第10部 砂上の楼閣



 狭い空間に獣が二頭。


 完全に激昂している《狼》と《鬼》が衝突を繰り返しているが、他の四人は全く手を出せずにいた。二人が部屋をめいっぱい使って暴れ回っているせいで、下手に動くわけにもいかなかった。


 二人とも厄介なのに違いなかったが、特に面倒なのがイザーラだ。この人が密集した空間で、ご自慢のデザートイーグルをぶっ放す気でいるらしく、常にホルダーに手を掛けている。そうしながらも刃渡りのある大振りのナイフで安宿への攻撃をやめないのだから、もう破壊の権化と言っても過言ではないだろう。それだけ、攻撃にかける執念は常軌を逸していた。



(さすがに応援しないとまずいな……)



 一向に優劣のつかない交戦を観察しながら、寿晴は今後を考える。二人の実力が拮抗しているぶん、短期決戦が望めないのは明らかであった。


 しかし、こんなところで安宿を消耗させる訳にはいかない事情がある。彼には新生《ヴォルク》の頭として、そしてただ一人の『箕輪安宿』として、やって貰わなければならないことが山ほどあるのだ。



『スバル』



 囮くらいならなれるか――と足を踏み込んだところで、ヴィルナエの小声に呼び止められる。



「――――っ!」



 反応して足を止めたと同時に袖を強く引かれ、重心を後ろに持って行かれた寿晴は抵抗の間もなくよろけてしまう。ヴィルナエに抱きとめられるような状態になっているが、これは彼女が極秘――主に安宿に――で依頼したいときによくしていたことだった。やっぱり子供の遊びみたいだな……と考えながらも拒絶することなく、大人しく「お願い」を待つ。



(君の力が必要だ。我々の拠点深部へ向かって欲しい。護衛と案内役に勝也をつけよう)



 耳元で囁きながら手話で伝えてくるのも、同様に彼女の癖のようなものだ。どちらか一方で構わないのに。まだ自分の伝達能力に自信がないのかと胸中でのみ溜め息を吐き、寿晴はヴィルナエによく見える位置でハンドサインを送る。



(僕になにを求める?)


(体勢を整えなおしたい。新しい基盤を創るのは、君の得意分野だろう)



 その言葉に、昔の記憶が蘇る。軽率に踏み込んだ裏側の世界で、初めて創った三人だけの組織。駒としての教育しか受けていないヴィルナエと安宿は、実力行使に出れば優秀だったが、それ以外の細かいことは全くダメだった。それなら仕方がない! と出張って枠と土台を用意したのが、細かい調整「だけ」が得意な寿晴だった。それを今でも、彼女は覚えていたのだろう。嬉しいような、そうでもないような。『あんな未熟なものを覚えていてくれるな』という気持ちが強くて、寿晴は素直に喜べないでいた。迅速な返答をしない彼に少し焦りながら、ヴィルナエは(指揮も全て任せたい)という旨まで追加でお願いしてきた。全て丸投げなんてお前、あのときから殆ど変わってないじゃないか。


 人の上に立って指図することを嫌う彼女は、昔もよくこうして役目を押しつけてきたものだ。当時とは似ても似つかぬスケールの指揮を丸投げしてきたことには苦笑せざるを得ないが、こうして評価されるのは悪くない。上流階級の連中相手にご機嫌を伺うよりかは幾らもマシかと薄く笑んで、(信じて貰えるのなら)と返す。すかさず出された(勿論)という返事を確認しながら考えるのは、深部にいるはずの面子のことだ。戦力がこちらに偏っている以上、乗り切るのはなかなか大変そうではあるが――元《エクリッシ》の二人を上手く使えば、まあ何とかなるだろう。



(しかし良いのか? あれは君の気に入りだろう)



 貰い受けていいのかと、まさに勝也を呼びつけようとしていたヴィルナエに問う。様々なことに巻き込まれすぎたせいか、他人との共生を避けたがる傾向にある彼女が、どういうわけか大貫勝也のことはよく傍に置いているようだった。それがあるから引き離すことに抵抗があるのだが、振り返った彼女に暗さはない。まっすぐ寿晴の目を見て、自分の胸を指で突いたヴィルナエは珍しく柔く笑っている。



(大丈夫、もう貰った)



 口の動きだけで伝えてきたヴィルナエは、もう寿晴が知らない女だった。あの大貫とはもう男女の仲になったのだろうか……などと下世話なことを考えている間に、彼女と入れ替わりで金髪の男が現れる。サラディーノとは違う傷んだ金色と鳶色の目が、彼が自分と同じ東洋人であることを如実に示していた。



「中枢構成員の大貫です。前原さん、中央へご案内します。こちらへ」


「ああ、宜しく頼む」



 わざわざご丁寧に名乗った男は、頼子に似ているようで似ていない。あの子には感じなかった現実味というか生活感というか、それなりにしっかりと苦楽を感じながら人生を歩んできたのだろうという背景が見える男だった。あの小娘もこれくらい作法を身につけていれば……と、過去の口論を思い出しながら考えたがすぐにやめた。無垢で無知で臆病で、そのくせ負けん気が強い性格を腹立たしく思うことは多々あったが、それはそれで良いのだろう。あの小娘はああだからこそ、安宿の心を動かしたのだろうから。



「逃がすか……!」



 奥へ動こうとした気配を察知したらしいイザーラの怒号が飛ぶ。傷だらけになりながらも、無理やり安宿を掻い潜ってこちらへ向かう姿にはぞっとした。味方であるはずの勝也の切迫した表情からも、イザーラが噂や情報以上の危険人物なのだということが良く分かる。咄嗟に抱きしめるように寿晴を庇う勝也の肩越しに見えた《鬼》は、躊躇もなにもなく銃口をこちらへ向けている。



「Иди на хуй...!」



 強引に隙を作られ出し抜かれたものの、安宿も得物を逃す気はない。向かうイザーラの足下を撃って前進を妨害し、動きを止めた一瞬の隙を突いた。


 長い足を素早く振り上げ、右手首を鋭く蹴り上げる。重い衝撃に負けて緩んだ手からナイフが離れて宙を舞うと同時に、重心をずらされたイザーラも軽く仰け反った。今が追撃のチャンスだ。軽く下ろした足を再度機敏に繰り出し、今度は爪先を、がら空きの腹へとめり込ませた。



「――――ァっ!」



 安宿の足癖の悪さを以て弾き飛ばされたイザーラは、壁に叩きつけられて悶えている。しかしだからといって、これでトドメを刺せたわけでもなければ時間稼ぎになるわけでもない。感覚的には肋を数本砕いており、激痛を感じているはずだし呼吸だって苦しいはずだ。なのにあの《鬼》は、すでに体勢を整えて立ち上がっているではないか。悍ましい。ヤクでもキメてんじゃねえか、こいつ。



