第9部 咆哮



 二人の青年が、ざくざくと雪を踏みながら歩く。


 冷えた風に吹かれながら辿り着いたのは、何の変哲もない街の酒場だ。暖色の灯りで照らされた店内は落ち着いた雰囲気だったが、客の地元住民たちは明るく、ほどよく賑わっていた。



「やあやあ、ラーストチカ。久しいなぁ」


「ご無沙汰しています、マスター」


「サヴァーならもう来ている。案内しよう」


「ありがとう」



 にこやかに店主と会話している《ラーストチカ》とは、《ヴォルク》エージェントの前原寿晴のことだ。事務所内でたびたび見せるヒステリックさは微塵も垣間見えず、爽やかな好青年を装う姿は圧巻だった。上流階級の哀しい性だな――と思いながら、箕輪安宿は彼に続いて店内の廊下を歩く。辿り着いたのは小さな個室で、寿晴はドアを開ける店主と意味深に笑いあっている。傍を通過する間際にこちらにも笑いかけたが、安宿はそれを適当に受け流した。



「……はぁ」



 扉が閉まるや否や、にこやかな顔をスッと引っ込めた寿晴は大きな溜め息を吐く。振り返った顔は「あの店主には辟易している」と言いたげだったが、それもそうだ。長年の付き合いから察するに、あの男は彼が苦手とするタイプだ。それでも嫌な顔を隠して好意的に接することができるのは、教育と称して施された特殊訓練の賜だろう。二人が通っていた学校は社交界デビューを前提としたカリキュラムが組まれており、必修の課外授業があったことを思い出した。必要最小限とは名ばかりの高度な礼儀作法、当たり障りのない会話術、役立つかどうかも分からないホールダンス講習などなど、どれも苦痛でしかなかったなと思いながら寿晴を労う。


 哀しいことに、本人の意志と反して彼はそれらが得意だった。要人を前にしたときに醸し出される、爽やかさと誠実さが彼の武器だ。人の懐に入り込むことにおいては群を抜いており、情報収集や人脈の構築には欠かせない人物であった。



「よくやってくれた。あの短期間でここまで整えていたとは……さすがだな」



 微笑んで称えると、さっきまでの嫌そうな顔が嘘のようにぱっと晴れやかになっていく。《サヴァー》という連絡係の協力者である店主に取り入ることができたのも、彼の功績に他ならない。



「まあ当然のことさ! そのために今、僕はここにいるのだからな!」



 ふふん、と得意げに胸を張った寿晴は、奥の棚にある置物たちを操作するように弄っている。カチと音がすると同時に棚が扉に変わり、歯止めをなくしたそれは自然と開いていく。ぽっかりとあいた口は、先が見えないほど暗い。深部へと続く冷たい空洞を前に振り返った寿晴は、ひどく哀しそうに、そして自虐的に笑うのだ。



「そのためにあるのだから……存分に使ってくれ」


「寿晴、」


「さあ、行こうか」



 安宿からの言葉は待たず、拒むように遮って空洞へと降りていく。きっと、安宿がずっと求めていたパイプの存在を隠していたことに後ろめたさを感じているのだろう。


 しかし安宿は、彼ほどこれを気にしていなかった。裏切られたような気持ちになって殺意を燻らせていたのも確かだが、結果的に最終目標にぐっと近づけたのだから文句を言うつもりは更々ない。それに俺は、彼が愚者ではないと知っているのだ。なにか彼なりの事情があるに違いなく、そのあたりは全て、本人に委ねるつもりでいた。



(馬鹿だなぁ、お前も)



 先を行く、心なしか覇気のない背中に続いた安宿も暗闇に溶けていく。この程度で軽蔑するくらいなら、はじめから友人なんかやっていない。




              ※




 酒場の地下道を抜けた先にあったのは、簡素な机が鎮座するだけの小部屋だった。ひとつだけの蛍光灯が眩しいくらいの手狭な空間に、大柄な男がひとり。余計に狭く感じるのは彼のせいだろうな……などと思いながら、安宿はこちらに気付いた男に声をかけた。



「お久しぶりです、フーカー氏。二年ぶり……くらいですか」


「そうだな。しかしこうして話をするのは初めてだろう」



 スバルやヴィルナエからは聞いているが――と付け足したダグラス・フーカーは、とても落ち着いており物腰柔らかだった。全てのテロリストがこうならいいのに。そんなことを考えながら差し出された手を取り、軽く握る。その遣り取りを不安げに見守る寿晴を横目で見ながら着席すると、ダグラスは間を置かずに言うのだった。



「今のうちに、手短に話したい。まず箕輪氏、こちらの要請に応じてくれたことに感謝する。そして申し訳なかった。君が望むものはなにか、私もよく知っていたのだが……」


「僕からも改めて詫びさせてくれ。安宿を騙す意志は僅かもなかったが……それと同等のことをしたのに間違いはない。これが詫びになるかは分からないが、これからはどうか、安宿の思うように使役して欲しい。君が望むなら何だってしよう」



 ふたつの謝罪を静かに受けながら、安宿は二人の言い分を聞いていた。まずなぜ二人が繋がっているのか? というと、単純に利害が一致したからだそうだ。ダグラスはヴィルナエを、寿晴は安宿を守りたいというのが契約の軸だった。


 ダグラスは前職の都合上、ヴィルナエがなぜ《ドゥラークラーイ》を始めるに至ったかを知っている。彼女を知る上で必ず名が上がるのが箕輪安宿で、どれだけ辿っても、どの方面から覗いても密接に絡んでいるのだ。そんな彼にヴィルナエが怯えているのは、紛れもない事実だった。


 箕輪安宿は、《セイリオス》名義や《狼椿》の通称で名を馳せた悪党であった。国際的に治安を守る者なら、一度はこの名を聞いたことがあるはずだ。苛烈で情けも容赦もなく、一晩で数千もの遺体を積み上げたという逸話を持ち、その凶暴さで多くを戦かせた男だった。


