第17話 森で・2

 思い出すのは、誘導されるがままに、抗い生きることを誓った直後のこと。

「我らはヒトを飼うつもりも、ヒトを我らが領域に住まわせる気もない。邪霊を宿らせるならばなおさらな。

 故にシルファラ、ヒトの娘よ、今一時、ヒトの世に戻ることを許そう」

 てっきり、森中で監視され日々を過ごすものと意気消沈していたから、脱する機会を与えられたことに素直に驚いた。

「無論、お主を手放しに解き放つもりは毛頭ない。かといって、我がヒトごときの様子を窺い、付き纏うなどあり得ぬ。観察はそ奴に任せる」

 くい、と鼻先を向けた先、背後を振り返れば、洞窟の奥闇に黒い影が一つ、音もなく潜みたたずんでいた。よくよく見れば、その黒い影は、いくつもの脚を折り畳んでいる。

 一瞬で、全身の毛が逆立ち、ギチチチ、となった音が、意識を遠のかせ………

―――………危ない危ない

 折角気持ちを高揚させようとしたのに余計なところまで思い出してしまい、頭を振って意識を散らした。シルファラが動けるまで体が回復したということは、身体を同じくする邪霊もまた動けるようになったということなのだ。実際どのようにして身の内の存在に抗えばいいのかまるで見当もつかないが、意識を確かにしておくに越したことはないだろう。一人で意識を遠のかせている場合ではないのだ。

「それにしても―――」

 独り言ちる。

 せせらぎから目を上げてみれば酷いもの。早くも芽吹きに薄く覆われつつあるものの、シルファラにとっては激闘そのものだった対峙の後が、まだくっきりと残っていた。

 あれほどの巨体が暴れまわっていたのだから当然と言えるかもしれないが、密度高く緑茂る森中で、露骨なまでに開けた空間が出来てしまっている。そこかしこに散らばる木々の枝葉。大きな幹枝は、纏った葉を枯らしたままに無残に地に転がり、生え伸びる新緑に囚われつつある。へし折られた木々も、しぶとく新芽を生え伸ばし、いずれ、荒れたこの場所を周りと同じく緑に埋めるだろう。

 割れた緑の淵から見える範囲を見渡しても知れる、一面、緑、緑、緑の群れの様に。だがしかし、全てが一見緑ながら、濃淡異なる多彩な植物の群生。

 それを示すように、

「わぁ、凄い………」

 折り重なる緑の彼方、遥か遠方に映るというのに、一際盛り上がる一群が望めた。例え根元に丘のような盛り上がりがあったとしても関係ないほど、覆せない圧倒的な存在感が連なる峰を成して悠然と生え伸びる。

―――………

 ただ木々を眺めて、けれど、シルファラは胸の内が満たされていくのを感じた。あれほどまでに巨大な存在を彼方に臨める程に広大で、なおも広がりを見せる森の中に自分はいる。深い森の中に、ただ一人のヒトだというのに、不安を感じながらも落ち着いている自分が不思議だった。

 見知らぬ土地、見知らぬ存在が周囲に満ちている。むろん、ヒト住まう領域ではない。だというのに、湧き上がる、この気持ちは………?

「邪霊か!」

 背後から投げつけられた吠え声に身体が跳ね、足の爪弾いた雫が勢いよく飛んで遠くの葉を弾き揺らしたのを、完全な無意識で見届ける。ピィと、遅れて漏れた自分の声が滑稽に響いた。

 ヒトも驚いた時には鳥のように囀ることもあるのかとどこか他人事のように思いつつ、恐る恐る振り返れば、

「ぬぅ、御霊か………。邪霊め、臆したか………!」

 鼻息荒く、ユルグが森を割って飛び込んできていた。驚きに跳ね上がった心臓がどくどくと胸を内から打つ痛みをこらえながら、シルファラは聞き取られないようにゆるゆると嘆息を吐く。

 今しばらくの安息を求める身体をおして、こうして森の中にさまよい出ているのには理由がある。それは、心が休まらないから。ユルグは如何にして嗅ぎ取ったものか、邪霊の気配を察してかこうして飛びついてくるのだ。

 小動物が好意的にじゃれついてくるのとはわけが違う。敵と認めれば殺意もあらわに食らいついてくる強大な魔獣が牙をむいて嗅ぎまわる様を横に、どうしておちおち寝ていられようか。

 徐々に快方に向かう一方で、次第に鼻息荒くなって息巻く存在が近くから見張っていて、もし邪霊とやらに意識を奪われたら、預かり知らないうちに頭からかぶりつかれているかもしれないのだ。

 ヒトの世に返してくれるという言葉を吐き出した巨大な大口で、正当な理由付けさえあれば聞かせた甘言ごと腹に納めてしまおうという勢いで纏わりついてくる様に、辟易して距離を取ろうとしても仕方のない事ではないだろうか。

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