第3部 愚者と蛇と


 破裂音を轟かせて、砂埃を巻き上げる。


 がらがらと崩れていく石造りの家屋、絶叫する民衆。障害たるそれらから逃れるため、ダグラス・フーカーは塵埃に噎せながら駆ける。十分に遠ざかって人垣を抜けたところで、一足遅れてきた《子猫》――ヴィルナエを人波から引っ張り出した。一際目立つ赤い髪は、砂埃のせいでだいぶくすんでいる。そのおかげか良い具合に正体を隠せているが、気持ち悪いらしく不快そうに眉間に皺を寄せていた。



「任務完了。お疲れ、ヴィルナエ」



 優しく肩を叩いて顔を上げさせ、こちらを注視したのを確認して労い、手を差し出して柔く笑む。憂鬱そうな表情で手を握り返してきたヴィルナエの頭を撫でながら、ダグラスは今もなお崩れ続ける建物を傍観していた。


 あれは、この国の将軍の私邸兼官邸だ。彼が職務のために駐留しているのを狙って爆破したのは今。あの中には標的の他に、家族や数名の部下たち、多くの使用人がいたはずだ。仕事のために外に出ていた一部の使用人を除いた全てが生き埋めになっており、その救出を急ぐ警官隊が、慌ただしく駆けずっていた。


 けれど民衆たちは傍観するばかりで、誰も救助に参加しなかった。自業自得だ。そんな言葉さえ聞こえてくる。その声がヴィルナエには届かないと知っていても、あまり気分の良い物ではないことに違いない。ぼんやりしている彼女の手を引いて進むが、横目に見た目は暗く陰っていた。



「ヴィルナエ。お前のせいではないよ」



 浮かない顔で俯く彼女の肩を二度叩き、顔を上げさせてダグラスは言う。それを確認したヴィルナエは軽く笑んだが、その瞳の陰りは晴れない。あの家を破壊し、将軍らを死に追いやったのは確かに自分たちだ。それでも彼女は悪くない。そう言い切れる自信がダグラスにはあった。あの家主はこの辺りを仕切る領主のようなものだったが、その独裁的な体勢や傍若無人な振る舞いが祟って頗る評判の悪い男であった。


 この破壊を望んだのは市民たちで、それを受けて実行したにすぎない。自分たちがやらなくたって、いずれ他の誰かがやっていたことだ。


 誰かが犯す予定だった罪を、お前が率先して被ってやっただけのことだよ。


 そうして慰めても、深い罪悪感を背負っている彼女には逆効果だとは理解している。けれど何も言わずに放っておくのは己の責任を放棄したみたいで腑に落ちない。なんとも加減が難しいものだな……と、もはや娘のように思っているヴィルナエを見下ろし苦笑して小さく息を吐いた。


 縫うように抜けた人垣を振り返ったヴィルナエは、複雑な心境で眉間に皺を寄せた。現場は今もなお、砂埃を巻き上げて騒然としている。こうすることを決めたのは自分自身だが、望まぬ破壊行為をしなければならないことにも多くの命を奪うことにも、いつになっても慣れてくれなかった。


 いや。慣れてはいけないことだ、こんなもの。

 知らずのうちに楽を選ぼうとしていた自身が許せなくて、ヴィルナエは眉間に一層深い皺を作る。


 例えどんなにひどいろくでなしだったとしても、死んで良い人間なんて一人もいない。それなのに皆、目立つ特定の誰かを『悪者』に仕立てて吊し上げ、亡き者にしようとしているのだ。今回のこれも身内の――《ドゥラークラーイ》の一員だと主張する連中からの要望だったが、ヴィルナエはあまり気乗りしない破壊活動だった。この程度の独裁者なんて山ほどいる。本当にただのろくでなしならまだしも、政治の実績はしっかりとある彼を死なせるのは惜しい気がするのだ。そう思ったのに決行という選択肢を選んでしまったのは、ただ単に、要望の熱量に勝てなかったからだった。


――どうか、どうか我々をあの独裁者からお救い下さい――。狂気的なまでに執拗に頼み込むもんだから、怖くて断り切れずに今に至った。流されるままに人の命を脅かしているのだと思うと堪らなく情けなく、申し訳なかった。