「邪魔をするな、《狼椿》……!」


「それはお前の方だ、俺の邪魔をすんじゃねえ!」



 二頭の獣が吠える。理性は欠片もなく、ただ敵意と殺意を撒き散らしながら火花を散らす。寿晴を庇ったまま呆然としている勝也に『早く行け』と目で訴え、二人の背中が見えなくなったあたりで、もういちど銃を構える。


 激しく、荒々しく、衝動のままに殺し合う二人の間に入り込む隙間はない。しかしイザーラはかなり消耗しているらしく、気迫ばかりで体が追いついていないようだった。素早く差し込んだ予備のナイフは精彩を欠いており、手緩い、と安宿は思った。刃先をナイフで受け流し、掴んだ腕を捻り上げてイザーラを制す。それでナイフを取り落としてしまったイザーラの形勢は、圧倒的に不利であった。



「姉さん、撃て!」



 腕を捻ったまま頭を押さえ込み、強制的に動きを止めたイザーラをヴィルナエに差し出す。抵抗して暴れてはいるものの、手負いの獣一頭を押さえ込む程度なら、安宿には容易いことだ。

 またとない絶好のチャンスだ。今しかない、というほどお誂え向きだったのに、ヴィルナエは撃つことを躊躇っていた。


――イザーラを? 撃つ? 私が?


 わりと長く付き合ってきた《彼》が、利也同様に冷えた物質になってしまうのかと思うと指が竦む。価値観のズレが大きすぎて互いに良き理解者にはなり得なかったが、それでもイザーラのことは頼りになる友人だと思っていた。崇拝に近い好意を見せてくることもあって、それには戸惑ったが救われたことも数多くあったのだ。例えそれが、思惑を押し通すための芝居だったとしても。


 和解の道はないのか。この危機的状況にもかかわらず、まだ融和へと続く道筋を探っている。その可能性が僅かもないことなんて、もう分かっている筈なのに。


 情状酌量の余地などない。イザーラは独断と私情で、無関係であるはずの頼子を攫った。他者宛ての情報を握りつぶした。利也を殺した。勝也を殺そうとした。この他にも隠れた問題行動が山ほどあるに違いなく、粛清待ったなしの危険人物であることは明らかだ。なのに、ありもしない希望に縋るヴィルナエの『優しさ(あまさ)』がそれを拒んでいる。



(責任を果たせよ……それでも《教祖》か……!?)



 傷ついたイザーラを睨むように凝視して、甘い自分を振り払うために鼓舞する。《教祖》という呼び名は《慈愛の泉》を思い出すから好きではないが、敢えてそれを使うのは己を戒め、役を全うするためだ。嫌だ、嫌だと逃げ続けた《雪原の仔猫》とは、もう決別しなければならない。


 やらなければならない。イザーラを生かしておきたいのは私のエゴだ。組織全体を、ひいては世界全体のことを考えれば、なんの躊躇もなく不条理に殺し続ける《彼》をここで始末するのが最善の手。更なる犠牲を生み出す前に片付ける。構成員たちを守るのが私の役目……しかしイザーラも構成員で…………それじゃあ、イザーラを守るのも私の役目? あの子は人をたくさん殺すのに?



「姉さん!」


「――――っはァっ」



 撃つ。絶対に撃つ。大きく息を吐いて吸って、荒くなった呼吸を強制的に整えた。揺れて安定しない腕に、一本の芯を通すイメージを。そうすると震えが止むから、きちんと照準が合う。狙うは顳顬だ。今度は踏みとどまらないように、ひと思いに力を込めてトリガーを引く――



「……!」



 決意から実行まで、僅か一秒程度の時間だった。気力を振り絞って安宿を振り払ったイザーラが一歩を踏み込んで、頭を抉るはずだった弾丸が壁にめり込む。追撃しなければ。そう思って構えなおすが、イザーラが余りに不規則な動きをするものだから狙いが定まらない。安宿も整っておらず追撃は難しそうだ。どうする。狙うは一撃必殺だが、体力を削ぐだけでも構わないだろうか。しかし残弾も僅かだ。できるだけ少ない手数で済ませたい……! 


 こちらへ焦点を変えたらしいイザーラとの本格的な衝突はもう避けられない。一秒にも満たない時間で腹を括ってもう一度銃を構えるが、決行を前に銃声を聞く。



(誰だ……?)



 安宿はまだ整っていない。私も同様だ。なのに銃声は響くし肩から血を流すイザーラも倒れている。射線を辿る。するとそこには、寿晴と勝也に同行したと思っていたダグラス・フーカーの姿があった。



「今のうちにお前たちも向かえ! お前たちが居なければ話にならん!」



 血を吹く肩口を押さえて呻き、それでも立ち上がろうとするイザーラから目を離さず、射線も離さずダグラスは叫ぶ。本音を言えば、弱っている今のうちに三人がかりで仕留めるのが理想だ。しかしイザーラが相手では何が起こるか分からない。なんせこの《砂漠の鬼神》は、どれだけ深手を負っても必ず生還し、且つ相手を壊滅状態に陥れた実績が幾つもある。それならここで更に消耗させて貰って、残存の構成員で総攻撃した方がいいのかも知れない。



(アスカ、来てくれ)



 こちらを一瞥したことを確認して、撤退を手話で伝える。不服そうではあったが従ってくれるようで、倒れたイザーラを警戒しながら、こちらへ跳ぶように駆け寄ってきた――まるで大型犬のようだ――。



「ヴィルナエ……!」



 微かな振動が鼓膜に伝わる。誰かが何かを言ったようだ。思わず振り返った先に居たのは、弱々しく床に伏せるイザーラだった。『行かないで』。そう言いたげな目に後ろ髪を引かれる思いだったが、もう決別すると決めたのだ。



「……行こう」



 冷然とした目でイザーラを見下ろす安宿の手を引いて、ヴィルナエは拠点へと続く方へ足を向ける。大人しく着いてきているらしい気配を感じながら、薄暗い廊下を駆けた。今度こそ全てを終わらせるのだ。鼓膜がまた振動を感じ取ったが、堅く決意したヴィルナエは振り返らなかった。




              ※




 希望を見いだしていた背中が、闇に溶けて消えてしまった。どうにもできずに己の神を――ヴィルナエを見送ったイザーラは、酷く絶望的な気分だった。



「もう終わりだ……終わりなんだイザーラ。ここがもう長く続かないことくらい、賢いお前になら分かるだろう」



 銃口を向けたまま、ダグラスは諭すように語りかける。イザーラは孤立しても《ドゥラークラーイ》存続を主張し続けているが、世界では圧倒的に反対勢力の声が大きかった。連日報じられる非道な行為のせいだ。好き勝手に暴れ回る奴らは軒並み正式な構成員ではなく、勝手に名を騙っているだけであったが、そんなもの世間には関係のないことだ。支持が得られない組織は存続が難しい。それだけでなく、主導者として君臨させられているヴィルナエに続ける意志がないのだから、もう閉幕する以外の道はない。


