第8部 岐路に立つ
ヴィルナエの代理を務めるなんて造作もないことだ。
ニーナ・バツィナはそう思っていたし、事実、体を売るよりはずっとマシな仕事だった。彼女の執務室……とは名ばかりの雑談部屋に一人で篭もるのは退屈だったが、これで彼女の苦痛を軽減できるならいつでも大歓迎だった。
(大丈夫かしら、ヴィルナエは……)
豪奢な椅子に凭れながら、ニーナは傷ついたヴィルナエのことを考えていた。数時間前に呼びつけられ、駆けつけたのはトシヤ殺害現場だった。最前線に赴くのは自分の仕事ではないと給湯室に篭もっていたのに、千田のどちらか――名前は知らない、興味もない――に引きずり出されたのだ。見たくもないトシヤの残骸を見せられ、それを目の前に泣きじゃくるヴィルナエを宥める暇も与えられないまま「ヴィルナエになりすませ」という命令をローズマリーから下された。まったくどいつもこいつも自分勝手だ……と辟易しながらもそれを承諾し、静かにその時を待っている。
――君は彼女のために死んで貰う。どれだけ壊れたって構わない。だけど、できるだけ長生きしてくれ。君ほど彼女に似ている人間は、そうそういないからね――。
以前にイザーラはそう言っていた。本来、自分の役割はそれだ。ヴィルナエの優しさに甘えてお茶汲み要員に落ち着いているが、私は彼女の代わりに死ぬために在籍しているのだ。
ニーナとヴィルナエはよく似ている。それこそ他人の空似なのだが、性格や資質はまるで違うのに、容貌や骨格などが生き写しかというほどよく似ていた。特筆すべきは色だ。透き通った灰色の瞳だけでなく、鮮やかな赤い髪まで同じだった。ぱっと見では間違えられる自信もあって、初対面の頃は鏡合わせみたいで気持ち悪かったが、今では家族のように思っている。
血の繋がった実の家族よりも、ずっと強い絆で結ばれた姉妹。強くて周囲からの信頼は篤いけれど、世間知らずで不器用な妹――ヴィルナエの方が年上だが――を、この穢れきった身体で助けられるのなら安いものだ。だから、この役には何の不満もないのだが、困ったことに最近になって死ぬのが嫌になってしまった。ヴィルナエの助けになりたい気持ちに変わりはないのに。役を果たしそうな場面に直面したとき、他の誰かが脳裏にチラついて躊躇してしまうのだ。
(駄目よそんなの……私は私の務めを果たさなきゃ……)
「こんばんは、偽の猫ちゃん。いい夜ね?」
心を入れ替えようと発起した矢先に聞いた声には馴染みがない。何事かと顔を上げると、扉の前に女が立っていた。目をスッと細めて妖しく笑っているが、一体いつ入ってきたのだろう。音も気配もしなかったが――いや、私が気付かなかっただけか。迂闊だったと悔やみながら腰のホルダーに収まった銃に手を掛けるが、抜く間もなく詰め寄られてしまい打つ手もない。数十センチ程度の距離に双眸が見える。綺麗な黒だ。
「貴女に恨みはないんだけどね、ちょっと私の憂さ晴らしに付き合って貰うわ」
間近の目がニイと笑い、ホルダーに掛けた手に女の手が重なる。刹那、強く引かれてぐるりと反転させられ、後から抱きしめられるような体勢になってしまった。どうにか切り抜けなければ。頭の中にある対処術全てを引っ張り出して反撃を試みたが、喉に感じた痛烈な熱に、ニーナは何もできなくなった。
「ア゙……―――っ」
「ふふ、私、赤って大好きなの。その髪の色もなかなかだけどね、こっちの赤の方が断然素敵!」
女は無邪気にきゃっきゃと笑っているが、その手にはナイフが握られていて、深々とニーナの頸に突き刺している。感じている熱は、喉を切り裂かれた痛みのせいだ。思考停止してしまうほど痛く苦しく、ブツブツと肉を裂く感触と、ぐちゃぐちゃと鳴る粘着質な音をやり過ごすしかできない。
まだ死ぬわけにはいかないのに。ヴィルナエの身代わりだって続けなきゃいけないし、頼子にロシア語を教えてもいない。新しくできた妹に、私はまだ何もできていないのだ――……
――……ニーナ……!
