第6部 銃声、拡がる赤


 

 深い夜のこと。寒く薄暗い廊下で、大貫利也は人を待っていた。勝也でもヴィルナエでも頼子でもない待ち人が、この通路をよく利用しているのを知っている。人通りが少ないために明かりも暖房も点けられていないそこでは、仄かな月明かりだけが頼りだ。利也は闇に慣らした目で吐き出された白い息を見送りながら、刺すような寒さに脳が冴えていくのを感じていた。


 頼子には、ずっと入院していて欲しかった。体が弱いのは好都合だった。自由がない。物理的に拘束する必要がない。親が死んだのも好都合だった。必然的に自分たちを頼ってくれる。外では寂しいのを我慢して、自分たちの前だけで甘えてくれる。やや勝也の方に懐いているのが気がかりだし気に入らなかったが、あいつは俺の半身だから特別に許せる。大丈夫だ。


 そんな背景があるから、遠い北の大陸に渡っても理想郷は保たれるはずだった。なのに、余計なことをしてぶち壊してくれた大罪人がここにいる。不要な接点を増やし、敢えて断ち尽くした分岐点を復旧しやがったあいつのことは、五万回殺しても許しきれない。自分たちにしか見せなかった目をヴィルナエにも向けていた頼子を思い出し、利也は嫉妬で脳が焼き切れそうだった。



(頼子は悪くない。悪いのは、あいつだ)



 大きく息を吸って、冷えた空気を肺に取り込む。気管は痛んだが、自分の命より大事なものを不用意に弄られて激昂していた気持ちも一緒に冷えていく。今は不思議と穏やかな気持ちだった。



(必ず取り戻す……)



 グローブに収まった指先に、ついさっき触れた頼子の肌を思い出す。滑らかで柔い感触だった。それを思い出せば恍惚としたが、不特定多数が触れたのかと考えると腸が煮えかえる思いだった。頼子は俺の、俺だけのものだ。これは決定事項で、未来永劫変わらないし変えるつもりもない。そう思いながら利也はほとんど足音のしない気配を感じ取って、壁に預けていた背中をゆらりと離す。いま最も気に入らないかの人物が間近になったのを見計らって、利也は腰のホルダーに手を掛けた。



              ※



「どういうつもりかな?」


「それはこっちが聞きたいことだね」


 薄暗い廊下の真ん中で立ち往生を喰らったイザーラ・ナーブは、よく知った顔に銃口を向けられていた。いつも飄々としている二つの顔。同志であるはずのその一方が、確かな敵意と殺意をもって対峙している。これはトシヤだ。カツヤは、こんな《いい目》をしたことがない。あの男はこの世界で生きるには優しく、温厚すぎる生き物だった。そのうえ情が移りやすいという致命的な欠点もある。同じ組織に所属する者に刃を向ける可能性は無きに等しかったが、片割れたる利也は違っていた。確固たる自分の世界を持っており、それを壊されることを極端に嫌っている彼は牙を剥くのに抵抗がない。そこにはある種の共鳴を感じており、イザーラはこの男のことをなかなかに気に入っていた。



「なぜ頼子をここへ連れてきた。俺が納得できる答えを聞かせて貰おうか」



 様々なマイナスの感情が入り交じり、能面のようでも般若のようでもある青白い顔で利也は問う。瞬きすら忘れ、見開かれたアーモンド型の端正な目は、怒りと嫉妬で濁っていた。


 頼子は俺のものだ。それは彼女が生まれたときから決まっている。同じ兄弟の勝也ならまあ許せるが、他の誰かに触れられるのは言うまでもなく、少しでも人目に触れることすら嫌でしょうがなかった。俺だけを見て、俺だけに頼って欲しい。ずっと昔からそう思っている。


 本当は医師や看護師らが触れるのも嫌だったが、困ったことにそれなしでは頼子は生きられない。だから利也は医師を目指したこともあったが、早くに両親を亡くし、保証人になってくれる親族もいない大貫家の経済力では、大学進学など夢のまた夢であった。だからこそ利也は《ドゥラークラーイ》に関わることを決めたのだ。


 勝也は友人となったヴィルナエの手助けのために所属を決めたそうだが、俺は違う。ここで実績をつくって力や金を手に入れて、医師から直接、頼子のほどよい治療法を教示頂くのが目的だった。完治させる気なんて更々ない。入院なんていう合法的で合理的な軟禁状態を、みすみす手放すなんてそんな馬鹿な。世界を手に入れることもヴィルナエのこともどうでもよくて、頼子を真に自分だけのものにすることが、利也自身の至高の理想だった。



『頼子に彼氏ができたらどうするんだ、お前』



 以前、勝也にそう言われたことがある。あまりに妹を溺愛して執着するもんだから、色々と危惧して言ったのだろう。そして抑制の意も込められていたのだろうが、そんなもの愚問だ、としか言いようがない。なぜなら、そんな日は永遠に訪れないからだ。


 一点の穢れもない、何色にも染まらない白。寂しがりで、怖がりで、それなのに負けず嫌いで世間知らずなあの子を守るのは俺だ。触れるのも抱くのも、俺だけの……。



「なぜって。あれがヴィルナエ気に入りの姫だからさ。主が欲するものを工面して献上するのが、従者の勤めというものだろう」



 当たり前だとでも言いたげに平然というイザーラのことは、一周回って平坦な気持ちで見ている。目眩も感じているあたり、きっと頭に血が上りすぎているのだろう。怒りの度量を超えて穏やかな表情をしている利也は、イザーラのことは考えないことにした。相容れない、理解しがたい意見は無視するに限る。こちらもあちらも譲る気が全くないのだから、ぶつかり合ったって時間の無駄だ。


 悪いのは誰だ。利也はただ、そればかりを考えている。頼子を閉じ込めておけなかった己の甘さや不甲斐なさのせいか、主のためなら手段を選ばないイザーラの冷徹さのせいか、頼子を求めたヴィルナエの欲深さのせいか。主原因として考えられるものを列挙してみたが、その時点で思考は放棄した。どうでもいいのだそんなものは。それより大事なのはこれからだ。頼子を奪い返して、頼子に近づくもの全てをこの手で排除するのが俺の役目――



「――――――っ」



 頼子を好いてるヴィルナエは邪魔だなあ……と考えながら、引き金にかけた指を僅かに動かした瞬間のことだった。ドン、と耳を劈く破裂音に次いで、これまで感じたことがない衝撃を全身に受けている。一瞬でバキバキと骨を折り、強引に抉られて大穴を開けた胸を起点として否応なく重心移動させられた体は、大きく仰け反って後頭部から床に落ちる。コマ送りの要領で天井に向かって流れる視界の中に見たのは、上――正確な方位なんて判断できない――に向かって飛び散る赤だ。しぶく赤の向こう側では、砲煙を纏わせた愛銃・デザートイーグルを構えたイザーラの深く冷たい目が嗤っている……。



「残念だ。残念だよトシヤ。君なら私の気持ちを、よくわかってくれると思ったんだけどな」



 他のなにも聞こえないのに、イザーラの声だけはよく響いた。斃れて指先一つ動かせない利也の傍に跪き、わざわざ顔を覗き込んで言う《彼》が憎らしい。ニヤと笑ったまま頬や唇を撫でてくる手も払えず、最期の最後に行き場のない苛立ちを募らすことになった利也は、吐けるだけの空気を吐き出して観念する。