 しかしイザーラはそれを受け入れない。世論とか評判とかヴィルナエの意志とか、そんなものはどうでも良かった。ただ私が、私とマリウスが自由に生きられる世界を創れさえすれば、他のことなどどうだって構わないのだ。あの集落では誰も許してくれなかったから外に目を向けたのに、ここでも「駄目だ」と有象無象は言う。マリウスと同じ金髪碧眼のこの男も、他と同じように。



「お前から殺しておけば良かった……」



 敵対しようとするダグラスを睨みながら、はじめて接触した日のことを思い出す。我々を討ちに来たというこの男は、ひと目ヴィルナエを見た途端に目の色を変えた。敵意という敵意を削がれたような感覚で、その瞬間、自分の目に狂いはなかったと確信した。やはりこの子は神にふさわしいのだなと得意げな気持ちになったのも束の間、とんぼ返りの要領で姿を現した彼は、ヴィルナエの手を取ってこう言ったのだ。――どうか君を、見届けさせて欲しい――。


 邪魔だと思った。君の憂さを軽くしたいなどと歯の浮くようなセリフも吐いており、そこも気に入らなかったが、ヴィルナエが許したから私も許した。


 しかしどうやら、この判断が誤りだったようだ。戦力自体は脅威ではなかったが、その愚直なまでの正義感は、愚者たちにとっては凶器にも匹敵する強い光であった。その上、ステレオタイプの父親を連想させる抱擁力と威厳まで持ち合わせているときた――ダグラス本人は独り身だが――。


 これは毒だ。まともな家庭環境を知らず、焦がれてきた愚者たちにとって、あれこそが崇拝対象といえるだろう。伊智ですら陥落寸前なのだから、本当にもう、厄介としか言い様がない。



(しかしお前は、私の神には成り得ない……!)



 ダグラスは、イザーラの定めた条件に達することがない。新設する神は、人目を引く奇抜な容姿でなければ――と思っていた。知名度がないのだから、できるだけ目立たなければ人の心に残らない。ヴィルナエの鮮やかな赤い髪はきっとこのためだ。イザーラはそう信じて疑わなかった。


 それに、イザーラはダグラスに触れることに抵抗を感じていた。長年刻まれ続けた戒律の影響もあったのだろうが、それ以外の何かがブレーキをかける。相容れない何かを感じているせいか、「父親」を連想させる存在に拒絶反応が顕現しているのか。焦点の定まらない思考では、その正体を特定することができない。



「俺を殺したところで何も変わらん。あの二人が結託した今、よりよい組織を創ってくれるだろう。それこそ、《愚者》たちが住み良い組織を」



《愚者》とは所謂、社会に適合できなかった者たちのことだ。軍人として無法者たちを取り締まる折、隊内では密かにそう呼んでいた。


 人の迷惑を考えない、己の欲に忠実な愚か者。そんな差別的な意味を込めた、不名誉且つ礼に欠く呼称だ。ダグラス自身も己が定めた正義に則りこう呼んでいたが、ヴィルナエとイザーラとの出会いを機に改めた。この二人が、無法者全員が必ずしも欲のままに活動している訳ではないのだと教えてくれた。勝手に愚か者だと思い込んで切り捨てるのは、「平凡」というアドバンテージを持つ者の傲りなのだと知った。深慮も躊躇いもなく口にしていた自分を恥じた。


 そんな自分とは違い、逃がした安宿とヴィルナエは《愚者》であることの苦痛を知っている。どこかの誰かが勝手に決めたまま根付いてしまった「常識」に馴染めず、世界に弾かれてしまった者たちの苦悩を知っているからこそ、彼らもまた奔走を続けるのだろう。そんな者たちのことを、今は敢えて《愚者》と呼んでいる。彼らが穏やかに過ごすための筺を目指したこの組織を、《愚者の楽園》と呼び始めたのもまたダグラスだった――勝手に呼んでいたのが定着したのだと以前に言っていた――。

 


「あの子たちなら、きっと上手くやれる。妄執に囚われたお前よりも遙かにな!」


「妄執だと……ふざけるな!」



 煽り言葉を吐いたダグラスは、心を乱しながら銃口を向けるイザーラの態度を冷静に観察していた。挑発に乗ってくれたのは僥倖だ。冷静さを欠き、強さの根本である頭の回転の速さを潰せたのなら、まだ勝機はあるかもしれない。傷つき墜ちた地獄から這い上がれないままの娘を救えないのは心苦しかったが、せめてこの手で終わらせてやることが、大人が果たすべき責任だとダグラスは思っている。利也を屠ったデザートイーグルの銃口には少し怯んだが、もう腹は括った。


 一方でイザーラは、急に全てを否定してきたダグラスにひどく苛立っていた。あの日の気持ちが妄執であるものか。新しい神を据えた世界を創ることだけを目指して生きてきた日々が全て無駄だとでもいうのか。それだけでも腹立たしいのに、それがよりにもよって金髪碧眼のダグラスに否定されては堪ったものではない。まるでマリウスに拒まれているようだ。そう思うと酷く心が揺れて、冷静では居られなくなる。そうか、だから私はダグラスが苦手なのか――。そういえば前に彼が見せてくれた写真の父親とよく似ているな……なんてぼんやり思いながら、イザーラはトリガーを引く。それと同時に、二つの銃声が狭い部屋にけたたましく響いた。赤が爆ぜる。何がどうなったかも分からないまま、意識は黒に呑まれてゆく。




              ※




 慣れた様子でサクサクと進む背中を懸命に追う。古城を改築して作ったらしい拠点内部の全容を掴み切れていない前原寿晴は、見失わないことだけを目標に絞って追従した。 


 地下路を抜けてもなお薄暗い拠点内部は、夜目の効かない寿晴にはなかなかにキツい。そのうえ複雑怪奇な構造になっているらしく、曲がったり潜ったり迂回したりと忙しかった。一人きりでは迷う自信しかないが、そんな失態はなんとしても避けたいところだ。少しのロスも惜しい。早く他の面子と合流しなければ。



「……ここ、足下に気をつけて下さい。他よりも滑りやすくなってるんで」



 速度を緩めて唐突に投げられた声に胸が跳ねる。さっきから感じている腥さと錆臭さがその原因か? 慎重に歩きながら床に視線を落とすと、床には黒い染みが拡がっていた……。



「やらなきゃいけないことが多すぎて、まだちゃんと片付けられてないんです」



 すみません、お見苦しいものを……と苦笑する勝也の感情は窺えない。淡々とした口調で、感じる印象は『虚無』だった。それが却って痛ましく、寿晴は掛ける言葉を失っている。恐らくここは、大貫利也の殺害現場なのだろう。遺体は既に撤去されているようだが、飛散したらしい肉片とおぼしき物体や血はそのままだ。一体どんな死に方をしたんだ。爪先に見える利也の破片を踏まないよう注意しつつ、凍って滑る赤の上を進む。


 長く続いた廊下を抜けたのは、そこからすぐの所だった。突き当たりの部屋に入り、本棚に並ぶ書籍を数冊引き抜いて、何やらごそごそと手を動かしている。酒場の小部屋同様、仕掛けがあるようだ。カチ、と鳴った音を確認した勝也は、慣れた手つきで執務机後ろの絵画を取り外した。そこには大きな穴が空いており、真っ直ぐに通路が延びている。



