第4部 狼貪、うららかな


  なぜ、こんなことになっているのか。


 ソファでふて寝している幼馴染みと、彼の向かいのソファでげんなりしている少女。若宮緋多岐は、デスクの椅子に座ったまま少し離れたところで傍観している。何をしていたのか? といえば監視対象の少女――大貫頼子を保護ついでにもてなしていたところだ。「偉い人」に呼び出されて日本を離れた安宿直々の指示であり、それを遂行する役を担ったのは比較的手隙の寿晴だったのだが、どうにも彼らは相性が悪い。不安が払拭できないからと、緋多岐も同席することを決めたのだ。


 この状況はかなり愉快だ。対象が安宿お気に入りの女子高生だというだけでも面白いのに、寿晴と掛け合わせることで更に愉快さを助長させている。顔を合わすなりなじり合って、しばらく続けていたようだが足りなかったようだ。その後軽いジャブを打ち合った結果、体力を消耗して今に至っている。「頼子の息が上がりはじめたら中断するように」という安宿からの言い付けを律儀に守っている様がなんだか可愛らしくて、緋多岐は目が離せなかった。似たもの同士というか、なんというか。兄妹みたいねって言ったら、この子たちはどんな反応をするのだろう。



「ごめんなさいねぇ、子猫ちゃん。寿晴ったら、また安宿ちゃんに置いてかれちゃって拗ねてるの。今はご機嫌ナナメだけど、ちょっと放っておけば幾らかマシになってくから許してあげてね」


「拗ねてなんか! ない!!」



 がば、と勢いをつけてソファから起き上がった寿晴は、強気な態度だったが涙目だった。


 昔はよく、安宿との共同任務を請け負っていた。けれどサラディーノ・ラヴィトラーニという男が加入してからはそちらに頼り切りだ。護衛もサラディーノ、諜報もサラディーノ、足代わりも資料作成も……と枚挙に暇がなくて、こうしてひとつひとつを認識するだけで嫌になる。もういっそ、誰の目にも触れないように閉じ込めてしまいたい――という気持ちはどうやら声に出ていたようで、目の前の二人はドン引きしている。あの平民の小娘はまあ良いが、緋多岐、お前にだけは引かれたくない。



「あー……なんて言うか……大好きなんですね、箕輪さんのこと?」



 微妙な場の空気を何とかしようと、口を開いたのは頼子だ。恋い焦がれて耗弱気味なこちらを哀れんだか、気遣いの心を見せつつ遠慮がちに問う小娘は何だか温かい。もしかしたら悪い奴ではないのかも知れない――と思った寿晴は、きちんとソファに座り直して、改めて正面の頼子に向き合った。



「……初めて会ったとき、天使だと思ったんだ」


「……はい?」


「あれはまだ初等部に通っていた頃のことだった。今でこそ清廉な好青年に育った安宿だが、幼い頃は本当に愛らしい……天使だった……。可憐で儚げで、触れれば壊れてしまいそうな……分かるか? この気持ちが」



 あまりのことに呆然とするしかない頼子をよそに、寿晴は遠い目をして語り続けている。想像の斜め上にブッ飛んだ回答に、気持ちも頭もついていけない、と言うのが今の正直な感想だった。


 こう言うと怒られそうだが、整っている印象はあっても「可愛い」や「天使のよう」などという印象はなく、彼の言い分は理解できない。しかしまあこれは、そんな男にも愛らしい幼少期があったのだという話なのだろう。聞いておいた方がいいのか? 緋多岐に助言を貰おうと彼女の方に目を向けたが……腹を抱えて蹲っており、必死に笑いを堪えている。まるで役に立たない。



「きっと神は、可憐な安宿に嫉妬したのだろうな……あの野郎、安宿にばかり困難を押しつけるんだ。追い詰められる安宿……そんな彼に僕がすべきことは一つだけ。そう、護り助けることだ!」



