第18話 森で・3
「確かに邪霊の気配をかぎ取ったというのに、臆病者め!
………いや、もしやシルファラよ、邪霊を匿っているのではあるまいな」
「何故、私が庇うのですか………。寝ている間ならいざ知らず、あれから邪霊とやらにこの身を奪われてはいませんし、そんな気配もありません」
ユルグは呆れたとばかりに長々と鼻息を吐く。
「憑りつかれた当人の癖に気付かぬとは愚鈍な輩よ。邪霊はとうに息を吹き返して、主の身体を奪おうと幾度も隙を窺いに出でているというに、つい今先もな」
「………何故そんなことが判るのですか?それに、今はユルグ様は遠くに離れていたのでは………?」
森の見回りに出た隙を見てせっかく頑張って歩いてきたのに、というところはぐっと呑み込み、純粋に浮かんだ疑問を投げかける。
「ふん、我は邪霊の気配を嗅ぎ取っていると言っておろう。ここは我らが領域ぞ、枷もつけずにヒトをうろつかせるわけもない」
そういわれて、ふと思い浮かべるのは洞窟で見た黒い影。う、と眉根を寄せるシルファラをよそに、ユルグが鼻先を揺らして合図を送る。と、肩口で空気が動き、髪を揺らすのを感じた。何事かと見やると、そこにはひゅるひゅるとか細い唸りを上げて渦巻く風の揺らぎが、銀糸の一房をふわりと浮かび上がらせていた。
「我の従えし風精よ」
「これが、風精。………風の精霊」
目を見張るシルファラの眼前で、幾筋もの銀糸がさらさらと右へ左へ、形ない存在によってもてあそばれていた。
「しかし、精霊の気配も感じ取れておらぬとは………。邪霊を身の内に宿らせたは、御霊の間抜けが所以かも判らぬな………」
翻弄される髪からちらり、苦言を漏らすユルグに目線を移すと眉間を寄せて渋面を浮かべていた。これには、シルファラも不服を覚える。こちとら勝手に攫われて、意識を奪われていたにすぎないというのに酷い物言いではないだろうか。好きで器とやらにさせられて邪霊に入り込まれたわけではないのに。
「それは、あまりにあまりではありませんか?霊獣様や精霊様にお目通りが叶う機会がそもそもなかったんです」
「ふん、そうであろうとも。間抜けで愚鈍なヒトの娘に過ぎん」
「わ、私は間抜けではありません。き、教養だって、その、程々に………」
「は、戯言を。いかにも世間知らずな、未熟で無知なる腑抜けの惚け面よ」
「確かにまだ若い、ですし、霊獣様はいざ知らず………」
「幼いの間違いであろう、雌の子。そも、我は始めから反対だったのだ。未成熟なヒトの娘など、荒事に向かぬ。器とするならば、もっと力のある成熟した雄にしておけと。だというに、ヒトの雌の中でも容姿が気に入らないやら、相性が悪い、なんとなく好かぬなど散々ゴネよりおってからに………」
じととシルファラを見据え愚痴る様に驚き目を見張っていると、ユルグがばつが悪そうに僅かに目線をそらした。
「………余計な言を吐いたわ」
そういえば、出会った当初から気にかかっていたのだ。シルファラを器とする計画には、ユルグが「我ら」と称していたように、ユルグ以外の誰かの助力がある。初対面の折、動き回っていたことよりも、シルファラというヒトの意識があることに機嫌を損ねていた。シルファラを器と呼ぶのならば、器の中に何を入れるつもりだったのだろう。今は、抑え込まれていたはずのシルファラと彼らの想定外の異物たる邪霊が収まっているこの身の内に、シルファラのあずかり知らないさらなる異物を入れ込む予定だったのだろうか?それとも、小さいころに見た糸吊りの人形のように、外から操るつもりなのだろうか。
邪霊にせよ、ユルグの言う「我ら」のナニカによるにせよ、シルファラの姿をしたシルファラでない存在として勝手に動き回る様を想像し、怖気を覚える。
今更ながらヒトをヒトと見ない扱いがされていることに背中を悪寒が這い上がり、思わず体を抱きしめ、眼前の巨狼をさらに増した恐れをもって見上げた。
「私の身体に何をしたのですか?私の身体をどうしようというのですか?私の身体で………何をしようというのですか?」
「今更になって怖気づいたか。語る意味を見出せぬ今、お主の知るべきところではない。我らが大義は、ヒトの娘ごときには荷が重い。器としてその身を捧げられるだけ、光栄に思うがいい。
いずれにせよ、お主も、潜む邪霊も我らにとっては余計な妨げに過ぎぬ。ふむ、些末なれど、妨げる障害が減れば幾らか御しやすくもなろう。言葉が通じずとも、従わせるよしはいくらでも思いつくわ。
御霊よ、今再び深き眠りにつくがいい。邪霊は我が力をもって、今一度捩じり伏せてくれようぞ!」
唐突にユルグが吠え、数日前の再現のように前肢が振るわれる。眼前に迫る灰狼の畏怖を前に、やはり身をこわばらせることしかできなかった。
そして、衝撃が生まれ、シルファラの身体は吹き飛ば―――なかった。
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