 彼の事案は枚挙に暇がない。気まぐれにふらっと現れては思うままに食い荒らしていく《狼》の存在は、人々を恐れさすには十分だった。ダグラス自身も一度だけ交戦した経験があるが、冷静に見えてひどく衝動的な男だった。対話は不可能。こちらの呼びかけにも聞く耳持たず、獣のように暴れ回る様には総毛立ったものだ。しかも特殊な訓練を受けてきたらしく、戦闘のセンスや破壊力がそこらの無法者と段違いで厄介だった。そんなもんだから「見つけ次第射殺せよ」との通告がなされ、害獣扱いされていたのも記憶に新しかった。

そんな男が、一般の警備会社で真っ当な職務を全うしているというではないか。それを聞いたときは、それはもう驚いたものだ。



『求めているものが見つからず、まずは情報を得ることが重要だと今になって気付いた』



 理由について尋ねたところ、安宿が《狼椿》として名を馳せ始めた頃から帯同している寿晴はそう答えた。情報が欲しい。けれどそれらを得るための材料も下地もパイプもない。だから一旦プライドや自由を棄てて、親族らが築いてきた人脈の恩恵に預かることにしたのだそうだ。


 これを聞いたとき、迷走に迷走を重ねているな、という印象を受けた。そして墜ちたものだな、と勝手に失望もした。しかし対面している彼を見ていると、これはこれで良かったのか……という気にもなってくる。彼は化けた。心を入れ替えて挑んだ、屈辱的でもあっただろう下積みが変化を齎したのか。独善的な残虐性は垣間見えず、洗練された統率者の風格が全面に押し出されている。もし本当に《害獣》としての側面が消えているのなら、ヴィルナエと会わせても問題ないかも知れない。ダグラスは怜悧かつ端正な顔立ちを見据え、進展を決意したのだった。



 

「――さて、それではこの緊急事態への対処法を考えていきましょうか。できれば、新たな盟約の設定と締結までいきたい」



 重く張り詰めてしまった空気を、寿晴が断ち切って整える。積極的に改革を望んでいるような態度であったが、その実、誰よりも改革を厭い渋っていた。


 本音を言えば、何があろうが安宿と《ドゥラークラーイ》を接触させたくなかった。それだけ寿晴は、彼を守りたかった。


 安宿と寿晴の付き合いは、およそ二十年に及ぶ。そのなかで寿晴は、彼の楽しそうな顔も幸せそうな姿も見たことがなかった。所謂「人間味に欠けた少年」であり、他の連中のように将来に希望を持つわけでもなく、ただ仕方なく生きているのだと言いたげな姿勢が印象的だった。


 全てを知った今となっては、当時の生活はさぞ辛かったろうと可哀想になってくる。幼少期に刷り込まれた暴力性を持て余しながら、礼儀正しくあれと抑圧される。その姿は愛らしい容姿と彼の持つ独特の清廉さが相まって、寿晴には羽をもがれて墜とされた天使に見えたものだ。


 その瞬間に、己の人生に指標ができた。箕輪安宿を守り、助けること。どれだけの時間が経とうとも、息苦しさから解放されない彼を救うために生きようとこのとき決めた。親の後を継ぐなんてそんなもの、他の兄弟にだってできることだ。



 手始めに、苦痛の根源を探そうと試みた。相当な困難を極めるだろうと覚悟を決めて臨んでいたが、以外にもあっさりと見つかり、肩すかしを食らったことをよく覚えている。


《プロキオ》、またの名をヴィルナエ。それが、箕輪安宿の全てだった。


 生温い環境に耐えかねたのか、裏側の世界に身を投じた彼と同じように、家を捨て進学を辞めて同行した先で知り合ったのが彼女だ。ひどくアンバランスな、不思議な雰囲気の女だった。この妙に人を惹きつける彼女が何者なのか、この時の寿晴はまだ知らない。けれど「これだ」とすぐに分かった。安宿の態度がこれまでとあまりに違ったからだ。誰とも馴れあわない姿勢を崩さなかったくせに、ヴィルナエに対しては妬けるほどによく懐き、慕っていたのだ。


 傍目に視て、安宿はひどくヴィルナエに執着していたし依存もしていた。

 しかしヴィルナエは安宿を恐れているようで、やたらと避けたがっていた。


 この噛み合わなさが双方に苦痛を生じ、捻れに捻れていることは明白であった。二人を取り持ち、上手く噛み合うよう調整すれば、彼らの苦悩も晴れるのだろうか。そう思ったこともあったけれど、とても寿晴の手には負えない事案だったために首を突っ込むのをやめた。闇も罪も深すぎる。人脈を駆使して知った彼らの過去は非常に重々しく、複雑に絡まり、安易に手を出していい代物ではなかった。だから彼女が脱走したのを機に分断し、原因を取り除くという方法で、一時的かつ強制的に解決させたのだ。



(けれどそれで……安宿は一層執着を深めてしまった……)



「解きほぐす」という最良の選択肢を無くしてしまった以上、「排除する」という最も安易で愚かな選択をするしかなかった。けれどそれでは苦痛の緩和は成せず、悪化させてしまったきらいがある。


 大人の都合で引き裂かれたのではなく、逃げられたのであれば諦めがつくと思っていた。しかし上手くいかず、結局これまで以上に血眼になって探すようになってしまった。己の判断ミスを悔いても悔やみきれない。



(そこにあの小娘が――頼子が現れた)



 彼女の出現は蒼天の霹靂であった。血統のない凡庸な一般人など、安宿や寿晴には本来接点のない人種だ。だからそもそも視野に入れていなかったし、あんな契機でもなければ永遠に交わらなかっただろう。なんという星の巡り合わせだ。初めは邪魔だと思っていたが、あの安宿の所帯じみた姿を見せてくれたことには感謝しかない。弱った頼子を気遣う穏やかな顔を初めて見たとき、ああそうか、これが「鍵」だったかと合点がいった。


