその手はもう散々使った後だったりした。

 ため息一つであっけなく熱は霧散し、再び身を震わせる。

 

「しょうがねえ……やるか」

 もう俺にできることはゼロに等しい。

 ならば。と、俺は最後の手段に訴えるため立ち上がる。

 公園を出て二分、目的地にはすぐに見えてきた。


 電柱の光に照らされうつるごく一般的な二階建一軒家のシルエット。

 そう、あれは東雲家。つい先ほど失った愛しい我が家だ。

 俺はあれからずっと、時が過ぎるのを待っていた。

 時刻が深夜へと移ると、町は寝静まる。

 そしてそれは東雲家も例外ではない。


「二人が寝ている間に、こっそり戻ってやる……‼」

 馬鹿正直に正面玄関には向かわない。俺はそそくさと家の裏手に回り、フェンスをよじ登る。


 トイレ脇の窓はいつも施錠されていないし、二人の寝室からも遠い。あそこからなら……!


 極力足跡を立てないようゆっくりと移動し、目的地点に到着する。

 しかしそこにあったのは俺の期待を真っ向から切り捨てる光景だった。


「雨戸……⁉」

 目の前には華奢なガラス窓ではなく、無骨なステンレスでできた灰色の雨戸だった。

 試しに左右に引っ張ってみるが、内側から固定されているらしい。ビクともしない。

 これでは無理やり侵入することもできない。

 念のため、家中の窓を確認するがどこも同じ状況だった。


「四日のやろォ……!」

 この嫌らしい手口は間違いなく四日の仕業だろう。

 俺の行動パターンを把握している。

 どうせここまではしないと高をくくっていた。

 家に戻り、部屋に引きこもってさえしまえばどうにかなると。

 

 焦燥感が後頭部をチリチリと焼き焦がす。

 だがしかし、まだ希望はある……!

 俺は玄関へと周り、小さくドアを引く。

 当然、ドアは開かない。鍵がひっかかり、ドアはネズミ一匹通す隙間を開けることがない。

 これは想定内だ。視線はすぐに玄関先のプランターへとむけられる。

 

 あの下には緊急時の備えとしてスペアキーが隠されていたはずだ。

 それさえ残っていれば……‼


 白いプランターを持ち上げると、そこには一枚の紙が敷かれていた。


《戻ってくるな》

 達筆ながら力強いその字は四日のものだった。

 四日はすべてを見抜いていた。

 全身から力が抜け、その場にへたり込む。


「どうすりゃいいんだよ……」

 今の俺は、本当になにももっていないのだ。

 お金がないのでご飯も食べれない。そのうち野垂れ死にしてしまうことだろう。


 せめて、あのキャリーケースさえもらっておけば……


 事態を軽く見てちっぽけなプライドを優先したあまりの行動を、深く後悔する。

 正門へと顔を向けた。


「あれは……」

 何かが見えた。

 腰を上げ正門へと近づく。

 真新しいがボディにいくつかへこみが浮かぶ、スーツケースがそこにはあった。

 なぜか正門の裏側に。


「…………」

 あの時掴まなかった取っ手の部分には、茶封筒がテープで張り付けられていた。

 おもむろにそれを手に取り、中身を取り出す。

 

 福沢諭吉が刻まれた日本銀行券10枚が、そこには入っていた。

 俺は黙って正門を開ける。

 そしてそれを閉じることなく、東雲家に背を向け歩き出す。


 やったぜ、これで食料が手に入る。

 とりあえず飢え死にだけは避けられるわけだ。

 歯を強く食いしばり、札を抜き取った茶封筒を握りつぶす。


 父さんたちに家を出て行けと言われたとき。

 公園のベンチで夜の寒さに震えたとき。

 今日は色々と惨めさを感じる1日だった。

 だが、これが……一番だ。

 

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