第7部 混線、コンセンサス


 

 予想と反して、以外と気持ちは落ち着いている。ひとり敵地に乗り込んだ篠塚あゆみは、豪奢な部屋のなかでぽつんと座っていた。恐怖心はある。警戒されている感触もある。けれどそれは当然のことであり、仕方がないと甘受した。だって我々《ヴォルク》は、散々に《ドゥラークラーイ》の妨害をしてきたし、構成員だって何人も仕留めている。憎い敵に違いはないだろう。



(ここで私が殺されたって、それも仕方がないことだ……)



 生死をかけた役を負わされているのに、不安がないのはどうしてだろう。嘗ての友人がいるから安心しているのか? だとしたら、またサラディーノに『甘い』と指摘されて怒られてしまう。


 そうやって全く認めてくれないくせに、この役にあゆみを推したのはサラディーノだった。苦手だと散々に避けられてきたし、最近はやたらと厳しいし、どうにも良く思われていない自信があっただけに意外な人選だった。別に殺されても構わない人材――と思われた線は棄てきれなかったが、乗り込む少し前の出来事さえあればあゆみには十分だった。


 いつもは嫌味なくらいに淡々としているくせに、妙にたどたどしく『お前なら大丈夫』と言って、力強く背を押して送り出されたのは正直意外だった。しかしそれだけで信頼されていると感じるのだから、きっと私という生き物はとても単純なのだろう。この拠点近くまで付き添い、今もどこかで張ってくれている先輩の事を思い出して気を引き締める。彼に恩を仇で返さぬよう、せめて親書の認知だけは確認しようと心に決めて、眼前の大柄な紳士と物陰から伺う少女の視線を受け止めていた。


 トントン、と扉を叩く音がする。


 ドキリとして立ち上がりながらそちらを注視していると、静かに扉が開いた。その向こうに立っていたのは件の赤毛だ。上司たる安宿が追い求めた、頼子を攫った組織のトップ。あんなに穏やかだった気持ちが、その姿を捉えた途端に激しく波打っているのをあゆみは感じていた。


 不思議な人だ。直感でそう思った。鮮やかな赤を差し引けば特別な華々しさがあるわけでもなかったが、凡庸な人では決してないというのは一目で分かる。なんとも形容しづらいのだが、大した特徴のないぼやけた像の所々に、妙な神々しさと危うさが見え隠れしているような印象だった。どれが本質なのかが不明瞭で、様々な顔が拮抗しあうアンバランスさに違和感を覚える。不思議だ。だからだろうか。どうにも目が離せず、否応なく意識が吸い寄せられてしまう。


 そうした求心力が人を集め、《ドゥラークラーイ》を急成長させたのか。人種も国境も越えた巨大組織の核となる人物に、私のような新人エージェントが会いに行ってもよかったのだろうか。今頃になって明確に感じた分不相応感が急激に加速して、ぶわと冷や汗が湧いて出た。古株の寿晴か実績のあるサラディーノか――いっそ安宿本人が出向いて、腹を割って話し合った方がよかったのではないか。そう思えばキリがない。



(それでも……私は組織を代表して来たんだ)



 こうなればもう、流れに身を任すしかない。あゆみは気付かれないように小さく息を吐き出して、揺らいでいた気持ちを叩き直した。ぴんと背筋を伸ばして姿勢を正し、心なしか安宿に似ている気がする灰色の瞳をじっと見据えた。



「Спасибо за принятие требования сегодня. Ah...well...(本日は応じて下さってありがとうございます。……あー、ええと……)」


「日本語で、構わない」



 それよりどうぞ、座って。と言うヴィルナエの申し出に深々と頭を垂れて一礼し、促されるまま着席する。私の付け焼き刃なロシア語は聞きづらかっただろうか。まだあまり得意ではないから大変に助かるが、気を遣わせてしまって申し訳なく思う。


 あゆみは少し戸惑って萎縮していたが、ヴィルナエの背後に控えていた人影に意識を持っていかれて息を呑む。大貫だ。目元の柔らかさから察するに、おそらく勝也。金髪にした姿も写真や映像で散々確認しているのに、慣れないとか気付かなかったとか思うのは、この期に及んでまだ大貫と《ドゥラークラーイ》との関係性を否定したがっているからだろう。 己の心理状態を客観視しながら、目の前の大貫勝也の事を考えていた。


 この男はなぜ、大好きだった航空関係の仕事に就かず、正義から凡そ外れた武装組織を選んだのか。いくら考えても分からない。どうしてこんな馬鹿なことを。あんな大規模な空爆なんかして、お前は何も感じなかったのか。どうあがいても親の敵である彼にすぐにでも詰め寄って問い質したかったが、それをぐっと堪えて呼吸を止める。


 理由や価値観なんて人それぞれだ。私が「馬鹿で外道な進路」であり悪だと思っていても、 彼にとっては正義なのかもしれない。復讐の道を選んだ自分だって似たようなものだ。こんな考え方、《ヴォルク》に入社して裏側を覗く以前の自分には全くできなかっただろう……と薄く笑んで、正面の赤毛に向き合った。



「改めて、応じて下さってありがとうございます。私は《ヴォルク》構成員の篠塚あゆみと申します。本日はひとつ、お尋ねしたいことがあり参りました」



 全身を射るような視線に耐えながら、あゆみは真っ直ぐに、複雑そうにしているヴィルナエを見詰めた。



「我々は、とある事情から大貫頼子さんという少女を保護していました。しかし数日前、あなた方《ドゥラークラーイ》の構成員に連れ去られてしまいました。そのことについては……ご存じですね?」