朦朧としはじめた意識の中で、呼ぶ声を聞いた気がして無意識に手を伸ばす。――早く! 逃げろ!――上手く抜けられたみたいだな。大丈夫か、ニーナ――いつもありがとう。俺は好きだよ、お前のお茶――。その声は間違いなく大貫勝也のもので、しぶく自分の血を見ながら、最期に囚われるのがヴィルナエじゃないことに驚いていた。
勝也は唯一、自分をただ一人の『ニーナ』として見てくれた男だった。ヴィルナエの代用品だと軽視することもなく、娼婦上がりだと軽蔑することもなく手を取ってくれたのも彼だけだった。愚痴や世間話を交わし合った、なんてことない平凡な日常が楽しかったなあ……と思い出しながら、今まで微塵も考えなかったことに思い至ってしまい、ニーナは辟易している。
そうか、私は勝也と離れるのが嫌で死にたくなかったのか。
最後の最期で己の恋心に気付いたニーナは、分不相応だなと自嘲して口元を歪めた。あんな良い人、穢れきった私では到底釣り合わない。
無邪気な笑い声と、押し入ってきたらしい千田たちの怒声を聞きながら、ニーナ・バツィナは意識を途絶えさせた。伸ばした手は空を掴み、なにも残せないままだらりと下がる。もし許されるなら、最後は勝也に会いたかった。
※
降り積もる雪を音もなく踏みながら、若宮緋多岐はしなやかに歩く。本来の目的はきちんと果たしたが、これは「私の目的」であり「ヴォルクの目的」ではない。もうあの組織には戻れないだろうが、それはそれでいいか……と思っていた。安宿の隣はなかなか居心地がよかったが、それを棄ててでも、緋多岐は頼子を手中に収めたかった。
まっしろ。無垢。無知。
ポジティブに考えれば自分好みの女に育てられるということで、それが非常に魅力的だった。
小柄で猫目がカワイイ容姿は好みだ。寂しがりなのに強気な所も好いし、なにより既成概念が薄いのが特に良かった。
お前は可笑しいと、人々は口々に言う。普通に生きているだけなのに、指を差して弾圧される。緋多岐はそれが何より嫌いだった。唯一それをしないのが安宿で、初めて会ったときから彼には自分と同じ匂いを感じていた。そしてその直感は的中していて、高校卒業を目前に日本を離れた彼の暗躍ぶりに、初めて同士に会えたという至上最高級の喜びを禁じ得なかった。
それと同じくらいの感動を覚えたのが、大貫頼子の存在だった。
世間から見れば、生物を切り刻むことと血を嗜むのが好きな私は許されざる可笑しな存在なのだろう。しかしそれを言うなら、頼子も違うベクトルで随分と可笑しな子だった。これまで何にも触れてこなかったのではないかというほど概念も常識も希薄で、まるで未知の生物と対面しているような気分だった。
だからこそ欲しいと思ったのだ。つまらない常識や「普通」に囚われない清廉な子を、自分好みに仕立て上げて傍に置いておきたいと思うのは悪いことか? 否、悪いことであるはずがない。己の欲のままに生きることが悪だというなら、何が正義なのか教えて欲しい。
「もうすぐ……もうすぐ連れ帰ってあげるからね……」
寒く仄暗い異国に攫われて行った少女を思う。目と鼻の先にいるのに、色んな邪魔が入って連れ帰れないのが歯痒かった。追撃にきた蛇の従者にどう仕返してやろうかと考えながら、緋多岐は妖しげな目を光らせて再度侵入経路を探る。無意識に舐め取ったニーナ・バツィナの返り血は、驚くほどに甘く美味だった。
※
何もかもが未知で不明瞭だ。
先は見えない。振り返ったところで後ろも見えない。まっしろな世界にひとりぽつんと取り残されたような感覚に、大貫頼子は漠然とした不安を感じていた。
状況の整理や確認もできない。頼子は豪奢なソファに身を埋め、俯いて小さく息を吐く。空爆、誘拐、殺人、銃撃戦など、なかなかに刺激的な出来事が次々に起こっているが、非日常的であるぶん現実として認識できない。そのせいか、利也の死さえも未だに理解しきれていなかった。胸に穴を開けて死んでいるのを確かに見ているのに、両親のときと同様に、死んだ実感が全く湧かなかった。
きっと展開が早すぎて、理解が追いついていないのだ。頼子はそう思っていたし、そうであれば良いのにと思っていた。兄の死を消化できないままに引き離され、安全だという部屋に隔離され、発砲で生じた衝撃波を感じながら大人しくしておく時間をひたすらに送っている。氷点下で冷え切った利也の遺体がその後どうなったかも知らず、それを問う間もなかった。敢えてしなかっただけかもしれない。思い出したくなかった赤が記憶の底から蘇り、急に怖くなった頼子は、振り払おうと小さく頭を振って手を握りしめた。