 どうしてこうなってしまったのだろう。ヴィルナエは今の立場に苦悶している。


 ただ自分自身が生きやすい、僅かばかりの安寧を確保するために創った組織だったはずだ。好き勝手に暴れ回っていたつもりだったが、その活動の中には各地の民衆の助けになるものもあったらしい。そのせいで必要以上に崇められる羽目になってしまい、今ではまるで神の使者であるような扱いだった。ガラにもなく「教祖様」だなんて呼ばれて。逃げ場を失い、退路を断たれ、拒否権なくやりたくないことをやらされているヴィルナエは酷く疲弊していた。



(そういえば、あの子はどうしているだろう……)



 日本で出会った少女を脳裏に思い浮かべて、ヴィルナエは目を伏した。


 彼女のことはオオヌキの妹だということくらいしか知らないが、今まで出会った人物の中で、指折りの鮮烈さを放っていた。この赤い髪にも、尋常ならざる言動も気にせず、何より自分のことを知らないのが好かった。勝也と利也は「世間知らずなだけだ」と言っていたが、俗世に汚れきったヴィルナエにとっては、それがなにより救いになった。教祖だ何だと持て囃さず、ただの外国人として接してくれるのは新鮮だった。詳しい事情を話せないこちらを案じて追求せず、手当までしてくれた温かさが身に染みる。あのときのことを思い出しながら、まだ完治していない腹の傷を撫でた。


 無防備すぎる、小鳥のような少女。少しの力で縊り殺せてしまいそうなほどに華奢なあの子にもう一度会いたい。そして可能であれば、手元に置いておきたいとも思っていた。


 でもそんなことをしてしまえば、あの子はあっという間に死んでしまうだろう。何しろこちらは裏側の、死と隣り合わせの危険な世界だ。ほんの些細なことが命取りになるような特殊な環境で、心臓の弱いあの子が生き延びられるとは思えなかった。


 日本を離れる前に見た、生気のない蒼白な顔のヨリコを思い出す。あの後に勝也が病院に連れて行ったけれど、果たして無事だったのだろうか。そう思うと余計に会いたくなって、もう一度訪日しようか、なんて気持ちになる。しかし、いや、駄目だ。破壊工作の予定がない土地に安易に踏み込むなんてこと、安易には出来ないのだ。少なくとも今は、その時ではない。



 目を伏したまま無言を貫くヴィルナエを、ダグラスは静かに見下ろしている。強張った表情で気持ち猫背になっているあたり、すっかり疲弊してしまった自分と、それでも戦おうとする自分が脳内で拮抗しているのだろう。 そんなときは何もできないから、危機が迫ったとき以外はそっとしておくしかない。――本当に難儀な子だなあ。気難しい娘を持った気分になったダグラスは、ヴィルナエを安全な場所に誘導しながら苦笑する。ほんの少しだけでも気持ちを顔に出せばいいのに、この子はそれをしないのだ。


 ずっと無言で己の気持ちを噛み殺し、静かに悶える彼女をどうにかしたくて目付役を申し出たが、未だに胸の内を明かしてくれないあたり無理難題な気さえしてくる。きっちり果たすことができるのか? と不安に思いながらもう一度見下ろすと、ヴィルナエの表情がやんわりと崩れていく。でも安堵の表情ではなくて、どこか苦しそうな笑顔だった。



「Это жалкин... Сейриос не простит меня... (こんなこと……セイリオスはきっと許してくれない……)」



 母国語で何やら呟くのを確認して、ダグラスはヴィルナエの肩を叩く。顔を上げた彼女の目がしっかりと意志を持っているのを見届けて、できるだけ優しく笑んだ。



「《家》に帰ろう。みんな待ってる」



 そう言うと、ヴィルナエは苦笑したまま頷いた。その表情に胸が痛んだが、笑み続けて背を押す。彼女を救いたいと思っているが、その一方で役を放り棄て、替わりに担ってくれる誰かが現れてくれることを願っている。足取りは軽いが泣いているようにも見えるヴィルナエの存在が痛々しくて、ダグラスは密かに顔を歪ませ途方に暮れていた。この子が心から笑える日は来るのだろうか。