――ああ、わかるさ。わかるとも。大事なもののためなら手段を選ばない心理も、それ以外は何もいらない気持ちも、嫌というほどよくわかる。だから俺はお前が嫌いなんだと言いたくても、呼吸のひとつもできなくなった体では叶わない。ずっと嫌いだった。初めて会ったときからずっと。伊智は慕っていたし勝也は苦手意識を持って萎縮していたが、利也はすぐに『相容れない相手だ』と認識しており、特に理由はないが気に入らないと思っていた。


 間違いなく同族嫌悪で、イザーラの行動自体は理解していたし納得もしていた。頼子に近づくものを排斥してきた自分と同じように、ヴィルナエに仇成すものを討ったまでのこと。お前は俺かよ……と自嘲気味に薄く笑んだのを最後に、利也の意識は呆気なく闇に沈む。今際に見たのが柔く細められたイザーラの目なのが残念だ。どうせなら、頼子の泣き顔がよかった。




              ※




 寒く薄暗い廊下の影に身を潜めた蔦野伊智は、一連の惨事を傍観していた。「勝利の様子がおかしい」と言い張り、できもしない尾行に付き合わされた結果に鉢合わせた現場だ。絶叫手前のヤンハイを押さえ込みながら聞いた銃声も、薬莢が炸裂する衝撃波もなかなかにエグかった。サプレッサをつけてもアレなのだから、きっと《彼》お得意のデザートイーグルかS&W M500を、この狭い空間で使ったのだろう。



(なんて人だよ……)



 イザーラがこの《ドゥラークラーイ》で群を抜いて苛烈な人物であるということは、はじめから知っていた。所謂サイコパスの素因が非常に強い危険人物であり、特にヴィルナエ絡みの事柄に対しては酷く歪んでいる、という印象が拭えないまま数年が経った。それでも屈服するのに抵抗がなかったのは、他の追随を許さぬ強さに憧れたからだ――こちら側の世界は、力がすべてだ――。


 こんな人物だから、近頃の利也の態度には危機感を覚えていた。イザーラほどではないが、利也もまた異質な人物だった。ヴィルナエを心から崇拝することも、イザーラを恐れることもない。だから簡単に《彼》独自の掟に抵触するから、何らかの処罰を受けることにはなるだろうと思っていた。


 思っていたが、まさかこんな、最悪の事態に発展させるなんて思わなかった。中枢構成員同士が討ち合うなんてあってはならないし、それが利也とイザーラの組み合せであるのが予想外で、伊智はもうすっかり混乱している。


 伊智は、彼らの関係が特別なものだと思っていた。世間一般で言うところの「友達以上恋人未満」の間柄で、言葉がなくとも通じ合っているというか理解し合っているというか、そんな妙な空気感が二人のあいだにあったのだ。手を取り合うことはなく、寧ろ背を向け合うことが多い印象ではあったけれど。



(あの二人は、似たもの同士だったんだ)



 数時間前に見た、妹に対する利也の劣情を孕んだ目を思い出す。そこにヴィルナエに対するイザーラの歪んだ感情がダブって、波長が合うからといって同調するわけではない、ということを見せつけられた気分だった。人間の面倒くささには、改めて辟易している。


 それはまあそれとして、これは由々しき事態になってしまったと焦っていた。勝手に《ドゥラークラーイ》の名を騙っているような末端を始末することは何度もあったが、組織本来の目的を共有する中枢構成員同士での殺し合いがあったなんて知れたら、不安定な組織が更に不安定になるに決まっている。いま自分の腕の中で震えているヤンハイのように死の覚悟を決めきれていない奴らが騒ぐに違いなく、そうなれば、イザーラが独断で粛正を決行する可能性が非常に高まってしまう。最悪だ、そんなの。



「……そうか、そういうことだったのか……」



 利也の遺体を一瞥して遠ざかる《彼》の気配を確かめて、伊智は独りごちる。

《ドゥラークラーイ》――愚者の楽園。既存の世界では生きづらい愚者たちが、理想の世界を確保するための土台。無力な我々が、戦う力を手に入れるための救済所。そう謳っていたはずの組織はその実、ただ一人の愚者――イザーラ・ナーブだけの理想の礎に成り果ててしまった……。



(やはり俺は間違えたのだ)



 伊智はあのとき、ダグラス宛の親書を渡してしまったことを後悔している。あれには何が書いてあったんだろう。なにか不都合なことが書いてあったと見受けられる親書は、イザーラの天敵である《狼椿》から届いたものだった。もしかしたらヴィルナエを救済してくれる何かが書いてあったのかもしれない……と思っても、すでに燃えてなくなってしまったのだから確認のしようがない。



「ヤンハイ」



 半泣き状態のヤンハイをぎゅうと抱きしめて、耳元で柔く囁く。



「ダグラスに、このことを伝えてくれ。……できるな?」



 どうにか呻くように返事をした彼女は大きく頷き、立ち上がって廊下を駆ける。薄暗闇に溶けていった後姿を見送ったあと、伊智は迫り上がってくる言い知れない恐怖心と戦っていた。


 あの人は危険だ。そう思っていたのに、俺はどうして《彼》に憧れ、不穏な行動を静観していたのだろう。徐に立ち上がって見下ろした利也が、前の組織で散々に見てきた遺体と被る。それで急激に怖くなって、拳を固く握りしめた。唯一本心をさらけ出せる兄貴分は、五年前からもういない。



              ※



「――――――ァッ」 



 あまりの衝撃に息が止まる。勝也が抉るような痛みを胸に感じたのと、ビリビリと大気を震わす重い破裂音を聞いたのはほぼ同時だった。


 一瞬気を失っていたのかもしれない。脂汗を流しながら床に崩れ落ちた勝也は、じわじわとしか引いていかない痛みと戦っている。頼子はいつもこれを耐えているのだろうか。なかなか良い経験をさせて貰ったな……なんて考えながら、前後不覚に陥って蹲っている。



「……としや……」



 ついさっきまで対話していたはずのダグラスに介抱されながら、思わず呟いたのは片割れの名前だ。ほとんど無意識だった。ダグラスに「利也がどうしたんだ」と訪ねられて気付き、どうして呼んだのだろう――? と考えてみるが散漫でどうにも纏まらない。もしかしたら利也になにかあって、その痛みを共有しているのかもしれない。だって俺たち双子だし……などと調子外れなことを考えながら、ギリギリ保った意識でばたばたと賑やかな足音を聞いていた。



道格拉斯ダグラス……道格拉斯……!」



 状況確認のために銃声の方角へと向かう末端たちに逆らって、ひとり駆け込んできたのはヤンハイだった。この組織で共用言語としているロシア語でも英語でもない母国語が衝いて出ているあたり、よほど切迫しているのだろう。声もかなり上擦っており、心神耗弱気味な顔をして床にへたり込んでしまった。



「ヤンハイ、何があった? この銃声は一体、」


「胜利是……在伊萨尔……啊……っ(勝利ションリーが……イザーラに……ああ……っ)」



 完全に取り乱してしまったヤンハイに落ち着きはなく、言うことも要領を得ない。この状況を鑑みるに、『あの銃声の原因はイザーラで、それによって利也に良くないことが起きた』ということなのだろう。「落ち着いて、もう少しだけ詳しく聞かせてくれ」と宥めると少しはマシになったが、床に頽れてぐったりしている勝也を見てしまったヤンハイは、またも怯えたように取り乱してしまうのだった。