嫌なことは理解さえ拒むというのは、自分の悪い癖だと認識している。あの時もそうだった。安宿が《ドゥラークラーイ》について基礎から教えてくれた時だって、傷つきたくなくて考えるのをやめた。進学したと思っていた兄たちが大勢を殺してきたのだという事実を確定させたくなくて、これ以上の情報を締め出していただけにすぎない。
他のことも同じだ。両親の事故死も実感が湧かないのではなく、死んだ事実を拒んでいるだけ。利也の死を理解しきれないのは、まだ生きているのだと思い込みたいだけ。本当は分かっている。みんな死んでしまったことも、その原因の深くに自分が絡んでいることも。そう思うと寂しさと罪悪感で泣きそうになるが、私ばかりがこれ以上人様に迷惑をかけるわけにもいかない。既のところで堪えて
洟を啜り、気を紛らわそうと他のことを考えた。
(そういえば……今ってどうなっているんだろう……)
知らされていない、と言うのもあるが、よく考えてみれば直近で起こっていることもあまりよく分かっていない。分かっているのは銃撃戦が頻発しているらしいことと、そろそろヴィルナエを解放しようかという話をしたことくらいだ。なぜ主催者の彼女が「解放される」側なのかは分からないし、そもそもヴィルナエがどんな人物かもよく知らない。自分のことを気に入ってくれているようだが、その理由に心当たりがなかった。数ヶ月前に数時間だけ同じ空間にいて、少し話した程度の間柄だ。知っていることと言えば名前くらいで、何かに追われていること、安宿の知り合いであること以外の情報は持っていない。平凡どころかそれ以下の自分が気に入られる要素が全く見当たらず、頭を抱えるばかりだ。
分からないことだらけで参ってしまう。現実から目を背け、理解を拒み続けた結果がこれだ。こんなことならもっと話を聞いておけば良かった……と、これまでの態度を悔いた。そのたび脳裏にチラつく安宿の顔を溜め息で吹き消して、視線を上げた頼子は周囲を見回した。
(分からないなら聞くしかない……よね……?)
そう思って発起してみたは良いが、今度は言語の壁にぶち当たる。兄やヴィルナエはここにはいない。日本語が通じる伊智や千田たちもいなくて、室内にいるのは同じ年頃の少女と、昨日と雰囲気が違う――少し怖い目をしている――ローズマリーだ。二人とも日本語は通じず、英語であれば会話可能らしいが、そうなると今度はこちらが閉口するしかない。勝也と利也はこんな環境に一年近く居たというのか。ふたりともすごいなあ、とまた気が緩みかけてハッとする。いけないいけない。目を強く瞬かせて気を取り直し、頼子はちらと上目遣いで隣を見上げた。
(あとは篠塚さんしかいないけど……でも《ドゥラークラーイ》の人じゃない……し、それに)
確実に自分より物を知っているはずだ――と意を決して問いかけようとしたが、見上げたあゆみの横顔に言葉が詰まった。彼女もまた、いつもと雰囲気が違う。
「……篠塚さん……?」
「! ……どうしたの?」
呼ばれてハッとして、慌ててこちらを見下ろしたあゆみの姿に少し胸が痛む。いつも通りに聞こえる彼女の柔い声は、明らかな作り物だった。表情も堅く、調整されたものといって間違いはないだろう。気を遣わせてしまったか――と思うと申し訳なかったが、それに気付かないふりをした頼子は、優しげに細められたあゆみの目を見て言葉を継いだ。
「えっと、あの……今って、なにがどうなってるんでしょうか? 私、本当になにも分かっていなくて……」
渦中にいるくせに……と思うと恥ずかしかったが、知らないものは知らないのだから仕方がない。頼子は半ば開き直った気持ちで、あゆみに問いをぶつけてみた。
そんな頼子を真っ向から受け止めたあゆみは、彼女を少し不憫に思っていた。
いくら近場に兄弟がいるとはいえ、ごく普通の女の子が遠い異国に連れ去られた不安は計り知れない。すべての都合を無視して誘拐したくせに放置して、事情も説明されない宙に浮いた状態ではさぞ心細かっただろう。この不安を少しでも軽減させてあげたい。しかし機密もあるし……と悩み、悩んだ末に話すことを決めた。きっと大丈夫だ、だって彼女は本部長の――。
「いいよ、私の知っている範囲でなら教えてあげる。私も下っ端だから開示されていない部分もあるけど、それは許してね」
隣に座ってようやく目線を合わせてくれたあゆみに、こくこくと頷いた頼子は全身の力が抜けたようだった。やっと気が楽になった――と思ったのも束の間、不意にあゆみの手の中にある拳銃が目に入り体が強張る。やはり非常時に変わりないのだから、気を抜いては駄目だ。
「えっとまずは……頼子ちゃんが《砂漠の鬼神》――イザーラ・ナーブに誘拐されてしまった、ってことは分かるよね?」
「はい、それだけは」