              ※



 どこを見ても白銀の世界だ。


 吐息さえ凍ってしまうのではないかと思うほど冷えた外気に身を晒しながら、大貫勝也と利也は分厚い雪の上を歩く。加入したばかりの頃は歩行もままならなかったが、今ではそれなりにスムーズに歩けるようになった。けれどやはり氷点下の寒さには慣れなくて、どれだけ鍛錬しようが感知する苦痛の度合いは変わってくれなかった。


 眼前にある、目的の建物は古城だ。その扉を開けたいのだけれど、鉄製なものだから、絶望的なほどに冷たくて困難を極めている。諦観したような顔を見合わせた勝也と利也は、覚悟を決めて把手を掴んだ。手袋越しでも刺すような冷たさが伝わる。痛いほどのそれを耐えて引くと、両開きの扉がじわりと動く。僅かに開いた隙間に二人して体をねじ込んで、室内に転がり混んだ。温かい。天国か、ここは。



「……いつになったら慣れるんだろうな……」


「さあな……一年も居れば慣れそうなもんだが……」



 今年の三月末にここを拠点として、早くも半年近くが過ぎている。それでも寒さで動きが鈍ってしまうのは、きっとあれだ、駐留せずにあちこち転々としているせいだ。そういうことにしようと決めた勝也と利也は、寝転がったまま一息つく。高高度も寒いには寒いが、こう地表も外気も冷いとなると誰だって堪えるはずだ。



「あっ、勝利ションリー! おかえり!」



 底抜けに明るい声が響いて、上体を起こした二人はその方向へと目を向ける。楽しげにこちらを指さす、頼子と同年代らしい少女は慌ただしく駆け寄って傍らにしゃがみ込む。作業を放っぽって来たらしく、白衣と保護用のゴーグルを着用したまま、明るい笑顔でこちらを見下ろしていた。その瞳は眩しいくらいに輝いていて、直視したくない。



「……ただいま、陽海。今日も賑やかだな……」


「その呼び方、やめろって言っただろ」



 この黒髪を二つに結った少女――シン陽海ヤンハイは、全く似つかわしくないが組織で兵器開発に従事する構成員だ。勝也と利也の見分けがつかないヤンハイは、二人をまとめて『勝利』と呼び、それは単独で顔を合わせたときでも変わらなかった。どれだけ注意しようが意に介さず、今だって利也からの苦情を軽く聞き流している。これだから変人は――と胸中でのみ毒づいて、敢えて分かりやすいように溜め息を吐く。やはりヤンハイは動じない。



「ねね、どうだった? 私の《雷沃汀レーヴァティン》! いい火力だったでしょ?」



 胸の前で手を組んで、ドキドキしながら答えを待つ姿は如何にも乙女で可愛らしい。しかし内容は全く可愛くなくて、その落差に二人して顔を顰めた。そもそも普段から『火薬は恋人』だなんていう時点で残念なことこの上なく、年若くして《ドゥラークラーイ》に在籍するだけのことはあるな、と深く感心している。いや、だからといってこの変人具合を見習う気は全くないが。


 相変わらず楽しげにしているが、勝也は戸惑い返答に詰まってしまった。


 思い出すのは、あの赤い夜のことだ。投下した新作の爆圧や熱量、一瞬にして炭屑になってしまった建造物たち。それに、たくさんの人間も焼失しているはずだ。自分たちが目視できていないだけで。


 ヤンハイが豪語するように火力は確かに凄かった。ただその簡潔な感想を述べればいいだけなのに、それができずに声が出ない……。



「火力は十分だった。が、できることならもう使いたくないな。アレの爆圧で《ソカール》が少し拉げた」



 何も言えない勝也の代わりに、利也が淡々と答えた。それに対して「えぇー!」と大声で抗議して、「もう少し火力を抑えるから、もうヤだとか言わないで!」なんて半泣きで訴えるヤンハイに、勝也は恐怖心を覚えている。ヤンハイは可愛い。だが《雷沃汀》で大勢を死なせておきながら、なおも可愛く無邪気でいられることが却って恐ろしかった。