「なんで? なんでこっちの勝利も死んじゃうの……?!」



 嫌だよ、と泣きながら勝也に縋ったヤンハイの言葉に、ダグラスは息を呑む。こっちの勝利も、ということは、もう一人の勝利は死んでしまったということか? もしそれが本当なら、この組織は最悪の進路を選んでしまったことになる……。



「ヤンハイ、利也は……もう一人の勝利は、イザーラにやられたのか?」


「そ、そうだよ……イザーラに撃たれて、心臓がなくなって……血がいっぱい出たまま動かないの。イチも一緒に見てて、ダグラスに伝えてこいって……。ねえ、どうしよう。家族同士で殺しあうなんて、私イヤだよ……」



 とうとう泣き出してしまったヤンハイを宥めるダグラスを、勝也は朦朧とした意識で見ている。 利也が死んだ。心臓を抉り取られて。じゃあ、この胸の痛みは――あいつが――。勝也は今得た事実を反芻しながら、万全ではない体に鞭打ってゆらりと立ち上がった。

「! 勝也!」

 ダグラスの呼びかけにも応じず、勝也は部屋を飛び出して廊下を駆ける。胸が、脳がモヤモヤする。この靄を晴らすためには、なにがなんでも現場をこの目で確認するしかないと思った。



              ※



 あの音は何だったんだろう。


 何かが爆発したような大きな音に飛び起きた頼子は、そろりと扉を開けて顔を覗かせる。あの怖い雰囲気を醸していた、顔に傷のある――確か「イチ」と呼ばれていた男に『勝手に出歩くな』と念押されていたが、この非常時には当て嵌まらない言い付けだろう。たぶん。


 不安で竦む足に鞭打って、重たい一歩を踏み出す。向かったのは音がした方だ。何も被害はないのだと、ヴィルナエもニーナもみんな無傷でいるのだと確かめたかった。


 結果がその逆でも構わないから、この目で現実を見つめておきたかった。四年前は駄目だった。あの事故では意識を飛ばしてしまって、当事者であるにも関わらず、なにも分からないままベッドで目を覚ました。両親は即死だったそうだが、その瞬間を見ていない頼子は、未だにそれを信じていない。実感がないのだ。発作のせいで二人の葬儀にも出席できなかったし、遺骨を目の前に突き出されても『決定的な瞬間を見ていない』というだけの理由で、今でもどこかで生きているものと思っていた。 そのせいで兄たちに大変な苦労をさせてきたのだから真実以外の何ものでもないのに、まだ生きているような口ぶりで話す自分の姿は彼らにどう映っただろう。きっと腹立たしかったに違いない。それ以降、勝也は苦笑ばかりするようになったし、利也もときおり憎々しげな顔を見せていたことを頼子はよく覚えている。



「――――――っ」



 歩を進めるたび、慣れない臭いが鼻を衝いた。嫌な臭いだ。腥さとか焦げたような炭臭さとか、色々と混じり合って気分が悪い。まさかこの先に変死体でもあるのではないか、とはらはらしながら闇を進むと、床に何かが落ちているのが見えた。暗くてよく見えなくて、あれは何だろう? という好奇心が胸を占める。怖いもの見たさだ。喧騒を遠くに感じながら、頼子は浮ついた気持ちで一歩、また一歩と足を踏み出す。心臓が跳ねて少し息苦しかったが、これくらいなら大丈夫だ……。



「これ以上はやめておけ」


「うわっ……!」



 急に聞こえた間近の声に驚いて、思わず悲鳴じみた声を挙げてしまう。どこにいるのか分からなくてきょろきょろしていると、「お前の左側、斜め下」という指示が飛んできた。その通りの場所を見ると、顔に幾つもの傷がある、色素の薄い青年が座り込んでいる。『イチ』と呼ばれていた人だ。気付かなかった……と強か驚くと同時に、抑揚なく「愚図」と言われてしまった。返す言葉もない。



「心臓の弱いお前が耐えられる代物じゃねえ。早く戻――――おい、聞いてんのか?!」



 伊智の警告よりも好奇心が勝って、一度止めた足を更に進める。慌てた伊智に羽交い締められるよりも先に、ピチャ……と液体を踏む感触を靴底に感じて本能的に動きを止めた。スッと一気に脳が冷えて、ゆっくり落とした視界の中で、横たわる人の足を見ている。伊智の手に目を覆われる前に見た全体像には覚えがあった。ないわけがない。この人は、私の――。



「――――頼子……っ!」



 目を塞がれたまま呆然と聞いた声は、息も絶え絶えだった。勝兄、と呟くと同時に伊智に手放され、しっかりと捉えた兄の腕の中に滑り込む。その存在を確かめるように縋った勝也の胸は、自分と同じくらいに激しく跳ねていた。



「勝兄……なんで……利兄はなんで……?」


 床を汚す液体に浸され斃れていたのは、間違いなく利也だった。胸のあたりが真っ黒で、ただ寝ているだけじゃないことくらい愚図な自分にもよくわかる。でもどうして味方ばかりのこの場所で利也が『殺されて』いるのか、それだけは分からなかった。


 啜り泣く頼子の背を撫でながら、勝也は口を噤んでいた。何も言えなかった。『お前を大事に思うあまりに楯突いて殺された』なんてそんなの、己を責めがちな頼子に言えるはずがない。


 利也は、イザーラが決めたイザーラ独自の《鉄の掟》を破ったのだろう。ヤンハイも言っていたし、胸の大穴から見ても間違いないと思う。片割れの惨状を一瞥して、珍しく苦々しい顔をしている伊智に『掟か』と口の動きだけで確かめると、痛ましげに小さく頷いた。彼もまた、ひどく傷ついているように見えた。



「大貫……お前たちにも聞いて欲しいことがある。俺に時間をくれ」



 威圧感と冷徹に満ちた、《殺戮の番犬》の面影はどこにもない。初めて年相応の素顔を見られた気がしているのだが、状況のせいで素直に喜べない。苦々しい顔で見詰める、十九歳の蔦野伊智に頷き返して、頼子を伴って彼に続いた。行き先は分かっている。もはや唯一の良心となった、ダグラス・フーカーのもとだ。



             ※



 何がどうなってこうなったのか、ヴィルナエには分からない。


 大気を震わす衝撃波を肌に感じ取ったのは、ローズマリーと《ドゥラークラーイ》の今後について話し合っていたときのことだ。彼女と、彼女の護衛たちを振り切って辿り着いたそこには、死後間もない遺体がひとつ。異様な腥さを放つ赤黒い液体に浸っていたのは、嘗て大貫利也だったものの残骸だ。


 本来ならば一般人として生きるはずだったこの青年は、私が声を掛けさえしなければ奪われなかった命だっただろう。そう思うと、膨大な質量の罪悪感がヴィルナエを苛んだ。薄く開いた瞼から覗く瞳はすでに濁りはじめており、恨めしそうに天井を睨んでいる。胸に空いた大穴は乾き、砕かれた肋骨と肺の断面がよく見えた。当然そこに心臓はなく、触れた頬は人肌とは思えないほどに冷たかった。その温度に、彼がもうこの世のものではないと思い知らされる。


 出会い連れ添って、およそ一年。ヴィルナエにしては長い時間を共有した友人を亡くした喪失感は、思いのほか強烈だった。ただただ哀しくて、もう何年ぶりかも分からない涙がぶわと溢れた。