 思いがけず見つけた答えに安堵した矢先、不可侵条約を締結したはずの《ドゥラークラーイ》がそれを破り、「鍵」を奪った。


 由々しき事態だ。安宿の平穏と無事だけを願い活動している寿晴は、これを早急に解決しなければならない。そのためには条約を見直し、もういちど先方と会談する必要があった。散々意図的に避けてきたヴィルナエとの対面も免れないが、彼が得ようとしている幸福のためには仕方のないことだ。



 

「とにかく、要らん邪魔が入ったせいで今まで通りにはできなくなりました。大貫頼子のことも含めて、今後を考えていきたいと思っています。如何ですか、フーカー氏?」


「我々《ドゥラークラーイ》は、数年以内の解体を考えている。ここではもう、あの子を守ることができないからな……」


「――《鬼》ですか」


「ああ、そうだ。あいつは――イザーラは必要だと感じれば間違いなく頼子嬢にも手を出すだろう。そうなる前に、彼女をお返ししたいと思っている。私が認知する限りでは無傷でお預かりしているから、そこだけは安心して欲しい――」



 頼子返還の話を進める二人の声を、安宿は黙って聞いていた。


 一度も話したことがないのに、彼らはなぜか、自分がヴィルナエに執着している理由を知っている。だからこそ気を遣ったり後ろめたさを感じたりしているのだろうが、今は不思議と執着が弱まっており、もうあの頃のように追い回そうとは思わなかった。


 変化のきっかけは、大貫頼子との接触だ。あの裏社会とも社交界とも無縁な小娘と過ごした時間は、安宿の世界をがらりと変えた。裏を読み合う必要がない。駆け引きも計算もいらない。ついでに言うと世辞や体裁を取り繕う必要もなくて、ひたすら和やかなだけの空間は、思いのほか居心地がよかった。


 平穏なんて退屈で無意味だとあれほど嫌悪していたのに、今では寧ろそれを求めている。俺も随分と疲れていたんだな、と安宿は思った。そして稚拙だったのだ。与えられた環境を嫌悪していたのも、ヴィルナエの意志を無視して顧みなかったのも、全て自分が未熟で愚かな人間だったからだ……。


 実際、それでも「箕輪安宿」は成立した。力さえあれば十分維持できていたのだけれど、頼子にはそれが通用しない。自分より格段に稚拙――いや無知で無垢だったからだと思う。どうしたって無自覚に振り回してくるから、それに対応するためには稚拙なままでは居られないのだ。



(頼子を取り戻したいと思うのも、俺のエゴなのだろうか……)



 気を配り、世話を焼く日々ごと取り戻したいとここまで来たくせに、そう思うと少し躊躇ってしまう。彼女とも、ヴィルナエと同じような関係になってしまうのではないか? と考えると怖かった。だからそうならないように、これまでの事を清算していこうと決めたのだ。そのうちのひとつが、ヴィルナエとの確執だ。



(なぜ逃げたのか、なにが嫌だったのか、どうすればあいつにとって最善だったのかを聞き出したい……)



 彼女がそれに応じてくれるかは分からなかったが、向こう側のストッパーであったダグラスが応じているのだから、可能性はゼロではない。話を続ける二人に割って入ろうと口を開いたとき、背後で何かが動く気配を察知した。



「……!」


「ヴィルナエ……――!」



 反射で立ち上がり、銃口を向けた先にはよく写真で見た金髪の男がいた。こちらと同じように銃口を向ける男――大貫勝也の後から覗く赤髪は、かつてひどく執着したヴィルナエに他ならない。思わぬ形で再会を果たした二人は、じっと対峙したまま動かない。目を反らすこともしなかった。



「ダグラス……なぜ《ヴォルク》のトップがここに、」


「我々は極秘に協定を結んでいる。どちらに関しても悪くない条件でな」


「なっ……?!」



内通しているとは聞いていたが、『離れ』とはいえ拠点に敵を招き入れるなんてどうかしている。更に協定まで結んでいるなんて……と驚きを隠せない勝也の問いに答えたのは寿晴だった。先程までの人当たりの良さを消し去った高圧的な声が、勝也の警戒心と混ざり合って空気がヒリつく。



「勝也、彼らはもう敵ではないよ。これから事情を話すから、こちらへ来なさい」



《ヴォルク》を敵と認識している勝也は不満そうだったが、大人しく従い彼の傍に寄る。


 イザーラとの決着に向けて『準備』をしにきたらしいヴィルナエと勝也に、寿晴がこれまでの経緯を説明している。《ドゥラークラーイ》以前の組織のこと。安宿とヴィルナエの関係性。ダグラスと協力して二人を会わせない仕組みを作っていたこと。そのために互いの行動をリークしあっていたこと……。


 それを聞いても顔色ひとつ変えないヴィルナエの横で、勝也は強か驚いているようだった。これまで天敵だと教えられてきた組織と協力していることも、それを実行しているのが目付役のダグラスだったことも、俄に信じられなかった。何が何だか……と混乱している暇もない。理解、納得しなければならない事柄をなんとか頭に詰め込みながら、進んでいく話を追う。



「今はあの小娘を――大貫頼子をお返しする手順について話し合っていた所だ。しかし邪魔がある。そいつはどうやら共通の敵なようだし、今回に限っては共闘――」



 目の前に差し込まれた手に気付き、寿晴は言葉を止める。ヴィルナエへの直訴を制したのは安宿だ。それに応じて黙った寿晴に目配せして、安宿は自分と同じ灰色の目をじっと見据えた。