 腰に手を当てた姿勢で深刻そうに語り出したかと思えば、強く拳を握りしめて立ち上がる寿晴を、頼子はやはり呆然と見ている。口を挟む余地を与えず、また挟むのも憚られるヤバみを持って熱を上げ続ける寿晴は圧巻だった。何もできないまま傍観していると、更に力を強めてわなわな震えだした。大丈夫なんだろうか、この人は。



「なのに最近はサラディーノばかりで、安宿は僕を遠ざける! 傍に控えていなければ守れないのに、こうして何かしらの理由をつけて事務所内に閉じ込めるんだ! 身の危険から遠ざけるために他人との接点は最小限に抑えたいのに、そこにお前が現れた! しかもつ、妻だと……?!」



 思いをぶちまける過程で、いろいろと思い出してしまったのだろう。あれだけ穏やかだったのに、またいつものようにヒステリックになってしまった。聞き捨てならない――というか単なる誤解も混じっているが、気圧されてしまって口を挟めない。近々サラディーノも含めて『妻ではない』とよく言って聞かせないと。隣で耐えきれずに爆笑している緋多岐は無視して、頼子は崩れ落ちるように着席する寿晴を見ている。落ち着きがない人だ。



「……ま、前原さん、」


「いや良いんだ妻なら妻で。結婚はおろか交際さえしようとしなかった安宿が選んだのだから間違いはないのだろう……きっと……」



 口元を押えて目を閉じ、自身に言い聞かせるように呟いている。こちらの呼びかけには気付いていないのか応じる気がないのか、答えることはない。――誰かが帰ってくるまでこのままか。ある意味地獄のような空間で、何事もなくやり過ごせる自信はない。頼子は早く誰かが……できれば安宿が帰ってくることを強く願っていた。いや、別に会いたいとかじゃなくて、ここの社員全てを速やかに黙らすことができるのが安宿だから望んでいるだけだ。本当に。



「……!」


「あら、噂をすれば」



 項垂れた寿晴が跳ねるように立ち上がるのと、緋多岐が笑い止んで顔を上げるのはほぼ同時だった。時折、彼らは常人では感知しきれない『何か』を感じ取るらしくて、こうして唐突に反応することがある。しかし常人の頼子には何があるのか分からず、今だって反応した理由が分からなかった。


――まあ、分からなくても問題ないか。

頼子は軽い気持ちで思考を諦め、荒々しくエントランスへ向かう寿晴を見送っている。



「安宿……!」



 扉を開くと同時に姿を見せたのは、少し窶れた箕輪安宿と、傍に控えたサラディーノだった。まさか足音だけで安宿と判断したのか? どこまで従順な飼い犬なんだ、この人は。尻尾を振る犬のように安宿に縋る寿晴を、頼子は引き気味に見ている。こんな大人にはなりたくないなあ。そんな気持ちを込めながら。


 僅かに軽蔑の色を滲ませながら寿晴を見ている頼子を捉えた安宿は、張り詰めていた糸が緩むのを感じている。疲弊しきっていた体に、活力が少しだけ戻った気もしていた。


 大貫頼子は、良くも悪くも無防備で穢れない。『自己管理の甘い世間知らず』と言ってしまえばそれまでだが、何も知らず、また踏み込みすぎないその存在は却って貴重だった。もう嫌だというほど見てきた、この世の後ろ暗い部分などまるで知らない頼子は白く眩しい。連日の激務と彼女を目の前にしたことが重なって鈍った脳は、「このまま手中に収めてしまおうか」なんて馬鹿げたことを言っている。そんなこと、あってはならないのに。



「言われたとおり、しっかり子猫ちゃんを見守っていてあげたわよ。そこの古参の猫ちゃんとも、少し仲良くなったみたいね?」



 報告しながら意味深にニヤニヤ笑う緋多岐に目線を移したが、それが堪らなく下卑て見えて、安宿は溜め息をついた。『古参の猫』とは恐らく寿晴のことを指しているのだろうが、緋多岐はそれ以上を言おうとしない。こちらを揺さぶって遊ぼうとしている魂胆が見え見えで、俗世に汚れきってしまうとこうなるのか……と嫌気が差す。世間的には美人で通っている彼女が穢れて見えるのだから、あの小娘の無垢さは相当なものだろう。頼子と緋多岐を交互にチラ見して、安宿はぼんやりそう思った。