「Зачем... Каком ужас...(どうしてこんな……)」


「Верное. Вы ни вчём не виноваты.(ヴィルナエ、貴女はなにも悪くないのよ)」



 両手で顔を覆い、その場で泣き崩れたヴィルナエを、ローズマリーが抱いて宥めている。その声が彼女には届かないと分かっていても、慰めずにはいられなかった。


 ローズマリーはヴィルナエが幼児だった頃から知っているが、ほとんど泣かない子だったと記憶している。度を超して我慢強いこの子の泣き顔を初めて見たのは、《ドゥラークラーイ》以前に所属していた組織から逃げ出したときのことだ。号泣しながら「こんなの嫌だ」と繰り返していた頃の『プロキオ』と、罪悪感で悶え悲しむ『ヴィルナエ』がダブって見える。そう思うと居ても立ってもいられなくて、彼女の肩を抱いて寄り添った。



「Мне нужно наказыватъ свинъя... Кунихиро, Йоджи. (悪い子にはお仕置きしなきゃね……國弘、洋司)」


「Да.(承知)」



 抑揚なく冷えた声で命令を下し、こちらを一瞥したローズマリーの目は静かな怒りを湛えていた。普段の人当たりの良さは窺えず、その変わりように二人して密かに萎縮している。踵を返して行動を開始し、彼女らが確実に見えなくなったあたりで互いに顔を見合わせ、「やれやれ」と苦笑する。普段は朗らかで緩いが、怒らせると怖い《蛇姫》のお遣いは必ず果たさなければならず、目をつけられてしまった二人のことを思うと哀れみさえ感じるものだ。必要以上の犠牲を生まないために、不可欠な大役を任されてしまった洋司と國弘は、利也の遺体を少しだけ思い出してすぐに掻き消した。


 過去に縛られてはいけない。去ったそれらは、既に要らなくなったガラクタばかりだ。

 近い未来に狩らなければならない鬼と狼だけに意識を向けて、蛇の御遣いである二匹の蜥蜴は闇夜へ消える。



              ※



 剣呑な雰囲気で、狼と狐が対峙している。


 どうにも意見が食い違って、どちらも譲らぬ平行線を辿っているらしい。激しい口論や暴力はないものの、痛いくらいに肌に突き刺さる殺気を撒き散らしながら睨みあう安宿と緋多岐は、今にも刺し違えそうな雰囲気を醸していた。



「軽率な行動は控えろ。こちらが不利になるような行動をされては困る」


「だからってこんなところで大人しくして、それでどうなるって言うの? 貴方もだいぶヌルくなったものね」



 こうして二言、三言交わしては黙るの繰り返しで、静かな抗争も却って恐ろしいものだとあゆみは思い知る。どうやら頼子奪還の作戦方針が合致しないようだ。慎重に進めたい安宿に反して、緋多岐は早急な奪還をと主張して譲らない。意見を変えないなら単独行動に移るという強情っぷりで、構成員を困らせていた。



「俺はボスに同意ですね。相手の手の内が不明瞭なうちに突撃するなんて馬鹿げている。やるなら《ヴォルク》を脱退してからにして下さい。勿論、我々とは無関係だという証明書を作成してからです」


「……あんたも随分カタくなったのね」


「別に。俺のボスはアスカさんなんで当然ですね」



 棘だらけの声で批難し、反論したのはサラディーノだ。彼を拾ったのは緋多岐だったが育てたのは安宿だし、彼が信頼を寄せているのもまた安宿だった。


 サラディーノはあまり人に心を開かない男だったが、殊更に緋多岐には警戒を解かなかった。


 それは彼が女を苦手とし、嫌っているからというのも理由に挙げられるが、一番の原因は緋多岐の性質にあった。


 若宮緋多岐は残忍だ。そのくせ無邪気で且つ気紛れという、実に厄介な人物であった。


 安宿は昔を思い出す。緋多岐とは寿晴と同じ初等部からの付き合いになるが、まだ表の世界で生きていた頃から、その異常性を発揮していた。初めて会ったのは猫の解体現場だった。品位漂う学校の敷地内で、黙々と小さな体を捌く姿は衝撃だった。養父に引き取られる以前の組織で見慣れてはいたが、ここも裏側と繋がっているのか……? と幼い安宿は戸惑ったものだ。それから今に至るまで、緋多岐は少しも変わっていない。何の躊躇いもなく残虐行為を繰り返し、他人の《赤》に染まっては悦に入る。だからこそ理性で己を律し、効率最重視の行動を好むサラディーノと相容れないのだろうと安宿は思っていた。



「心配しなくても大丈夫よ。あなたの大好きな子猫ちゃんには何もしないわ。向こうが大人しくしてればの話だけど」


「そんな心配はしていない」


「問題はそこじゃない。勝手なことをして、うちと《ドゥラークラーイ》の均衡を崩すような真似は、」


「先に崩したのはあっちでしょ」



 寿晴は黙ってて、とでも言いたげな緋多岐の声は、珍しく剣呑だった。



「あの子が私の知らない誰かに触れられてるっていうのが気に食わないの。理由なんかそれだけで十分。私だって、早くあの子を取り戻したいんだから」



 不機嫌そうに呟きながら退室する彼女の背中を、軽蔑混じりの青い目が見送っている。こういう身勝手さがあるから女は嫌いなんだと内心で毒づいたサラディーノは、嫌悪感を隠しもせずに安宿に向き直った。



「如何なさいますか、ボス。期日まではあと三十八時間ありますが、新たに《遣い》を出しますか」


「いや……まだ待とう。攻め込むならきっちり三十八時間後だ。期日は守る。我々は彼らのような過激派ではない」


「――承知しました」



 まあ、もう説得力なんかないがな、と自嘲する安宿を、サラディーノと寿晴が身を案じるように見ている。その様を、物憂げに見守っているのが篠塚あゆみだった。


 不安だ。ここに至るまではそれなりに円滑だったのに、局面に近づいてからは空気がひどくヒリついている。


 大貫頼子奪還にあたり、《ヴォルク》を名乗る有限会社から独立して、安宿を中心に新たな組織を設立したがまだ間もない。安宿、寿晴、緋多岐、サラディーノとあゆみというよく慣れた五人だけの組織で、人員や関係には大きな変化がないにも関わらず、幾らかの大きな問題を抱えていた。


 どういうわけか、統率が取れていないのだ。正確に言えば「緋多岐に手を焼いている」、と言うのが現状だった。もともと奔放な人ではあったが、本家《ヴォルク》から独立してからはそれが加速している気がする。今日だって勝手に《ドゥラークラーイ》本拠地を襲撃しようとしていたし、以前に比べて感情的になっているのは間違いないだろう。そこから関係に歪が生じて、緋多岐が孤立している状態にあった。


 ある程度は和やかだった《ヴォルク》を知っている分、この空気感が居たたまれない。あゆみはどうにかしてこの緊張を和らげたいと思っていたのだけれど、《ヴォルク》の詳しい内情や、会話の端々に見え隠れする前身組織のことを知らないから口を挟めない。軽率に首を突っ込めない内輪の強固な結束力も感じ取っており、新参者のあゆみは大人しく銃器の最終チェックをするしかなかった。


 このギスギスした空気には、いつまで経っても慣れることがない。現場の空気は幾ら悪くても構わないが、拠点の空気は――せめて仲間内の空気だけは和やかであって欲しいと思う私は甘いのだろうか。あゆみはいつも思い悩む。近頃になってようやく正面から向き合ってくれるようになったサラディーノには、『甘すぎる、やり直せ』と怒られてしまいそうだ――なにをやり直すのかは全くの謎だが――。



(どうか期日内に返答を貰えますように……)