「……ああ。今、ここにいる」



 ヴィルナエがしっかり頷くのを見届け、後ろに控えた勝也の反応を確認して安堵する。ひどく落ち着いて、穏やかな態度だ。悪いようにはされていないらしい。やはり実の兄がついていれば問題はないな……と胸をなで下ろし、あゆみは言葉を続けた。



「《ヴォルク》は頼子さんを日本へ……よく慣れ親しんだ環境にお連れしたいと思い、それに関する交渉を求める親書を、弊社前原からフーカー氏にお送りしております。それは《連絡係》からそちらに届いているでしょうか。私は、それだけが知りたいのです」



 期日が迫ってもなんの反応もないもので、と付け足して、脳内で状況を整理する。親書に対するアクションが何もない上に、寄越した《連絡係》も帰らない。 途中で逃げたか? という疑念も浮上したが、安宿や寿晴と長年の信頼関係を築いてきたエージェントだったし可能性は低いだろう。では彼と親書はどこへ行ったのか。現状では不明確なことが多すぎて対策の打ちようがないから、それらをハッキリさせるため、あゆみは今ここにいるのだ。



 目の前で示された反応は二種類。

 何のことだと不思議そうにしているヴィルナエと、「やはりそうか」と頭を抱えるダグラスだ。


 この反応を見るに、やはり便りは届かなかったのだろう。どこで止まっているのか。なぜそうなったのか。行方知れずの親書は、第三者の手に渡っているのか。突き詰めなければならないことが次々浮き彫りになる。どれも早急に対処しなければならないことばかりで、脳内の整理が追いつかないあゆみは、鈍い頭痛に溜め息を吐いた。



「篠塚氏。その親書は私の――フーカーの元には届いていない。しかし、連絡係は確かに受け取ったそうだ」


「……? どういうことですか?」



 あゆみは、ダグラスの言葉が理解できなかった。それもそうだ、意味が分からない。届いているが届いていないなんて馬鹿げた話だと、言ったダグラスも思っている。



「その親書は確かに我々の手に渡りました。しかし、私の元に届く前に処分されたと報告を受けています。目撃した者の話によると、焼却されたとか」


「……それは、交渉に応じるつもりがない――ということでしょうか」


「それに対する答えは、半分がイエス、半分がノー、といったところです。貴方がたならもうすでにご存じでしょうが、我々《ドゥラークラーイ》は統率が取れている状態とは言えない。なんせ皆が、己の理想のためだけに活動していますから。それは外部でも中枢部でも変わりません」


「……話し合いで解決できるならそうしたいし、あの子が望むなら帰したい。でも、それを許さない人物もいる。そいつが席を外している今のうちに、少しでも進めておきたい。……篠塚氏、申し訳ないが、親書の内容をもう一度教えていただけないだろうか」



 敵だと思っていたのに意外と好意的な態度を取られて、あゆみは戸惑っている。が、それ以上に安堵していた。これが罠ではない保証はどこにもなかったが、ひとまず進展した、と言っても良いだろう。これでどっちつかずのもどかしさは解消できた。あとは頼子の身柄を確保して意志を尋ね、最善を模索するだけだ。



「しょ、承知致しました……しかし申し訳ありません、私も詳しい内容までは知らされていないのです。なので、あとは私の上司である箕輪と直接――――――、っ!」


 あゆみの言葉を遮って、もう随分と聞き慣れた破裂音がパァンと響く。それに続いて複数回の銃声が重なり、一同、反射的にガンホルダーに手を掛けた。相手の気が変わらないうちに、正式な会合の日取りを決めてしまいたかったのに邪魔が入ってしまった。非常に近い距離での銃撃戦で、恐らくサラディーノもその輪に組み込まれてしまっているのだろう。


――応援に行くべきか、このまま話を進めるべきか。


 そう迷っている間に立ち上がったのはヴィルナエだった。騒ぐ邪魔者に苛立っている……という様子は全くなく、寧ろ怯えているような、緊迫感を全面に押し出したような態度だった。世界規模の巨大組織のトップという雰囲気や威厳は微塵もない。不思議だ。



「遅かったか……!」


「思ったより対応が早かったですね……応戦しますか?」



 苦々しい顔で牙を剥き、外を睨んだダグラスが低く唸る。それに対して冷静に提言したのは勝也だった。この流れから察するに、銃撃戦の相手がいま言っていた《話し合いによる解決を許さない人物》ということか。


 この程度のことは予想していた。けれど突発した銃撃戦に怯んでいるのは事実だった。今にも無様に震え上がりそうな体を押さえ込んで、ホルダーに収まった拳銃のハンドルを握る。――きっと大丈夫。私だってこの数ヶ月で何度も実戦を経験してきたし、なにより狙撃の名手と名高いサラディーノに手ほどきを受けたのだ。だからきっと大丈夫――。そう自分に言い聞かせて、大きく息を吐き出した。不安で早まった鼓動がうるさい。



「会談中に申し訳ありませんが、加勢して参ります。実は、屋外で私の上司が待機しておりまして……恐らく今、この銃撃戦の渦中にいるのだと、」


「「「それはやめた方が良い」」」



 あゆみの申し出を遮って、三人の声が重なる。それに戸惑う間もなく、勝也の声が更に続いた。



「お前の上司が相手してるヤツは、多分うちの構成員だ。そんでその人はうちのナンバー二で、まともな人間じゃない。その上司がどうかは知らないが、お前が行けば間違いなく死ぬ。やめとけ」



