◆後篇

第5部 明暗を分ける



 目を開いて光を取り込んでも、意識はぼんやりとしたままはっきりしない。手触りの良い布地――多分シーツだ――の感触を楽しみながら微睡むも、はたと状況を思い出した大貫頼子は飛び起きた。


 病室とは違う部屋だ。見慣れた白い壁や天井ではなくて、妙に金色が多くて西洋色が強いクラシカルな部屋だった。私は夢でも見ているのか……と頬をつねってみたがしっかりと痛い。現実のようだ。



「……サラディーノさんに悪いことしちゃったな……」



 ずっと一緒にいてくれたのに、黙って遠くへ来てしまったと罪の意識を感じている。思い切り指を押し込まれたせいで痛む頸をさすりながら周囲を見渡して、まず今の状況を把握してみようと試みた。


 ふい、と軽く部屋を見渡す。なかなか個性の強い内装で、浮き足立って散漫な気分のまま、少女趣味な部屋だなあ、と暢気に思っていた。お姫様に憧れる女の子が好きそうな部屋だ。よく見ると寝かされていたベッドは天蓋付きだし、可愛らしい装飾が施されたドレッサーまである。たぶん一般的な女の子なら喜ぶのだろうが、頼子には戸惑いのほうが大きかった。着ている服もいつの間にか、質素な病衣からゴシックなワンピースに変わっている。気付いた途端に着心地が悪くなって、頼子は深く息を吐く。


 どうして私はこんなところにいるのだろう。こうなってしまった理由を考えている。病室を訪れたあの人は誰だ? 外はどうにも雪深いが、一体ここはどこなのか。冷えた窓枠に手を添えて、頼子は灰色の景色を呆然と眺めている。疑問に思うことが多すぎて脳内は雑然としており、うまく考えが纏まらなかった。



「お目覚めかしら」



 急に聞こえた声に緩やかに振り返ったが、依然として状況は読み込めない。戸惑いながら注視した人物は、見覚えがあるようでない。あの赤毛……確かヴィルナエによく似ていたが、それは顔の作りだけで雰囲気はまるで違っていた。どことなく活発で、勝ち気そうな印象だった。



「あまり理解できていないみたいね、お嬢さん。ここに来る前、イザーラに言われなかった? 《ドゥラークラーイ》に歓迎します、って」



 今の状況すべてが理解できなかったが、ついでに『すべて説明済みだ』と言わんばかりの物言いも理解できなくて、頼子は苛立ち半分に首を傾げる。確かに言われた記憶はあるが、それだけだ。その後すぐに意識を奪われて強引に連れてこられたのだから、説明なんて皆無だ。そもそも《ドゥラークラーイ》だなんて、そんなもの私は――



「あ、」


「思い出した? まあ、混乱してても無理ないわよね。結構な強行突破だったみたいだし」



 ごめんなさいね、と赤い女は言うが、悪びれている様子は全くない。彼女に対する感情は、不信感や苛立ちなどマイナスな面が多い。こちらを軽蔑したような態度も鼻についたが、それより言葉にもなっていない声ひとつで、全てを理解したような態度で決めつけられたことが納得いかなかった。



「ああ、そう、私はニーナっていうの。たぶん貴女の身の回りのことは私が請け負うことになるわ、よろしくね。……ヴィルナエによく似てるでしょ? 姉妹でもないのに、不思議よね」



 時々入れ替わって遊んでいるのよと笑いながら言うが、頼子にとっては別にどうでも良いことだった。世間を賑わせている《ドゥラークラーイ》に関しても、兄たちが所属している企業だという感覚しかない。安宿やサラディーノから散々説明されたが、己の欲望がどうだとか言われても、いまいちピンとこない話だった。


 一方のニーナは、反応が鈍い頼子にやきもきしていた。不思議そうにしている理由が自分の容姿だと思って先手を打ったのに、ハッキリしないというかなんというか、ぼんやりしている印象を受けている。驚いて頭が真っ白――というよりは理解をしていないような感じで、そもそも何一つ分かっていないのではないか、という疑念が浮上する。



(分からない……分からないわヴィルナエ。どうしてこんな子が貴女のお気に入りなの?)



 あのヴィルナエの心を動かすのだから、さぞ優しくて聡明な子だと思っていたのに拍子抜けだ。勝手に過度な期待をしたこちらも悪いのだろうが、いずれにせよ愚鈍さが隠しきれていない頼子に、ニーナは不満を感じずにはいられなかった。



「あのっ」



 頼子の意を決したような声を聞いて、ニーナは思案を断ち切らせた。正面に見た彼女は少し不安そうで、見れば見るほど、なんの特別感もない普遍的な少女だった。やはり選ばれた理由が分からない。



「あの、私はどうしてここに連れてこられたんですか? 兄たちに何かあったんでしょうか……」



 たどたどしく問う内容が予想と外れていて、ニーナは少し驚いている。己の身を案じてみっともなく命乞いすると思っていたのに、まさか人の心配をするなんて。その危機管理能力の欠如が却って恐ろしくて、ニーナは反射的に身構えた。なんなの、この子。



「……別に、勝也や利也には何もないわ。ただ貴女が、ヴィルナエのお気に入りだっていうだけのことよ。それを手に入れて献上するのは、配下にとっては当然のことでしょ?」


「――はぁ!?」



 相手が何を言っているのかは相変わらず分からなかったが、あまりに横暴な物言いと、『物』扱いされたことに腹が立って思わず噛みつく。こっちの意志を無視して献上だなんて、一体何を考えているんだ。そもそもヴィルナエと面識はあるが少し話した程度だし、気に入られた記憶なんかない。