 今はただ、それを願うしかない。否応に関係なく、返事さえ貰えれば身の振り方を考えられる。こんな不安定な状態でもだもだする必要もなくて、今よりもっとマシな気持ちでいられるはずだった。


 頼子を取り戻したいという気持ちに変わりはないが、別に相手を殲滅してやりたいなんて思っていない。滞りなく交渉を終えられること、そして大貫兄弟が無事に生還することを祈り、目を閉じて小さく息を吐く。その直後に背後から肩を叩かれ、あゆみは静かに瞼を開いた。



              ※



 賑わう繁華街を、ひとり音もなくすり抜ける。


 灰色だ。本当はもっと色鮮やかなのかもしれなかったが、《彼》には――イザーラ・ナーブにはひどく味気ないモノクロームに見えた。なんだか侘しいような物悲しいような気もするが、ただ単に興味がないだけかもしれない。


 その興味も味気もない街になぜいるのかと言えば、工作活動のためだと答えは決まっている。そうでなければこんなところ、好き好んで来るものか。あの憎き《狼》は、ここを最後の戦場にしようと決めたようだ。あのダグラス宛の便りには、それを匂わす文面が綴られていた。


――こちらからの要求は、民間人である大貫頼子の返還である。


――返答の期限は五日間であり、これを超えた沈黙は交渉決裂とみなす


――交渉に応じるなら《ドゥラークラーイ》には手出ししないが、決裂ならば徹底的な破壊を望む


 確かこんな感じだったと思う。あまり興味がなくて詳細は覚えていないが、なんだろうがどうでもいいことだ。できるものならやるがいい。あの娘を返せだと? なにを馬鹿な。あれはヴィルナエのものなんだから、返せだなんて可笑しな話だ。


 しかしまあ、あちらがその気ならこちらにもやりようがある。《狼》の捕縛および処分の手立ては既にできているのだ。ヴィルナエの手を煩わすこともない。



(狼風情に、彼女を渡してなるものか……)



 イザーラは、ヴィルナエによく似た灰色の瞳を思い出して闇を睨む。あの狼のかしらは、何より邪魔な存在だった。昔馴染みだか何だか知らないが、事あるごとにヴィルナエに会いたがるから、そのたび妨害して追い払うのには骨が折れた。こんなに苦労しているのに、会いたがらなかったヴィルナエも、最近になって対話も視野に入れ始めているようだ。何度も接触を図るミワと不穏因子のダグラス、そして新参者の勝也のせいだ。


 邪魔だ。何もかも。悲願を遂げるには彼女が不可欠なのに、みんな挙って引き離したがる。この局面に来て狂いはじめた計画に、イザーラはひどく苛ついていた。


 ふいに、灰色の街に目を向ける。全てが違う。この刺すような寒さも白さも文化も宗教も、何もかもが故郷と違う。どうして棄てたはずの出来事を思い出すのだろう。感情がブレているからか? 思い出したくもない昔が蘇って、侵入した裏路地の壁に背を預けて大きく息を吐く。



 既存の世界は、どうにも生きづらい。イザーラは昔からそう思っていた。


 生まれはここより遙か南東の、中東アジアの砂漠付近だ。敬虔な啓典教徒たちが多く住まう地域の或る集落に、イザーラ・ナーブは長の娘として生を受けた。


 なにひとつ不自由のない生活だったはずなのに、ひどく窮屈な毎日だった。不自由ないのは金や食料などの物理的なものであり、精神的には何一つ満たされない。一番の問題は宗教だ。ただひとりの神様に全てを委ね信じ、身を捧げるという教えに、イザーラは終ぞ傾心することができなかった。浮いている自覚はあったし、後ろめたさも勿論あった。なんせ私は長の娘だ。それが戒律を破り道を外れるということは、父の面を汚すということ。長としての威厳と信頼を、失墜させてしまうということ……。


 それでも自分のことは自分で決めたかったし、自由な服装で自由に出歩きたかった。みだりに肌を見せてはいけないのも、男性の目を避けて生活しなければならないのも、全ては弱者たる女子供を守るためだとは知っていた。でも、納得はできなかった。なぜ体のつくりだけでこんなにも扱いが違うのか。なぜ神は私を女にお作りになったのか。そう問うことも罪になる文化に不満しかないイザーラが、外の暮らしに目を向けるのは必然だった。他の宗教圏内に住まう人たちのように、自分のことは自分で選びたかったし決めたかった。信じる神も、結婚相手も。



『イザーラ……お前、自分がなにをしているのか分かっているのか……!』



 地を裂くような父の怒号は、今でもよく覚えている。何度も何度も鞭で打たれた皮膚が裂ける痛みも、募りに募った不平不満が爆発する感覚も、未だに心の片隅に残っている。あんなもの、忘れられるはずがない。



『模範であるべきお前が戒律を破り……姦通の罪まで……! 儂だけでなく神まで裏切るなど……なんと愚かな……』



 鞭を握りしめて嘆く父の顔は、あまり覚えていない。そもそも素の彼がどのような人物だったか、イザーラはよく知らなかったし興味もなかった。なにを言われようと肯定的な態度を取らなければならない相手の素なんて、知ったところで意味がない。


 自分が愚かであるという自覚はあったが、父の怒りはイザーラには届いていなかった。家同士が勝手に決めた許嫁ではなく、他の男を選んだ。ただそれだけの事の何が悪い。自分の頭でしっかり考えて決め、しっかりとした未来図を持つ彼の方が、段違いで魅力的だった。いるかどうかも分からない神様に全てを丸投げする幼馴染みの男なんて願い下げだ。


 実際に彼はとても好い青年だった。彼――マリウス・ヒューゲルは、風土研究のために集落に滞在していた学者で、金髪碧眼の美丈夫であった。


 初めてマリウスに会ったのは、彼が長の家に挨拶に来たときだ。はじめは興味本位だった。遠い欧州の暮らしが知りたくて、人目を盗んでイザーラから接触を図った。彼も少し驚いていたけれどすぐに受け止め、いろいろな話を聞かせてくれた。欧州圏の文化や流行のこと、世界各地の風俗、マリウス自身のこと。知識が豊富なのは勿論のこと、女の自分と対等な態度で接してくれることも新鮮で、とにかく全てが好かった。恋情を抱いたのもイザーラにとってはごく自然なことだったし、彼も気丈なイザーラをすぐに気に入って特別な関係になった。姦通だって合意の上だ、なんの問題もない。


 しかし父はそれが大変気に入らないらしく、体裁がどうだ、神がどうだと喚き散らしている。また神か。いい加減に辟易する。駆け落ちの気配を嗅ぎ取ってイザーラを捕まえ隔離し、戒律に則った処罰を下している父の顔は蒼白だった。なにを考えているのかは知らない。なにも考えていないのかも知れない。


 本当は今日の深夜に駆け落ちを決行する予定だったが、マリウスと落ち合う前で本当に良かったとイザーラは思っていた。この場合、彼はまず間違いなく死刑になってしまう。自身は破門だけで済むことになっているが、状況を考えれば死刑もあり得るだろう。しかしそれならそれでいい。彼さえ生きて逃げ果せてくれれば、それ以上望むことは何もない――。



