本編

401号室 七海さより

 昌平ヒルズの玄関をくぐると、直ぐに広々としたロビーがある。イベントのポスターが無数に貼られている。ここ数年は、管理が行き届いていないようで、新しいものに混ざって、古いものも幾つかある。

 従妹のさよりが迷彩服を着て勢いよく駆けてきた。構えているのは銃器ではなく、カメラである。何やら慌てた様子で、全力疾走している。

「郁弥くん、おかえり。遅いじゃないの。出たのよ!」

「ただいま。って、何ですか?」

「望月ゆとりよ。さあ、ワンショット写メゲットして幸せになるわよ!」

「ははは、それなら、ほらここに」

 気合いの入るさよりに肩透かしを食らわすように、郁弥がそっとスマホを見せる。そこには、望月のワンショット写メがあった。さよりは驚いて体をのけぞらせた。多くの国民が探し求めても、なかなか手に入らない代物を、目の前の冴えない従兄が持っているのが信じられなかった。郁弥がゆとりとの馴れ初めや今朝の逃避について説明した。話しているうちに、郁弥は興奮を隠せなくなった。そうやって郁弥が楽しそうにしているのを、さよりは半分ヤキモチを焼きながら聞き終わるとため息混じりに言った。

「それにしても、さすがは芸能一家ね。芸能人の知り合いがいるだなんて」

「ははは、親父の活動は、中途半端だったから。それとは無関係だよ」

「陽一さんだけじゃないんでしょう、明菜叔母さんも昔、アイドルだったって」

 郁弥は、びっくりした。

「そうなの? そんなの初耳だよ!」

「じゃあ、やっぱりあの子の勘違いかしら」

 あの子というのは、つい先日の尋人である。中学3年生で、明菜がアイドルだった頃の大ファンだというのだ。明菜がいつ頃活動していたのか分からないが、その現役時代を中3生が知っているとも思えなかった。だから、この後2人は揃ってこの尋人のことや明菜がアイドルだったという話を、すっかり忘れてしまう。

「話の辻褄が合わないと思ったわ。それにしても、もっちぃ、かわいい!」

「先生も、かわいいよ!」

「あっ、ありがとう。」

 話が終わり、さよりは迷彩服を着替えに自室へと戻ることにした。郁弥はまんざらでもない顔でその場を立ち去るさよりを見届けた。

 そんな2人の出会いは、お互いに最悪の印象だった。


 秋葉原医科歯科大附属病院の待合室。看護士が足速に移動する。重苦しい空気の中、フランスから着いたばかりの七海一家を出迎えたのは、郁弥だった。さよりの父から紹介を受けた郁弥は、さよりを見て思わずかわいいと言ってしまう。大きな瞳が気に入ったのだ。対するさよりの態度は、意外なものだった。かわいいと言われ慣れていて、郁弥の必殺技も、普通のこととして受け止めた。かえって退屈に思えたのだ。

「はぁ、危篤って聞いて飛んで来たんですけど」

 やや怒り気味の思わぬ返答に、郁弥は一瞬怯んだ。それに構わず、さよりは続けた。

「もう、先が無いんじゃないの」

「えっ。いいや、母さんはきっと良くなるよ」

「良い加減なこと言わないで。私の叔母でもあるんだから」

「さより、仲良くなさい」

 郁弥は、さよりの父が止めに入らなかったら、さよりに殴り掛かっていたかもしれない。明菜が死ぬのを待っているように感じたのだ。郁弥にも、もう先が長くはないという予感はあった。だが、それをどうしても認めたくはないのだ。両手の拳をギュッと握り、七海一家を病室へと案内した。