 不安そうに揺れている。そうさせてしまったのは自分か……と自嘲して、所在なさげに俯く彼女の顎を指で押し上げた。緊迫した勝也の息遣いと見届けるような二人分の視線を受けながら、滲み、陰る瞳を見ている。やはりこの人は変わらないのだなと思いながら苦笑した安宿は、いやにハッキリとした口調で、見せつけるように告げるのだった。



「Давайте закечьжет это. Старшая сестра.(もう終わりにしよう、姉さん)」




              ※



 もう二十年ほど前のことだ。例の事件による放射能汚染が残るかの国での出来事。そこに拠点を置く慈善団体《慈愛の泉》に、ヴィルナエと安宿は生を受けた。


 組織にはたくさんの子供がいたが、彼らは挙って、人間であって人間ではない。一般的な子供とは異なり、戸籍を与えられることも、生みの親の手で育てられることもない彼らは、慈善団体の皮を被った新興宗教を守るためだけに『培養』された戦闘員だった。


 或る一組の男女から採取した体細胞で受精卵をつくり、試験管で育てられつつ都合のいいように組み替えたあと、攫った女の腹に移して産ませた人造人間。二人もその一部であり、物心つく頃には既に過酷な訓練を受けさせられていた記憶があった。


 一際期待されていた安宿は全天一の輝星《セイリオス》の名で呼ばれ、彼より先に産まれたヴィルナエは、セイリオスよりも先に昇る《プロキオ》の名で呼ばれていた。


 クローニングに近いかたちで産まれたせいか、血の繋がった兄弟は腐るほどいた。しかし安宿はヴィルナエにしか懐かなかったし、ヴィルナエも安宿にしか心を開かなかった。


 彼にとっての「家族」は彼女だけだった。戦闘で実績を積むよりも障害のある姉の世話を焼くことに生き甲斐を感じており、姉を助けて生きていけるなら、どんなに可笑しな出生でも一向に構わなかった。手駒として使役される人生すら甘受していたのに、姉との生活は長くは続かなかった。教団が壊滅したのだ。まるで人造人間のような自出を良しとしなかった一部の連中が、謀反を起こして大人たちを殺してしまったのが大きな要因だった。



《我々兄弟は、背徳的な手段で作られた罪深い存在だ。その罪の根源は何か? それは他ならぬ、教祖を名乗る大人共だ! 我々を貶め、穢した奴らに鉄槌を! 共に戦う意志のある者は、私たちについてこい! 悪しき連鎖をここで断ち切るのだ!》



 レジスタンスを名乗る兄弟の一部が、そんな演説をしていた気がする。けれどそんなことに興味がない子らがほとんどだったし、妙に自尊心の強い奴らばかりだったから誰もついていかなかったのだ、確か。それに腹を立てた「自称」レジスタンスたちは兄弟たちまで殺してしまい、最終的に七割の人間が死んでしまったそうだ。不完全な人造人間風情が夢を見るからこうなるのだ。まあ、自分自身も興味がなかったし、障害のあるヴィルナエを連れて逃げるのに忙しくて、事の詳細なんて知らないのだけれど。


 そこからの記憶は、鮮明だが断片的だった。近所に住む《蛇》のジジイが介入して、残った子供たちを各所に分配していたのは覚えている。安宿も日本の富豪に回されて、この日を境に『箕輪安宿』になった。


 しかしヴィルナエは、最後の最後まで、ついに誰にも引き取られることなく分配が終わった。『培養』の過程で生じてしまった、修復不可能な障害のせいだった。


 ヴィルナエは、生まれつき耳が悪い。大気の振動で何かしらを察知できるようだったが、純粋な「音」を認知できたことが一度もなかった。日常生活に支障をきたすほどだったから、安宿は姉に寄り添い助けることを日課にしていたのだ――それこそが彼の生活の軸だった――。


 幼いながらに「姉は自分が居なければ生きていけない」と思っていただけに、離ればなれの生活は気が気ではなかった。雪深い大地に、一人取り残された可哀想な姉。何をするにも彼女を思い出し、いつまでもいつまでも、脳裏に焼き付いて離れない赤毛の少女が寂しげに笑う。


 まるで呪いのようだ。


 傍についてやれず、ひとり安寧を手にした罪悪感のせいで彼女に囚われているのだろうか。そう考えたことは何度かあって、追求を重ねた結果、ある結論に辿り着く。後ろめたさだとか守りきれなかった無念さとか、そんな大層なものではない。どこまでも稚拙な自分自身が、姉が恋しくて会いたがっているだけ――。


 心細い「表側」での生活を送る上で芽生えた、彼女を救わなければならないという身勝手な使命感。自尊心を傷つけないように都合良くつくりあげたそれに縋り、依存していると気付いたのは、中等部に進学する十二歳の頃だった。


 気付いた途端に、すべてが捻れた。


 産まれてからの六年間、飼われてからの六年間。ただひとつの拠り所をなくしただけで、そのどちらにも違和感を覚えてしまった。地に足がつかないような心許なさを感じており、安宿は急速にバランスを崩していく。


 特に違和が大きかったのは、飼われた「表側」の世界だった。狭い箱の中に閉じ込められたような息苦しさに苛まれており、まるで真逆の人生になんの疑問も持たなかった自分への嫌悪感も相まって、安宿は酷く混乱していた。


 自分が死んでいくようだった。


 組織で培い、刷り込まれてきた常識が通用しない。これまで散々求められてきた物理的な強さは必要なくて、代わりに礼儀作法や世間体のよさを求められる。何が正しいのか。何があるべき姿なのか。『世界はひとつきりではない』とまだ知らない安宿にはそれが分からず、ひたすらに苦しいだけの青春時代であった。


 唯一の救いといえば、善き理解者でもある前原寿晴との出会いくらいか。しかしそれだけでは空いた穴を埋めることができず、ほろほろと自分が崩れていく感覚に焦り恐れていた。