「とっ、とにかく貴女には私についてきて貰うわ。待たせてるのよ、人を」


 ぼんやりしていたかと思えば急に反撃してきた頼子に面食らったニーナは、少したじろぎながら手首を掴んで手繰り寄せた。


 愚鈍で、感情の起伏が激しくて、表情豊かで、無垢で、無防備。そんな頼子は、ニーナにとって未知の生物に等しかった。今まで扱ってきたどんな難物よりも厄介で、こんなのを好いたらしい主が憎らしい。ニーナは不服そうに抵抗を続ける頼子をいなしながら、長い廊下を引き摺っていった。




              ※




「イザーラ、連れてきたわ……」



 扉を開け放たれた広間は、《ドゥラークラーイ》と《ズィマ》の面々の歓談で賑わっている。そろりと内密に通されたはずだったが、目敏い彼らにそれは通用しなかった。珍客を気にしつつ話を続け、イザーラに明け渡されるのを傍観している。誘拐してきた人質か、買い取った『商品』か。それにしては平凡すぎると思ったけれど、好みなんて人それぞれだからコメントは差し控えよう。周囲の勝手な憶測に反して、ヴィルナエは強か驚いているようだった。彼女の意志で仕入れたのではないらしい。



(なぜあの子がここに……?)



 訳がわからなくなって、ヴィルナエの頭は一瞬だけ白んだ。ニーナからイザーラの手に渡ったあたり、恐らく《彼》が指示して連れてきたのだろう。しかし……なぜだ? あの子のこと、イザーラには一度も話したことがないのに。


 一度ぎゅっと目を閉じて、改めて頼子を見る。あのときよりは血色の良い顔色をしていて、それなりに元気そうだ。強気な態度を取っているようだが、イザーラを目の前にして怯んでしまっている。可哀想に。ヴィルナエは複雑な気持ちを処理できないまま、イザーラと対面している頼子を眺めるしかできなかった。


 清廉な子だ。こんな穢れたところに来て欲しくなかったと思う一方で、いま目の前に頼子がいる事実に舞い上がっている自分もいる。でもダメだ、こんなの。ここの責任者として早急に何とかしないと……と静かに混乱しているヴィルナエは、口を噤んだまま押し黙っていた。


 動揺したのはヴィルナエだけではない。勝也も利也も、同じように困惑していた。


 なぜ頼子がこんなところに。驚きと心配と罪悪感が同時に押し寄せて息苦しかったが、心当たりはあった。自分たち兄弟は、ローズマリーが来る前に呼び出されている。日本であったことを全て話せとイザーラに命じられ、洗いざらい吐いた後だった。何が起きたのか、腹の傷の原因は何か、新たに接触した人物はいるか。これはいつも《彼》が、ヴィルナエとの共同任務を請け負った者に毎度行っていることだ。いつものことだし……とあまり気に留めていなかったが、報告の中の何かが琴線に触れ、頼子を攫うに至ったのだろう。顔色や健康状態に大きな問題がないあたり、頼子が自らついてきた可能性も否めない。人の良さと押され弱さに世間知らずが加算されて、つい要求に応じてしまったのではないか。そんな疑いが晴れなくて、勝也は肝を冷やしていた。


 肝が冷える原因は他にもある。隣にいる利也のことだ。さっきからずっと殺伐とした雰囲気を醸し出しており、勝也は生きた心地がしなかった。――変な気を起こしてくれるなよ……。そう思いながら恐る恐る視線をずらすと、利也は誰かしら殺しそうな目で、イザーラとニーナを睨み付けていた。


 利也は頼子が好きだ。もちろん勝也も頼子が好きだし可愛がってきたが、利也はその度合いがおかしくて、恐らく兄妹愛の範疇を超えている。彼女に対する独占欲や嫉妬心も常軌を逸しており、例え同性であろうが触れることを極端に嫌がった。異性なんて論外だが、勝也が辛うじて許されているのは血を分けた兄弟だからだろう。――他人と接触する機会が少ないから、頼子にはずっと入院していて欲しい――。そんなことを平然という利也には正直辟易しており、妹の回復を望まない彼の神経を疑ったことは一度や二度のことではない。


 そんな利也が、頼子が他人と手を繋いでいる場面を見てしまった。肩を抱かれている姿を見てしまった。着替えのために脱がされたことも、ここに来るまでに抱きかかえられたことも安易に想像できるこの現状に、利也はどんな感情を抱いているのだろう。



(頼むから、妙な真似はしないでくれよ……)



 はらはらした気持ちが消えないまま、勝也は利也を盗み見続けた。双子とはいえ、やはり別々の個体。彼が何を考えているかなんて皆目見当もつかず、理解したくないとさえ思っている。彼の本質を否定する権限を持たない自分は、これ以上おかしな方向に歪んでしまわないことを祈るしかない。



「ヴィルナエ、これを」



 こちらの事情なんてお構いなしに、頼子を差し出すイザーラが憎らしい。『これを』には『これをお前に差し上げる』という意味が込められていて、可愛い妹を物扱いする《彼》には怒りを感じている。差し出されたヴィルナエも困惑していて、救いを求めるような目でこちらを見ていた。



「あっ」



 均衡と緊張を破ったのは頼子だった。凡そ場にそぐわない暢気な声を出して、見知った顔を見つけた彼女はそちらに駆け寄っていく。警戒するダグラスや威嚇する伊智のことは目に入っていないのだろう。怖がる様子もなく一直線に進む図太さは、我が妹ながらに恐ろしい。ヤンハイといい頼子といい、この年頃の子らはみんなそうなのだろうか。