――が、それを不味ったと後悔するには少し遅かった。きっと疲れていたんだと自分に言い訳しても、緋多岐やサラディーノがこちらの思考を察知してしまった事実は消えてくれず、何かを言いたげにこちらを見ている。まるで脳内を覗かれているようだ。疲れる。



「少し来てくれ。話がある」


「あっ……はい」



 二人が口を挟む前に頼子を呼びつけた安宿は、会議室に向けて歩き出している。ニヤニヤ楽しむような緋多岐の目と、優しく見守るようなサラディーノの目に見送られて、頼子は彼の後を追った。監視――というにはあまりに丁寧な護衛をされるようになって数ヶ月が経つが、こうして安宿に呼ばれるのは今日が初めてではなかった。一日の締めとして会議室に呼ばれ、二人きりで面談するのはいつものことだ。但し、彼が事務所に立ち寄れる範囲内で行われていることだけれど。


 誰もいない静かな会議室で向き合った安宿は端正で、相変わらず何を考えているのか分からない。初対面の頃の印象は最悪だったが、この無愛想で寡黙な姿を晒すようになってからの印象は意外と悪くなかった。この面接は、ほんの少しだけ話をしたり何も話さなかったり、とにかく同じ空間に二人きりで過ごすだけの時間だ。こうでもしないと、何もしない時間を作れないんだろうなあと思い込んでいる頼子は、きっと今日もいつも通りなんだろうと高を括っていた。しかし目の前の安宿の様子がどうにもおかしい。何か考え込んでいるようだ。



「あの、何かあったんですか……?」



 耐えかねてついつい問うと、少しだけ落ち着いたような顔を見せた安宿は小さく息を吐いた。

「お前の兄たちを誘き出すことは可能か」



 こちらを少しも見ようとせず、顔を伏せたままの安宿が問う。それを頼子が理解する前に、すぐに顔を上げて二の句を継ぐ。思案する暇など、与えたくなかった。



「お前を餌に……例えば、我々がお前に危害を加えるフリをしたとして、奴らが現れる可能性はあるか? もっと端的に言えば、兄たちはお前を助けるために、危険を顧みず行動しようとするくらい、兄妹仲は良好か?」



 あまりにはっきりした問いに、頼子は言葉を詰まらせてしまった。


 仲は良いと思いたい。組織に渡った後も、発作を起こして倒れた自分を病院に連れて行ってくれたのだし、たぶんそんなに悪くないはずだ。しかし助けに来るか? と言われれば自信はなかった。彼らは彼らなりの目的があって行動しているし、それを邪魔したくない気持ちもある。何より今の彼らは、狙われているらしい赤毛と共に行動しているのだ。優先すべきはそちら側であることに違いない。


 けれどなぜだ。来ないことを望んでいるはずなのに、来て欲しいとも思っている。この期に及んで傍にいて欲しいと、目に見える形で愛情を示して欲しいとでも思っているのか。駄目だダメだ、これ以上の我が儘なんて許されない。「好きなことをして欲しい」と言ったのは私なのに、何を今更――



「こ、来ないと思います。駄目です。ダメなんです、そんなの、」


「……落ち着け、例えばの話だ」



 取り乱してガタン、と雑に立ち上がった頼子を宥めたが、彼女は目を泳がすばかりで落ち着かない。何度も対話を重ねたが、頼子は気持ちのコントロールが――特に素直に感情を表現するのが下手だ。自身の欲求に素直すぎる寿晴や緋多岐に感化されないかと何度かぶつけてみたけれど、日が浅いせいか功を奏すこともなく、今だってきっと『来て欲しいが来て欲しくない』だとかなんとか馬鹿げたことを考えているに違いなかった。