「何を小さいことを……あんなもの、単なる消耗品だろう」



 ヤンハイをいなす利也の頭上あたりから、冷たく心ない声がする。何事かと見上げてみれば、螺旋階段の頂上に立つ男が、声に負けないくらい冷淡な目でこちらを見下ろしていた。豪奢なシャンデリアの黄味を帯びた光に照らされ、艶やかさを際立たせたミルクティーブラウンの髪が美しい。二階分の高さからしゃなりと飛び降りる様は猫のようだった。音もなく着地した蔦野つたの伊智いちは、不快さを露わにしている勝也と利也を無感動に見ている。



「製造に関与したことのない人間に、とやかく言われる筋合いはないな」



 苦労して作った大事な《ソカール》を、消耗品扱いされるのは我慢ならない。これに関しては勝也と利也の意見は一致しており、開発に関わるヤンハイも同意しているようだ。しかしこうして一斉に非難しても、蔦野伊智は揺らがない。涼しげな表情を崩さぬまま、少しも悪びれなかった。


 伊智は性格が悪い。控えめに言って最悪であり、人を人と思わない冷徹さが鼻についた。しかしまあなんというか、童顔に違和感満載の傷を無数にこさえているだけあって、組織最高レベルの戦闘員だというのだからタチが悪い。文句を言えないほどの実績があると知っている分、下手に口撃して返り討ちにあうのも目に見えていた。


 まあそれはそれとして、彼は肉弾戦分野の人間であり、航空機に関しては素人同然なのだから黙って頂きたい。試行錯誤を繰り返し、自信と矜持を持って創り出したものを消耗品だと言いやがる彼の態度は、どうにも気に入らなかった。



「ああっ、そうだイチ! どうだった? 私の《槲寄生ミストルティン》!」



 勝也や利也と同じように、伊智も任務から帰ったばかりだと思い出したヤンハイは、再び目を輝かせて彼に詰め寄った。先程の批判的な態度はどこへやら、彼女の視線はまっすぐ右腿のガンホルダーに注がれている。標的は拳銃――ではなく、その内部に詰められている銃弾だ。


 彼も望みの兵装を発注したのか、それとも試作品を宛がわれたのか。ヤンハイの反応から察するに、きっと今回は後者だろうと勝也は予測する。伊智は主君のヴィルナエや側近のイザーラ以外の言うことは聞かない男だったが、ヤンハイのことはまあ認めているようだった。押しつけられた試作品を律儀に使ってみたり、逆に伊智からあれこれ注文したりしているのはよく見かけた。今も接近されたことに対する嫌悪感は見てとれず、どちらかというと動揺の方が大きい気がする。年相応の人間味を帯びた目が珍しくて、それを引き出したヤンハイに、勝也も利也も感服している。無邪気さの勝利か。恐るべし。


 触れられる程の距離に近づいても斬りかかる気配がないあたり、二人の仲は決して悪くはないのだろう。全く真逆の性質なのに面白いなあ……と心中でニヤついているこちらの気配を察したのか、伊智はヤンハイの問いに答えることなく突き放した。左腿のホルダーに備えている刀剣を一本引き抜いて、彼女に突きつける。



「馴れ合いは御免蒙る。答える義理はないな」



 さっきまで無防備にヤンハイの接近を許していたくせに、思い出したように冷ややかさを押し出して頸に切っ先を押し当てる。別に、ヤンハイのことは嫌いではない。しかしこんな組織にいる以上、不用意に心を開くわけにはいかなかった。この狼藉を諫める大貫兄弟の声は、聞こえた上で無視している。


 当事者のヤンハイは状況が飲み込めなかったのか、ぽかんとした顔をしていた。それはすぐに歪んで眉間に皺を刻んだけれど、そこに恐怖心は微塵も窺えない。これだから苦手なんだ、こいつは――。



「ちょっと! 答えてくれなきゃ調整できないでしょ! どうだったの、満足のいく威力はあった? 騒音レベルは? 使い勝手は? 教えてくれなきゃ困るのよ、私、銃は扱えないんだから……ねえイチ、聞いてるの?!」



 刃を押しのけて、喚きながら詰め寄るヤンハイは圧巻だった。『殺戮の番犬』と恐れられる伊智をたじろがせ、後退させるのはこの子くらいなのではないか? と思わず感心してしまう。端から恐怖心が備わっていないからか、伊智が《身内》は傷つけない男だと知っているからか。それは定かではないけれど、何にせよ度胸満点の少女であることに違いはない。遂には腕を掴まれて捕らわれてしまい、耳元で騒がれる様はさすがに哀れだった。彼女の声は、よく通るし響くのだ。