『イザーラ……!』



 沈みこむ意識の中で聞いた声にハッとして、切迫した気持ちで顔を上げる。バチンと無理やり呼び戻した意識が鮮明になる頃には、最悪の事態が眼前に広がっていた。


 追っ手、見張り入り交じりで取り押さえようとするのを振り切って駆け寄ってきたのはマリウスだ。父が怒鳴るのも殴打するのも物ともせず、愛おしそうに抱きしめてくるのには涙が出た。芽生えている心情は、愛情と絶望の二つだ。温かさに安堵する一方で、絶えてしまった未来を嘆いている。どうして来てしまったの。一人だけでも逃げてくれればよかったのに。いや、彼はそういう人か。だからこそ私は惹かれたのだ――。


 貴方だけでも、どうか。そう言いたいのに声は出ず、掠れた息が漏れるだけだ。それでマリウスも察したらしく、痛みを堪えながら少しだけ体を離して微笑む。手の甲で頬を撫でながら何かを言いかけたが、それは終ぞ聞けなかった。彼が口を開くと同時に、ゴツンと額と額がぶつかって目の前が白む。ぐしゃりと潰れる嫌な音がして、二・三度ほど痙攣したかと思えばぐらりと傾いで頽れた。そのまま凭れかかったマリウスの後頭部は歪だ。艶やかな金髪からは赤を滴らせており、もう息をしていなかった。



『……あぁ…………』



 誰かが振り下ろした会心の一撃に、マリウスの頭は割られたのだ。即死だった。声が震える。ある程度は覚悟していたはずなのに、目の前で、すぐ傍で、最愛の男が息絶えるのは耐えがたかった。死んだマリウスに組み敷かれて力なく泣くイザーラを、みんなが冷たく見下ろしている。



『この期に及んで、お前たちは……!』



 こんな時にまで想い合うのに腹を立てている父の言葉は、やはり受け入れがたかった。


 何が悪い。心から愛した人と添い遂げることの何が悪いのか、正当な理由があるのなら教えて欲しい。勿論、《神様》は抜きにしてだ。


 何一つ納得できないまま死んでいくのかと思うと無念だったが、彼と共に逝けるのは不幸中の幸いと言えるだろう。イザーラ自身も既に体力の限界で、指先を僅かに動かすのも辛かった。もうどうにでもしてくれ。マリウスの側頭部に頬を寄せて脱力していると、やにわにその温さが遠ざかっていく。父が――相容れない最大の敵が、彼と私を引き離したのだ。異教徒の男が、死してなお娘の体に触れているのが気に食わなかったのだろう。全身にかかっていた重みがなくなり、マリウスの首根っ子を引っ掴んで乱雑に転がすのを見た瞬間、イザーラの中で何かがブツンと切れた。今までにない怒りが沸々として、体内の血がドクドクと激しく脈打っているのを感じている。



『イザーラ、お前も同罪――』



 胸ぐらを掴み上げようと近寄った《敵》の横面を、裏拳で思い切り叩きつける。自分でも驚くほどの力が篭もり、群衆に突っ込むように吹き飛び転がる姿を冷酷な目で見送った。限界だったくせに、なぜだか体の自由が利く。酷くざわめき混乱する周囲も気にせずユラリと立ち上がったイザーラは、やはり気に入らないと小さく舌打ちした。


 女が男を、況してや娘が父に手を上げるのが信じられないのだそうだ。悲鳴や批難が飛び交い挙って私を悪者に仕立て上げようとしているが、そもそも悪いのは、何もしていないマリウスを殺したそちらではないのか。だから嫌なんだ。この集落も文化も《神》も、全て。


 腰を抜かして立ち上がれずにいる父に代わり、向かってきた従者たちに反撃などさせるものか。イザーラは壁に飾ってある宝剣を手に取り、素早く鞘を抜く。そうして剥き出しになった刀身を、悲鳴を上げて萎縮している男たちに容赦なく振り下ろした。



『ぐぁあっ……っ!』


『キャアアアアァァァァァァ――――っ!!』



 響く悲鳴や断末魔を聞きながら、飛び散る赤を傍観している。マリウスの方が綺麗だった。どれを斬っても黒く濁って見える血を拭いもせず、イザーラは衝動のまま、手当たり次第に片っ端から民衆を斬りつけていった。老若男女問わず、乳児だろうが構わず斬った。酷く無感動だった。肉を裂く感触を手に感じても、悶えのたうちながら死ぬ様を見ても何とも思わない。怒りも度を超すと平坦になるのか――などと冷静に考えながら、深夜の集落を赤く染め上げて地獄へと作り替えていく。持ち主から離れて吹き飛び、地面に点在している手足や臓物を踏みつけながら、迷いなく《敵》へと向かっていく。他の全てを殺し尽くしても、これだけは殺さなかった。最後の最後まで残しておいたのは、コイツに《愛するもの》が殺される様を見せつけるためだ。



『解るか……私の気持ちが……』



 随分と重たくなった剣を引き摺って、擦れた声で問う。鞭で打たれた肌が裂け、ダラダラと血を流しながら見下ろす姿は異常だっただろう。持ち上げた剣先を、ドス、と四つん這いで蹲る背中に落とすと、父は「ヒッ」なんて無様な声を挙げて震えだした。物心ついた頃から見せつけられていた威厳は見る影もなく、なんでこんなものの言いなりになっていたのだろう……と馬鹿馬鹿しく思えてくる。もっと早くに見限っていれば、今頃は彼と共に、幸福な人生を歩めていたかも知れない。そう思うとまた感情は荒立ってきて、全身を巡る血がザワついた。



『――か……神様……っ』



 ひれ伏して祈り、縋るように神の名を呼ぶ。その響きが鼓膜を震わせてすぐに、イザーラはギロチンの要領で剣を振り下ろした。首が飛ぶ。潰れた蛙のような声を出して切り離されたそれは、派手に血を吹き上げながら、ごん、ごんと転がっていく。状況が読み込めぬといった具合で瞬きする生首には目もくれず、残された胴体を蹴り上げた。



『何が神だ! 厄災しか齎さないくせに! なければよかったんだ、あんなもの……!』



 生者のいなくなった血塗れの集落で、血みどろのイザーラはこれまでに溜め込んだ不平不満を叫ぶ。為す術なく仰向けになった体を、何度も何度も繰り返し刺した。ぐしゃぐしゃになって原形が分からなくなっても破壊衝動は止まず、心ゆくままに父の遺体を蹂躙し続けた。


 誰かが勝手に書き記した、在るか無いかも分からないような神なんて、始めからいなければよかったんだ。


 幼少期から秘めていた思いが爆発して、荒んだイザーラの心に焼き付いた。運悪く特別敬虔な家庭に生まれてしまったと嘆いたものの、ここにいれば或いは――と一縷の望みに賭けてみたが駄目だった。全知全能だかなんだか知らないが、祈ったところでどうにもならず、尊ぶべきものだとしながら諍いの火種にもなり得る存在の必要性が全く分からない。ただ単に「自分が社会に適合できなかっただけ」だと納得していたが、そんなものに縋り、人生を委ねる同胞たちの心理は未だに理解できなかった。


 偶像なんかいらない。でも人々は、神がいないと生きていけないという。宗教依存も甚だしい。神を据えなければ世界が成立しないというのなら、私は――……。




「世界に神が必要だというなら……私が選ぶ……!」



 あっという間に赤黒い肉塊に姿を変えた父を見下ろして、唸るように低く呟いた。


 深い思案が過去の思い出と繋がってしまっている。やにわに感じた雪の冷たさが、今と昔を切り分けてイザーラを覚醒させた。私も弱っているのだろう。ほんの数秒の白昼夢だったとはいえ、体を留守にしてしまうなんてどうかしている。あらぬ失態に息を吐いて苦笑し、少しだけ目を閉じる。いやに鮮明に思い出してしまったマリウスに別れを告げて、ひとり拠点への道を引き返した。