「近道を使います。少し狭いですがここを通りましょう」


「……こんなに内部を見せて良いのか? 仮にも僕は、敵対組織の幹部なんだぞ」



 絵画を壁に立てかけながらこちらを見た勝也は笑っている。今は裏側に身を置いているはずなのに、一般の――表側の人間と話しているような気分だ。そのちぐはぐな感覚が気持ち悪くて、寿晴は密かに肌を粟立たせている。



「ヴィルナエも言いましたが、ここはもうすぐ終わります。隠していても仕方ありません。……それに、あなたは彼女が信じた人だ。だから大丈夫」



 有事とは思えないほど柔らかに笑い、勝也は答えた。


 まるで根拠のない自信で構築された解だ。調子外れのキレイゴトのようなものであったが、それで罷り通ると思っているのだから恐ろしい。気にも留めず、誤魔化しもせず穴に登り、これが正解だと信じて疑わない清廉な顔がこちらを見ている。訂正しよう、間違いなく二人は兄妹だ。何にも染まらない強烈な白を勝也にも感じ取った寿晴は、大きな溜め息を吐いて小さく呟く。



「……最後まで綺麗なままでいてくれよ」


「? 何か言いましたか?」


「なんでもない。先へ進もう」



 彼が裏側に染まらないことを願いながら、横穴の入り口で待つ勝也に歩み寄る。そのためにも、この有事を好転させる最善の方法を考えなければ。安宿のために、自分のために、ひいては彼らのためにもやるべきことを果たすのだと決めて、寿晴も横穴に上る。


 もう間もなく。いずれ訪れるそのときまでに、ことの顛末を整理しておかなければ。




              ※




「どこに行く気だ!」 



 やにわに立ち上がり、すたすたと迷いなく外へ行こうとしている頼子を伊智がすかざず止める。それに反応したサラディーノとあゆみも扉の前に立ち塞がり、総出で突飛な行動を阻止している。



「どこって。ヴィルナエのところ」


「お前、ヴィルナエがどこにいるのか知ってるのか」


「知らない!」


「――――――っ!」



 突然動き出したかと思えば、なんの考えもない頼子に頭を抱えている。呆れて何も言えない。嘗ての勝也に感じていた苛立ちを頼子にも感じており、やはり兄妹か……と思うと溜め息が出る。腕を引かれて阻止された彼女は不服そうな顔をしているが、そうしたいのは俺の方だ。


 頼子は頼子で引き留められた理由は分かっていたが、だからといって聞き入れるつもりはなかった。ヴィルナエがきっかけでここに来たのに、ヴィルナエとはほとんど話せていない。他の人もヴィルナエのことを教えてくれない。だったらそんなの、自分で行くしかないじゃないか。


 この穏やかでない空気が、更に頼子を急かす。利也が死んだ。ニーナも死んだ。だったらヴィルナエが死んでもおかしくなく、その前にどうしても話がしたかった。――私のどこを好いてくれたの。ただそれだけが聞きたかった。



「分かった。分かったが一人では行かないでくれ。君ひとりでは襲撃に耐えられないし、イザーラ・ナーブに利は少しも与えたくない。ヨリコ、君はあいつが必要としている「鍵」であることを忘れないで」



 引かれた腕を引き返して抵抗していたが、サラディーノに諭された頼子はそれをやめた。まだ不服そうではあったが理解はしたようだ。しかしまだ意識は外に向いており、このまま大人しくしてくれそうな気配はない。



「じゃ、じゃあ私も行く! ひとりじゃなきゃいいよね、ねえ伊智……」



 ヴィルナエならきっと執務室だよね、だったら私も知ってる! と出張ってきたのはヤンハイだ。守るつもりなのかしっかりと手を繋いでいるが、戦いに慣れていないヤンハイでは正直心許ない。行こう、と拙い日本語で言っているあたり、彼女もこちらの合意を得る気はないようだ。その様子に伊智は再び頭を抱える。本当にもう、この小娘どもは……!



「ここで押しあっても意味がない。伊智、とりあえずヨリコの望みを叶えよう。この状態では移動も籠城も似たようなものだ」


「それはそうだが……執務室はまずい。あそこにはきっと――」



 きっとニーナの遺体がある。千田のあの様子からすると、多少の損傷はあるだろう。それはできるだけ頼子に見せたくないと伊智は思っていた。



「分かっている。その部屋には入らせず、近づくだけだ。――シノヅカ、ヨリコを護るぞ」


「はい、了解しました!」



 隣で二人の説得を試みようとしていたあゆみに声を掛けて、執務室近辺へ向かうことを決める。その決断に観念した伊智は、「少し待て」と頼んで壁に連絡用の暗号を記した。相変わらず緊張感に欠ける二人の小娘たちにしっかり警戒するよう念を押して、何が起こるか分からない室外へと足を向けた。



 しかしなんというか、分かっていたこととはいえ現実は重苦しい。廊下には転々と連なる血痕がいくつもあり、まるで案内役を買って出ているかのように目的地へと向かってのびていた。この程度のことで胸をザワつかせるなんて、《殺戮の番犬》の綽名が聞いて呆れる。伊智は己の感性の変化に辟易し、苛立っていた。こんなことなら、あの真冬は明けない方が良かったのではないか。そんな気さえしてしまう。


 床を彩るこの血は、きっと千田が落としたニーナのものだろう。蛇の罠に利用された、可哀想なニーナの血。頼子も概ねその正体に気付いているようで、さっきまでの強気が嘘のように大人しい。気落ちしているだけなのか、発作で胸を痛めているのか。勝也から託された錠剤を握りしめた伊智は、何事も起こらないことを祈りながら先へと進んだ。




              ※




「……いない……?」



 通路突き当たりの絵画を蹴落として目的の部屋に辿り着いたものの、そこには誰もいなかった。



「間違えた、ということは?」


「それはないですよ。頼子をここに預けるとき、俺も立ち会いましたから。……篠塚はどうしたんだ……?」



 人の気配は残っている。少し前に出て行ったのだろうか。争った形跡はないが、護衛についたはずのあゆみの不在に一抹の不安を感じている。フリーになった伊智との合流を決めたのか、予期せぬ事態でも起こったのか。安易に想像できる最悪の結末を思い浮かべて、勝也は冷や汗を流している。



「――どういうことだ?」



 背後からの声に驚いて振り返ると、同じように横穴から降り立つヴィルナエがいた。散々に避けてきた、箕輪安宿を伴って。



「?! イザーラは? 撒いたのか」


「いや……ダグラスに任せてきた。でも、きっとあともう一息だ……それより、ヨリコやヤンハイはどこへ行ったんだ」


「それが――こんなのがここに」



 再会を喜ぶ間も余裕もなく、勝也は入り口近くの壁を指す。記号の羅列が書き込まれており、その意味を読み取った勝也の声は震えていた。ヴィルナエもまた、息を詰まらせている。