 別に、思う分には構わない。けれど彼女の場合はそうもいかない理由がある。感情の昂りに伴って心臓が強張り、発作を起こしてしまうのが厄介だった。



「せっかく……せっかく自由になったんです! あんまり良くないことしてるってのは知ってます、知ってますけど、何か理由があるはずなんです……!」


「その理由を呼び出して聞きたいんだ」



 慌ただしさの抜けない頼子を座らせながら言ったが、こんなの嘘だ。


 本当は誘き出したオオヌキをダシにして、ヴィルナエを炙り出したいだけだった。だがこんなことを馬鹿正直に言ったって、妙に気が利く頼子はそれを許さないだろう。


 そもそも頼子には、《ドゥラークラーイ》対策に協力しようという気があまりない。かの組織について少しずつ教えてきた結果、少しは興味を示してくれたものの、やはり大部分は放置されたままだ。理解が難しい――というよりも拒絶しているような感覚で、無意識にシャットアウトしているように見えた。多分、つい最近まで一般人だと思っていた優しい兄たちが、すでに数万単位の殺人を犯している事実を認めたくないのだろう。


 それは倫理的なことか? それとも自衛のためか?


 恐らく後者なのだろうと解釈している安宿は、荒い呼吸で俯いている頼子の背を撫で、哀れむ。彼女が自分の存在自体に後ろめたさを感じているのは明白だった。以前、自分の体質のせいで家族に負荷をかけてしまうのが苦痛なのだと打ち明けてくれたことがあって、捜査上で徐々に見えてきた身の上も決して「平凡」ではなかった。いつものように体調を崩した頼子を病院へ連れて行く途中に起こった事故で両親を亡くし、親族が養育を拒んだために未成年の兄妹のみでの生活を強いられているようだった。


 親が遺した金と保険金があったのがせめてもの救いだったが、学生の彼らが、妹の看病と学費・生活費の捻出を両立する生活はなかなかにシビアだっただろう。この苦労からくる不平不満が積もりに積もって、彼らオオヌキ兄弟を破壊行動へと誘った可能性は棄てきれない。しかし発作を起こしたらしい彼女を放置せず介抱したあたり、兄妹間の愛情はしっかりあるように感じられ、判断に迷っているところだった。


 頼子も頼子で、今でも兄たちを信じ、愛しているのだろう。それが罪滅ぼしからくる感情だったとしても、彼らを庇うこの子は健気で献身的だった。今まで抑圧してしまった分、これから自由にさせてやりたいという気持ちに嘘はないのだろうが……こちらの立場上、それを許してやることはできない……。



「――……!」



 安宿が悩む間に、背を撫でていた掌から温もりが遠ざかる。注意をそちらに向けると、前のめって床に伏していく頼子が見えた。それを見送った安宿は、自分でも信じられないくらいに動揺していた。



「頼子!」



 もういつぶりかも分からない大声を上げて、素早く詰め寄って抱き上げる。胸を押えて息苦しそうにしているあたり、狭心痛と呼吸困難を併発しているのだろう。心臓発作の対処法を脳内に呼び出してみるが、治療薬として使えそうなものは軒並み手元にない。「助けて」と言わんばかりにしがみついてくる頼子を抱き締めた安宿は、そのまま軽々抱き上げて居室へと急いだ。


 冷静さを欠いている。

 それは重々承知していたが、目の前の頼子のことしか考えられなかった。




              ※




 また戻ってきてしまった。実家のような安心感さえ覚える白い天井を睨んで、頼子は溜め息をついた。いつもと同じ症状、同じ病室だったが、今回ばかりは少しだけ様子が違う。それは医師や看護師以外の人間が病室にいることで、もう第三の兄くらいに馴染んでしまったサラディーノが、キャビネット上の花瓶に黙々と花を生けていた。