 勝也の声は切迫していた。嘘でも脅しでもないことは分かるのだけれど、だからといって先輩一人を危険に晒すのは忍びなかった。それに、あの人は喪ってはならない人だ。応援にはならなかったとしても、私が行って囮か盾になるべきではないのか。あゆみは純粋に、そう思っている。



「でも……」


「それで利也もやられたんだ。銃を向けたら間違いなく死ぬと思え。断言する。礼儀正しいお前じゃあ、絶対に勝てない」


「お嬢さん。仲間を助けたい気持ちはお察しするが、ここはどうか堪えてくれ。場合によっては身内すら殺せてしまう、常識や普通が通る相手ではないんだ。難しいだろうが、我々に任せてくれないか」



 これからのことのために、君にはどうか生きて帰って欲しい。立ち上がって銃を抜きながら言う三人に、あゆみは素直に頷けないでいた。話がうまく理解できない。利也がどうだとか言っていたが、どういうことだ。その混乱に加えて、現場への介入を止められて安堵している自分に気付いてしまって悔しかった。


 恐らく同じくらいのキャリアと思われる勝也はこんなにも勇敢で優秀なのに、私は……。サラディーノの言葉通り「甘すぎる」自分に直面し、不甲斐なさで泣いてしまいそうだった。



「篠塚。戦える腕があるなら、頼子を頼む。今アイツの護衛に当たってるヤツを現場に持っていきたいんだ。それにお前は一応顔見知りだから、たぶん奴よりは安心できると思う」



 見慣れない金髪の勝也はいやに頼もしくて、まるで知らない誰かのようだ。頼子の前では『いい兄ちゃん』でいたようだが、あゆみにとっては『なにかと雑な、軽度の不良少年』という印象が強いだけに戸惑っている。濁って不明瞭な返事しか返せないでいるこちらに苦笑した後、すれ違い様に肩を叩いて「お前は生きて表側に帰れよ」なんて真剣に言われてしまっては何も言えなかった。


 素質の差を見せつけられた気がした。自分も裏側に慣れて随分とやれるようになったと思っていたが、まだまだ不足していたようだった。手が届かないほどに離れてしまった元友人の気配が、遠ざかって消える。なんとも言えない寂しさと敗北を感じながら、あゆみは薄く目を閉じた。すぐにでもバラけてしまいそうな心を、深呼吸で宥め賺す。



「篠塚氏、勝也に代わって私が頼子嬢の元へ案内させていただく。客人を働かせてしまい申し訳ないが、どうか宜しく頼む」



もう加勢は望めないなと諦めて、傍に寄ってきたダグラスを見上げる。その表情は本当に申し訳なさそうであり、敵意や蔑みは感じられなかった。


 信じても良いのだろうか。本当にサラディーノに加勢してくれるのだろうか。まともじゃないナンバー二と一緒になって集中砲火を浴びせない保証はどこにある。そう考えてみるけれど、結局あゆみには信じる以外の選択肢が残っていないことくらい分かっていた。 



「――はい、わかりました。私にできることであれば、全力で協力させていただきます」



 今は、己の身の丈に合った仕事をしよう。力不足を認めて覚悟を決めたあゆみは、凜とした態度でダグラスに応える。その瞳はどこまでも澄み切り、力強かった。





              ※





 頼子とあゆみをダグラスに任せ、『これから』のためにヴィルナエと勝也は薄暗い廊下を歩く。銃声鳴り響く拠点では緊張感が限界値まで高まっており、落ち着いて呼吸もできないほどに切迫している。新たな犠牲が出ないことを心から祈りながら、勝也はか細いヴィルナエの背中を追っていた。


 問題は次々と起こる。しかも今回は非常に厄介だ、不安がないわけがない。トップのヴィルナエがこちら側にいるとはいえ、あのバケモノみたいな身体能力を持った《彼》に勝てるのか? そう問われても、軽率に『はい』とは言えなかった。


《彼》が負ける場面は勿論のこと、劣勢に傾いたことすら見たことがない。「鬼神」の綽名に恥じない苛烈な戦いぶりで、戦意喪失した者に対しても容赦ない攻撃を浴びせ続ける姿には戦慄するしかない。人道を外れまくった《彼》とはあまり戦いたくないものだ――



「Кацуя.(勝也)」



 先を進むヴィルナエは、不意に立ち止まって勝也を呼ぶ。消極的な感情がバレてしまったのだろうか。少しどきりとしながら足を止めた勝也は平常心を装いながら、振り返ったヴィルナエを見る。その表情は呼んだ声と同様、どうしようもなく不安そうだった。



「……どうした、ヴィルナエ?」



 至って普通に――を心がけたつもりだったが、幾分上擦った声が出てしまった。うまく取り繕えずに動揺したからではない。彼女が袖口から手早く抜き出したナイフの切っ先が、真っ直ぐこちらに向いていたからだ。



「そんなに怖がらなくても、俺はお前を殺したりなんか、」


「そんな心配してない」



 そんなことじゃないのと、二十代半ばのヴィルナエは年端もいかぬ少女のような口ぶりで言う。それでもナイフの刃先はこちらに向いたままだ。殺意や悪意がないだけ却って不気味だ。身内同士の殺しあいが堪えているのか、銃撃戦に怯んでいるのか、頼子の返還がイヤなのか。友人ではあっても旧知ではなく、今のヴィルナエが何を思っているのかが勝也には分からない。