名前を出されて初めて、頼子はイザーラの貌を思い出す。未だに性別不明なこの人物との接点は薄いが、良い印象を抱いていないのは確かだ。そんなの当然だ、こちらの事情などまるで無視して、それだけでなく物のように扱ってくる人物に、好意なんて寄せられるはずがない。
そういえば、そういうところがヴィルナエたちと食い違っているようだった気もする。イザーラへの不満と一緒に不穏な遣り取りも思い出して、頼子はまたも躓いてしまった。この二人は仲が悪くて、イザーラの方が押しが強いから、みんなでヴィルナエを解放しようとしているのだろうか。ついついそっちを考えてしまって、あゆみとの会話が疎かになってしまう。『自分で請うたくせになんてことを』と途中で気付いて、頼子はどうにか意識をあゆみに向けて事の流れを追う。
「それでね、あのあと…………色々あったんだけど……本部長――安宿さんと寿晴さんが頼子ちゃんを助けに行こうって決めて、みんなでこっちに来たんだよ。今ここにはいないけど、安宿さんも寿晴さんも、緋多岐さんも近くにいるんだよ」
柔く優しいあゆみの声を聞いて、頼子はまた泣きそうになった。勝手にいなくなったのは自分なのに、わざわざ探しに来てくれたことが素直に嬉しかった。
「近いうちに、安宿さんとヴィルナエさんが話し合ってくれるみたい。それで今後が決まるから、もう少し待っててね?」
「はい、」
――と素直に頷こうとしたところで、初めて二人に出会った頃のことが脳裏をよぎる。確か安宿はヴィルナエを追っていて、ヴィルナエは安宿から逃げていたのではなかったか。そしてそもそも、《ヴォルク》は《ドゥラークラーイ》を壊滅させるための組織なのではなかったか……?
そんな彼らを、自分の都合で引きあわせて良いものか。二人の関係なんて勿論知らないが、安宿にヴィルナエを差し出してはならないと思う一方で、安宿が身骨を砕きながら探し続けたヴィルナエにようやく会えるのかと思う嬉しい気持ちもあった。両者を半端に知っているぶん、肩入れの度合いも中途半端だ。この話を素直に暢気に受け止めてもいいのかと悩みながら、頼子は縦に振りかけていた首をくくっと傾ける。それが不可解だったのか、不思議そうな目をしたあゆみが問いかける。
「どうしたの? 頼子ちゃん」
「いえ……安宿さんとヴィルナエを、本当に会わせて良いのかなって……」
か細い声で、呟くように答える。自分なりに考えていることはあるものの、如何せん事実を知らないから主張するのも憚られた。
二人のことをもっとよく知りたい。頼子は心からそう思った。
「武装組織の首謀者」と「対抗組織の本部長」というだけの関係でないとは安宿の態度で分かったが、果たしてヴィルナエはどう思っているのだろう。客観的に見た印象でしかないが、少なくとも「憎い敵」だとは思っていないようだ。でもこんな憶測で気を利かせるんじゃなくて、何を望んでいるのか、直接聞いた上で寄り添いたかった。
こんな無知な小娘になにができるとも思えなかったが、『分からないからなにもしない』は選びたくなかった。せっかくの変化だ、これまでとは違う道に進みたい。病室や自室で囲われ守られ、待つばかりの自分を変えるには絶好の機会だ。どうにか前に進もうと、世間知らずの頼子はひとり水面下で藻掻いている。ひとりでは何もできないと再認識した今、少しでも人手を煩わせない人間になれるように。
さて、少ない手持ちの情報を整理してみよう。
安宿はヴィルナエとの対面を熱望しており、必ず捕らえると言っていた。しかし始末してやろうという気はないらしく、《ドゥラークラーイ》をしっかり管理するよう伝えたいのだそうだ。ヴィルナも安宿から逃げてはいるが、憎しみや恐怖心などと言った暗い感情は窺えない。ただ「会いたくない」だけで、不穏な空気は感じ取れなかったと記憶している。
しかし、勝也や伊智は「会わせるわけにはいかない」と言っていた。そのためにあれこれ企てているようだったが、その輪の中に本人たちはいなかった。二人には内密に……といった感じで、特にヴィルナエの目と耳を塞いでいるような印象だった――そこに妙な既視感を覚えている――。彼女の組織なのにどうしてだろう。周囲に一任しているのだろうか。組織の構造が分からない頼子には、想像すら難しい。
(――これも聞いた方が早いよね)
この状況で教えて貰えるかは分からなかったが、ダメ元で……と周囲を見渡す。聞けそうな人は? 取り敢えずニーナだと捜してみるが、彼女の姿は見当たらなかった。どこへ行ったのだろう。そもそもこの部屋にいたっけ? などと考えながら小首を傾げたところで扉が開き、頼子は反射的に視線を向けた。
「È sicuro, signora?(ご無事でしたか、奥様)」