「安宿、これを見てくれ」



 記号の羅列から少し離れたと所には、文字と数字が入り交じった、数式のようなものが描かれている。サラディーノの筆跡であるそれは、安宿と寿晴、サラディーノのあいだで使われている暗号だった。それを読んだ安宿も息を詰まらせたが、すぐに大きく溜め息を吐く。あれだけ面倒事を起こすなと釘を刺したのに。暗号には「頼子の願望を叶えるために執務室へ向かう」こと以外に、緋多岐によってニーナ・バツィナが殺害されたことが記されていた。



「アスカ」



 その声にどきりとして、平静を装えないまま振り返ってしまった安宿は償いの言葉を探している。ヴィルナエの目からは怒りや憎しみは垣間見えない。けれど組織の総意ではないにせよ、《ヴォルク》側がした事の重大さは理解しているつもりだ。ホンモノの姉妹同然に寄り添ってきたニーナ・バツィナを殺されたヴィルナエが、心穏やかにいられる筈がないのだ。



「姉さ、」


「行こう、アスカ。ヨリコは、私たちを探しているらしい」


「……ああ、分かった」



 感情を無理に殺そうとしているのだろう。堅い表情をしたまま、言い終える前に踵を返してしまった。やはり早く終わらせなければ。これ以上のものを失い、奪う前に。ひとまずは彼女の強がりに甘えることにした安宿は、寿晴を伴って、部屋から出て行くヴィルナエの後を追った。


――お前も死んでしまうのか。

 そう呟いた声を聞き逃すことができなかった安宿は、胸のザワつきを拭いきれないまま深部へと向かう。






 先導する勝也は、すぐに異様な光景を見る。重装備の大人たちを従えた少女の構図を目の当たりにしており、その中心にいる後ろ姿には覚えがあった。この順応性は、我が妹ながらに恐ろしい……



「頼子!」



 呼び止めると振り返った頼子は、少し不安そうではあったが弱っている様子がない。すっかり打ち解けた伊智が傍にいるからか、第三の兄のようなサラディーノが傍にいるからなのか――あのエクリッシ出身の二人と馴れあうのは至難の業なのだが、きっとこの子は何も思っていないし考えてもいないのだろう――。



「勝兄……あっ」



 兄の姿を捉えて明るい表情を見せたが、すぐに目的の人物を見つけてはっとする。ヴィルナエと目が合うや否や、ヤンハイと繋いでいた手を離して駆けだした。代わりに、近くにいた伊智の腕を引いている。


 急に踏み込んできた頼子に戸惑ったのか、ヴィルナエはたじろいでいた。無事に再会できたことを喜ぶべきなのか、巻き込んでしまったことを謝るべきなのか。かける言葉を探すうちに眼前まで迫った頼子も何かを言おうとしているが、少しまごついて振り返り、強制連行した伊智に縋った。



「伊智くん、ロシア語教えて! 分かりやすいやつ!」


「はぁ?!」



 急に振られた伊智は面食らっていたが、その突飛な行動に誰もが驚いていた。


 相変わらず無防備だ。そのくせ以前よりも積極性が増しているのが厄介だと寿晴と安宿は思っていた。これまでは受動的だったぶん御し易かったが、どんな心境の変化があったのか押しが強くなっている気がする。立て続けに起こる非常事態にテンパって、躍起になっているだけかも知れないけれど。



「Вы не плохо.(あなたは悪くないよ)」



 未だ遺体の残る執務室から遠ざけようと勝也が動こうとしたとき、振り返った頼子がヴィルナエに言う。口元を見せつけるようにはっきりと言ったそれは、聞こえないヴィルナエにもまっすぐに届く。この体質に気付かれていた驚きよりも、「悪くない」の一言が嬉しかった。


 やりたくもない、やる必要のないことを押しつけられては、起こった事態の責任を問われる。やらなかったらやらなかったで、なぜ救わないのかと叱責される。なにをしてもお前のせいだと言われ続けて数年が経ってしまった。このまま何もしなければ――言えば死んでしまった方が良いのではないかとさえ思ったけれど、それはイザーラや安宿が許さず叶わない。だから欲しかった。ただ一言、自分の全てを許し、肯定してくれる言葉が。



(それをくれたのがヨリコ、君だった……)



 手放したくなかったあの気持ちはこのせいか。全く異なる世界に生き、無垢で無欲な君なら――と望みを掛けたのだろう。望みを叶えてくれた喜びと、そのためにこんな危機に巻き込んでしまった申し訳なさが綯い交ぜになった気持ちをどうにもできないまま、ヴィルナエは己の心に従って頼子を抱きしめた。細く儚かったけれど、確かに温かかった……



「Спасибо. (ありがとう)」



 耳元で独り言のように呟きつつ、いつもの癖に従い背中を叩いてモールス信号でも伝えた。が、どちらも無知な頼子には届いていないようだ。困惑気味な息遣いを間近に感じ、それすら愛おしくて笑ってしまう。



「んん……? ――あっ」



 言葉も信号も分からない頼子には何も伝わらず、ただ首を傾げるしかない。固く冷たいヴィルナエの体をぎこちなく抱き返し、その肩越しに覚えのある顔を見る。一瞬思考が停止して、あれは誰だったか……と考えるうちにじわじわと思い出す。気づけば半月ほど音信不通状態になってしまった箕輪安宿だ。そういえばあれ以来、何の連絡もできていないんだった――。



(なんとなく気まずい……)



 ひとり勝手に気まずくなりながら見、ガッチリ合わせられた安宿の目から感情は伝わらない。優しいような厳しいような、どちらとも取れる色に戸惑っている。それに、よく見ると人一倍傷だらけだ。その様に心が揺れる。なにか一言でも謝りたい……。そう思って口を開きかけたのと安宿が目を見開いたのと、ヴィルナエが頼子を手放したのはほぼ同時だった。



「イザーラ……!」



 手早くヴィルナエの背後に隠された頼子が見たのは一斉に銃を構える大人たちで、その焦点には人影がある。それは間違いなく、血塗れでユラリと立ちはだかる《鬼》だった。




 全くどんな強運だと、我ながら呆れてしまう。


胸と肩のあいだあたりから血を滴らせたイザーラ・ナーブは、重い体と鈍い頭に消耗の激しさを実感している。それでもなお生きているのは、幸運なのか呪いなのか、今となってはもうよく分からない。あの小部屋で対峙したダグラスは、気付いたときには赤い水溜まりに沈んでいた。頭を半壊させて斃れているのを確認しても幸福感や達成感はなく、自分が何をしたかったのかも曖昧になっていた。無性に虚しい。



(どうやら何があろうとも、私は生きなければならないらしい……)



 今もあのときも、自分ひとりが取り残された。自業自得と分かっていても侘しく、もうこうなれば意地を通すだけだと自棄にも近い感覚になっている。扱えるかも分からないデザートイーグルを手にしたままヴィルナエを追い、求め続けた理想のために繰り返す。