 どうしたものか……と考え倦ねるうちに到達した冷い金属は、鋭い微痛と熱を与えながら頸部の表皮を裂く。そして彼女は、静かな感情を以て言うのだ。「ちょうだい」。


 なんの脈絡もないヴィルナエの言葉は、なにをどう考えても意味が分からなかった。


 ちょうだい。なにを? まさか首をくれと言っているのだろうか。だとしたらとてもまずい。経験の浅い新参者と百戦錬磨に等しい実力者とじゃあ、戦う前から勝負は決まったもんじゃないか。どうしたら「敵意はない」と信じて貰えるんだろう――なんて冷静に考えながら、頸を滑る刃物を感じていた。熱を帯びた範囲が広がり、痛みの波が強くなる。



「ヴィルナエ、」


「勝也の血を頂戴」



 成功のアテがないままの説得を遮られて聞いた言葉は、やはり理解が難しい。



「血を、」


「血を。勝也の血を頂戴。利也のように、死んでしまう前に。一部でも取り込めれば、別々になっても――死んでしまっても、一緒にいられる……と思う……から」



 自分の気持ちを抑えずに喋ったが、我ながら意味不明で気持ちの悪いことを言っている自覚はあった。血をくれだなんて。取り込みたいだなんて。そんなの常軌を逸している。その思いとは裏腹に、早く貰わなければと急いていた。早くしないと、もだもだしている間に勝也も死んでしまうかもしれない。


 ヴィルナエは怖かった。正直に言うと、利也を亡くすよりも勝也を亡くす方が数倍も怖かった。


 この男は他と違い、私を「教祖」とも「兵器」とも認識しない。どこにでもいるような「個人」として扱おうとする特殊な人間だった。言いなりにならず、言いなりにさせようともせず、対等な立場で討論してくれるのは彼くらいのものだ。「不遜だ」とイザーラや伊智に叱責されても物ともせず、変わらない態度を貫き通す姿に憧れた。人目を気にし、迷走に迷走を重ねる自分とはまるで真逆だ。


 そういえばあの子も――頼子も勝也と同じだった。誰に触れても、どの色にも染まらない。利也は少し特殊だった

が、やはり兄妹は似るものなんだなあ、と思うと少しだけ和やかな気持ちになる。しかしすぐに、二人を困らせている原因は自分なのだと思い知って気持ちが沈む。


 まただ。また感情がブレる。自分の感情も碌にコントロールできない愚か者を、彼は「まだ人間でいてもいい」のだと言ってくれた。後ろめたくもあったが嬉しかった。良き友人。良き理解者。そして解放者にもなり得る彼は、『相棒』のイザーラを差し置いて、どうしても離れがたい人物だった。


 そんな様子のヴィルナエを目の前にした勝也は驚いたものの、すぐに目を細めて苦笑した。ヴィルナエは、勝也が心から笑うのを見たことがない。迷惑を掛け倒しているからだろう。今日だってその前だって、きっと呆れて物も言えないのだ。


 こんな顔をさせたかった訳じゃないのに。彼にとっての私とは何なのか、心から笑ってくれる日は来るのかと意気消沈していると、徐に持ち上げられた手指の先が、喉元の刃に添えられる。そして勝也はそれを自ら押し込み、作った傷を更に深める――。



「か、つや、」


「いいよ、こんなもので良いならいくらでも。ずっと一緒にいてやるから……泣くなよ」



 哀しそうでも愛おしそうでもあるような目をして、これから決戦なんだぞと呟き笑う。勝也に目元を拭われるまで、ヴィルナエは自分が泣いていることに気付かなかった。


 最近になって、どうにも弱くなってしまったと思う。もともと強靱な精神を持っているわけではなかったが、些細なことで感情がブレた。勝也と対峙しているときが特に顕著で、否応なく素を剥き出しにされるような感覚だった。以前よりも考える余裕ができたからかも知れない。戸惑う間ができるのは良いことなのか悪いことなのか、ヴィルナエにはまだ分からない。



 勝也の温さに吸い寄せられるように腕を掴んで、首から鎖骨にかけて流れる赤に舌を這わす。錆臭く腥いはずのそれを美味く感じて、次から次へと欲してしまう。抑えきれずに根源の傷を舐めて啜っていると、温い体が優しく抱きしめた。そんなことをされてはひとたまりもなく、温かいはずなのに寒気がして目頭が熱くなる。ずっとこうしていられれば良いのに。心地よい悪寒に震えながら目を閉じて、ヴィルナエは勝也の優しさに縋った。


 きっともう大丈夫。例え貴方が死んでしまっても、これでずっと一緒にいられる――。




                   ※




 イカれた奴なんて、この世の中に死ぬほど居るもんだ。目の前で気軽にデザートイーグルをぶっ放す《砂漠の鬼神》も漏れなく、そして紛うことなくイカれている。息つく間もない馬鹿みたいな銃声を聞きながら、サラディーノ・ラヴィトラーニは舌打ちを繰り返した。


 効率が悪い。地の利もない。十分に調べ尽くしたとは言い難い相手の根城で、単独で戦うことになるなんて、まさかそんな。不本意だが押されており、うまく捕らえられない《鬼》が嘲笑っているように見える。ああ腹が立つ。心を乱されては奴の思うつぼなのに。拳銃にリロードしながらまた舌打ちをし、サラディーノは僅かな音を聞き分けて、同じようにリロードしている方向を確認する。