「なんだ、騒がしいな」



 伊智が現れたあたりから中性的な声がして、勝也と利也は反射的に萎縮する。が、それと対照的な態度を取ったのは伊智だった。



「イザーラ様……!」



 彼――たぶん彼だと思う、たぶん――の気配を察知するや否や、ぴしと姿勢を正して凜とした顔で畏まっている。さっきまでうんざりしていたのに、割と表情豊かなんだよなぁ……という勝也の思考は伊智に読み取られてしまい、ぎっと横目で睨まれた。眼光は鋭い。


 こんなところに屯さなくてもと微笑むイザーラは、ヴィルナエ同様に性別が読めない。いや、性別だけではないか。ヴィルナエ不在時に取りまとめ役代行を勤める副長的な存在であること以外、全てにおいて謎に包まれた人物だった。


 すでに広く周知されている『寡黙で麗しい武人』という印象くらいしか分からなかったが、ただただ強いということだけは知っていた。素人でも魅入ってしまうほどの手際で向かう敵をねじ伏せ、あの強力なデザートイーグルを普遍的な拳銃みたく軽々扱う様を拝見したことがあるが……圧巻だった。アクション映画かなにかを見ているような感覚で、重力なんかまるで無視した身のこなしも、バタバタと斃れていく敵も、何の現実味もなく傍観していた記憶が勝也にはあった。


 イザーラは、能力に容姿が相まって二次元の住人のようだった。どうにも現実と空想の境界が曖昧になってしまう不思議な生物であり、更にいうと、常に薄ら笑っているから感情も読めなかった。海のように深く青い目は確かに優しげだったが、この人の真意が見えたことは一度もない。



「ちょうど揃っているし、今回の報告を聞こうか。首尾はどうだい?」


「日本での任務は成功しました。篠塚商事および篠塚昭一郎の消滅を確認致しました。その他にも死傷者はありますが、予め想定していた許容範囲内の被害に収まっています」


「欧州拠点のマフィア《フィガロ》構成員の殲滅および自治区域の制圧完了。後の処理は他の戦闘員に任せてあります。それから、そこの頭がヴィルナエ様に下りたいと申しておりますが、信頼性は低いので極東支部に幽閉してあります。これの対処はヴィルナエ様にお任せしてもよろしいでしょうか」


「ああ、私からヴィルナエに伝えておくよ。まだ出先から帰ってきていないからね……。さあ、こんなところで遊んでいないでこちらへおいで。ニーナがお茶を淹れてくれたよ」



 イザーラが優しげな声で奥へ促してようやく、張り詰めた緊張の糸が切れたような気がする。直立の姿勢を少し崩して一息ついて、やっぱり苦手だなあ、と思った勝也は目だけを動かして二人を見る。利也はどこか不遜な態度で冷めた目をしていて、伊智は主人に向けるような、忠誠心を示すような目をしている。自分だけここの活動に向いていないことを再確認したけれど、確認したところで後には退けない。せめて――と前方で軽やかに駆けるヤンハイを見て心を和ませて、勝也は思わずふわりと笑んだ。



「イザーラ様。何か他に、自分にできることはありますか」



 三歩後に控えて恭しく訊ねる伊智の態度は、どこまでも従順だった。これでヴィルナエやイザーラ以外には刺々しいのだから、いっそ清々しくて笑えてくる。そう思われている気配を察知して睨んでくるあたり、本当はよく気がつく良い奴なんだろうな……と勝也は思う。伊智は殺気さえ感じられるほど剣呑な目つきで睨むのを止めないが、どうせヴィルナエやイザーラのいるところでは暴れないのだ。少し調子に乗ってにっこり微笑んでやると、思い切り渋い顔をされた。これだから伊智いじりはやめられない。