「ヴィルナエ、一緒に来てくれ」



 警戒心を隠しもしないヴィルナエに手を伸ばし、イザーラは言う。



「君が来さえすれば、もう血が流れることはない。君のせいで、誰かが死ぬことはないんだ」



 言い換えれば、君が従わなければ誰かが死ぬ。君のせいで、亡くす必要のない命が消えるんだよと、抑揚のない声が責めた。イザーラは知っているのだ。彼女を攻め落とす簡単な方法は、肉体的な暴力ではなく精神攻撃だということを。出血のせいで目が翳み、彼女の表情までは分からなかったが、動揺くらいはさせられたはずだ。脆いヴィルナエ。可哀想なヴィルナエ。しかしだからこそ愛おしく、手中に収めて神と崇めたい。


 だらだらと血を流しながら相変わらずの要求を繰り返すイザーラを、ヴィルナエは静観している。これは《彼》の常套手段だ。必ず決めたい事柄があると、こうして人命と責任を持ち出すのだ。確かにその通りだと思う。ここで私が『はい』と答えなければ、イザーラはまた、ここの誰かを撃つつもりでいるのだから。


 けれど今は、嘗ての自分とは少しだけ違うのだ。イザーラが取るに足らぬと放置した大貫頼子という「鍵」を手に入れた今、イザーラの脅し文句など少しも怖くなかった。――あなたは悪くないよ――。そう言ってくれる人たちが傍にいるから、私は迷わず決めることができる……。



「いかない。私は、君の神にはならない」



 人の手で科学的に、摂理に背いて産まれた私が神になんてなれるものか。強い気持ちで退けると、朦朧として曖昧だったイザーラの表情が翳っていくのを見た。怒っているわけではないようだが、良い感情も抱いてはいなさそうだ。ずぶずぶと沼に嵌まりこんでいくような心地の悪さを感じながら、ガンホルダーに手を掛けたヴィルナエはイザーラの出方を窺っている。



「そう……そうか……」



 イザーラの意識はもはや混濁している。しかしヴィルナエの拒絶は、しっかり飲み下して理解していた。どんな要求にも言いなりになるような子ではないのだと知れたのは嬉しかったが、やはりヴィルナエにまで否定されるのは悲しかった。既存の神に、規則に縛られたくないと考えるのは自分だけだったのだろうか。この子は自由な世界を望まないのか――と考えても答えは出ない。そんなのは当たり前だ。だって私は、この子が何を望むのかを聞いたことがないのだから。



「――っ!」


「それならもう終わりだ……君と私なら、理想郷を造り上げられると思ったんだがね……!」



 ゆらりと揺れながら、傷のない腕に銃を持ち替えたイザーラは、素早く引き金に指を掛けてヴィルナエを撃つ。歪んだまま出会い、拗れたまま時を分け合い、この件でひどく絡み縺れてしまった関係は、もう修復することができない。身内を二人も殺しておきながら「許してくれ」と請うつもりもなく、そうなればもう、徹底的に殺し合うしかないと思った。


 

 狭い通路に破裂音が響く。しかしそんなものより、安宿は目の前の出来事に気を取られていた。



「――頼子っ!」



 イザーラが構えた銃を見るや否や、弾かれたように動き出したのはまさかの頼子だった。《彼》が撃つかどうかは別として、「避けなければ」「護らなければ」と思ったのだろう。スライドさせるようにヴィルナエを横へと押し込み、壁へと押しつけたのだ。問題はそこからだ。その甲斐あってヴィルナエは無傷だったが、代わりに射線に入ってしまった頼子は無事ではなかった。ぎりぎりで掠った銃弾が背の表皮を裂き、白いブラウスに赤が拡がる。それを目の当たりにした安宿の胸中にどうしようもない感情が湧き上がり、目の前が白む。



「イザーラァァァァァァアッ!」



 安宿よりも先に激昂したのは勝也だった。弟に続き妹まで撃つなんてそんなこと、他の誰が許しても勝也だけは許せなかった。怒りにまかせて銃を構えるが、「やめろ!」というヴィルナエの激烈な声に制されてピタリと動作を停止させた。やり場のない怒りを溜め込まされた勝也は息を荒げる。けれど文句は言わなかった。イザーラを許せないのと同じくらい、ヴィルナエの意に反することはしたくない。



「……こんなことで己を失うなんて、《砂漠の鬼神》が聞いて呆れるな」



 痛みを堪えて喘ぐ頼子を安宿に預けながら、らしくない煽り文句を吐き捨て始めたヴィルナエを、一同戸惑いながら注視していた。デザートイーグルの反動に負けて姿勢を崩したイザーラを前にしたヴィルナエは、訝しんでいる安宿に目配せしながら更に続ける。



「よく言ったものだよ、その程度で世界を変えようだなんて。そんなものに頼らなければ人を集められない君が、マリウスあのひとを助けられる筈がないだろう」



 妙に饒舌なヴィルナエの言うことはよく分からない。しかし二人のあいだでは通じ合っているようで、何があっても涼しげだったイザーラの顔が、みるみるうちに歪んでいった。それこそ、頼子を撃たれて激昂した勝也のように。



「黙れ! 君に……君にだけは言われたくない……!」



 言って欲しくなかった。図星だった。戦い方も救い方も知らないイザーラは、すぐに結果が出る『暴力による制圧』を選んでここまで来た。ひどく原始的な方法だ。理知的で和平を好んでいたマリウスが、それで喜ぶか? と問われれば、それは否だと言い切れる。しかしそれならどうすればよかった。道を外れる以外の選択肢はあったのか。力も名声も頼りもない片田舎の小娘が声を上げたって誰も振り向かないのだから、悲鳴を上げさせて気付かせ、凶器を突きつけて目を反らせないようにするしかなかったんじゃないか……!

 


(後は頼む)



 安宿にハンドサインで伝えたヴィルナエは、無意識にしがみついてくる頼子の頭を撫でてすぐに立ち上がった。「どこにいくの?」という不安そうな問いには答えず、代わりに微笑んではぐらかす。デザートイーグルを力任せに壁に叩きつけたイザーラがこちらに歩み寄るのを確認して、これまでの進行方向とは真逆の道を駆ける。皆を見失う前に振り返ったヴィルナエは、ヤンハイの潤んだ目を見て力強く頷いた。





              ※





 後悔は全くしていない。していないのだけれど、周りにこうも騒がれると悪いことをした気分になってくる。背中に灼けるような痛みを感じながら、頼子は慌ただしい周囲を傍観していた。


 みんな程よくボロボロだったが、自分を抱きとめている安宿は特に傷が多い。何したんだこの人。ぼんやりと考えながら、目端に映った腕の生傷に何となく触れる。まだ塞がりきっていないそこは未だ潤っており、指が赤く濡れた。