「ご気分はいかがですか、奥様」


「そんなに悪くはないですけど……いや、あの……」



 後ろ姿を凝視していたのに気付かれて、サラディーノに声をかけられたが違和感が残る。初めて会ったときから奥様と呼び、年下の自分に妙に畏まった態度でいることには慣れることができず、やめてと言っても聞き入れてくれない現状に頭を抱えていた。そもそもなぜ『奥様』なのか? と問うても、「奥様は奥様だから奥様」なのだと要領を得ないことを言うばかりで解決しない。別に日本語が不自由なわけではないのだから、確信めいたなにかを持っているのだろうがサラディーノはそれを言わない。こうなってしまえば頼子は降参するしかなく、心当たりのないまま困惑する日々が続いている。同じように妻扱いする寿晴に聞けば分かるだろうか。まともに返答してくれる可能性は、無きに等しいけれど。


 いまいち腑に落ちないような顔をしている頼子を横目に見たサラディーノは、なんとなく未知のものを目にしている気分になっていた。


 この子は本当に、実態が掴めない不思議な子だ。これがオオヌキ・ヨリコに対する、彼の率直な感想だった。心臓を患っていることを除けば、どこにでもいるごく平凡な女子だ。その能力値だけを見れば平均よりやや低いくらいなのに、あの堅牢がすぎるアスカを陥落させた強者だというのだから謎は深まるばかりだった。その他にも癖の強いスバルとまともに渡り合ったりヒタキを軽くいなしたり、ごく普通にアユミとの共同生活も送れることを考えると、本当は交渉や対話のスペシャリストなのかもしれない。


 そうでなかったとしても対人スキルがカンスト気味であることに違いはなく、悔しいことに自分自身も、彼女に絆されかけている者の一人だった。この子だって嫌いでしょうがない《女》なのに、なんの苦もなく目を見て話すことができるし密室に二人きりでも平気だ。彼女の何がそうさせるのか? 幾ら考えても分からないのに危機を感じておらず、まあそれでもいいか……なんて思ってしまう自身の感性を疑った。そんなことではこの世界では生きていけないのに。苦労して研鑽してきた感覚を無効化されたサラディーノは矜持を傷つけられた思いだったが、それが彼女への憎悪に繋がることはない。いま抱いている感情は純粋な興味だ。否応なく警戒心を解かす《何か》を持ったこの子は、一体どこの組織でどんな教育を受けてきたのだろう――。



「そういえば。ここに貴女を搬送したときのボスの様子は覚えておいでですか?」


「様子……? いいえ、知らないです。そのときのこと、あまり記憶になくて……」



 二人の兄の行く末を思うと胸が痛くなって、彼らと同じ感覚でしがみついてしまったところまでは覚えている。が、それ以降の記憶は全くと言っていいほどない。何かまずいことをしてしまったのか……? と不安そうにしているヨリコを見て、サラディーノはふふ、と笑った。昨日は本当に面白かった。普段は滅多にないアスカの大声を聞けただけでなく、大事そうに女子を抱える姿、血相を変えた余裕のない表情という大変にレアなものを立て続けに拝見させて頂いた。


 この病院に着いてからも熱心に症状や対処法を聞いていて、所帯じみたような姿は滑稽だったが妙にしっくりきた。立場のある身であんな平凡な小娘に現を抜かして……と不快に思うこともなく不思議だったが、それはまあ、そういうことなのだろう。これはこれで面白いしと、サラディーノは深く考えずに納得した。なんせあの平凡な『奥様』は、美しくも残虐だと戦かれていた《狼椿》ミワ・アスカに恐れることなく触れ、彼の隠されたポンコツ具合を露呈させた豪傑なのだし。


 聞いてきたくせに続きを話さず、一人でふふ、と愉快そうに笑っているサラディーノを怪訝そうに見ていた頼子だったが、その表情は徐々に陰っていく。それは気のせいなんかではなくて、遂には悲しげな顔をしてしまった。何か不手際でもあっただろうか。