「そうだね、それじゃあ準備を手伝って貰おうかな。近日中に《ズィマ》のローズマリー様がおいでになるからね。勝也、利也、お前たちもだよ」


「イザーラさまっ、私は? 私は?」


「ふふっ、じゃあヤンハイにもお願いするね。ニーナのサポートを頼めるかな?」


「やったぁ! 私、しっかりお手伝いしますね!」



 先を行く二人は足取りも軽く、きゃっきゃと和んでいる。が、残された三人の空気は重くどんよりしていた。


《ズィマ》のローズマリーと言えば、数少ない同盟組織のボスだ。人当たりのよいお嬢さんではあるのだが、ヤンハイの無邪気さを三倍濃縮してイザーラの不思議さで少しだけ薄めたような、なんともいえない鮮烈さと強烈さを持った人物なのが問題だった。言うまでもなく他人をブン回すことを得意としており、その上でマシンガンのように喋る彼女と同じ空間にいるのはとても疲れるのだ。



「ぎょ……御意っ……」



 うわずった了解の声を聞いて、勝也も利也も勢いよく伊智を見た。ヴィルナエとイザーラにだけはイエスマンな彼のことだから概ね予想はできていたけれど、それなら本人だけが従えばいい。いいのにうっかり巻き込まれてしまって、伊智に対して若干の憎らしさを感じていた。人に触れることを嫌い、普段は僅かも触らせてくれないくせに、今日に限っては率先して手首を引っ掴んで二人を引き留めている。「拉げた《ソカール》の調整がありますので」とずらかろうとしていたこちらの思惑を読まれ阻害されて、余計なことを、と伊智を睨んだ。するとさっきの自分みたくにっこり微笑んできて、今度は勝也が渋い顔をする羽目になった。ああもう、本当に楽しいヤツだなあ、伊智は!



「――ああ、でもその前に。ヤンハイと伊智は先に行っててくれないか。勝也と利也に聞きたいことがあるんだ」



 柔らかな笑みを崩さずに言うイザーラから、目を反らすことができない。まるで蛇に睨まれた蛙のように竦んでしまった二人を伊智は不審そうに一瞥した後、《彼》に従って先を行く。足音が遠ざかったところですっと細められた目があまりに冷たくて、勝也は思わず唾を呑んだ。得体の知れない恐怖心が、ぶわと全身を襲う。



「日本であったこと、もう少し詳しく教えてくれないか」



              ※



「来たわよ来たわよ、お久しぶりねえ、仔犬ちゃんたち!」



 早めの到着という良くない報せを受けて出迎えた伊智たちは、賑やかな一行を目の前にげんなりしている。それでも構わず突き進み、ヤンハイとアツい抱擁を交わしながら挨拶しているブロンドの美女が件のローズマリーだ。年若くグラマラスな絶世の美女だというのに、対面しようが言葉を交わそうが全く喜べないのは、異常なまでのハイテンションさのせいか、ウラに隠された稼業のせいか。考えても分からないことだしどうでも良いことか……と思考を放棄した勝也は、矢面に立たされている伊智の心中を察す。『客人は快くもてなせ』と命じられたせいで笑んではいるものの、無理をしているがありありとわかるほど違和感満載で、苛立っているのも丸わかりだった。


 イザーラ様も酷いお人だ。珍しく主を憎らしく思った伊智は、背後に勝利兄弟の同情を感じながらローズマリーに対する不平不満を噛み殺すのに手を焼いている。――三時間も早く来やがって。お陰で設営も心の準備もできてねえんだわ、こっちは……。そんな悪態を心の中でつきながら、できるだけの笑顔で出迎える。『イチ、顔が引き攣ってる!』なんてヤンハイの声は無視してやった。煩い、黙っていろ。



「あらあら不満そうねえミルクティーカラーの仔犬ちゃんは。でもなぜかしらね、生意気であればあるほど可愛くなっていくのは……」



悩ましげに眉をひそめて伊智を抱きしめ、傷だらけの頬に何度もキスするのを、勝也はヒヤヒヤしながら見ている。ご主人様の言い付けを守って殺気立ってはいないものの、かなりギリギリのところで耐えているのだろう。震えるほど力一杯、拳を握っているのが見える。



「ず、随分とお早い到着ですね……我が主はまだ出先から戻っていないのですが」


「あらあ。いいのよ、この仔犬ちゃんやそこの子ウサギちゃんと遊んでいるから、気にしないで。ニーナはいるの?」



 堪らず助け船を出したが、状況は好転しない。諦めたのか脱力してされるがままの伊智を抱きしめながら、なんと三時間の接待を彼に命じるローズマリーは鬼のようだ。これでヤンハイ同様に悪意がないのだから最高にタチが悪い。