「……頼子?」



 周囲のざわめきがぴたりと止まる。また私はやらかしたのか? 痛みで朦朧とする意識で考えてみたが、元々聡明でない上に散漫で、思考がいまいちスッキリしない。



「――なんですか?」



 そういえば呼ばれたなと思い出して、間を置いて答える。安堵の息を耳元で聞いて、取り敢えず怒ってはいないのだなと胸を撫で下ろした。



「なんであんな無理をしたんだ! こんな……こんな怪我までして……!」



 処置をしているらしい勝也は、少し怒っているようだった。利也に続いてお前まで……と呟いており、その声は怒っている、というよりは混乱している、といった方が当て嵌まる。



「ヴィルナエが撃たれると思って……。私、あの人と話したいことがあるから、死なれたらちょっと困る……」


「それでお前が死んだら、結局なにも話せないだろう!」



 噛みつくように怒鳴ったのは寿晴だった。全くこの小娘は……などと文句を言いながらも処置の手伝いをしてくれているようで、面倒見は良いんだよなぁ、とぼんやり考え、事務所での出来事を思い出していた――牽制しながらもよく気遣ってくれる人だった――。


 相変わらずヒステリックだな……と思ったものの、「それもそうだな」と話の内容には納得している。自分が死んでしまう可能性なんて、少しも考えていなかった。


 話がしたいと探していたのに、一方的に言葉をぶつけるだけで終わってしまった。その後すぐにイザーラが現れ、《彼》と話しているのは聞いた。けれどやっぱり何を話しているのか分からず、彼女の胸中は知れなかった。言葉の壁は厚い。



(いちばん言いたかったことは言えたけれど……)



 それで満足したとはとても言い難い。行動は起こしたけれど、目的は果たせていなかった。何も分からないままだ。ヴィルナエの気持ちも、こうなってしまった経緯も。



(このままじゃあ終われない)



 頼子は大きく息を吐く。そしてぐっと力を込めて、収まっていた安宿の腕から起き上がった。

 顔を上げる。安宿と目が合う。ヴィルナエとよく似た灰色の瞳からは、もう冷徹さも毒気も抜けていた。こうなればもう普通の人間だなあ、とふわふわ笑いながら、頼子は皆の反対を押し切って立ち上がった。私にはまだ、やることがある。


 


              ※




 徐々に正気を失っていくイザーラを引き連れて、地下へと潜る。何度も立ち止まりながら進むヴィルナエは、大人しく追走する《彼》を確認して安堵した。失血のせいかたどたどしい足取りであるのは、少し心許なかったけれど。

 こんなに上手くいくとは思っていなかったが、都合良く事が進んで安心している。冷静さを欠いたイザーラを見るのは初めてで、あの頼り甲斐があるイザーラが消えていくのは少し寂しかった。けれどこれで良いのだ。私も《彼》も、もう十分に――



(もういいんだよ、イザーラ)



 ヴィルナエは、《彼》がたくさん苦しんできたことを知っている。なぜ新世界を夢見ているのか、なぜ新しい神を据えようとしているのか、なぜ彼女が《彼》でいようとしているのか、それらを誰より間近で見てきたのがヴィルナエだったからだ。


 しかしイザーラは、超えてはならない一線を越えてしまった。世界中の、全く無実の大勢を巻き込み犠牲にするという大罪を犯してしまった。これではもう進むことも退くことも、止まることすら許されない。


 最下層の奥で佇んでいたヴィルナエは、気配と足音を感じ取って振り返る。生きているのか死んでいるのかも曖昧になってしまったイザーラの到着を確認して、できる限りの大声を張る。



「もう終わりだよ、イザーラ」



 反応はない。届いているかも分からない。仕方がないなぁと微笑んだヴィルナエは、次の瞬間には火薬が炸裂する振動を全身で感じていた。最後の最期まで、ヴィルナエの鼓膜は音を認識しなかった。




              ※




 こんなことしたくないなあ。嫌な役だなあ。


 そんなことを思いながら、星陽海は管制室から最下層の地下室を見下ろしていた。一番奥にヴィルナエが立っている。――ねえ、本当にこんなことしなきゃいけないの? そう問いたくても、声は彼女に届かない。


 ひどい人だ。私が絶対に断れないと知って、こんなお願いをしてくるのだから。


 ヤンハイにとってのヴィルナエは、恩人であり友人であり、姉のような人でもある。


 山奥で存在を隠すように育てられたヤンハイと、世界中を奔走するヴィルナエは、本来なら出遭うことのない二人だ。そんな二人が接触し、今のような良好な関係を築くに至ったのは、《ドゥラークラーイ》主導の事件に関与してしまったからだ。


【或る富豪令嬢の誘拐事件】。大手企業をねじ伏せ、「味方」に引き込むためにイザーラが計画・実行した誘拐劇に巻き込まれた結果だった。


 ヤンハイには戸籍がない。都市部で生まれた、兄のいる女児だったからだ。国は原則として一人の出産しか認めなかったが、出来るものは出来るし、生まれるものは生まれるものだ。そんな経緯からやむを得ず産み落とされた女児は、国からの叱責を恐れた両親によって山奥の農村に隠されたのだった。預けられたのは母の実家である郊外の農村だった。離ればなれではあったが別段憎まれも疎まれもしておらず、優しい祖父母との密やかな暮らしもあまり不満はなかった。


 慎ましく穏やかな生活が一変したのは二年前。隣の家に、都会のお嬢さんが遊びに来た日だ。――正確には、「遊びに来た」と嘘を吐かれた日。遊び相手になれと指名されて赴いたのに、一言も話さない不機嫌なお嬢さんと相席するだけの退屈な時間だった。

その時点で、何かが可笑しいと気付くべきだった。身なりも教養も顔も違うのに、なんということか、ヤンハイは彼女の替え玉として連れ去られてしまったのだ――それこそが目的で、困窮した祖父母と両親に売られたと知ったのは、《ドゥラークラーイ》に迎えられてすぐのことだった――。


 ターゲットとは別人であることはすぐにバレた。イザーラはヤンハイを『処分』しようとしたが、それを阻止したのがヴィルナエだった。――確認が足りなかった。こちらの落ち度なのに申し訳ないが、君をもとの所に帰すことができない。我々に関わった君を野放しにしては無事を保証できないし、親族の方も……――だから殺してしまえばいいじゃないか、簡単な話だ。そもそも未登録の子だし――簡単ではない。容認できない。未登録だから殺して良いなんて道理はないよ――。こんな会話をしていたと記憶している。物騒な内容ではあったが、怖くも悲しくもなかった。その代わり、「帰してあげられないから、私たちを手伝って欲しい」という申し出には心が弾んだ。


 正直に言うと、家から出られない生活には退屈していた。ヤンハイを人目に晒すことを恐れた両親の言い付けで一切の外出を許されず、祖父母としか会えない日々に刺激は皆無だ。家事手伝いや簡単な勉強を繰り返すだけのあの家とは違い、ここは広くて出来ることも多かった。二つ返事でヴィルナエの申し出を受けて始まった裏側での生活は、良くも悪くも刺激だらけだ。中でもヤンハイの心を揺さぶったのは火薬だった。ヴィルナエたちに同行するうちに触れ、のめり込んでしまった火薬の世界は、脳がチカチカするほど眩しかった。研究も開発ももはや生き甲斐だし、なにより褒めて貰えるのが嬉しかった。自分の作った兵器や火薬で、多くの命が失われているとしても。