「あなた、怪我は大丈夫なの? 追われていたみたいだけど……いや、それはもう平気か……」



 あれ、そういえば言葉は通じるんだっけ……と呟き、ひとり考え込んでしまった頼子の無防備さに、ヴィルナエはすっかり呆気にとられてしまった。


 あのイザーラに連れ去られたのだ。きっと怖くて悲しい思いをしているのだろうと思っていたのに、今の彼女にその傾向は見られない。こちらを気遣う優しさと、異常事態にも『普通』でいられる強さに安らいで、全身の力がほどよく抜けて口元が緩む。笑んだようになった顔を見た頼子も安心したように笑っていて、ここが武装組織のアジトだと失念してしまいそうなほどに和やかだった。見詰めた頼子の血色の良い唇をつい凝視してしまう。美味しそうだ、なんて思ってしまうのは色欲的な感情が働いているのか、それとも単純に食欲を刺激されているのか。今のヴィルナエには分からない。



「あらあら、珍しい毛並みの子猫ちゃんね。私たちにも紹介して貰えないかしら?」



 向かい合う二人の間に割って入り、場の流れを変えたのはローズマリーだった。ロシア語は聞き慣れないのか、緊張してしまった頼子を覗き込む笑顔は慈愛に満ちている。これで彼女も少しは落ち着けるか……と気遣いに感謝したヴィルナエは申し出に頷き、ニーナを呼びつけて別室へと案内させた。不安そうにこちらを見上げる頼子と、ウィンクを投げつけてきたローズマリーを見送った後、ヴィルナエは静かに振り返って室内の一点を注視する。そこに笑顔は既になく、険しい顔をしていた。



「イザーラ、勝也」



 こちらへ来いという意味合いを込めて呼ばれ、瞬時に反応したイザーラに後れを取って歩み寄った。丁度良かった、こちらも聞きたいことがある。ひとりヴィルナエの元に向かうのは心許なかったが仕方ない。最悪の場合は伊智に任せようと丸投げして、怖い顔をしたままの利也の背を軽く叩いて宥めた勝也は、イザーラの斜め後方に立つ。



「どういうことだ、なぜ彼女がここにいる」



 感情の起伏が緩いヴィルナエにしては珍しく、不満を露わにしていて語気も強い。勝也が問いたかったのもそれだ。攫ってきたのか自らついてきたのか、せめてそれだけでも知りたかった。


 欲を言えば、家に帰してやりたいと思っている。自分たちは道を外れてしまったけれど、この子はまだ普通の女の子だ。こんな後ろ暗い組織とは縁遠い存在で、本来ならば一生触れることのない世界だっただろう。更に言うと体調のこともある。頼子は心臓が悪いのだ。今は平気そうだが、慣れない気候と特殊な環境下ではいつ発作が起こるかも分からず、また絶対に対処できるとも言い切れず危惧していた。勝也はジャケットのポケットに手を当てる。その中に収まった錠剤の少なさに、漠然とした不安を煽られていた。



「なぜって。あの子は君の気に入りの姫だろう? だったら、君の手元に置いておくのは当然のことじゃないか」



 顔色ひとつ変えず堂々と言い切るイザーラに、勝也は何が何だか分からなくなった。それはヴィルナエも同じようで、ぽかんとした顔で立ち竦み、沈黙してしまった。これが常識だと言わんばかりの物言いには辟易してしまう。頼子がヴィルナエのお気に入りだということはひとまず置いといて、それを理由に人を攫ってくる神経が理解できなかった。



――これが《裏側の世界》か。



 イザーラの異常性に、ここが一切の常識が通じぬ社会なのだと思い出す。とんでもないところに飛び込んでしまった……と改めて思いながら、隣に立っている《彼》を盗み見た。やはり表情は変わらず、読めない。



「……確かに、そうあってくれればと願ったことはある」



 罪を告白するかのような重みを持って呟くヴィルナエを、勝也は静かに見守っている。



「でも、私は彼女が望むようにしたい。全てを彼女の意志に委ねたい」



 噛みしめるように言った声は、まるでイザーラを諫めるようだった。それでようやく《彼》の表情が僅かに――本当に微々たるものだ――動いたのを察知して、勝也はヒヤヒヤしている。ヴィルナエ至上主義のイザーラが彼女に手を出すとも思えないが、何事も起こらないことを心から祈っている。



「勝也、一緒に来てくれ。君の妹をローズマリーに紹介して欲しい」


「畏まりました」



 恭しく頭を垂れて了解し、別室に向けて歩き出したヴィルナエに続く。残されたイザーラを振り返る勇気はない。底冷えするような視線を背中に感じながら、勝也は目の前にある華奢な後ろ姿を追うことに専念した。今日は一際、生きた心地がしない。




              ※




 いつもよりずっとピリピリしているのは、新人の自分にもよくわかる。篠塚あゆみは積み上げられた書類の整理をしながら、一点を睨み続けている箕輪安宿の横顔を見ていた。普段から気難しそうな顔をしていたが、最近はその限度を超えて怖い顔をしている。原因は大貫頼子だ。彼女は五日ほど前に誘拐されたきりになっており、未だ取り戻す見通しがついていなかった。


 確かに警備は手薄だった。実力も実績もあるサラディーノが出し抜かれるなんて意外だと思っていたが、何より意外だったのが、頼子の誘拐に《ドゥラークラーイ》で一番の実力者が出向いたことだった。


《砂漠の鬼神》と恐れられ、無差別殺人を繰り返すイザーラ・ナーブが、何の変哲もない――大変失礼だとは承知している――少女ひとりのために行動するなんて誰が思うだろう。擁護していたこの《ヴォルク》でも「身内の構成員を炙り出す餌」程度の価値だと思われていたのだから仕方がない。だからこそ人員を割かなかったのだ。

あゆみはここに来て初めて、形容しがたい胸くそ悪さと遣る瀬なさを感じている。


 女の子がひとり攫われているのに、誰一人として問題視していないのだ。あれだけ大騒ぎされた実家の爆破事件とは大違いで、世間話のネタにすらならなかった。



――まあ通報する身内もいないし、大した要人でも才ある人材でもないからな。大きな損害もないわけだし、一般人ひとりのために組織が動く可能性なんて皆無に等しいだろう。


 早く助けないと、と焦るあゆみに言った寿晴の言葉が忘れられない。誘拐された人はみんな、少なくとも捜索だけはして貰えるのだと思っていただけにショックは大きかった。報道も警察も、この《ヴォルク》でさえも、動く気配がない。



(じゃあ、誰が頼子ちゃんを助けるの……?)