 目を閉じて、耳を澄ます。


 音の反響で割り出した建造物の立体像に、予め下見しておいた敷地図を重ね合わせる。その双方を駆使して、黒く塗り潰した脳内に、より精密な図面を描き上げた。できあがった三次元的なデータを俯瞰してチェック。予測と現実とをリンクさせて、《鬼》と自分の位置関係を突き詰めていく。サラディーノは、呼吸も忘れるほどに集中していた。


 本体たる自分自身が撃たれぬよう、銃身だけを《鬼》に向ける。反響から導き出した距離は概算で一〇二メートル、風上の方角、高さは地上から一五〇センチ。弾丸の到達速度と音の伝達速度を考慮すると、トリガーを引くタイミングは――



「――――Colpisca!(ヒット!)」



 ギィィィィィン、と金属を強く弾く不快な音を聞きつけたサラディーノは、手早く瞬間的に身を乗り出して状況を確認する。弾かれて宙を滑ったデザートイーグルが、深い雪に埋まり込むのを確認。チャンスだ。今が《鬼》を仕留める最高の好機。狙撃用の拳銃から集中砲火用に持ち込んだアサルトライフルに持ち替えて、攻めの姿勢へと転じる。


 前の組織で習得させられた業が、こんなところで役に立つとは。あの頃はこんなもん無駄な技術だと思っていたが、実質無駄なことなんかないんだな……などと考えながら、取り落とした得物を拾わせぬようにと銃撃を浴びせ続けた。


 今度こそ負けない。負けたくない。剣戟や格闘技も嗜むような雑種に出し抜かれるようでは、《必中の麗豹》の名が廃る。狙撃手としてのプライドを刺激され、平静と熱情が綯い交ぜになり混濁した状態でも、サラディーノは追撃の手を緩めなかった。


 しかし分が悪いことに変わりはない。こうしている間にも減り続ける弾丸を憂い、サラディーノは静かに焦っていた。本来、こんな近距離でタイマンを張るなんて狙撃手にとって自殺行為でしかない。弾が切れたらそれまで。接近戦に持ち込まれてしまえば勝ち目がない自信があった。狙撃のみを研鑽し、剣技も格闘技も、護身術すら全く手つかずの状態だからだ。


 せめて助手が――シノヅカがいてくれれば、リロードのロスも隙もなく弾幕を張れるのに。蜂の巣にしてやるのに。この数ヶ月のうちに補佐役として成長した篠塚あゆみのことを思い出して、サラディーノは小さく息を吐いた。


 心配性なのか神経質なのか、使用中の銃器が弾切れになる前に、フル補充した予備を用意しておいてくれるのだ。これは非常に楽だった。愚鈍で平凡な女ではあったがこれだけは助かっており、こんな局面で不在なのが憎らしい。いや、だからといってこんな死地に引っ張りだそうとは思わないのだけれど。



(残弾僅か……)



 装填できる弾丸は無限ではない。経験則から考えて、連続射撃を繰り返した弾倉が空になるまでもう間がなかった。攻撃の手が止んだとき、あの《鬼》がどう反撃してくるのかを考えるだけで恐ろしい。しかしここで臆すわけにもいかない――と発起して銃撃を続けるも、サラディーノは最悪の事態を覚悟して、今日死ぬつもりで半ば諦観していた。


 尽きてしまった後はどうしようかと頭の隅で考えていると、襟首を強く引かれて物陰に連れ込まれた。最悪だ。これはシノヅカじゃない。相手方の「誰か」であることに違いなく、これで俺も終わりか――と望まぬ最後を察知した。体勢を崩されたせいで外れた射線を調整しながら、首根っ子を掴まれたままひとつだけ残っていた拳銃の弾丸を撃ち放つ。



「È la mia sconfitta. faccia quello che Lei vuole( 俺の負けだ、好きなようにするがいい)」


「Non accetti sconfigga facilmente! Vergognati, ucciderò! (簡単に負けを認めてんじゃねえ! ブッ殺すぞ!)」


 いっそひと思いにやれ、と降参したところで聞いた声に驚いて、サラディーノは弾かれたように顔を上げて絶句していた。引きずり込まれた薄暗い室内で仰視した横顔には覚えがある。こんな無愛想、見違う筈がなかった。



「――伊智、」


「諦めが早いの、お前の悪い癖だ。いい加減に直せ馬鹿」



 ノスタルジーが有り余るのと同時に様々な感情が溢れて、思わず声が震えてしまう。伊智のことは、五年前に死んだと思っていた。あの身内ですら殺し合うような苛烈な組織で起った大規模な抗争は、今でもトラウマレベルで覚えている。


 忘れられる筈がない。怒号や悲鳴は然ることながら、飛び交う銃弾、飛び散る血肉、裏切り合う身内たちまで、何から何まで強烈だった。逃げ延びた後に戻ってきたアジトは瓦礫と臓物だらけで、あまりの悪臭と悍ましさに三日にわたり嘔吐し続けたものだ。


 それに加えて、このミンチのどれかが伊智なのかと思うとダメージはひとしおだった。本人の希望だったとはいえなぜ置いて逃げたのか。なぜ共に散らなかったのか。その罪悪感は長いあいだサラディーノを蝕み、一時は生きることを放棄しかけたほどだった。その隙を突いて《ヴォルク》に誘われ、半ば自棄気味に従属することになったのは善いことだったのか。それは今でもよくわからない。