「――あの、奥様? どうかされましたか」


「……兄たちはどうなってしまうのでしょうか……?」



 焦ったサラディーノが問うても頼子はしばらく黙っていたが、少し躊躇いつつ口を開いた。やはり彼女の気がかりは二人の兄たちだ。まだ情報が少なく不確定事項としていたが、この反応をみるあたり、《ドゥラークラーイ》の新人幹部はオオヌキ・カツヤとオオヌキ・トシヤで間違いないのだろう。間接的な情報提供に心中で感謝しつつ、本当に仲の良い兄妹なんだなあ、と感心していた。「自身の存在に負い目を感じている」とアスカが言っていたから、きっと贖罪の意味を込めて庇っているのだろうと思っていたが、それだけではないようだ。武装組織の戦闘員となり、多くを殺した重犯罪人になった今でも本当に彼らを愛しているのだという目をしていて、罪悪感よりも心配の色の方が強かった。



(兄妹愛……か)



 物心ついた頃から、サラディーノは純粋な「家族」というものに縁のない生活を送っている。血縁者はいたにはいたが、ただ似通った遺伝子を持つ他人という程度の希薄な関係だった。しかし『兄弟』となれば話は別だ。《ヴォルク》の世話になる以前に在籍していた組織で弟分だった少年のことは、血の繋がりはなくとも正真正銘の兄弟だと思っていた。小柄で童顔のくせに度胸だけはあって、その組織が強襲された折にも、兄貴分の自分を押しのけて最前線に居座り続けた彼のことが忘れられない。


――サラディーノ! お前、さっさと逃げろ! じゃねえと俺がブッ殺す!


 これが最後に聞いた言葉だった。もう五年も前のことになるが、最後までアジトに残る道を選んだ彼の生死は不明のままだ。生きていればヨリコと同じ年頃か。少し感慨深いな。



「……まだはっきりとは分かりませんが、そんなに悪くは扱われないと思います。あちらが素直に応じてくれれば、ですが」



 上の人たちのことは知らないが、アスカは基本的に赤毛以外への興味が薄い。だから多分、赤毛探しに協力すれば手厚く保護するのではないかと予感していた。だが、それは向こうが身内を裏切ることを前提にした話だ。一度「こちら側」の世界に入ってしまった以上、裏切りはそのまま死に直結する。応じても応じなくても絶対的な生命の安全は保証できず、曖昧な返答しかできないことに心苦しさを感じていた。



「――すみません、連絡が入ったので少し外します。扉の近くにも護衛役を配置していますから、何かあればお知らせ下さい。すぐに戻ります」



 右耳のイヤホンから無線連絡を確認して、サラディーノは体を屈めて頼子を覗き込んだ。間が悪い、とは思ったけれど、場の空気を変える契機には感謝している。彼女から離れるのは気がかりではあったが、安堵感も確かに覚えていた。


 警戒しながら退出していくサラディーノをベッドの上で見送った頼子は、急激な寂しさを感じていた。鳩尾あたりをぎゅっと締め付けられるような嫌な感覚で、それになんだか寒い。《ヴォルク》の人たちに守られるようになって以来、今まで以上に一人が苦手になった。いつまでも続くわけじゃないのに。それでもいつも誰かが近くにいる感覚が嬉しくて、温かくて、安心して、それがなくなる日のことを考えると堪らなく怖かった。両親がいて、いなくなって、兄たちがいて、いなくなって。今度は安宿やサラディーノたちが傍にいてくれるけれど、またいつかいなくなるのだろうか。そう思うと寂しくて、泣いてしまいそうだった。



「――誰?」



 もっと強くならなければ……と意気込んだところで、ノックも何もなく無遠慮にドアが開く。誰だ?こんな不躾なことをするのは。頼子には心当たりがなくて、不信感に眉を顰めた。看護師や兄たちは勿論、安宿もサラディーノも、寿晴でさえ必ずノックをするのに。警めるように諫めるように睨んだ先にいたのは、やはり見覚えのない――多分《男》で、その足下にはサラディーノが言っていた護衛役が転がっていた。