「へぁっ!?」
「……っ、先輩……!」
開いた扉から現れたのは、よく見慣れた金髪の青年だった。平静で滑舌のよい声も聞き慣れたものではあったが、言語は全く馴染みがなく、また新しい種類の言葉だ……と静かに頭を抱えている。そのうえ思いがけずサラディーノに再会してしまい、思わず変な声が出てしまう。
「シノヅカ、大事はないか」
「はい。それから、交渉の件ですが――」
サラディーノの姿が見えるや否や立ち上がったあゆみは、頼子に跪くサラディーノの傍に跪いて簡単な報告をしているようだった。なかなか異様な光景だな……とぼんやり見たサラディーノは、いつものスーツ姿ではなく無骨な戦闘服姿だ。細く柔そうな長めの髪を雑に結っており、スタイリッシュさはなかったが、その程度で鳴りを潜めるような美貌や艶ではない。今日も美しいな――なんて場にそぐわない感想を言いかけて飲み込み、所在なげに視線を泳がせていると、サラディーノの背後に控える鳶色の目とカッチリかちあってしまった。
「Signora...? ――ああ、お前《ヴォルク》の頭の情婦だったのか」
「は? イロ?」
『地味で平凡なくせにやるもんだな』と感心したように言う伊智の言葉は、よく知った日本語なのに意味が分からなかった。でもなんか、あまり好ましくない意味な気はしている。「イロって何?」とサラディーノに問うてみたが、「奥様は知らなくてもいいことです」と躱されてしまった。やはり良い意味ではないのかもしれない。――いやいや、今はイロのことはどうでもいいか。それより、
「や、さ、サラディーノさん……ご無事だったんですね……?」
《ドゥラークラーイ》の連中とは異なる言語で話し合っていた伊智とサラディーノを呆然と見ながら、頼子はどうにか問いかけた。喉は閊えるし、脳内はザワついている。
少し前に「構内最前線で、ウチで一番ヤバい奴と《ヴォルク》の狙撃手が戦っている」とダグラスに聞いた。それが利也を殺したというイザーラ・ナーブと、兄代わりを務めてくれたサラディーノを示しているのだとすぐに分かり、心配で仕方なかったのだ。イザーラの不気味さだけはよく知っているし、好きだった利也もその人に殺されてしまった。サラディーノについては『腕の立つ、優秀で有能な人材』だと安宿も誇らしげに言っていたが、彼ももしかしたら……とつい思ってしまったのだ。しかし現実にはほぼ無傷で平然としており、安堵で脱力してしまう。その様子を見たサラディーノは柔く微笑んで、きゅっとスカートの裾を掴む頼子の手を握った。
「勿論です。私は二度も負けません」
「ハッ、よく言う。さっきなんか潔く負けを認…………グッ」
すかざず皮肉った伊智の膝を、笑顔のままのサラディーノが殴るのを頼子は見逃さなかった――見逃せなかった、が正しいが――。その場に蹲る伊智を『余計なことを言うな』とでも言いたげに睨むサラディーノは、頼子の知らないサラディーノだ。その姿に実兄の勝也がダブる。妙な既視感を覚えながら思い出したのは数日前のことだ。「千田」と呼ばれていた青年たちを相手取る彼もまた、頼子の知らない勝也であった。
(そうか……そういうことか……)
接対する相手によって見せる顔が違うのだと、このとき頼子は初めて気付く。これまでは閉塞的な空間で、自分に話しかける場面しか見なかったせいで気付かなかったが、改めて考えると「まあ当たり前のことだよな」と思う。自分だって無意識でそうしているのだろうに、どうして違和感や疎外感などを覚えて拗ねていたのだろう。病室から連れ出されてから初めて気付く事があまりに多く、己の世界はなんと狭かったかと思い知る。医師らと二人の兄以外との接点がほぼない生活だったのだから当たり前か。頑丈な筺の中で護ろうとしてくれた利也には申し訳ないが、もっと早くに外に出ていればよかったなぁ……と、大人たちに甘え尽くしていた自分に悔いている。
これこそがきっと、私がずっと求めていた刺激なのだろう。
目の前で展開される人と人の交流を眺めて思う。
空爆とか銃撃戦とか、そんなハードな刺激ではなくて、知らない物に触れて取り込んでいく温かな刺激。ようやく人間として成長できた気がして、この誘拐も実は悪くないのかもしれない、なんて思ってしまう――周りの苦労を考えると、声高には言えないが――。
なにも知らない赤子同然だった体が、脳が、隔絶されていた「外の世界」を吸収している。細胞ひとつひとつが活性化するのを感じながら、頼子はスッと背筋を伸ばしてその光景を目に焼き付けている。僅かも逃したくないと思った。
「Почему вы здесь ? Где Изара?(なぜここにいるのかしら、仔犬ちゃん。イザーラは?)」
