第8話 既視感

 そろそろと水面に上半身を乗り出せば、穏やかな流れに静かに揺れる水面に映るのは、一人の少女。

 まず、何よりも目を引くのは銀糸の長髪、ほとんど透明に近い銀糸の一筋一筋が木漏れ日を呑んで光の奔流となり腰まで艶やかに伸びる。不安の為に涙を湛えた瞳は赤紫の宝玉を填めて潤み輝き、紫眼に縁取る長い睫毛が麗しさと高貴さで、眦の黒子が艶やかさで飾る。小さくもすっと通った鼻梁がつんと澄まして可愛らしく、ほんのりと薄桃に染まる頬が稚さを加える。小さくも肉厚の唇は光の加減もあるが瑞々しく艶めいて、緊張のために呼気に喘ぐ口元は整った歯並びが白く眩しい。

 全体的に堀が浅く、人生経験の浅い無垢を曝け出しており、血の気薄い透ける白磁の肌は、何処か現実味を薄めていた。

 ………。

 じっくり数十秒かけて、我に返る。

 凄い美少女である。我を忘れて見蕩れるほどに。

―――違う、見蕩れてる場合じゃない。

 首を振って、改めてまじまじと顔を見直し、嘆息した。

―――よかった。覚えがある。

 僅かに吊り上がった眦。目元に親しんだ黒子。他の人に比べて低い鼻も、彫りの浅い顔貌も確かに自分の記憶にある特徴だった。

 けれど、幾つか気になる点があった。まず、やはり髪を含めて全体の色が薄くなってしまっていること。瞳の色は赤紫色ではなかったけれど、瞳の色素も薄まったせいでそう見えるのかもしれない。そして、パーツについては確かにおぼえがあるものの、どれもおさまりよく、更に彫りが浅く、全体的にあどけなさが現れていた。

 すでに成人を迎えており、嫁ぐことが可能な年齢のはずだったのに、これではまるで顔だけ見れば童女の様であった。

「身体が………縮んだのかしら?」

 森が装いを変容させるほどの期間気を失っていたのだから、痩せて縮んでしまった―――と、取り合えず、と無理に納得してみる。動き歩いた時に感じた違和感は、おそらくこれが一因だろう。そして、つい美少女と評したが、実際自分はこんなに整った顔つきだったろうか?

 疑念を浮かべるも、眼前の少女は首をかしげるばかり。

 けれど、強烈な既視感が確かにあった。

―――間違いなく、私はこの顔に慣れ親しんでいた。違って見えるのは、やはり色が薄まっていることと、揺れる水面が印象を変えているだけかも知れないわ。

 明らかな別人が強烈な違和感と共に顔をのぞかせなかったことに安堵を覚える。ひとまず、一番の懸念が晴れたことで、ようやく安堵に嘆息して、映る自身の姿に手を差し込み水を掬い飲む。

「………美味しい」

 がちがちに強張っていた体に、冷たい水が染み入る。ようやく緊張と不安に凝り固まっていた身体がほぐれていく気がする。木漏れ日が揺れる川縁で、木々の上を渡る風に揺れる枝葉の囁きを耳にして、ようやく自分が生きているという実感がじわじわと湧き上がるのを感じた。

 眠りから覚め、体を動かし、喉を潤し、心の安息を得たところで、訪れるものがあった。

 く、くぅ~

 可愛らしくも切ない音と共に、心許ない心地が訪れる。

「お腹、空いた………」

 いったい自分がどれくらい寝ていたのか知れないけれど、単純に意識を失う前からお腹を満たすほどの食事をしていなかったことを思い出す。

―――なにか、食べられるものはないかしら?

 顔を上げて、見渡す。

 豊かな植生溢れる緑の群れ。手近に食せるものがないかと目線を振ってみるも、そもそも自分は森に踏み入って直接恵みを求めたことがない。普段口にしていたものは、ほぼ全て他者が選別し調理したものであり、食材についての知識は全くないといっていい。そのまま食べれると知っているものは、精々が市場で多く流通していると思われる幾らかの青果ぐらいのもの。

 ただただ、視界に押し寄せる圧倒的な生命力に圧倒されるばかりで、直ちに糧とし得るものがあるかの判別はまるでつかなかった。

 野に生えるものの中には、一見恵みある実りに見えて、手にしたものに害成す毒を有するものも在すると、聞いたことがある。

―――………聞いたことがあるだけ

 およそ見渡す限りに、目にしたことがあるような果実や野菜は見当たらない。ただただ潤った緑に囲まれるばかりで、このままでは安心して口にできるのは水ばかり。

 と、ふと目につくのはいくらか離れたところに群生するとある植物だった。

 これまでも幾度となく感じた既視感に、しかし、縋るように近づいてみる。

 一見何の変哲もない、背の低い野草の一群。けれど、よく見れば根に近い部分にこぶ状のふくらみがいくつも連なっている。

「これは……」

【”ニレウィヤの茎果”】

―――………?

 思い返すもこのような植物を身近に見た覚えも、食卓に上ってきた記憶もなかった。けれど、まるで理解の及ばない強い衝動が、その植物に目を引き付けさせ、手を伸ばさせる。

 流れある水辺に近いところに生い茂り、不浄を蓄えているとは思い難いと半ば強引に自身を納得させ、思いつきに任せて一房もいでみる。潤沢に水分を蓄えた茎は根元から手折れ、透明な汁が滴る。

 とりあえず、覚えがある?のだから?食べれそうだ、と思い、素直に口に運ぶ。

「う、ぇ………まず………」

 噛みついたとたんの青臭い緑の味に、顔をしかめて吐き出した。けれど、舌先に零れた汁のほのかな甘みに、再度挑戦を試みる。今度は、こぶを包む薄い外皮をつまんで剥いて。

 シャクシャクと瑞々しい茎肉から透明な汁があふれ、舌先に感じるのは、わずかな甘みとわずかな苦み。味は普段食卓に並ぶ野菜のほうが断然上だし、果実のような明確な甘みはない。けれど、食べれる物を口にしているということに、心と体が喜び気力が湧き上がってくるのを感じた。

 流石にそれだけではお腹を満たすことは叶わず、続けざまに幾本かを手折って口に運ぶ。

「はぁ、美味しい………、美味しい、よぉ………」

 自分が自分であるのか確証を得ず、何故自分がここにいるのか、行く当ても、そもそも無事に抜けられるかわからない森の奥で、嗚咽を溢しながら。

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