「大貫頼子で、間違いないね?」



 声を聞いてもやはり性別の判断ができなくて、ドアの外の異常事態も相まって言い知れぬ恐怖心に襲われる。身構えて、いつでも立ち上がれる体勢を作ったのに、あっという間に接近されてしまえば為す術もない。触れられるほど距離を縮められて、息が詰まった。



「――っ!」



 声はあんなに柔かったのに、《彼》の青い目は怖いくらいに冷たい。頸に這わされた手も同じように冷たくて、ぞくりと肌が粟立った。指先ひとつ動かせない。



「君を《ドゥラークラーイ》に歓迎するよ。さあ、行こうか」



 細く綺麗な指で頸をぐっと圧迫されて、息苦しさと共に視界が徐々に暗くなっていく。その中でみた《彼》は少しも笑っていなくて、鬼か何か、人ではないものを見ている気分だった。なんとか《彼》の手を解こうと抵抗する中で、聞き慣れた声を聞いた。これはサラディーノだと判断した途端、張り詰めた神経が否応なく緩和していくのを感じている。こんな時に安心なんてしている場合かと自身を叱咤したが甲斐なく、頼子はそのまま意識を手放した。《ドゥラークラーイ》ってなんだっけ。




              ※




「Non toccarla!(その方に触れるな!)」


「Aw...sei finalment arrivato? Caro cane guardia.(おやおや……やっと来たか、番犬くん)」



 目の前の光景に、そして自分自身の犯した失態に絶望しながら、サラディーノは《彼》――イザーラ・ナーブに銃口を向けた。奴の腕の中にはボスの奥様であり保護対象でもあるヨリコが収まっている。気絶させられたのか蒼白な顔で目を閉じており、最悪の事態を想像して舌打ちをした。


 分が悪い。


 銃口を向けようが射撃技術に自信があろうが、ヨリコを盾にされてしまっては実に無力だ。今はがら空きになっている眉間だが、そこまでヨリコを引き上げられてしまえばそこまで。イザーラも手出しできない理由を分かっているのか、余裕綽々でせせら笑っている。思わず口をついて出た母国語に母国語で返されたのも妙に癪で、神経を逆撫でされた思いだった。胸くそ悪い。



「ボス、奥様の病室にイザーラ・ナーブが現れました。奥様を連れ去るつもりのようです。増援をっ、至急、お願いします――!」



 襟元のマイクから緊急連絡するも、イザーラはその隙を突いて短刀を投擲して弄んでくる。別に避けるのに難はないが、そのせいで他がおろそかになってしまうのが厄介だった。案の定、僅かに体勢を崩した隙にイザーラは手早くヨリコを担ぎ上げて窓へと突撃した。ここ四階から飛び降りるなんて無理がある、という理屈や常識が通用しないのが《砂漠の鬼神》イザーラ・ナーブだ。ここで逃してしまえば、ほぼ無傷でご主人様の下へ帰還するに違いなかった。

――逃すか!


 珍しく気性が荒くなるのを感じながら、砕け散ったガラスの向こう側へ消えようとするヨリコに手を伸ばす。しかし重力に揺られた彼女の手を掴む既でサラディーノは空を掴み、徐々に徐々に、遠ざかっていく……。



「Dannazione...!(畜生……!)」



 何もかも《彼》に劣る自分に苛立ち、激情したサラディーノは窓枠を蹴って同じように飛び降りる。木や外灯を上手く利用してしなやかに着地し、微かな足音を頼りに二人を追った。見失う訳にはいかない。大事な奥様を、一連の件を解決に導く星を、俺の可愛い妹分をこれ以上の危険に晒すなんて、そんなことあってたまるか。五年前のあの日みたいに、自分だけが生き延びるなんて二度と御免だ。



(待ってろヨリコ、必ず助けてやるからな……)



 かつての弟分と重ね合わせたヨリコだけは、なんとしても救い出す。そう心に決めたサラディーノは、応援を待つことなく暗闇を駆けた。




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