 伊智とサラディーノは、互いにイタリアを拠点とするマフィア《エクリッシ》で生まれ育った子供だった。勿論、外の世界――所謂『表側』――のことはほとんど知らない。弱ければ死に、強ければ生き残れるという至極単純な筺の中で、二人は兄弟のように育った。


 親同士の仲が良かったわけではない。そこそこ広い敷地内で偶然に出会い、自然と引きあってそうなった。これがソウルメイトというものか……と思ったことはなくもないが、口に出したことは一度もない――馬鹿馬鹿しい、と嗤われるだけだ――。


 サラディーノは西洋系の典型、伊智は東洋系の典型で容姿も大きく異なったが、そんなものを意に介したことはない。互いに足りないものを補完しあって生き延びた間柄であり、血よりも濃い縁のある唯一無二の相手だと感じていた。「必中」と呼ばれるほど射撃の腕を磨いたのも、接近戦ばかりを好む伊智をサポートするためだ。少々生意気で口も態度も悪い子だったが、その反面誰よりサラディーノに懐き、棘だらけの対応ばかりするわりには良く後をついて回っていた。その様は足下に纏わり付く子猫のようで、結局絆されてしまう自分は彼に甘いのだろう。


 短気で危ないヤツではあるものの、根は素直で可愛い子だと思うこの気持ちはブラコンの現れか。自分を頼ってくれるのも真っ向から向き合ってくれるのも嬉しくて、背中を預け合うのが当然というか、俺が死ぬか伊智が飽くかするまでバディを組んでいくのだろうと思っていた。


 なのにそれはあの日に、一瞬でふいになってしまった。



 ――イタリア・エクリッシ大紛争――。


 

 裏側のみならず表側でも大いに騒がれ、マスメディアによって大層な名前をつけられた内部抗争は、ある市街地の広範囲を地獄に変えた。その火種は、ボスの情婦たちが起こした跡継ぎ争であった。


 我が子を次世代のボスに仕立て上げたい女たちの野心は、生半可なものではなかった。実質、正妻のマリアが圧倒的な権力を持ち、慕われてもいたが、彼女とボスの間に子がない――替わりに組織生まれの子すべてを我が子のように可愛がっていたが――のを良いことに、女たちは『子を産んだ私の方が立場が上だ』と主張して譲らなかった。


 馬鹿げている。そんな下らないマウントの取り合いで、俺たちは引き裂かれなければならなかったのか。今でもサラディーノの怒りや不満は消えない。実母や姉の影響でサラディーノは第二夫人のジュリエッタ派閥、伊智は第三夫人のカミラ派閥に組み込まれ、バディを組むことはおろか目を合わすことすら禁じられた。


《エクリッシ》は、無駄に女たちの結束が強い。愛憎渦巻き蹴落としあい、裏切りを許さないくせに出し抜くことに余念がない様は、サラディーノにとって不愉快極まりなかった。女たちに支配された筺の中で、マリア以外に飼われるなんて御免蒙る。いつか必ず叛逆して、女たちからの干渉を受けない世界を勝ち取ろう――そんな約束を交わす猶予もないまま隠しシェルターに押し込まれ、二人は永く分断されることとなる……。


 サラディーノはこの組織が好きではない。いつか伊智と抜けだそうと考えていたくらいで、マリア以外に忠誠心を感じたことがなかった。長く組織で暮らすあいだに、マリア以外の女共は、血を分けた家族であろうが利用し使い捨てるクズ揃いだと知ってしまったからだ。


 世界が大人の事情で大幅に左右されることも知っている。が、決して納得しているわけではない。俺たちは捨て駒などではない。命も意志も意地もある人間だ。こんな馬鹿げた対立の犠牲になってやるつもりは更々なくて、サラディーノは新勢力を作ってやろうという野心に燃えていた。


 第一夫人――真にボスの寵愛を受ける聖母マリアを擁立する派閥。愚かしい女共の野心を根こそぎ叩き潰す派閥。この状況を打破するにはそれしかなく、まずは伊智と合流して基盤をつくり、同士をかき集めてねじ伏せるつもりだった。


 どうするにしても、まずはマリアに相談――と立ち上がったところで急激な爆圧に圧され、軽いサラディーノの体は壁に叩きつけられた。殊更強い衝撃を受けた頭の中がキィィィンと鳴り、酷い痛みを伴って息が詰まる。


 他の勢力に隠しシェルターの場所がバレて、入り口を爆破されたことはすぐに分かった。けれど頭を打ったせいか、思うように体が動かず対処できない。痙攣する体を抑え込んで無理やり呼吸を整えながら室内の惨状を眺め、死にきれなかった者たちの呻き声と「殺さないで」「話が違う」と喚く女の金切り声を、呆然と聞くしかなかった。姦しく揉める声がしばらく続き、それが一発の銃声で締め括られる頃には意識も鮮明に近づき次第に状況が見えてくる。ひとつひとつを噛みしめ飲み下すたびに湧き上がるのは、憤怒と憎悪だった。


 事の顛末を要約するとこうだ。


 実家族の都合でジュリエッタ派閥になったものの、劣勢が続いて危機を感じている。生き残るには鞍替えが必要なので、寝返る条件として提示されたシェルターの位置を密告した。教えればカミラ派閥に籍を用意し、命も保証するという約束だった。


 しかしそんなに甘い話がこの組織にあるはずがなく、またそれを理解しない愚者を手元に置いておくなんてこともあるはずがない。何て馬鹿な。どうして俺の人生は、こうも女に邪魔をされるのか。振り回される自分自身への不甲斐なさを無理やり活力に変換して、足音と更なる人の気配を感じ取ったサラディーノは、反撃のために身構えた。