 自分が死んでいくような感覚に耐えかねて、養父の元を去ったのは高等部卒業間近のことだ。きっかけは、気休めにと寿晴が話してくれた或る噂話だった。



『そうだ安宿。最近、父の友人からこんな話を聞いたんだ。主にユーラシア大陸北部で活動する、猫のような赤髪の少女がいるらしい。僕らと大して変わらない年の子だそうだ』



 これを聞いたとき、直感でヴィルナエのことだと思った。しかし確証がない。名前は分かっているのか? 目の色は? いったいどんな活動をしているのか――? 事実と憶測を照合したくて寿晴を問い詰めるが、当然のように困って苦笑するばかりだ。



『すまない、僕も詳しくは知らないんだ。ただ、とても優秀な傭兵だそうだよ。何となく目が離せない子らしくて、近頃はその界隈で話題になることが多いらしい』



 真偽のほどは分からないけれど、非日常的だし物語のような感覚で楽しめる話題かと思って、と言う寿晴の声は、安宿には半分も届いていない。どのように確かめるか。そのことばかりを考えていた。



『……どのあたりになるんだろうな……』


『北部というからには、北欧かロシアじゃないか? その知人は英国の人間だし、もしかしたら北欧の方が近いかも知れないな』



 独り言に反応した寿晴からの情報をありがたく受け取り、安宿は更に考える。《慈愛の泉》は北欧にもロシアにも手を伸ばしていたから、どちらの地域でも十分にあり得る話だった。どうせ《蛇》が絡んでいるだろうから、ロシアの方が有力かもしれない。これだけの情報が揃えばもう確定したようなものだが、しかし――



『――色々と一致するが……決めつけるのは早計か……?』


『? どうした、安宿』


『いや、何でもない。……今のところは』



 独り言のように呟く安宿を怪訝に思うが、寿晴はそれ以上に、珍しく生き生きとしている彼に感動していた。不穏な雰囲気も感知していたけれど、寿晴は結局「君が良いならそれで」と甘々な態度で看過する。


 柔く温かな笑顔で見守る友人には目もくれず、安宿は遙か昔に生き別れた姉のことを思っていた。まだ生きている。あの頃と同じように、戦いに身を投じて。ぼやっと想像していた生き姿が徐々に鮮明になり、ピントが合ってハッキリ見えた幻影の彼女は泣いていた。その姿に死にかけていたはずの依存と執着が息を吹き返す。――はやく向かって、今度こそ守り助けなければ。泥沼のような生活からの脱却を決めた安宿は、「理由」を求めて北へと奔走する。




 再会は思いがけず、そして呆気なかった。


 また一から始めようと訪れた故郷跡地。昔よくふたりで身を寄せ合った思い出の場所で、焦がれた赤毛の少女はひとりぽつんと蹲っていた。


 ぼろぼろのヴィルナエは、心身共に傷つき疲れきっていた。それを見たときに感じたのは歓喜だ。やはり自分がいなければ姉は生きて行けない。身勝手な優越感に浸りながら手を差し伸べる。


 迎えに来たよ、という甘い言葉を囁きながら伸ばす手を躊躇いなく取る姿を見て、「やはりそうだった!」と都合良く決めつけた。それに気を良くして、更に独善的になってしまったのがいけなかったのだろう。日本から同行した寿晴を含めた三人で作り上げた組織が軌道に乗りはじめた頃に、突如としてヴィルナエが逃げた。誰にも何も言わず、ひっそりと。



(なぜだ、《プロキオ》……!)



 安宿自身は組織での活動に満足しており、生涯ここでやっていくのだと思っていただけに、ヴィルナエの裏切り行為に対する怒りと反発心は大きかった。いや、一番大きかったのは恐怖心かもしれない。学生時代のような、温く先の見えない暗い環境に戻りたくないという強い思いが安宿を走らせ、捕まえて閉じ込めてやろうという暴挙へと導いた。しかしどれだけ探しても見つからない。そうなればそうなるほどに執着は濃度を増して躍起になり、往生際悪く追い続けた。手がかりを見つけては飛び回るうちに目的と理由を見失ったが、それでも安宿は、ヴィルナエの捜索と追跡をやめなかった。

 

 果たしてそれは正しいことだったか。もうほとんど依怙地だったが、本当はやめどきが分からなかっただけではないのか。大貫頼子との接触を通して客観的に自分を見られるようになり、もう怒りも反発心も残っていないことだけは既に分かっている。


 だから、もうやめようと思っていた。執着が弱まってから見た彼女の姿が、目を覆いたくなるほど哀れで痛々しかったからだ。




「どうしたら、姉さんは楽になれる?」



 困ったように笑う安宿の口元を見ながら、ヴィルナエは複雑な気持ちではにかんだ。安宿の――弟のことは好きだった。でもその反面、余りある苛烈さが恐ろしくもあった。


 小さな子供ではなく、立派な青年に成長した弟に初めて会ったのは、傭兵生活に嫌気が差して逃げた頃だった。再会の喜びはあったものの、それ以上に戸惑っていた。目を疑う光景だったのだ。優先的に分配されて「一般人」としての生活を始めたはずの彼が、こんな混沌とした争いの最前線にいるなんて、そんなこと。


 どうしてこんな所に戻ってきたのか。ヴィルナエにはそれが分からない。隣にいるその――おそらく友人というのだろう青年と、真っ当な人生を歩んで行けばよかったのだ。そう思っていたのに、差し出された手の懐かしさと言葉の甘さにアテられて、絆されて、随分と大きく強くなった彼に縋ってしまった……。


 結果がどうなろうが、よく知った弟となら大丈夫だと思った。彼が連れてきたスバルのことも、安宿が信じたのなら信頼できると思った。事実その通りだったし、これまで致命的なハンデになっていた「言葉に依る意志の疎通」も、彼らの助力のお陰でクリアできた。各言語の「形」を唇で覚え、母国語と照らし合わせて意味を識る。それと同時に紙面上の文字という図形を追うのはなかなか大変だったが、充実した良い時間だったと思う。聞こえなくても会話が成立するまでにしてくれたことにはとても感謝しているが、一方で、組織の方針には心から賛同することができなかった。