 既存の世界は生きづらい。

 だから決めたのだ。己で創造した神を据えた理想の世界を、この手で創り上げるのだと――。



              ※



「俺は、この小娘を日本に返した方が良いと思う」


 不在のヴィルナエとイザーラに代わり、慌ただしく現場の指揮を執っていたときのことだ。頼子の手を取って現れるなり出し抜けに言う伊智には心底驚いており、ダグラス・フーカーは暫し無言で見つめたまま身動きが取れないでいた。


 現れた伊智、勝也、頼子の三人は傷心気味で、ヤンハイが言った通りのものを見たのだろう。特に顕著な変化が見られるのは伊智で、そもそもダメージを受けていること自体が意外だった。


 彼の飼い主はヴィルナエだが、イザーラにもよく懐いている。強い二人の行動は全て正義であるかのように、盲目的なまでに服従の意を示してきたはずだった。なのに今はイザーラの意志とは真逆の意見を述べている。ようやく素の蔦野伊智と対面できた気がして感動しているのだが、手放しで喜ぶことは場の空気が許さなかった。人が一人死んでいるのだ。それも、今ここにいる大貫勝也と頼子の兄弟が。



「それは俺も同意見だが、どうした? もう少し詳しく訳を聞かせてくれないか」



 このお嬢さんをお返ししたほうがいいのは百も承知だが、組織のトップ二人が絡んでしまっている以上、一構成員が軽率に決断する訳にもいかなかった。要望があれば、理由を聞いて取り纏めた上で報告と相談をするという間怠っこい手順を踏まなければならず、今回も例に漏れることはない。余裕がないのか元来の性質ゆえか、圧倒的に言葉が足りない伊智に問い返すと、苦々しく眉間に皺を寄せたまま、決心して固く閉じていた口を開いた。



「――俺はもう、この組織の存在意義が分からない」



 恨めしそうに見上げる伊智からは嘗ての毒気がすっかり抜け落ちており、まるで別人を見ているようだった。あの狂犬であり忠犬でもある彼からこんな言葉が出るとは思っておらず、ダグラスは驚きを隠せない。滅多なことを言うな、と窘めるべきなのだろうが、それも憚られる程に痛ましかった。


 しかし、いつからそう思っていたのだろう。規則や体裁は見ないふりして、ダグラスは伊智の続きを待った。



「ここの奴らは皆……ダグラスと勝也以外は外れ者だ。とても表側じゃあ生きられない。そんな俺たちが生きやすい世界を確保するための手段が《ドゥラークラーイ》だと思ってたし、ヴィルナエもそう言ってた。でも、もう駄目だ……だってもう……」



 苦虫を噛んだような顔をして俯いてしまった伊智は、ひどく心を痛めているようだった。身内殺しを決行されたことは、彼女同様に組織を大事にしているらしい伊智にとっても痛手だったのだろう。やはりこの手の表情を見るのは心苦しい。今の伊智にヴィルナエを重ねて、ダグラスは本来あるべきだった《ドゥラークラーイ》のことを考えていた。


 今でこそ無慈悲で無秩序な武装組織に成り果てているが、元は伊智の言うとおり、既存の世界に生き辛さを感じている者たちが、理想を持ち寄って作ったコミュニティに過ぎなかった。


 あの頃はまだ、名前もなかった。ダグラスが関与しはじめたあたりの構成員は、ヴィルナエとイザーラの二人だけ。組織とは言えないレベルの小規模なものであり、特に大きな目的も公約もなく「生き延びるために悪事に手を染めている」という印象が強く残る犯罪ユニットだった。取るに足らないストリート・ギャング程度に扱われており、特に注目されることもなかったのだが、半年も経たないうちに無視できない存在になってしまった。


 とにかくヴィルナエが目立つのだ。鮮やかな赤い髪もさることながら、特筆すべきは妙に人を惹きつけてしまう性質だ。そのせいで志願者が殺到し、更には《忠犬》蔦野伊智という新戦力の台頭によって注意せざるを得ない事態になったのだった――イギリスの特殊部隊に所属していたダグラスが取り締まりに充てられたのも丁度この頃だ――。



『組織内で全く統率が取れていない』。



 これは《ドゥラークラーイ》の問題としてよく取り上げられているが、それは大きな間違いでもあり正解でもあった。そもそも正式な構成員は片手で数えられる程しかおらず、その他は勝手に名乗っているだけにすぎない。身内ではないのだから統率もなにもなかったが、そんなもの端から見れば似たようなものだ。『中枢構成員』という呼称で差別化を図ってもみたが、対外的には何の意味も成さなかった。


 部外者たちが《ドゥラークラーイ》の名を騙って暴徒化し、本当の身内までもが批難されるたびに、ヴィルナエはよく思い詰めたような顔をしていた。このまま放っておけば死んでしまうのではないかと思うほど追い詰められており、その表情が忘れられなかったダグラスは特殊部隊を辞めて目付役になった。上級将校にまで登り詰めておきながら名誉を棄てるなんて馬鹿なことを……とは散々言われたし自覚もしているが、この選択に後悔はない。何よりこれは、自分自身が果たさなければならない責任でもあるのだ。



「とにかくもう……ヴィルナエはイザーラから離した方が良い。あんたならできるだろ?《狼椿》の内通者であるあんたなら」


「――お前はそれをどこで知った?」



 なにか思い悩むような伊智に、取り繕っても仕方がないと観念して問い返す。強か驚いているような――信じられないとでも言いたげな顔をしている勝也を横目に、ダグラスは苦笑を浮かべていた。《内通者》とは聞こえが悪いが似たようなものか。ヴィルナエと箕輪安宿の接触を回避するために情報交換をしていただけだが、伊智はそれが気に入らないし理解しがたいのだろう。なんせ彼は、裏側の中でも特に苛烈な組織で生まれ育っている。身内ですら信じられないのに、部外者を信じて手を組むなんて言語道断だと思っているに違いなかった。



「……本当は、《連絡係》からダグラス宛の親書が届くはずだったんだ。便箋に狼みたいな箔押しがあって、あれは前に見せて貰った《狼椿》のエンブレムだった。それを俺が、《連絡係》から奪ったんだ。イザーラからの指示で」



 苦々しい顔をしている伊智は、激しく後悔しているようだった。それに伴って頼子の手首を掴む力も強まっており、なにか不安を紛らわすように――或いは縋っているようにも見える。その気持ちを頼子も察知しているのか、痛みに顔を顰めているが振りほどこうとはしなかった。


 ダグラスは、イザーラが有能な彼を気に入っているのを知っている。ついでに言えば「勝手にヴィルナエに取り入った」自分のことを嫌っているのも知っていた。良くも悪くも真っ直ぐで純粋な伊智を、まるで私兵のように遣いに出してはダグラスを妨害したのも一度や二度のことではない。奴には奴なりの理由や理想があってのことなのだろうが、それがヴィルナエの悩みの種になるのであれば、早々に対処せねばならない。全く面倒なことになったと、ダグラスは今後の苦労を考えて大きく息を吐いた。