 真新しい瓦礫をしゃなしゃなと優雅に踏み降りてくる女たちが見える。それを睨みながらやっとの思いで上体を起こしたサラディーノの肩に手が触れた。深紅に彩られた長い爪が、視界の端に映っている。細く傷のひとつもない指が頬を撫でる。吐き気を催すほどの気持ち悪さに激情して、『触るな!』とはたき落とそうとした手まで握られてしまい、息が詰まった。



『活きの良い子。サラディーノ・ラヴィトラーニ、あなたのことはずっと見ていたわ。ずっと見ていて……欲しくて堪らなかった……』



 肩を離れた手が顎を掴み持ち上げ、強制的に見せられたのはケバい女の顔だった。第三夫人のカミラだ。化粧が濃いだけでなく香水もキツくて、傍にいるだけで吐き気が増した。


 カミラの熱視線には前から気付いていた。誘うように身を寄せられた事もあったが、微塵も興味が湧かず今の今までスルーし続けていたのだ。どうせそのうち飽きるだろうと思っていたが甘かった。恍惚の表情を浮かべたカミラはサラディーノの滑らかな頬を撫で、物憂げな切れ長の目を飾る長い睫に触れる。力なく開かれた瞼から覗く青い瞳は、宝石のように煌めいているくせに禍々しく濁っていた。そんな美しさの中に燻る狂気もまたカミラの気に入るところで、この襲撃もサラディーノ略奪のためと言っても過言ではない。



『本当にあなた、年々綺麗になっていくわね。もう十七だったかしら? ……でもあともう少しね。もう少し育てばもっと素敵な男になるわ……ねえ、サラ?』



 あなた、私の情夫になりなさいな。


 そう囁きながら唇に這わせた指が、無遠慮に腔内に侵入して舌を撫でた。不快感がぶわと全身に広がる。しかし抵抗する余力もない。せめて……と弱々しく抗い指に噛みつくたび、嬉しそうに、愛おしそうに笑うカミラが憎い。


 女なんかきらいだ。自分勝手で我が儘で、すぐに心変わりするし愚かだし、気に入る要素がどこにもない。目の前のケバい女がその筆頭だ。これから始まるだろう陵辱にクスクスと笑う女の声もウザかった。


 今に見ていろ。必ず鏖してやる。


 不快さと悔しさを募らせながら、今は――と耐えて観念する。今は刻ではない。機を見て必ず……と脱力した時のことだった。



『――――ァっ』



 腔内を愛撫し、口付けようとしていたカミラが覆い被さるように倒れ込む。その重みを受けたサラディーノも床に伏し、体が軋む痛みを感じている。しかしすぐに重さは消え、その代わりに呻き声と銃声が鳴り、次いで女たちの悲鳴が響いた。


『こんなところでくたばってんじゃねえ! 死ね!』



 首根っ子を引っ掴んで無理やり起こした人物が放った怒声は、どうにも幼い。いまいち気迫が足りない声でめちゃくちゃなことを言うのは間違いなく蔦野伊智で、手には血のついたナイフと煙の立ち上る拳銃が握られていた。傍らには、背中から血を流して悶えるカミラが転がっている。伊智が刺して蹴飛ばしたのだろう。



『なんでお前……こんな、』


『ジュリエッタ派閥を叩きに行くからって駆り出されたんだ。チャンスだと思った……女たちを殺してでも、俺はお前をここから連れ出したい。――サラ、マリアのとこに行こう。あんな女たちとシェルターで心中なんて、俺は死んでも御免だ』



 取り乱して男を呼びつける女たちを睨みながら、伊智は力なく座り込むサラディーノの胸に拳銃を押しつけた。それをどうにか受け取り、手にグリップを馴染ませると、不思議と頭が冴えてくる。全身打撲を負った体と衝撃波に眩む頭に鞭打って、深く大きく、息を吐く。


 こんな掃き溜めみてぇな筺、必ずブッ壊してやる。


 鉄パイプと短刀を握って矢面に立った伊智の背後を護るように立ち上がったサラディーノは、いつかの解放を夢見て、牙を剥く《同胞》に銃口を向けた。


 あの日の風景と今の状況はよく似ていて、過去と今とがリンクするような不思議な感覚だった。見上げた伊智の横顔は懐かしいのに、凜々しく大人びた雰囲気は未知のものだ。それでいて幼さの残る顔には無数の傷があり、それを数えては罪悪感が募る。きっとこれはあの日の傷だ。「辛い」の一言では済まない凄惨な目に遭ったのだという痕跡。込み上げる感情を飲み込んで事務的に「了解した」と返すと、伊智は見たこともない艶やかな表情でフッと笑うのだ。



「できもしねえことを『了解』なんて言うんじゃねえよ、バァカ」



 年を重ねて一際麗しくなったが、根本的な部分は変わらないでいてくれる兄貴分に安堵して、伊智は密やかに毒を吐く。


 サラディーノのことは、五年前に死んだと思っていた。それ以来、ただでさえ碌でもなかった人生から光が消えたようだった。暗く冷えた真冬を、永遠に彷徨っている感覚。可愛げも素直さもなく、生みの親からも疎まれていた自分を唯一拾い上げてくれたのがサラディーノで、 DNAよりも濃い縁で繋がっていた兄貴分の喪失は、伊智の精神を簡単に突き崩した。ぐしゃぐしゃになった遺体の山からサラディーノを捜す気にもなれず、どういう因果か現場に現れたヴィルナエに救い出されるまで泣き続けたものだ。


