447号室 井原心愛

 郁弥は昌平ヒルズのロビーで古いポスターを剥がすことにした。今日から2ヶ月住むにあたり、まずは整理整頓と思ったからだ。その目に留まった1枚は、まだ新しいのだが、手書きだった。写真も何もなく、黒いペンでササっと書いてあるだけのシンプルなものだった。『H.Y.S解散ライブ』、『高校生不可(保護者同伴のみ可)』、『取り置きします。連絡先:447号室、長谷川』とある。H・Y・Sというのは、真洋がヴォーカルとギターを務めるガールズバンドで、真洋は昌平ヒルズの住人である。郁弥はそれを見て、つい独り言をしてしまう。

(真洋さん、今日、解散!)

 そこへ、声を掛けてきた住人がいた。井原心愛である。心愛もまた昌平ヒルズの住人で、住み始めたのは8年前なのだが、真洋より3日遅れだった。学生時代には、動画投稿サイトで年間600万PVを記録したこともある踊り手さんだ。元々心愛は、歌は下手だし演奏も下手だが、体を動かすのは大好きで、得意だった。振りを覚えて踊るというよりも、感じるままに体を動かしていた。その、他とは少し違う独特の振付が、多くの視聴者に受け入れられた。その当時、真洋と心愛は、犬猿の仲として有名だった。音楽に対する考え方が偏りすぎていて、相いれないものがあったのだ。心愛が、郁弥のポスターを見ていることに気付いたのは、声を掛けた直後だった。

「あら、郁弥くんじゃない」

「心愛姉さん、お久しぶりです。相変わらずかわいいですね!」

「ふふふ。郁弥くんも、相変わらずね! ありがとう!」

 郁弥と心愛は、しばらく2人で真洋のポスターを見つめた。郁弥は心愛の表情が気になっていた。心愛と真洋。情熱的なダンサーと技巧的なシンガー。それぞれのファンからは、仲が悪いといわれている2人だが、郁弥は違うと思っていた。2人は、本当は仲が良いはずだ。というよりも、互いを認め合っているに違いない。そう思うから、郁弥は心愛の表情を伺っていたのだ。そして、心愛の目を見て確信する。だから、心愛をライブに誘おうと思った。しかし、このプライドの高い舞姫が、簡単に頷くとも思えなかった。だから、どんな風に切り出せば良いのかと思っていた。咄嗟に郁弥は踊り出した。それは、かつて郁弥が心愛に習った曲の振付だった。郁弥が心愛に踊りを教わったのは一度きりだが、郁弥はその当時を思い出しながら激しく踊った。


「心愛お姉ちゃん、かわいい!」

「ありがとう。何にもお礼なんて出来ないけど」

「じゃあさ、踊りを教えてよ」


 郁弥は、音に合わせて体を動かすうちに、悩みごとがスーッと消えていく感覚が好きになったのを覚えていた。決して上手ではなくても、井原が文句を言わないのも嬉しかった。


「心愛姉さんみたいに、上手に踊れないよ」

「私、思うの。音楽は心だって」

「心?」

「そう。技術より心」

「……。」

「歌いたいように歌う、奏でたいように奏でる、踊りたいように踊るの」

「よく分からないや」

 当時は、分からないままだったが、今の郁弥にはその意味が分かった。郁弥は感じるままに体を動かし、自然に笑顔となる。井原が優しくそれを見つめているのも、郁弥にとっては気持ちの良いものだった。

「郁弥くん、上手よ」

「ありがとうございます。あのう……。」

 それ以上言わない郁弥だが、その続きが井原には伝わった。井原も、機会があれば1度は戦友のライブが観たいと思っていたので、郁弥が誘ってくれたのを切っ掛けに、決心する。ただではつまらないので、郁弥に対して、1つだけおねだりをした。

「私はまだ、保護者って歳ではないけど」

「やっぱり、ダメ、ですよね」

「ダメって訳じゃないわ。その代わり……。」

「えっ」

「言って欲しいの「かわいい」って」

 井原に言われた通りに郁弥が言うと、井原は郁弥に抱きついた。郁弥は顔を真っ赤にして、『かわいい子にはかわいいと言う』ことが少しだけ恥ずかしいと思った。

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昌平ヒルズ族 世界三大〇〇 @yuutakunn0031

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