 そしてボスに倣って、側近もまた面倒くさかった。似たような顔をした二人の側近たちは、主の暴走を咎めることなく寧ろ面白がってニヤニヤしている。しっかり勤めを果たせよ馬鹿野郎。そうして諫めるような目線を送っても、それさえ面白がられてしまうのが腹立たしかった。伊智を引き摺って奥へ進んでいくローズマリーを見送っていると、玄関の方向から冷えた風が流れ込んできた。重い鉄の扉が、ゴリゴリと音を立てて開かれる。



「……ローズマリー……?」


「あらぁ。子猫ちゃん、随分と汚れているわね。砂遊びでもしてきたのかしら」



 そこに現れたのは、砂漠地帯での任務を果たして帰還したヴィルナエとダグラスだった。ヴィルナエは予定よりも随分と早い来客に驚き、面食らっている。



「ヴィルナエ様……!」



 待ちわびた主の声を聞いて、息を吹き返したのは伊智だった。諦観しきって身を預けていたのに、振り返りながら抵抗の力を強めて懸命に振りほどこうとしている。必死の伊智に対してヴィルナエは「時間を間違えたかな?」と不安そうにこちらを見上げているが、現在の時刻や周りの反応を見るに間違ってはいないと思う。間違えているのはきっとあちら側だよ、と笑み返して落ち着かせ、手で制して一歩下がらせた。



「よくいらしてくれた、ローズマリー嬢。帰りがけで申し訳ないが、客間へ案内しよう。こちらが整うまで、ヤンハイとニーナがもてなそう」



 屈強な肉体に凡そ似つかわしくない英国紳士ぶりを発揮して、ダグラスはローズマリーの手を取った。気が緩んだらしい彼女の隙をついて、伊智をその腕の中から引っ張り出す。見送った彼を一瞥すると、安心したような不本意だとでも言いたげな、そんな相反する感情が綯い交ぜになったような顔をしていた。――俺が他人に助けられるなんて屈辱だ――。きっとそう言いたいのだろう。


 しかしなんというか……イザーラも酷なことをしてくれる。伊智は人付き合いが苦手だから戦闘の専門職に就かせているというのに、会談の接待役を命じるなんて嫌がらせにも等しい。まあ、《彼》に良識というものを求めること自体がそもそもの間違いなのだけれど。



「お帰りなさいませ、ヴィルナエ様」



《ズィマ》一行とヤンハイを率いたダグラスが見えなくなった頃、残った伊智と大貫兄弟は、跪いて主たるヴィルナエを改めて出迎えた。砂で白く汚れた彼女はどこか浮かない顔をしていたが、それを指摘することなく崇め続けることの異常さはよく分かっている。しかし『保つ』ためには不可欠なことで、それを思うと胸が痛んだ。勝手な都合で彼女だけを犠牲にするなんて、そんなの無情がすぎる。いつものように困り顔で手を挙げ、『もういいよ』と合図するヴィルナエを見て勝也はそう思った。


 このことを、彼はどう思っているのだろう。固い決意を宿した目で床を凝視する蔦野伊智を横目で見て、今度問うてみようか……と画策している。帰ってくる答えは概ね予測できているが、誰より強くヴィルナエを慕っている伊智だから、彼女の苦悩に気付いていると信じたかった。


 跪いたまま、もう一度ヴィルナエを見上げる。やはりその顔には陰りがあって、悩み、苦しんでいるように見えた。



(ヴィルナエ……俺はどうすれば良い? 頼子、こんなときお前ならどうする……)



 彼女の希望に沿って招集に応じ、《ドゥラークラーイ》に所属したはいいが、本来果たすべき役を果たせていない気がする。そういえば頼子と触れあった直後は柔い顔をしていたし、彼女なら或いは――と望みを掛けて、病床に伏している妹に縋る。しかしそれでも答えは出ず、勝也は改めて己の無力さに失望していた。寂しげに揺れるばかりの灰色の瞳に気付かないふりをして、見殺しにするしかできない。胸が軋む。




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