 結局、ここにいてもやることは同じだ。自分と異なる思想を、実力行使で排斥するだけ。


 そう思うと言い知れぬ脱力感に襲われ、次いで悲しみが湧き上がってくるのだ。


 戦争が嫌いだった。「そういうものだ」と分かっていても、人が人を壊し、踏みにじるのがどうしても耐えられなかった。しかしヴィルナエは――戦うためだけに造られた《プロキオ》は、戦争の中でしか生きられない。親もない、家もない、学歴もなければ実績もなく、ついでに言うと自分自身を証明できるものすら持っていないのだから、『表側』には足を踏み入れることすらできないのだ。


 選べないのだから「いやだ」なんて言っていられないのだけれど、ある事件をきっかけに「もう無理だ」と思った。或る地域を牛耳るマフィアの掃討作戦の最中のことだった。いつもは目を向けないようにしていたのに、この日に限ってしっかりと見てしまったのだ。瀕死の討伐対象者たちを枯れ井戸に投げ込み、そこに手榴弾を放り込む安宿の姿を……。


 仕方がないことだ。私も彼もそう教えられている。半ば洗脳のような教育が強く根付いている我々にとって、この程度の残虐行為はそこまで大事ではない。いやしかし、それでもこれは余りにも――と制止の手を伸ばしたが、こんな短く細い腕がなんの役に立つというのか。案の定まったく遮ることができず、落ちた手榴弾は無慈悲に炸裂して大気を震わせる。それに掻き消されて、悲鳴と思しき振動を感じないのがせめてもの救いだった。


 興味なさげに去って行く実行犯の安宿と相反して、ヴィルナエは這うように井戸に寄る。もしかしたら、まだ誰か生きているかもしれない。そんなありもしない望みに賭けて覗き込んだ底の光景を、数年経った今でもよく覚えている。忘れられるわけがない。ぐちゃぐちゃのミンチになって混ざり合い、境界の分からなくなった複数の遺体のことなんて、この先もずっと。


 糸が切れたのはそこからだった。弾かれたように井戸から離れ、獣道へと逃げ込み、ひたすらに走った。自分が思うよりもずっと残忍になってしまった弟から、一刻も早く離れたかった。いつまでも情けない自分を恥じ、呪い、消える気配のない罪悪感を抱えたまま走り逃げ続けた。


 その後のことはあまり覚えていないが、気付けば旧知のローズマリーに囲われていた。「好きなだけ居てもいい」という言葉に甘え、温い環境に身を置いて穏やかに過ごしていたが、それが永遠でないことは重々理解している。はやく独り立ちしなければ。自分には何ができるか……? と急いて考えたが、思い浮かぶのはやはり戦争だった。


 私もスバルのように賢ければ、最前線に立たずに済んだのだろうか。長きにわたって増え続け、消えなくなった傷を撫でながら考えたって仕方がない。我慢しながら「掃除」の依頼を受ける日々が続く。結局どこに逃げたって変わらないのだ。場所が変わっても、自分自身が変わらなければ、なにも……。


 己の不甲斐なさに打ちひしがれ、憂鬱になっていた頃のことだった。弱みに付け入るようなタイミングで、謀ったかのようにイザーラ・ナーブと知り合った。立場も国籍も、性別さえもわからない正体不明の《彼》は、不安定なヴィルナエの心を揺さぶるようにこう言った。――この既存の世界じゃあ、どうにも息苦しいと思わないかい―――。


 その言葉はヴィルナエにとって毒だった。そうだ、その通りだとも。辛く苦しくて仕方ないが、それは私が「普通」の範疇から大きく外れているせいだ。だから自分が悪いのだと分かっていても、同じ気持ちでいる人がいるのだという事実が嬉しかった。



『私もそうなんだ。……ねえ、君。私と一緒に、私たちが自由に生きられる世界を創らないか』



 今となっては何度反芻しても胡散臭い。けれど甘い言葉に乗せられて差し出された手を取ったのは、紛れもなく自分自身の判断だ。

 


 私の選択は、いつだって誤っていた。

 人生最大の誤りは、間違いなくこの瞬間だ。



 活動の大筋が安宿たちとの組織と大差ないのもヴィルナエにとって問題だったが、それ以上に問題なのが、イザーラが安宿を遙かに上回る残虐で苛烈な人間だったということだ。目的を果たすためなら手段は選ばず、排除対象を選別する間も惜しいからと、その場に居る全員を殺すというサイコぶりだった。これでどれだけの、罪なき善良な人間が犠牲になったことか。予定数量を遙かに超える亡骸が積み重なるたび、ヴィルナエの胸はギリギリと痛む。


 自由と平穏を望めば望むほどに、無関係の誰かが大量に死んでいく。等価交換の原理を著しく欠いた組織の構造が、ヴィルナエはたまらなく嫌いだった。



「大丈夫。もうすぐなくなるから」



 穏やかに笑み、安宿の問いに答える。安宿の言うとおり、もうすべてを終わりにしようと思っていた。嫌なことも多くあったが、良い人材にも巡り会えた《ドゥラークラーイ》には一縷の望みを賭けていたが、もうこれ以上は屍体以外のなにも生まないと分かってしまった。救いのためにと創った楽園が、大勢を脅かし、傷つける存在に成り下がったことも忍びない。積み上げられた遺体の上に成り立つ自由になんて、なんの価値もありはしないのだ……