 この組織で働き始めてから、今まで知らなかった『知らなくて良いこと』にたくさん触れてきた。それを踏まえてこうなる可能性は頭の隅にあったが、実際にそうなるとさすがに堪えた。寿晴や緋多岐が言っていた、『覚悟』の話が今ならよくわかる。《ヴォルク》のグレー度合いは入社間もなく理解しており、両親を奪った奴らに復讐できるならそれでいいと思っていたが甘かった。敢えて救わない命もあって、それが今までに手を下してきた悪党どもではない、罪なき一般人だという現実を受け止めきれない。――本部長、どうかあの子の救済を……。あゆみは無言で前方を睨む安宿を一瞥し、強く願った。


 一方の安宿は、あゆみの視線を感じながら逆立った精神を鎮めようと集中していた。見通しが甘かった。今回の件に関してはこの一言に尽きる。けれどこんなの、誰も思わないじゃないか。ただの少女ひとりのために、自らの身を危険に晒してまで組織ナンバー2が出向くなんて。


 確かに頼子は『鍵』だった。肥大化、凶暴化してしまった《ドゥラークラーイ》の核心部に入り込むには良い立ち位置にいる娘だったが、《ヴォルク》上層部の連中はその重要さを理解しない。おかげでサラディーノはなんの処分も受けずに済んだが、これほど屈辱的なことはない。力及ばす目の前で連れ去られ、傷ついた自尊心の痛みは安易に想像できる。腸が煮えかえる思いだろう。


 彼は責任を感じてか謹慎を申し出たが、常時人手不足の《ヴォルク》でそんなことをされてはひとたまりもない。この不祥事の詫びを込めてか憂さ晴らしのためか、今は《ドゥラークラーイ》の末端狩りに精を出しており、多くの事件を未然に防ぐ快挙を成し遂げている。まあ、この結果は彼の本意ではないのだろうけれど。



(やはり、立場のある役職に就くもんじゃないな……)



 安宿は実のところ、現場を駆けずりまわるサラディーノを羨ましく思っていた。上の命令を聞き、少し高い位置から周りを見渡し、下をまとめて指揮しなければならない身の上が憎らしい。あゆみは「頼子を助けに行け」と思っているのだろうが、それができれば苦労はない。


――お前はまだ、あの女に執着しているのか。


《ドゥラークラーイ》を追い、イザーラ・ナーブの出現に切迫する現場を見てそう言ったのは、この《ヴォルク》の最高顧問である養父だ。純粋に調査および警備会社を経営したい養父と、あくまでヴィルナエを追い込みたい安宿とでは、利害が一致しているようでまるでしていない。これが活動上いちばんの問題で、寿晴や緋多岐からは「こんなところとは早く決別しよう」と幾度となく言われたことだ。だが、純度の高い上質な情報を得るには、養父の家柄や人脈が不可欠であると言うことは変えられない事実であった。つまるところ、設立間もない《ヴォルク》はそれなしでは単なる若輩者の集まりにすぎず、社会的な信頼がない。


 権力に頼らず自力でやっていこうと画策したことはあった。しかし討伐対象の《ドゥラークラーイ》の成長速度があまりに速すぎて、地力を備えるなどという悠長なことをしていられなくなったのだ。


 あの組織は危険だ。勢力が強いにも関わらず、全く統率が取れていないのだ。掲げている最終目標は共通して「理想の世界の構築」という曖昧なものであり、それに至る思想も目的も各々異なるという不可解な組織だった。それらが好き勝手に破壊行為を繰り返すとなれば対処は必須だ。迅速な壊滅を目指すために権力の恩恵に預かるという道を選んだ訳だが、果たしてそれは正しかったか。今でも解は分からない。確実に言えることは、迷走に迷走を重ねる《ドゥラークラーイ》の実態も未だに掴めていないという情けない現状だけだ。



「安宿、少し良いか」



 扉を開けるなり問いかけたのは寿晴だった。一枚の書類と分厚いファイルを抱えて、安宿に向かって一直線に歩いて行く。いつものような、彼に対する執着心は窺えない。



「前に現場で、知り合いの軍人をよく見かけるという話をしたこと、覚えているか?」



 まだ《ヴォルク》を立ち上げる前のことだったか。追っていたヴィルナエの目撃現場へと向かうたび、寿晴はよく「知人を見かけた」と言っていた。彼の父の友人である英国の軍人で、今はすでに退役しているそうだ。だからこそ不可解で、なぜ現場に居たのか疑問が残る。更に言うと隠れるように逃走したのも怪しくて、安宿も瞬間的に目にしたことがあったが、《ドゥラークラーイ》の連中が着ているような一般戦闘服を身につけていた記憶がある。


「確か、フーカー氏だったな?」


「ああ、そうだ。そのフーカー氏は、実は《ドゥラークラーイ》に関わりのある人物なんだ」



 噛みしめるように、そして罪の意識を感じているような顔をしている寿晴に、安宿はひどく混乱していた。このことは、つい最近ではなく恐らく随分と前から知っていたのだろう。他の全てを犠牲にしてでも獲得したかったパイプだ。それが本当はこんなにも近くにあったのに、よりによって身内に隠蔽されていたなんて、そんな。気付かなかった自分にも非があるとは言え、隠したのが寿晴だという事が非常に堪えた。なぜだ。お前は俺を誰より理解して手助けしてくれていたはずなのに。育成のためとはいえ、サラディーノに構い過ぎたのがいけなかったというのか。激昂しそうになるのをなんとか抑えているものの、混乱した脳が暴走しているのか、隠し持っていた拳銃に手を掛けている。