「Я отсутств. Я продолжаю поиск и преследование. Однако,
до этого, он жела встре Йорико.(見失いました。捜索して引き続き追い込みますが、その前に彼が頼子に会いたいと)」
「Начиная с достигуой цели, я возвращаюсь немедленно. (目的は果たしましたのですぐに戻ります) その前に……」
ひどく威圧的なローズマリーにも怯まない、極めて冷静かつ事務的な二人は、言い終えると同時に頼子を見る。急に向けられた視線にドキリとして身構えてしまう。また無自覚にやらかしてしまったのだろうか。頼子は堅い表情を崩せないまま、二人の顔色を窺うように交互に見た。
「あの、」
「おい小娘」
「口を慎め、伊智。――奥様、ひとつだけ確認させていただきたいことがあるのですが」
「あ……いや、あの、奥様ってのやめて貰っていいですか……」
ずっと言わねばと思っていたことをようやく口にすると――このタイミングではどうかとも思ったが――、間髪入れずに冷えた伊智の声が介入してくる。
「ほら見ろ」
「……。ではヨリコ、ひとつだけ。君は日本へ帰りたいか?」
だいぶ砕けた口調になったサラディーノは、真っ直ぐに頼子の目を見て言う。それは彼の隣に立つ伊智も同じで、そういえば少し前に『帰した方がいい』と言っていたと思い出した。
けれど頼子は、すぐに返事をすることができない。
帰りたい。本来ならそう言うべきなのだろうが、実のところ、これまで一度も「帰りたい」と思ったことがなかった。帰ったってどうせ病院だし、誰もいない自宅にはなんの魅力もない。日本にいるはずだった安宿ら《ヴォルク》の面々には連絡を取りたいと思っていたが、こうして来てくれたお陰でその必要もなくなった。いよいよ未練のなくなった日本に帰りたいか? と改めて自問するが、やはり当然のように結果は変わらない。
本音を言えば、もう少しだけここにいさせて欲しかった。勝也やニーナがいれば安心できたし、ここなら外の世界のことも、多種多様な人の生き様も見られるような気がしたのだ。日本と比べれば死ぬリスクも高いのだろうが、生憎私は、日本にいても他の人より確実に死が近い。この言い分を通せば残留も許して貰えるかも――ああでも、そうしたら《ドゥラークラーイ》か《ヴォルク》かを選ばなきゃいけないのか。嫌だなあ。サラディーノもあゆみも伊智も好きだし、安宿やヴィルナエとももっと話したい。選ぶなんて無理だ。どうしてこのふたつは仲が悪いんだろう。仲直り……あわよくばひとつに纏まってくれたらいいのに。
考え倦ねるうちに頼子の思考は別の方角を向いてしまい、問いの解から更に遠ざかる。難しい問題だ、と悩む顔を「泣きそうだ」と感じたらしいサラディーノと伊智が、心配そうに覗き込んでくる。慌ただしく扉が開いたのは、それとほぼ同時だった。
「篠塚嬢」
「はいっ!」
現れた人物の態度は、その荒さの目立つ動作とは相反して極めて冷静であった。半端に開いた扉から半身を覗かせたのは、《ズィマ》の千田――茶髪だからきっと洋司――で、拳銃を片手に警戒しながらあゆみを呼びつけている。その声も落ち着いていたが、半身に浴びた夥しい赤が、事の重大さを如実に物語っていた。
「Йоджи, Сообщу о всем здесь.(洋司、ここで全てを報告しなさい)」
室内の空気をピィン、と張り詰めさせる声だった。あの柔らかで朗らかだった昨日のローズマリーが嘘のような圧に、頼子もついつい怯んでしまう。それでも顔は美しく微笑んでいるのだから余計に怖い。きっと笑いながら怒っているのだろう。そういえば勝也も同じタイプだったな……と思い出しながら、頼子は意味を知れない異国の言葉を聞いていた。
「«Красная лиса» появся здесь. Я думаю, что это - действие ее
догмой. (鮮赤――《鮮赤の女狐》が現れました。口ぶりからすると、独断での侵攻のようです)」
こちらへの一瞥を織り交ぜながら、洋司はご主人様への報告を行う。その顔は酷く苦々しく、平常心を保てていないのは明らかだった。
「И... Нина б убитаю ею. (それから……ニーナがやられました)」
洋司の重い声を皮切りに、ローズマリーの眼は更に冷える。伊智も少し動揺しており、サラディーノも眉間に皺を寄せている。何かよくないことがあったのは分かるが、いったい何があったのだろう。『ニーナ』と聞こえたような気もするが……あの赤は彼女の……?