「《ドゥラークラーイ》は近く解体する。みんなもそれを望んでいるようだし、ない方がいいと私も思う。だから――」


「それはどういうことかな」



 安宿に向けたはずの意思表示の返事が、思わぬところから飛んでくる。


 店側へと続く扉。その枠に寄りかかり、得体の知れぬ笑みを浮かべているのはイザーラ・ナーブだ。急に現れた《鬼》の気配に戦き、反射的に厳戒態勢を敷くなか、ヴィルナエだけは微動だにせずイザーラを睨んでいた。



「イザーラ。お前、トシヤを殺したな」



 敵意を露わにした目で、ヴィルナエは変異のトリガーとなったあの件について問う。トシヤ殺害の実行犯はイザーラに他ならなかったが、本人の口からはまだ何も聞いていない。もちろん許すつもりはないが、なにか理由があるなら聞いておきたかった。



「ああ、そうだよ。彼は君に害を加えようとしていたからね」



 主に仇成すものを排除するのは、従者当然の義務だよね? と事もなげに言う姿に、ヴィルナエは思考が停止してしまった。意味が分からない。前々から思っていたが、自分とイザーラとでは価値観がまるで違うようだ。ヴィルナエは食い違う意見を擦り合わすために実力行使に出ることはあったが、相手を消してしまいたいと思ったことはない。けれどイザーラは、「邪魔だ」といって真っ先に殺してしまう。どれだけ考えてもその心理が理解できなくて、ヴィルナエは思わず言ってしまう。



「そんなことで?」



 途端、イザーラの雰囲気が変わる。不穏な空気だ。さっきまでは掴み所のない『虚無』を纏っていたのに。原因は間違いなく、理解を拒むような反応を見せたことだ。


 イザーラは、否定されることを何より嫌う。怒らせては手に負えないからと、否定も肯定もしない曖昧な対応を続けることでそれなりに上手くやってきたが……こればかりは受け流すことができなかった。たったそれだけのことで、トシヤを殺したのか。どうせイザーラのことだから対話なんてしていないのだろう。「従者」を自称するなら、実行する前に報告してくれれば良いのに。こんなのまるで――。



「お前は、私をどうしたいんだ。こんなことを……自分の都合の良いように調整して――、」


「神になるんだ! 君は!」



 激昂したらしいイザーラに荒々しく胸ぐらを掴まれ、態度に対して死んでいる目が恐ろしくて息を詰まらせる。確固たる意志を持って吐き出された、その野心を知らなかったわけではない。誰もまともに取りあわなかっただけだ。勝也やダグラスはヴィルナエの身を案じて妨害を続けてきたし、安宿や寿晴は彼女が神になり得る人物ではないと知っている。世界を統べる神になるには、あまりに迷いが多く優しすぎる。


 しかしだからこそ、イザーラはヴィルナエを選んだ。意のままに操作しやすく育成可能で、未熟ゆえに人望だけはある特別な人材。まさに理想だった。自分にとって都合の良い世界に据える神も、都合の良い存在でなくてはならない。だから逃がさない。絶対に。何があっても、この子は私の――



「ならないよ。私は。神になんか。絶対」



 あまりにハッキリとした拒絶に、イザーラの目は眩む。なぜだ。なぜこの子は私を拒んでいる? ヴィルナエの行動の意図が読めず、イザーラはひとり困惑していた。


 私の世界が崩れていく。上手くいっていたはずだった。今だって、一連の事件に困って縋り、助けを求めてくると思っていた。


しかしヴィルナエは、イザーラを頼らなかった。なぜだ。一年程度じゃ人間の本質なんて変わらないのに――と少しだけ考えたところで、ヴィルナエを守るように傍に控える勝也に気付く。またお前か。その途端、ザワと胸が騒いだ。



(貴様――異物の分際で)



 イザーラの敵意が、まっすぐ勝也に向かう。イザーラにとって勝也など、組織に馴染みきれない異物にすぎない。利也は同類としてそこそこ認めていたが勝也は違う。経験がないわりには有能な男だったが、ヴィルナエに心から傅かないし、反論もすれば不用意に近づきもする不穏因子だった。身の程も辨えないで、戒律も破って。不遜だ。せっかく神に仕立て上げた彼女を人間に戻そうとするものだから、最近のヴィルナエは意志を持ちはじめ、これまでの事に疑念ばかり抱くようになってしまった。この男のせいで、都合の良いヴィルナエが少しずつ消えていく。


 視点を定められず彷徨わせていた目を、ヴィルナエに向けなおす。平常心は保てていただろうか。顔は引き攣ってい

なかったか? 疑問は残るが、もうどうしようもない。見下ろした灰色の目が無駄に煌めいている。人間を取り戻しつつあるのだ。あいつらの、オオヌキのせいで。


 有能だからと手元に置いておいたのが間違いだった。二人が仲を深めていく過程を脳裏に呼び起こしては、一般人ごときが彼女の心を動かせるものかと高を括って捨て置いた日々を悔やむ。



「――っ!!」


「イザーラ!」



 この邪魔者を殺してしまおう。強く床を蹴って、目で追えぬほどの速さで勝也に詰め寄る。その頸を押さえてなぎ倒したのと、ヴィルナエが声を張り上げたのはほぼ同時だった。こちらを諫めるような声であったが、気に留めておけないほどに激昂している。鍛えてやったことはそれなりに身についているようで、勝也はナイフを突きつけるイザーラの手首を、腕でがっちりと止めている。しかし非力だ。もう数秒すれば、彼は根負けして終わってしまうだろう。筋は良いのに、甘さが目立ってプラマイゼロだ。実に勿体ない。


 勝也の実力に対する評価は可も不可もないが、それ以外の点では不可も不可だ。それでもヴィルナエは彼を庇う。私ひとりを悪者にして。君を創るのは私なのに。ヴィルナエ。取り留めのないことを考えながらも、イザーラはナイフを押し込む力を緩めない。ガタガタと大きく揺れ動く勝也の腕が、迫る終わりを告げていた。



(マジでやべえな……っ)