 

 静かに混乱している安宿を見た寿晴は、ギリギリと胸を締め上げる痛みを感じていた。


 何より大事な安宿が、何を求めて奔走していたかは昔からよく理解している。その手がかりを持っていたのに、隠し続けなければならないのは苦痛だった。先に接触してきたのはフーカー氏の方だった。氏は《ヴォルク》の存在を既に知っていたようで、当時単独行動をしていた寿晴を呼び止めるや否や、手早く静かに耳打ちしたのだった。


――ヴィルナエ……いや、『プロキオ』と言った方が通じるか。君たちが何を目的に追っているのかは知っているが、とにかく今は、彼女のために静観していて欲しい。そうすれば彼女のことは私で守るし、そちらにも手出しをしないと約束しよう――。氏はそう言っていた。


 端的に言うと、氏と安宿の最終目的は同じだった。ならば敵は少ない方が良いと要求を呑み、協定を結んだにも関わらず、その約束を先に破ったのは《ドゥラークラーイ》だった。イザーラ・ナーブが出てきたあたり、恐らくフーカー氏の判断ではないのだろうが、こうなってしまってはもう、こちらにも黙秘する理由がない。



「フーカー氏との約束でお前には黙っていたが、あちらから仕掛けてきた以上、そうする理由がなくなった。氏の連絡先は分かっているから、小娘返還の要請書を送りたい。許可をくれ、安宿」



 寿晴の態度に、安宿は再び動揺していた。眉根を顰めてこちらを見下ろす彼は、今までに見たことがない顔をしている。ひとつのものに固執し、それ以外には冷徹極まりなかった彼が、一度は「取るに足らぬ」と言い放った頼子を救済しようとしている。



「……どういう風の吹き回しだ?」



「簡単なことだよ。アイツがここにいないと安宿が困るし、安宿が困れば僕が困るんだ」



 問う安宿に不敵に笑み返す寿晴は、いやに晴れやかで清々しい。そういえば緋多岐が「古参の猫と新入りの子猫が仲良くなった」と言っていたし、本当は彼も頼子を気に入っているのだろうか。


 そしてそれとは別に、上層部への反発心もあるのだと思う。彼の上司嫌いは相当なもので、噛み合わないジジイどもへの不平不満が鳴りを潜めたことは一度もない――立場と面目を良くするために、面と向かってぶつかり合ったことはないが――。以前から独立を嘆願している彼のことだ。これを好機と捉えているに違いなく、安宿は苦笑しながら、威圧的に返事を待つ寿晴を見上げた。



「《ヴォルク》本部長としては許可を出せない」


「安宿……!」


「だが」



 すかさず異議を唱えた寿晴を眼力で抑え込んで、淡々と続ける。



「だが狼椿――もしくは『セイリオス』としては許可する。好きにやれ」



 返答を聞いた途端に返事をすることなく素早く席に着き、文書をしたためはじめた寿晴を見たあゆみは呆然としていた。新参者の自分にはよくわからなかったが、深い付き合いらしい二人にはよく分かる話なのだろう。


 けれどまあ、返還を求める手紙を送ると言っていたし、今よりは希望が見えてきたのではないだろうか。私も戦力になれるように頑張らないと……と意気込んだところで「篠塚」と呼ばれ、跳ねるように立ち上がった。



「は、はいっ、何でしょうか!」


「入社早々申し訳ないが、選べ。この《ヴォルク》で事務員を続けるか、戦闘員となって俺についてくるか」



 後者ならサラディーノ同様の業務内容になる。詳細は奴か緋多岐に聞け、と安宿が付け足すのと、「安宿……!」と歓喜に満ちた声で寿晴が叫ぶのはほぼ同時だった。寿晴の声が邪魔でよく聞き取れない。

 補足部分は聞き取れなかったが、あゆみの心はすでに決まっていた。だって私は、ただ働きたくて《ヴォルク》にいるわけではない。最終目的は《ドゥラークラーイ》だし、私のボスはあくまで箕輪安宿だ。


 遂にこの時が……! と感極まる寿晴と、「いいから書け!」と叱責する安宿のじゃれ合いを眺めながら、あゆみは嘗ての友人のことを思い出して気落ちしている。本格的に対立しなければならなくなった。いけ好かない男だったはずの大貫勝也は、付き合ってみれば思いやりに満ちた良い奴だった。その彼や利也が《ドゥラークラーイ》に関わっているなんて信じられなかったが、ここで働くうちに詳細が明るみに出て、紛うことない事実になった。


 私は友人と戦えるのか? 不安は残るがやらなければならない。社会の裏側に足を踏み入れてしまった以上は殺し合いも考慮する必要があって、その最悪の事態を思うと胸が痛んだ。いつか訪れる決着の時までには覚悟を決めなければと思うと、堪らなく悲しかった。




              ※




 目の前で微笑む美女は、現実か幻か。頼子は暖かい部屋で温かい紅茶を啜りながら、着々と進むお茶会の準備を、美女と共に眺めていた。


 集会のような現場に連れて行かれたのが一時間前。大きな広間から小ぢんまりとした――と言っても学校の教室程度の広さではあるが――プライベートルームに移され、ニーナの紅茶の美味しさに感動したのが三十分前。それに気を良くしたニーナが、いそいそとお茶会の支度をはじめたのが、およそ二十五分前のことだった。


 相変わらず状況は読めなかったが、兄も知人もいるしとすっかり落ち着いている私は可笑しいのだろうか。せめてサラディーノには「私は大丈夫ですよ」と一報入れたかったが、相談の機を失いできず仕舞いだ。もしこの後、兄たちと話す機会を与えて貰えたなら聞いてみよう……と後回しにして、紅茶をもう一口飲んだ。やっぱり、自分で淹れたものとも市販のものとも一味違う。