(でもこんなことになるなら、止めておいた方が良かったのかな……)



 最下層のこの部屋は、ヤンハイのために造られた火薬の性能実験室だ。今はヴィルナエの指示で、いろんな所にお手製の爆弾を仕込んである。


『この拠点を破壊してくれ。私と、イザーラもろとも』。ヴィルナエのお願いはこれだ。イザーラを煽りながらハンドサインで伝えてきて、有無を言わさぬ雰囲気で異議を唱える間も与えられないまま放り出された。イザーラの到着が合図だ。二人の入室を確認し次第、私が、全てを――。



「讨厌(いやだなあ)」



 そうこうしているうちに、イザーラが姿を現してしまった。どうしても嫌だけど、従うことこそが最高の恩返しになるとも理解している。泣きながら起爆スイッチを押すと、少しだけ間を置いて、衝撃と轟音が全身を叩く。やはり良い威力だ。見て、ヴィルナエ! あなたが育ててくれたお陰で、こんなに良い物を造れるようになったんだよ……。壁がひび割れ、天井から瓦礫が降ってきても構わず、ヤンハイは笑いながら泣いた。死んだって怖くない。寂しくない。だってここにはヴィルナエもイザーラも、遺体になってしまった利也もニーナも居るんだから。みんなと一緒に、崩れた城の一部になれるなら本望。きっとそれが幸せになるのだと信じながら終わりを待つ。全てを放り出した後、不意に首根っ子を引っ張られた気がした。視界が反転する。その先にヤンハイが見たのは、




              ※




 瞬く間に分断された。衝撃と熱波に叩かれて意識を飛ばしているあいだに、瓦礫に囲まれてしまったようだ。あの子はきちんとやってくれたんだ。嫌な役をやらせてしまったなぁ、と申し訳なく思う一方で、誠実な子で良かったという喜びも感じている。瓦礫を隔てたイザーラの安否は分からなかったけれど、あの消耗具合では放っておいてもじきに死ぬだろう。地上のことは安宿に任せてあるし、自分が死んだ後の処理はローズマリーが請け負う契約を事前に交わしている。


 この後のことは、なんの心配もない。勝也や伊智は単独でも十分やっていけるし、寿晴や安宿なんか言うまでもない。気がかりがあるとすれば、やはり頼子のことだ。自分の代わりに撃たれてしまったあの傷は、見る限りでは深くない。けれど頼子は体が弱いようだし、なによりこの殺伐とした環境に慣れていない。「撃たれるのは当たり前」という我々の常識は通用しないだろうから、その不安や動揺は、想像するよりも大きいはずだった。


 怪我をさせたことへの罪悪感はあったが、本音を言えばそれ以上に嬉しかった。庇われたのはいつぶりだっただろう。確か最後に守ってくれたのはイザーラだった。掌で弄ぶために必要な工程だったのかもしれないが、その積み重ねがあったからこそ、私は《彼》を信じてみようと思ったのだ。


 できればもう少しだけ、友人でいたかった……。ヴィルナエは楽園で構築してきた歪んだ絆を振り返りながら、近くのどこかにはいるのだろうイザーラに思いを馳せた。 


 目を閉じる。すると瞼の裏に人影が浮かぶ。安宿と頼子だった。そうだ思い出した、私は彼らに繋がりがあると知ったときから、二人の関係性を気にしていたのだ。


 きっとあの二人は、所謂「良い仲」なのだろう。深い浅いはひとまず置いて、あの安宿が気に入っているのだから、少なくとも特別な感情を抱いていることに間違いはないだろう。


 再会した時に見た毒気のない安宿の瞳を見て、「彼も救われたのだな」と思った。負に呑まれて濁っていたあの頃とは違う、スッキリとした温い瞳をしていた。こちら側で生きるには致命傷ではあったがこれで良かったのだ。きっとこれで、迷いなく進める。彼を絡め取っていた宿命から解放されたのだと思うと、頼子という星の巡りに感謝するしかない。


 しかし同じ子を気に入るなんて、やはり同じ細胞でつくられた姉弟なんだなぁ。そう思うと笑えてきて、ヴィルナエは久々に心からの笑顔を見せた。できることなら二人の行く末を見届けたかったが、もうここで死ぬ予定だからそれは叶わない。どうか幸せに生き延びてくれと祈り目を閉じたとき、声が聞こえた気がした。可笑しいな、私は何も聞こえないのに。

 



「ヴィルナエ!」



 

 思わず目を開けると同時に、もう一度聞こえる。瓦礫から伸びる腕が見えて、ひどい幻覚だなと苦笑している。


 まだ生きたい、と。往生際悪く思っているのか。

 終わらせるつもりだったのに、死ぬ覚悟も決まらない自分が情けなくて泣けてくる。しかしその手は眩くて、ぼろぼろと涙が出た。明るい。暖かい。そのせいで人肌恋しくなって、焦がれてしまって、最後の希望に成り得るその手に思わず触れた。




              ※




 最下層の実験室に続く螺旋階段を下る。中程まで来ると、ヴィルナエが瓦礫に撓垂れかかって倒れているのが見えた。階段も何もかもが崩れてしまいそうだったが、それでも構わず頼子は駆け下りた。一歩踏み込むたびに背中が痛むが、そんなものに構っている余裕はない。一刻も早く。でなければ、もう二度と再会は望めない。


 ヴィルナエを迎えに行く。そう決めた頼子を安宿は止めなかった。仕方ないなあ、というように笑い、許し、同行して補助すると決めた。安宿もまた、ここでヴィルナエと死別するのは避けたかった。



 途中まで一緒だった伊智は、戻る気配のないヤンハイの様子を見に行った。他の面々にもそれぞれ遺体の回収を頼み、生きて会うことを約束している。


 瓦礫に囲まれたヴィルナエは、朦朧としているようだった。虚ろな目で柔く笑っている彼女は少し可愛らしかったが、そんな悠長なことを言っている場合ではない。完全に崩れる前に、早く。亀裂を増幅させていく城に焦りを感じながら、安宿と頼子は危険を顧みず、強引に駆け寄って手を伸ばした。



「ヴィルナエ!」



 彼女が聞こえない人だということは知っている。しかし抑えきれず、どうしようもなく名前を呼んだ。するとどういうわけか、ヴィルナエは反応を示す。安宿によれば聞こえなくても空気の振動を感じ取るらしいから、それに反応したのかも知れない。振動の根源を探すように首を擡(もた)げたヴィルナエを見て、頼子と安宿は顔を見合わせた。



「――ヴィルナエ……!」



 まだ大丈夫。

 今度こそ助ける。

 

 それぞれの思いを抱えて、もう一度呼ぶ。絶対に連れて帰るのだという強い意志を以て、安宿と頼子は、しっかりとこちらを見上げたヴィルナエに手を伸ばす――



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