 運良く自分だけが生き残ってしまった。なぜ一緒に死ななかったのか。背中を預けようと思うのも預けさせてくれるのも彼以外いないのに。一人で生き残っても、意味なんかひとつもないのに……。


 この先、俺が死ぬかサラが飽くまでバディを組むものだと思っていたにも関わらず、心身共に弱り切っていたサラディーノに単独行動を強いたことに対する後悔は、五年のあいだ伊智を蝕んだ。


 このままではサラに呆れられてしまうと、過去から脱却するために《ドゥラークラーイ》の構成員になることを決めたが、どれだけヴィルナエに忠義を立てても伊智の冬は終わらなかった。一歩が踏み出せない。いつかの離別が怖かった。ならばいっそ始めなければいい……と心を閉ざしがちな人生だったが、それは主のヴィルナエに対してもそうだったのかもしれない。


 ヤンハイや勝也というお節介たちとの触れあいをさせられるうちに少しはマシになりつつあったのだが、薄暗闇に光が差したのは数時間前のこと。裏側で生きるには優しすぎる勝也以上に異質な頼子が、なんとサラディーノを知っているというのだ。それも、あの因縁の《ヴォルク》に所属しているのだという。前々から名を上げていた《必中の麗豹》がまさかアイツとは。


 ヴィルナエに付きっきりな勝也に替わり護衛を任されたのをいいことに、伊智は頼子を問い詰めた。お前の言うサラディーノとはどんな人物だ。容姿の特徴は? 性格は? 得意分野は? ……無遠慮な矢継ぎ早の質問だったが、頼子はそのどれにも律儀且つ丁寧に答えた。その純真無垢さは心配になるほどだったが、訊いてもいないのに話してくれた、サラディーノとの遣り取りの数々を聞けたのは有り難かった。端々に見える面倒見の良さに、あの頃のサラは健在か……と思うと安心して笑んでしまう。


「随分とヌルくなったもんだなぁ、サラ。あのときカミラに、牙まで抜かれちまったのかよ」



 安心ついでに嫌味まで言って、あの日のカミラのように、口に指をねじ込んだ。あれ以来すっかり女嫌いになったらしいサラには地雷だっただろうか。内心ヒヤヒヤしていたが、くすぐったそうに笑って甘噛みしてきた兄貴分に安堵した。よかった。俺に対するサラの感情は、五年前から変わっていないようだ――。



「……俺とお前は、今はもう敵だ」



 今までの和やかさとは一変した声で、伊智は唐突に切り出した。


「ああ、そうだ。うちのボスは、お前の主を狙っている。執拗なほどに」


「でも今は――今日だけは特別な日なんだ。目標が同じだからな。……一緒に鬼退治でもして遊ぼうぜ」



 そう言ってニヤと笑いながら、伊智は本来味方であるはずの《鬼》がいる方を指さした。そしてそのまま外を監視するかのように視線を滑らせながら、真新しい拳銃をサラディーノの掌に押しつけるのだ。


 その姿に息が詰まり、『鬼から賜った最新のヤツだ。お前なら使いこなせるだろ』などと言いながらスラリと日本刀を抜く伊智の後ろ姿に、サラディーノは思わず泣きそうになる。あの日の続きだ。当時は未成熟がすぎて大人たちに負けてしまったが、各々実績を積んできた今なら、或いは。



「È buono.(良いね)《鬼》を倒すまでは共闘しよう。後方支援は任せておけ」



 不敵に笑いあって拳を突き合わすと、これまでの余白が一気に埋まったようだった。長くも短くもあるブランクはあれど、上手くいく気しかしなかった。互いに「今度こそ勝つ」という強い意志を持って、外へ通ずる道を進む。


 一蓮托生。死なば諸共。


 あの《鬼》と再び対峙しなければならないと思うと身は竦んだが、死ぬか飽くまでの相方が傍にいるのだと思えば、不思議と心は晴れやかだった。もう何も怖くない。




               ※




 すっかり静まりかえった灰色の景色を背景に、イザーラ・ナーブは雪に埋もれたデザートイーグルを拾い上げる。拳銃による最後の一撃で的確に破壊されたそれを眺めて思うのは、邪魔をされた怒りや苛立ちだ。しかしそれ以上に関心もあって、高度な制御や精度の必要な射撃の腕前には、素直に感嘆していた。



(さすがはエクリッシの生き残り――と言ったところか)



 あの一撃も然ることながら、目視せずの狙撃も見事だった。一体どうしてあんな離れ業を成せたのだろう。《エクリッシ》での教育の賜か、それとも固体由来の才能に依るものなのか。考えれば考えるほどに興味深く、できることなら獲得したいと思っている。《エクリッシ》の連中は挙って気位が高いから、まあ難しいだろうけれど。



(それにしても伊智、君はいつからそんな悪い子になったんだい?)



 麗しき豹を仕留める既で、隙を突いて横取っていったのは伊智だった。まるで飼い犬に手を噛まれたような気分だ。そういえば最近は少し警戒されがちだったな……と思い出したイザーラは、まあそれもどうでも良いことかと思考を切り替えた。拠点内に逃げ込んだ二人の事は追わず、上手く籠絡する方法を考えながら、吹雪き始めた灰色の景色に溶けていく。

 

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