 五秒も経っていないはずなのに、ひどく永く感じてしまう。咄嗟に受け身を取れたお陰で即死は免れたものの、危機は危機に違いない。すでに正気ではないイザーラの青い目を見ながら、勝也は余りに大きすぎる実力差に終わりを覚悟していた。



「――――――――――っ」



 首元にヒヤリとした金属を感じた直後、イザーラの体が横に飛ぶ。ひどく体力を消耗して、ブラックアウト直前だった視界が徐々に明瞭になっていく。仰ぎ見た景色の中に見たのは、脚を振り上げた箕輪安宿だった。


 彼がイザーラを蹴飛ばしたのだと理解するのに、大して時間はかからなかった。なんだこの人。命知らずかよ。あのヤバいイザーラを蹴るなんて信じられん……と、助けられたことへの謝礼よりも先に関心の気持ちが衝いて出る。けどまあ、何を言ったってもう聞こえちゃいないんだろうなと考えながら、ガチ切れして散瞳した目を見上げていた。これがあの《狼椿》か。これじゃあヴィルナエが避けたがるのも無理はない――こんな怖い人に頼子は気に入られているのか。いったい何をやらかしたんだ――。


 脇腹を押さえながら悶えて転がるイザーラを、安宿は汚物を見るような目で見下ろしていた。


 長年探していた、真の敵を見つけたようだった。ヴィルナエを神に仕立て上げるなどと言って、彼女を苦しめたのは紛れもなくこの《鬼》だ。そしてサラディーノを出し抜き頼子を攫い、頼子が大事に思っている兄らを殺し、殺そうとしたのも全てこいつ。つまり敵は、邪魔立てする《蛇》でも養父でも、逃げ回るヴィルナエでもない。俺が真に討つべきは……



「お前だけは必ず殺す……!」



 興奮状態で静かに唸り、ホルダーに収めていた拳銃に手を掛ける。嘗て一晩で数千もの遺体を積み上げたという、雪原を疾る《狼椿》が息を吹き返した。そのことに言いようのない頼もしさと不安、恐怖や危機を感じながら警戒している周囲になど目もくれない安宿は、全てを終わらすべく、元凶の《鬼》に牙を剥く。



              ※



 人の命など呆気ないものだ。


 いつもそう思っていたが、自分がその立場になるとそれが顕著だ。若宮緋多岐は冷えた床に横たわったまま、見慣れない天井を見上げている。もうそれ以外にできることがなかった。



「ご気分はいかがかしら、女狐ちゃん?」



 霞み始めた視界の中に、突如として美女が現れる。なんと素敵な光景か。遠目からでもわかる瑞々しい肌に触れられたなら最高なのだけれど、それはもう叶わないことだ。残念でならない。



「……まあ、悪くないわね」



 余裕ぶってそう答えると、美女は冷えた目で微笑んだ。堪らない。頼子の可憐さも好いが、正統派もやはり好い。この加虐心を剥き出しにしながらも、決して自分は汚れようとしない潔癖さが実にそそる。傍に控えている男たちは血みどろなのに、彼女自身にはシミひとつなかった。


 緋多岐は朦朧としはじめた頭で、数時間前のことを思い出す。ニーナ・バツィナを殺したあと、クニヒロと呼ばれた黒髪との追走劇を楽しんでいたはずだ。粘着質な《蛇》の名に恥じない追跡は敢えて撒かずにいたわけだが、それがいけなかったのかもしれない。当然ではあるのだが、時折かけひきや攻撃を織り交ぜながらの「遊び」のせいで、必要以上に体力を消費してしまったようだ。しかしまあ人手不足だし、私なんかに人員を裂かないだろうと高を括ったのが甘かったか。消耗して集中力が切れた隙をついて、もう一人の――ヨウジと呼ばれた茶髪の男が、緋多岐の脇腹を撃ったのだ。


 その衝撃に弾かれて床に転がり、取り押さえられながら見たのが、優雅に歩み寄ってくる《蛇》の女王――ローズマリーだった。


 一瞬、時が止まったようだった。夢中で見蕩れてしまうほど、ローズマリーは美しかった。しかも仄暗さが映える。なんて罪深い……などと考えているうち、カツン、カツンと敢えてヒールを鳴らしながら近寄ってきた彼女は、酷くやわらかな笑みで男に命令するのだ。「この娘を切りなさい」。


 そんなことがあって今、達磨状態で転がっている。それを決行した洋司は精根尽きはてたのか、既に意識のない國弘の傍で、赤黒くなった鋸刃を手にしたままぐったりとしていた。それに反して、ローズマリーは嬉々としている。かわいい。



「ふふふ、私の仔猫ちゃんたちを苦しめてくれたご褒美だと思って頂戴。――ヴィルナエを泣かせて、ニーナを殺した罪は重いわよ」



 急速に冷然とした顔と声に、酷く興奮している。偽物の猫は、こちらが手を出すのを期待して自分が撒いた「餌」だろうに。それを棚に上げる我が儘さにもときめいて、こんなときにまで女の部分が濡れてしまうのだから、本当に私は救いようがない。ぼろぼろの首に絡められた、細くしなやかな指にぐっと力が篭もる。息が詰まる。ただでさえ足りない酸素が余計に不足して、目の前が真っ暗になっていく。――気持ちいい。死の淵に立つ程度の息苦しさに快感を見いだして、思わず嬌声が漏れる。声帯を潰されて音にはならなかったが、それに気付いたらしいローズマリーは更に力を込める。


 頸が軋む。下腹部が疼く。しかし両手足を失った体では、藻掻くことも自らを慰めることもできない。そのもどかしさに悶えながら、緋多岐はギリギリのラインで悦楽に身を浸していた。



 間もなく訪れる死への恐怖は微塵もない。

 人の命など呆気ないものだ。


 その最期を好きな《赤》と好みの女に看取られるのなら、罠に掛かるのもまた乙というものだ。


 


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