「Кунихиро прог 《красную лису》.Однако, есть опасность
прибытия здесь. Поэтому, я охраняю――. 《鮮赤》は國弘が対応していますが、こちらまで侵攻する可能性も大いにあります。ですので私が警護を――」
「Я ненужен.(不要よ)」
切り捨てるように言い放ち、ローズマリーが立ち上がる。しなやかで優美なはずなのに、禍々しく歪だった。微かに笑んだ口元に寒気がする。何となく恐ろしいものを目にしているような気がして、サラディーノの袖を掴む手に力が篭もった。
「Б меня к месту в Нина. Давайте остав ее вещь им. Вы по?(貴方は私をニーナの所へ連れて行きなさい。この子のことは、ワンちゃんたちに任せましょう。いいわね?)」
「「Да.(承知)」」
当然だ、とでも言いたげな声を重ねて、二つの組織の番犬たる伊智とサラディーノが応える。それを聞いて満足げな笑みを浮かべたローズマリーは、赤く染まった洋司を従えて部屋を後にした。一瞬だけ緩んだ空気に一息つき、部屋の隅から寄ってきたヤンハイも含めた青年たちはドアの向こうを睨んでいる。アイコンタクトだけで話しあっているらしい伊智とサラディーノを横目で見た頼子は、少しだけ困惑していた。
「……」
混じり合えない二つの組織が纏まったようで嬉しいと思っているのだが、そんな暢気なことなんか言ってられない状態だともよく理解している。けれど対立なんかして欲しくない気持ちが勝ってしまい、このまま統合してくれないかな――なんて考えていると、頭上から無表情な声が落ちてくる。
「――頼子」
見上げた先にいたのは伊智だった。苦い顔をした彼は、あの時と同じ目をしている。「話がある」と言って私と勝兄を連れ出したあの時の、深手の痛みを堪えるような目。胸がザワつく。きりきりと痛み始めた心臓のあたりを摩りながら、頼子は伊智に続きを促した。
「な、何でしょう……?」
「ニーナがやられた。……この意味、分かるな?」
利也と同じだ、と付け足した言葉の意味を噛みしめて、痛む心臓を小突きながら俯いた。利兄と同じだなんて、そんなの――
「でも連れて行かないからな。お前はここにいろ。預かっているお前まで死なれたら困るんだ。今は理解しろ、文句は後で言え」
乱雑な伊智の物言いに黙って頷く頼子を横目で見たサラディーノは、大まかな状況を考えながら事実を整理していた。
今回のこれは、《ドゥラークラーイ》と《ヴォルク》の間に勃発した抗争であってそうではない。もっと細分化して考えれば、イザーラ・ナーブと《ドゥラークラーイ》《ヴォルク》の中枢構成員の戦いなのだと思っている。イザーラだけが、決定的に目指すものが違うのだ。
イザーラは新しい、自分に都合の良い《神》を作ろうとしている。その依り代として目をつけられたのがヴィルナエだったが、本人を含めた中枢構成員たちはそれを望んでいない。それでも強硬の姿勢を崩さない《彼》とその他が対立するのは必然であり、この時点で既に、《ドゥラークラーイ》の終焉は避けられないものになっていた。
俺に奇襲をかけたように、自分の意に反するもの全てを排除しようとするだろう。世界から《楽園》を隔絶し、宗教色を強めようとしているあの《鬼》が、神と俗世の交わりを許すことはないだろうとサラディーノは思っていた。
あの信仰深いんだか罪深いんだかよく分からないアイツなら、穢れを払うためにヴィルナエを監禁しようとするはずだ。禁じ手とも言えるそれを円滑に進める鍵となり得るのが、この平凡でいて非凡である大貫頼子に他ならない。この子を盾に取って利用すれば、己の望む世界を保てるとあいつは知っているのだ。仮に頼子が「見捨ててくれ」と願っても、ヴィルナエや安宿が、彼女を見殺しにできないのだと。
(面倒な相手だ……)
その面倒なイカれ野郎は、頼子を求めてこの部屋に来るだろう。その時にこの子を護り切れるか? と問われても、即座に「勿論」だとは答えられなかった。バディの伊智もいる。サポートのシノヅカもいる。なのに一向に不安は拭えない。
(……こんなことでは、また伊智に怒られるな)
弱気な自分を察知して思案を断ち切ったサラディーノは苦笑する。慎重になりすぎてネガティブになってしまうのは悪い癖だ。伊智には昔から『そういう所がムカつく』とよく怒られていたっけ。
「Io certamente La proteggo...(お前のことは必ず守るよ)」