 明菜は昏睡状態にあった。一時的とはいえ持ち直したのは奇跡とさえいえた。

「母さん!」

「おばさん!」

 言葉を発するほどに快復する迄には更に時間を要するが、初めて会う姪に、明菜は挨拶するのを忘れなかった。

「さよりさんって、かわいい!」

「……。叔母さま、ご無理なさらないで下さい」

「ねぇ、かわいいって言われたら、ありがとうって言わなきゃ」

「そうですね。ありがとうございます。叔母さまも……。」

「郁弥、さよりさんに、ちゃんとかわいいって言ったの?」

「もちろんさ、母さん! さよりさんの言う通り、無理しないでね」

 それから、明菜は再び昏睡状態となる。そして、2度と快復することはなかった。


 その後、さよりは昌平ヒルズに住み着くことになった。どうしてもやりたいことが2つあった。1つは、喫茶室『並木道』の経営。そしてもう1つが、郁弥を志望校に合格させることだった。さよりは既にフランスの大学を卒業しているほどの才女だった。それでも日本に住めば小学校に通わなければならない。となると、どうせ暇である。だから、何かをやってみようと思ったのがきっかけだった。それに、明菜と話したことが刺激となった。だから、さよりは明菜がしていたことを全て引き継ぎたいと思ったのだ。

 四十九日が過ぎ納骨を終えた日、さよりは『並木道』の新衣装を完成させていた。郁弥にそれを披露すると、酷評がかえってきた。郁弥にしたら、母が纏っていた衣装の方が愛着があったし、まださよりのことが好きではなかった。さよりは郁弥の悪態も反抗期の子供の戯言程度に構えていた。

 その次の日、さよりは郁弥に言った。

「郁弥くんの志望校って、何処なの?」

「K大附属大阪中学」

「どうして、大阪なのよ」

「1人で暮らしたいんだ。何でも1人でやってみたい」

「ふーん、そうなんだ」

 郁弥は軽い気持ちで嘘をついた。K大の附属は東京にもある。本当はそっちへ行きたいのだが、さよりは既に大学を卒業しているほどの才女である。ワンランク上のその学校を口にして、落ちてしまったら格好がつかない。さよりには弱味を握られたくはなかった。郁弥の言うことに納得し、さよりが大人しく出ていくのを見て、郁弥はいい気味と思っていた。


 次の朝、さよりから郁弥にプレゼントがあった。誕生日でも何もない日に突然それを渡され、郁弥はひっくり返って喜んだ。相手がさよりであることを忘れてしまうのは、郁弥がまだ子供だからだ。

「なんだこれ? 『郁弥くんのK大附属大阪 合格への道』?」

 それは、分厚い手作りの問題集だった。

「今週中にやりなさい」

 そう言って立ち去り際に言葉を加えた。

「あと、毎週末テストするわよ」

 さよりが作ったテキストで郁弥が勉強する。それは正に、二人三脚ともいうべき姿であった。郁弥が拒むので、さよりが直接教えることはなかったものの、分かりやすい解説書は、郁弥の実力をメキメキと上げた。

 そして、遂に入学試験の前日を迎える。この日は、珍しく郁弥の方から話しかけた。だが、さよりが最後の模試を採点する手を止めることはなかった。

「さよりさん、今迄、ありがとう」

「そういうのって、合格してから言って欲しいわ」

「でも、どうしても今日伝えたいんだ。大阪に行きたいなんて、嘘だったんだ」

「……。」

「それが、さよりさんがこんなに指導してくれて、成績もすっごく伸びて」

「……。」

「感謝してるんだ。」

 郁弥が感謝を口にしたところで、さよりの手が止まる。そのまま郁弥に向き合い、最高の笑顔を見せた。それはまるで、勝利の女神が微笑んでいるようであった。郁弥はその笑顔に引き込まれる。大きな瞳から溢れる何かが、優しく郁弥を包み込んだ。

「よしっ、合格よ。よく頑張ったわ!これで4連勝ね!」

「……。」

 突然喋り出したさよりのかわいらしさに、郁弥は黙り込んでしまう。さよりもつられてしまい、しばらくは静寂が支配した。

「……。」

 先に沈黙を破ったのは、郁弥だった。

「……。かっ、かわいい!」

「なっ、何よ。こんな時に……。でも、ありがとう」


 翌日の試験で、郁弥は合格を果たす。

「おめでとう! 郁弥くん」

「ありがとう! さより先生」

 郁弥が大阪で頑張ったかどうかはさておき、さよりは郁弥の成長に期待していた。

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