「Госпожа Розмарин. Лучше не надо пристально смотреть.(ローズマリー様。そんなに凝視しよったら穴が空くんと違いますか)」


「Ну да. Понимю но.(そうそう。まあ、気持ちは分からんくもないですけど)」



 こんな普通の、堅気の子にはめったに会えませんしねえ、とわざわざ日本語で言いながらニヤニヤこちらを見ているのは、よく似た顔の二人の男だった。勝也と利也のような双子なのかと思ったが違うようだ。赤の他人だそうだが生き写しレベルで似ているし、息も合っているし、滲み出る胡散臭さも相まってどうにも信じがたい。因みに姓も同じ「千田」だそうだ。



「Я не могла ее не заботиься.Она очень милая!(だってしょうがないじゃない、構わずにはいられないわ。だってこんなに可愛い!)」



 頼子は美女の長い睫が瞬くのと、形の良い唇が艶やかに動くのをじっと見ている。何を言っているのかはサッパリ分からなかったが、その声も蕩けてしまいそうなほどに甘かった。美しいのは容姿だけではないのかとこの世の不公平さに失望しながら、やにわに立ち上がるローズマリーを見送っている。たわわな胸が、その柔さを強調するかのように揺れて目のやり場に困る。同性の自分がこんなにも掻き乱されるのだから、異性の御方はもうひとたまりもないのだろう。彼女が座っていたソファの後ろに控えていた千田たちもしっかり見下ろして注視しており、自分だけじゃないことに一安心している。まあ、自分たちの主の胸をガン見するのはどうかと思うが。



「Как вы познакомилисъ? Вы проститутка? Или заложникц?(ねえ、あの子とはどうして出逢ったの? あなたは見習いの娼婦かしら。それとも人質のお嬢さん?)」


「Ведите себя прилично! Она важная личностъ для Верное.

И это сестра Онуки!(お止め下さいローズマリー様! この子はヴィルナエ気に入りの娘で、オオヌキの妹です!)」



 するりと横に座り、頬や腿を撫でてくるローズマリーの言うことは相変わらず分からないが、なんだかとんでもないことになっている気がして萎縮している。いい匂いがして緊張している、ということもあるが生きた心地がしなくて、間に割って入ってくれたニーナには大変に感謝している。初対面の嫌な感じが嘘のように、ニーナは頼子に好意的だった。



「「オオヌキの妹?」」



 不意に響いた日本語のユニゾンを聴いて、ニーナは「しまった」とばつの悪そうな顔をした。本当は本当に双子なんじゃないかと思うようなシンクロ率で身を乗り出して目をギラつかせる茶髪の千田洋司と、すっと目を細めた黒髪の千田國弘が少し怖い。かつて箕輪安宿に感じたものに近い寒気……まるで獲物を狙う蛇と対峙した気分だ。



「へえ、君があの。病弱やって聞いとったけど、どこが悪いん? 免疫? 血液?」


「心臓だよ」



 扉側から聞こえた声に、頼子はぱっと顔を上げる。聞き慣れた声だ。金髪はどうにも見慣れないが、よく知っている顔に安堵している。静かに閉じられた扉の前には兄の勝也がヴィルナエを伴って立っており、聊か剣呑な目を千田たちに向けていた。



「分かったなら少し離れろよ。いまいち信用できないお前らのこと、頼子に近づけたくねえんだよ」


「あらら、随分なこと言いなさるなァ。そんなに冷たくせんでもええやないか」


「そやで。同類同士、仲良うしようや」


「誰が同類だよ」



 嫌みったらしく、軽蔑するかのような顔をした勝也に、頼子は少し驚いていた。別にショックだったと言うわけではなくて、ちゃんと色んな表情ができる人だったんだな……と感動していた。勝也は頼子の前では、苦く笑うことがほとんどだった。



「Госпожа Розмарин. Я Бы  хотел представитъ вам, Это Иорико. У Нее сердечные заболевания. Не надо удивляйтесь.(ローズマリー様。こちら、私の妹の頼子です。心臓が弱いので、あまり刺激しないで頂けると助かります)」


「Да, понятно! Эи, Кацуя. Может ли она говоить по-английски?  (まあ、分かったわ。ねえカツヤ。この子、英語は話せるかしら?)」


「あー……」



 滑らかに外国語を話す兄の横顔を、格好いいなぁなんて思いながら眺めていると、こちらを振り向いた視線とかち合う。少し戸惑ったような顔をしていて、自分はこんな曇った表情しかさせられないのかと思うと堪らなく寂しかった。



「頼子、お前英語話せるか? 直接話しをしたいらしいんだが」



 勝也の問いに、頼子は首を横に振った。学校で習うような簡単なものなら何とかなるかもしれないが、ネイティブを聞き取れる自信も、文章を組み立てられる自信もない。ここでやっと不安になって、手にしていたカップをきゅっと握った。――そうだ、ここは外国なんだ。日本語だけでは通じなくて、文化も常識もきっと違うのだろう。サラディーノやニーナは日本語を話せたから何とかなると思っていたが、常に傍にいて貰えるわけではない。怖くなって体が揺れ、カップの中の紅茶が波打った。



「……私も話せるようになるかなあ……」


「――--すこしずつなら、教えてあげてもいいけど?」



 庇うように肩を抱いたまま、素っ気なく言うのはニーナだった。独り言のつもりだったが、この距離ならまあ聞こえるよなと思いながら横目でニーナを見上げる。その姿は世に言うツンデレそのもので、これが噂の……と頼子はすこし感動している。