「えっ、なんですか?」
「なんでもないよ」
こんな気恥ずかしいことを二度も言うつもりはない。頼子が聞き取れないのを良いことに誤魔化そうとしたのに、それをわざわざ拾い上げた隣の伊智が顔を顰めている。『何くせぇことを言っていやがる』とでも言いたげな態度だったが、お前はどうか黙っていろ。間違っても通訳なんかするんじゃないぞと強く願いながら、跪いて握っていた頼子の手を離し、立ち上がった。
「伊智、迎撃の態勢を整えておこう」
「ああ。あの蛇姫の言い付けはしっかり守らねえとな」
破れば何をされるか分かったもんじゃないと呟きながら、二人は慣れた様子で打ち合わせを始める。
「シノヅカ、お前はヨリコの傍を離れないでくれ。それから……What can you do? (君はなにができる?)」
いつの間にか頼子にぴったり寄り添っている黒髪の少女――ヤンハイに問う。怯えているようでも悲しんでいるようでもある彼女は、ただ黙ったまま身構えるだけだ。「人質の子か」と伊智に問うと彼は首を横に振り、「うちの開発担当者だ」とだけ答えた。
「陽海、小型的炸弹没有吗? 能威吓和妨碍的单纯的东西就好。(ヤンハイ、小型の爆弾はあるか? 威嚇や妨害ができる程度のものでいい)」
「那样的炸弹没有。现在有的是这个……(そんな規模のものはないなぁ。今持ってるのはこれくらい……)」
そういって白衣のポケットから取り出したのは小型の手榴弾だった。それをいくつか持っており、全てを伊智に託している。「でもただの閃光弾だから、イザーラには効かないかも」と不安そうにしていた。
「とりあえず、当面は三人で警護をしよう。ボスやスバルもじきに合流する予定だ」
「そのボスは何やってんだ?」
「連絡係と接触する予定があるそうだ。その後にヴィルナエ氏との対談も検討しているのだろう。シノヅカ、お前の任務はどうなった」
「一連の件について、ヴィルナエ様は対話で解決したいとのことです。後は安宿様に報告して、日程調整を行う所まで話は進んだのですが……」
あゆみはきびきびと報告していたが、次第に表情が曇っていく。確かに約束は取り付けたが、その後の構成員襲撃という問題が起こってしまった。独断だったとはいえ決行したのが《ヴォルク》所属のエージェントであると明白になっているのだから、その話が立ち消えになってしまう可能性が大いにあった。
(余計なことを……)
苦虫を噛み潰したような顔のサラディーノは、緋多岐を思い出して酷く不快な思いをしていた。《ヴォルク》を紹介してくれたことには感謝しているが、あの忌々しいカミラによく似た緋多岐のことは初めから嫌いだった。好きにはなれないが有能だとは思っていて、愚かでもないと思っていたのに、まさかそんな。大惨事ともいえる失態を犯した緋多岐を心から軽蔑しながら、サラディーノは溜め息交じりに吐き捨てた。
「……我々はできる事をするまでだ。伊智、こちらに非があるのは明白なのだから、俺たちのことは好きに使って欲しい」
「言われなくてもそうする」
覚悟しておけよ、と悪い顔で笑む伊智に救われたような気持ちで、あゆみとサラディーノは小さく頷いた。
切迫した面持ちで話し合う大人たち――対して年齢は変わらないが――をぼんやり見ながら、頼子は未だに考え続けていた。
帰るか帰らないかの答えが決まらない。
状況やみんなの負担を考えれば帰ったほうが良いのだろうが、そうすればヴィルナエや伊智らとの交流もここで終わってしまう。そうして《ドゥラークラーイ》との接点がなくなれば構われる理由もなくなって、《ヴォルク》の面々とも離れることになるのだ。また独りになるのか。それは嫌だなあと思って、帰るのを拒んでしまう。気楽だ、我が儘だと怒られてしまうだろうか。でも嫌われないように頑張るし、今後はこんな面倒を起こさないように気をつけるから、後もう少しだけこの輪の中に入れて欲しかった。
(みんなとはもっと早くに会いたかった……)
そうすればここの事をよく知れて、みんなが使ってる言葉の意味も理解できて、みんなともっと、ちゃんと話すことができたかも知れない。ニーナとも、もっと仲良くなれたかも知れない――
「ニーナのお茶、また飲みたかったなぁ……」
大人たちを傍観しながら、頼子は寂しげに小さく呟く。あの味に恋い焦がれても、淹れてくれる人はもういない。少しだけ目を伏せた頼子は何かを決意したように一度だけしっかり頷き、やにわに立ち上がった。
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