「……」



 重苦しい空気を余所に、頼子はじっと考えている。――狼みたいな箔押しがある便箋――。それには頼子も見覚えがあった。《ヴォルク》の事務所内で、似たようなものを頻繁に見ているのだ。厚手で上質そうな紙のヘッダー部分にあしらわれた、銀箔の狼。自分やサラディーノに苛立った寿晴がよく叩きつけていた紙束が丁度そんな感じだったな……と思い出して、思わず「あ、」と声を挙げてしまった。今のこんな状況で――とハッとしたときにはもう遅い。一斉に振り返り、射込まれる視線に萎縮してしまって思うように動けない。



「……どうした、頼子? 何かあったか?」



 よく知った兄に背を撫でられると緊張もすぐに解け、少しだけ落ち着いて胸をなで下ろす。が、だからといって状況が変わるわけでもなく、唾を飲み下して大きく息を吸い、意を決して言葉を紡ぐ。



「あ、いや、あの……狼の箔押しがある紙に見覚えがあるなあって……。あ、そうだ、箕輪さんとサラディーノさんに連絡しないと……ねえ勝兄、ここから日本に連絡ってやっぱり難しいかなぁ……?」



 話しているうちにすっかり落ち着いたのか、いつもの様子――少し気が抜けすぎだが――に戻った頼子だったが、それに反して《ドゥラークラーイ》の面々は驚きを隠せなかった。伊智に至っては、息を呑んだまま動かない。


ミワ・アスカ。サラディーノ・ラヴィトラーニ。そのどちらも《ヴォルク》在籍のエージェントだ。まさか頼子があの組織と繋がりがあるとは思っておらず、いったい何を契機に……と思ったがすぐに思い至った。勝也と利也だ。この二人からヴィルナエに接触するため、まずは頼子に手を出したのだろう。あの手この手を尽くして遠ざけても繋がるなんて、なんという執念だと却って感心してしまう。全くどんな星の巡り合わせだと辟易しながら、苦笑する勝也をじっと見詰める頼子に、優しく問いかけた。 



「お嬢さん、箕輪というのは――その人物の名は、ミワ・アスカではありませんか?」


「あっ、はい、そうです! ここに来る前にお世話になってて……何も言わずに来ちゃったので、せめてひとこと、大丈夫だって伝えたくて」



 上目遣いでしどろもどろな頼子を前に、ダグラスはどんな顔をしたら良いかが分からなかった。率直な気持ちは『どうかしてる』だ。こんなところに攫われて、屍体まで見ておきながら「大丈夫」と言える神経が信じられない。危機察知能力がいかれているとしか思えなかった。


 しかし、頼子が箕輪安宿の知人であるなら、届くはずだったという親書の内容も概ね察しがつく。この子の奪還のために近々《ヴォルク》が乗り込んでくるという報せか、交換条件の提示だったのだろう。けれど内容の予測がついたところで、危機を回避できたわけではない。手を打たなければ。邪魔が入る前に、迅速に。ヴィルナエを守るためには、なんとしても《ヴォルク》を立ち入らす訳にはいかないのだ。



「とにかく、お嬢さんをお返しする準備を進めよう。イザーラには内密にだ。伊智、悪いがヴィルナエに連絡を……伊智?」


「――っ、ああ、分かった」



 頼子を見詰めたまま呆然としている伊智をもう一度呼びつけたダグラスは、一抹の不安を感じている。心ここに在らずといった態度は、これまでの彼なら有り得ないことだ。素直に聞き入れてくれるのは有り難かったが、どうにもしっくりこなくて腑に落ちない。利也の死を起点とした変転が、彼を戸惑わせているのかも知れなかった。


 このまま指示を出してもいいのか? という思いは無きにしも非ずだが、それでも今は働いて貰わなくてはならない。言い方が悪いのは百も承知だが、空いてしまった利也という穴を埋められるのは伊智以外にいない。どうにか持ちこたえてくれと願いながら、ダグラスは部屋を出ようとする伊智の背中を見送っている。


 しかし圧倒的に人が足りない。工作や戦闘はこちらで全て行うとして、せめて頼子の護衛役に千田のどちらかを借りられないだろうか……と考えながら一息つくと、キイ、と控えめに扉が開く。その向こうにいたのは聊かしおらしいヤンハイで、鉢合わせた伊智に驚き、小さく声を挙げていた。



「ヤンハイ? どうした、気分は良くなったか」


「……あ、うん。少しだけ」



 気付いたダグラスができるだけ優しく問いかけると、少し落ち着いた様子で頷いた。それから間もなくハッとして、慌てて口を開く。



「ああっ、それより、あのね。ヴィルナエにお客さんが来てるの。その……《ヴォルク》の人なんだけど」



《ヴォルク》って、ヴィルナエが苦手な人たちだよね、どうしよう? と不安そうにダグラスに委ねる。彼女もこれまでの因縁を知っているから、通して良いものかと悩んでいるのだろう。



「ヤンハイ。その客はどんな人物だった? 人数は」


「ヨリコくらいの女の子ひとり。聞きたいことがあるんだって言ってて、中に入れるのは怖かったから玄関前で待って貰ってる。あんまり嘘吐きそうな目はしてなかったし、皆みたいな百戦錬磨、みたいな雰囲気もなかったけど……自信ないなぁ……」



そう言って、ヤンハイはダグラスに一枚のカードを手渡した。狼を模したエンブレムの箔押しがある厚手のカードは名刺で、《有限会社ヴォルク 特殊事務課 篠塚あゆみ》と書かれている。


 篠塚あゆみ。大貫兄弟に指示して、亡き者にして貰った篠塚商事社長の娘だ。行き場を失ったところを拾われたのか、復讐を目指して自ら志願したのか。少し考えてみて、まあ間違いなく後者かと判断して小さく息を吐く。恐らく交渉のためにこちらへ向かわされたのだろうが、ヴィルナエを遺族と直接対峙させて良いものかと、ダグラスは迷っていた。


 純粋に交渉しにきただけかも知れないし、復讐心を原動力にした鉄砲玉という線も棄てきれない。ヴィルナエを襲撃する危険性は間違いなくあったし、なにより本人が自責の念に押しつぶされ、自滅する可能性も大いにあるのだ。彼女自身もまた、望んで組織の頂点に君臨している訳ではない。



「わかった、まずは俺が取り次ごう。伊智、予定変更だ。ヴィルナエには客人が来たことを伝えてくれ」


「ああ、分かった。同意を得られれば応接間に案内する」


「勝也、お前もだ。まずは頼子嬢をローズマリー嬢に託してから応接間に」


「承知しました」



 机上であれこれ意見をぶつけ合っても時間の無駄だ。頼子を無事に返し、更に混沌としてきた《ドゥラークラーイ》を立て直す機になるのであれば逃す手はない。


 どうせもう限界が近かったのだ。もだもだして尻込みながら緩やかに自壊していくより、一縷の望みに賭けて当たって砕ける方が幾らもマシだというものだ。半ば自暴自棄にも似た心境ではあったが、保守的な考えをやめて決心した今となっては非常に清々しい気持ちだった。自分は少し、「護る」ことに囚われすぎていたのかも知れない。閉じ込め引き離すだけではなにも解決しないと分かったことだし、これからはもっと能動的に、泥臭く、ヴィルナエ本人とともに可能性を模索していくのも有りだと思っていた。


 新たな接点をつくりに行くなんてこと、これまで接点という接点を断ち続けてきたイザーラが許さないだろうが、そんなの知ったことか。《客》が危険人物であれば、なにかが起きる前に仕留めれば良いだけのことだと結論づけて、ダグラス・フーカーは岐点となり得るエージェントを受け入れに向かった。一度だけでも、負った役を果たしたいものだ。



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