「はい、よろしくお願いします」



 姉がいたらこんな感じなのかな、と思いながら微笑むと、ニーナは少し驚いたような顔をしていた。彼女から言い出したことなのに、なにを驚くことがあるんだ? と考えていると、顔に柔らかいものが迫ってきた。めちゃくちゃいい匂いがする……



「Эи! Я тоже хочу игратьс ней! (ずるいわ! 私だってその子と遊びたい!)」


「Да, да. Ну тогда, а ты полробовал бы Изучение японского.(あら、ではローズマリー様も日本語を覚えてはいかがですか?)」



 女三人がソファでじゃれ合っているのは眼福ものなのだろうが、勝也はハラハラしている。すっかり気に入られて玩具扱いされている頼子が少し心配だったが、彼女が比較的落ち着いていることには安心していた。自分たちの妹ではなく、もはや皆の妹になってしまっているのは少し寂しい――と思ったところでハッとした。利也に見られてはまずい。反射的に周囲を見渡し、片割れの姿も気配もないことを確認した勝也は酷く安堵していた。こんな場面、アイツには見せられない。少しも気が抜けないな、と勝也は思った。今までは諸事情により人との接点がほぼなかったが、ここでは滅多にお目にかかれない「普通の子」だからか、頼子は注目を集めてしまうのだ。



(頼むから、誰も利也を刺激してくれるなよ)



 何か良くない事が起きないよう祈りながら、和やかなお茶会を眺めている。その雰囲気とは相反して、勝也の心は不安と不穏さに掻き乱されていた。




              ※




 頼子がいなくなっても、彼らの興味が尽きることはない。慣れない環境でさすがに疲れたらしく、息が上がりはじめた頼子を客室に送り届けるのも一苦労だった。「私も一緒に」と駄々を捏ねるローズマリーを、ニーナ、ヴィルナエ、勝也の三人がかりで抑えて事なきを得たが、肝心の側近二人は何もしなかった。『だって護衛が俺らの仕事やもん』というのが奴らの言い分だ。ふざけんな。


 休んでいる間の頼子の護衛は、利也と伊智に任せた。命じたのはヴィルナエだが、彼女にお願いしたのは勝也だ。彼の不満が形になって現れる前に接触させたかったからだが、二人きりにさせたくなくて伊智を巻き込んだ。利也のことは兄弟・同僚としては信頼しているが、頼子を相手にした場合の、一人の男としてはどうにも信じてやれなかった。まさか妹相手にそんなこと……と思うのだが、残念ながら俺は利也ではない。一卵性双生児でも当然嗜好も思考も異なるのだから、利也が頼子になにもしないとは言い切れなかった。



「辛気くさい顔しとるなァ」


「なんやなんや、気がかりでもあるんか」



 面白がって笑う似たような顔を、勝也は至極嫌そうに睨む。だがそれさえ面白いらしくて、ニヤニヤ笑うのをやめなかった。



「……ご主人様についてなくていいのかよ」


「ええやろ別に。ここにはヴィルナエさんとか伊智くんとか、強いのいっぱいおるし」



 従者にあるまじきことを平然と言う國弘に、勝也は呆然としてしまった。イザーラや伊智を見ていると『従者は主に四六時中気を配っていなければならないもの』だと思えてしまうが、もしかしたら本当はそうでもないのかもしれない。



「――にしても、難儀やなあ。勝也くんは」


 洋司はすっと目を細めて、頼子たちのいる部屋を見ている。



「厄介なんは妹やと思うとったけど、違ったんやな」



 もう一度こちらを見た洋司の目は、哀れみに満ちていた。それには少し癇に障ったが、尤(もっと)もすぎてぐうの音も出ない。



「まあ、何かあったら言うてくれや。勝也くんの手伝いやったらしたるよ」


「そりゃあどうも。期待しないで待っててくれ。できるだけお前たちの手は借りたくない」



 顔を顰めて悪態をつく勝也の声には、棘と哀愁が含まれていた。自分たちのことが気に入らないという気持ちも勿論あるのだろうが、そこには確かに、勝也特有の「優しさ」も混在している。相変わらず変な奴やなあ、と思いながら踵を返した千田たちは、勝也に手を振って立ち去った。


 廊下の向こうに消えていく背中を見送りながら、相変わらず自由な奴らだと溜め息を吐いた。同盟関係にあるとはいえ、他組織のアジトを自由に歩き回るのはどうかと思うが、この気楽さあっての《ズィマ》であり、それを許すヴィルナエだからこそ手助けしてやりたいと思うのだ。「ご主人サマのとこに帰るわ」と言う千田に「迷うなよ」とだけ返して、勝也も別の方向に向けて歩き出した。まずはダグラスを探そうと思っている。人数だけは無駄にいる《ドゥラークラーイ》だったが、組織の今後について相談できる人物は、もう彼しかいなかった。




              ※




「珍しいこともあるものねえ。貴女が人を気に入るなんて」



 淹れ直した熱い紅茶を飲みながら言うのはローズマリーだ。その言葉を急に投げつけられたニーナは面食らったような顔をしていたが、すぐにいつもの素っ気ない態度に戻して「何のことを仰っているのかしら」と受け流す。自覚がないのか反撥しているのかは知らないが、それを問うても彼女は答えてくれないのだろうと半ば諦めて、用意してくれたスコーンを囓った。


 ローズマリーは、ニーナたちが少女だった頃から知っている。それこそ《ドゥラークラーイ》が始まったばかりの頃で、イザーラの誘いに乗ったヴィルナエとは違い、「ヴィルナエと容姿が似ている」というだけで強制的に連れてこられたニーナは、一部を除いて誰とも打ち解けようとしなかった。


 それは《ドゥラークラーイ》に限ったことではない。どこにいても、彼女は誰とも打ち解けない。ニーナはもともと、田舎町から売られてきた見習いの娼婦だ。《ズィマ》管轄内の売春宿に売られてきた子だったから面識もあったわけだが、なんというか、一言で言うと野生動物のような子だった。警戒心が強く、攻撃的で、愛想もなく、誰にも懐かない。とても扱いづらい女の子で、常に『処分』候補に名を連ねていた。


