第9話 シルファラ
幾らか空腹を満たし、すんすんと一しきりべそをかいて気持ちが弛緩したところでそれはやってきた。
水辺の空気が騒めいたような気がした瞬間、唐突に脳裏に警鐘が鳴り響き、間を置かず周囲の音が止んでいく。鳥の囀りも、木々の騒めきも、水のせせらぎすら、息を潜めるかのように、音が遠のき、空気が変質していくのが、肌で感じられる。
突然の異常事態に、慌てて杖をつかんで、手近に隠れられそうな茂みを探る最中、唐突に語り掛ける声が、森の奥から投げつけられる。
「動けるようになったと聞いて、這いずる程度と思ってきてみれば、余程上等に動き回れているではないか」
地鳴りのような低い唸りを伴う語りで喉を鳴らしながら、背にしていたせせらぎの向こうの茂みを割って現われたのは、四つ足を付いたままに人の身の丈を遥かに超える巨大な灰狼だった。
「急いで駆け付けたつもりだが、そもそも遠出をしておってな。加えて予想以上に動いていたので、追うのも手間取ってしまったわ」
歩を進めながら語り、ふしゅしゅ、と口の端を歪め牙を見せつけながら、………笑っている。と、呆然と見上げられていることに気付き、鼻白んだ。
「ちぃ、八つ手め肝心なところが把握できていないではないか」
グルル、と天を向いて一唸り上げ、ぞぞと体毛を騒めかせ怒気をあらわにする。
人語を解する魔獣の話は聞いたことがあるけれど、いずれも長く神域に住まい強大な力を持つ霊獣と呼ばれる存在。目の前の狼も、その一つに違いない。
空気を染め上げる怒気に、僅かばかりに残っていた一帯の音が完全に止み、恐ろしい静寂を呼び込む。眼前にそびえる巨大な存在が、完全に森の空気を支配し威圧している。
木漏れ日呑んだ灰の瞳にひたと見据えられ、探られる気配。たちまち身体が緊張に強張り、身震いすら忘れて身動きが取れなくなる。
「貴様、器の御霊か」
唐突に問を投げつけられ、言葉の意味が把握できずに答えられずにいると、鼻息一つのあとに、畳みかけるように重ねてくる。
「ヒトよ、其の名を語れ」
答えにさらに逡巡すると、巨狼はこちらを見据えたままに静かに身を沈めた。とたん、凄まじい威圧感が押し寄せる。もしも答えなかったり、不敬を働いたなら、とびかかってこようというのか。強張った喉を無理やり押し開き、何とか声を上げる。
「わ、私、私は西方の地ミトクアが領主が三女、シルファラ・ミトクアと申します。以後、あ、いえ、ちが、………、お、大いなる力持つ霊獣様とお見受けいたします。知らぬとはいえ、貴方様の領域に踏み入ってしまったこと、お詫び申し上げます。
どうぞ、お許しください。先程森の中で目覚めたばかりで、なぜ自分がここにいるか、わが身の状況すらわからないのです。」
跪き嘆願すると、巨狼は蓄えた力を抜き、沈めた姿勢を解いた。肺腑に溜め込まれ熱を帯びた鼻息が、正面から銀糸を揺らして吹き抜ける。
「お主はわれらが求めた故にここにある。
このまま解き放つわけにもいかぬ。其の身体は、主のモノにして、既に主のモノではない。大義を成すため、我らが少なからぬ手間と時間をかけた器ぞ。今一度死を受け入れ、深く永き眠りにつくがよい。我らが大義を成した暁に、器が形成さば、再び目覚めることもあろう」
「そん、な………」
生殺与奪は遥か昔に決され、意図あって生かされていたものの目覚めたことを咎められた。そして、再び眠りにつけば意識を取り戻すことすらないかもしれないと告げられている。
あまりのことに、頭が真っ白になる。
―――何故、なぜ私ばかりがこのような目に合わなければならないの?
わが身を犠牲にする覚悟はできていたはず。けれど、こんな形でなどまるで想定していなかった。
「わ、私には、私にもこの身を持って果たさねばならない使命があります。長くを眠り、最早果たせなくなろうとも、確かめるまではこの身捧げることは出来ません」
「成らぬ」
一言に、断じられる。
「ヒトの世でいかに重きを置く誓いがあろうとも、我らが大義に比肩するほどとは到底思えぬ。さぁ、大人しく寝所に戻るがいい。素直にその足で付き従うのならば、再び御霊が目覚めを迎えられるよう、少なからぬ尽力を添えることを約束しよう」
高みから告げると、ついて来いということだろう、身を翻しゆっくりと歩きだす。けれど、どうして黙ってついていけるというのだろう。何一つ理解が及ばないこの状況で、何を納得すればいいというのか。
ぐるぐる回る思考で、けれど、何とか言葉を紡いでみる。
「無礼を、承知で申し上げます。
何故、なぜ私、の身体なのでしょうか?わが身のことなら、私は誰よりも存じているつもりですが、私には何一つ優れたものなどありません。これといった特技はありませんし、今も貴方様のおっしゃることが判りかねず、混乱するばかりの頭しか持ちません。見たままに華奢な体で、強大な力を持つ貴方様に何を貢献できましょう。
重きを成す大命に捧げるには、わが身など。もっとふさわしいものが―――」
「痴れ者!ヒトごときが、理解できぬわ!」
ゴァ!と振り返りざまに木々を揺らす怒号が返る。
「わが身可愛さに他者を差し出そうとする卑小な保身者が、世界に盾突こうと言うか!」
どう、と巨体が踏み込み、前肢を振るった。一撃で、木っ端のように身体が弾き飛ばされる。とっさに杖で受けたことだけが奇跡だった。
天地がぐるぐると入れ替わり、周囲の景色が前方へ吹き飛んでいく。彼方へと遠ざかる狼がまるで縮んで行くようだとどこか他人事のように思うのも一瞬。背を打つ強い衝撃と共にシルファラは意識が深みに沈むのを感じた。
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