 しかし、《ドゥラークラーイ》でのニーナの態度は違っていた。直接連れ去ったイザーラには未だに心を開いていないようだったが、ヴィルナエに対して柔らかな態度をとるのには、ほとんどと言っていいほど時間はかからなかった。娼婦時代の刺々しさが嘘のように、ヴィルナエにあれこれ世話を焼く姿には感動した。よく似ているし、本当の姉妹みたい……と微笑ましく思ったあの日のことは、今でも良く覚えている。


 そして今、あの頃のように得体の知れない少女を気に入り、世話を焼いているニーナがいる。


 確かに頼子は可愛かった。ニーナたちが子猫でカツヤたちが仔犬なら、あの子はきっと小鳥だ。籠の中で育った、外の酸いも甘いも知らない清廉潔白な純白の小鳥。それだけでも可愛いのに、庇護欲を煽る雰囲気が堪らなかった。ヴィルナエのお気に入りでなければ《ズィマ》に連れ帰って、侍らせておきたいと思うほどだ。


 何の変哲もない普通の女の子なのに、一度知ってしまえば抜け出せなくなるような魅力を感じているのは、この子がどこまでも「表側」の人間だからだろう。どす黒く汚れた世界に放り込まれた白。何色にでも染まるかと思いきや、染まることすら知らずに純白を保つ彼女は異質だった。きっとあの子は、こちら側では生きられない。



「私たちも一緒に守ってあげるから、安心なさいね」



 ヴィルナエやニーナが頼子をどうするつもりなのかは知らないが、落ち着くまで保護するのなら《ズィマ》も協力しようと思っている。ローズマリーは残りのスコーンを口に放り込みながら言い、戸惑うニーナのことは見ないフリをした。


 ニーナは何も言えなかった。この人は何を言っている? 私はあの子をヴィルナエに献上したのだ。守るだなんて、そんな。あれはヴィルナエのものであって、他人との共有なんて以ての外……と思ったところで胸の閊えを感じ、思考は強制的に遮断されるのだった。


 私が人を気に入るなんてことはない。そう言い切りたいのに言い切れない自分に、ひどく動揺している。ニーナは人が嫌いだ。ヴィルナエや大貫勝也という例外はあるが、それ以外とはできるだけ会話もしたくない。ローズマリーは……まあ出来の悪い母親だと思っているから話すくらいはするが、心の内を明かそうとは思わなかった。それは人間という生き物が、軒並み自分を傷つけるからだ。信じた後で裏切られるくらいなら、最初からなにも始めない方がマシだというのがニーナの思うところだった。


 私は普通に生きたかった。なのに一般的な赤毛の範疇を遙かに超えた赤い髪をしていたばかりに、大人たちは挙って売り物にしようとした。その結果に慰み者として売られ、よく知りもしない男に体を開かされる羽目になったのだ。生みの親ですらそうなのだから、他人なんて僅かも信じるわけにはいかなかった。気を許せば隙ができ、その隙をついて切り売りされる。嫌だ、そんなの。私の人生で私が好きなように生きるには、誰も好きになるわけにはいかないのだ。



(でも……あの子は……)



 伏せていた目を薄く開いて、頼子のことを思い出す。ヴィルナエと勝也を除き、誰も何も言わず勝手に飲むお茶を、あの子は美味しいと言ってくれた。気に入る理由なんてそれだけで充分で、イザーラは気に入らないだろうが、できる限り面倒を見てやりたいと思っていた。



(あの子が起きたら、温かい紅茶を淹れてあげよう……)



 ニーナ、と呼びつけてお茶のおかわりを要求してくるローズマリーに溜め息を吐き、しょうがないなあ、とそれに応じる。ここでの生活はそんなに悪いものではなかったのかもしれないと、このときのニーナは思っていた。




              ※




「イザーラ様、これを」



 非定常状態を確認次第、それを阻止せよという遣いを果たした伊智から受け取ったのは一通の封書だった。申し訳程度に親展と書かれたそれは、本来イザーラが受け取るべきものではない。何食わぬ顔で顔面の返り血を拭っている彼が言うには、ダグラス・フーカー宛のものだそうだ。可哀想な結末を迎えることになった《連絡係》から聞き出した話によると、東方の組織から預かったものらしい。封筒自体は市販のものだったが、納められていた書面には、狼を模したエンボス加工がご丁寧にあしらわれている。イザーラはそれをざっと一読した後、何の躊躇いもなく暖炉に放り込んだ。その様を、蔦野伊智は無感動を装いながら傍観している。



「ご苦労、伊智。報酬はなにを望む?」


「別に。報酬なんて要りませんよ」


「そうかい? それじゃあ、新しい武器を用意しておくよ。君ならきっとすぐに使いこなせるだろう」



 いまいち話が噛み合わなかったが、それを指摘するでも受け入れるでもない曖昧な態度で受け流した伊智は、イザーラに一礼して踵を返す。扉を閉め切る前に部屋を一瞥して、暖炉をじっと見ていた。特殊加工が施されていたのか、放り込まれた親書は燃えるのが遅く、僅かだがまだその姿を残している。緩やかに煤になっていくそれを眺めながら、言い知れぬ胸のざわつきを感じていた。


 イザーラの強さは憧れだった。だが、近頃はその思いも薄れてきている。何かが可笑しい。歯車が噛み合わなくなったような違和感を覚えており、心底気持ちが悪かった。――この人は一体、何をしようとしている? つかみ所のないイザーラに不信感と不安を抱えたまま、伊智は今度こそ《彼》の傍を離れた。果たして自分の行いは、ヴィルナエにとって正しいことだっただろうか。



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