第二部 火影
遂にこの日が来てしまった。極秘の格納庫の隅に座り込んで、大貫勝也は大きく息を吐いた。今からあの任務を遂行するのかと思うと、憂鬱で仕方がない。
これから、ある貿易会社のオフィスビルを爆破する。生まれ育った国で、更に言えば地元で空爆を行うことには抵抗があったが、標的が悪辣な取引をやめないのだから仕方がない。仕方がないんだ……と繰り返し言い聞かせて、諦観した勝也はすっと目を細めた。
この世界に飛び込んだのは自らの意志だ。決して無理強いされているわけではないが、やはり人を殺す行為には大いに抵抗があった。加入してもうすぐ一年が経つのだし、いい加減に慣れなければならないと思っているが、大きく倫理から外れたことをしている自覚がある分、任務のたびにひどく感傷的になる。しかも、今回の標的は故郷だ。妹や友人たちが暮らす街の一部を破壊するのだと思うと、殊更に複雑な気持ちになった。
「
よくなじむ響きを確かめながら、勝也はそれを後悔した。ギリギリと胃が痛む。本当に俺にできるのか? 漠然とした不安を抱えたまま、勝也は『篠塚』のことを考えていた。
地元の高校を卒業して、航空系の専門学校に進学したときのことだ。本当は働きながら頼子の面倒を見ていくつもりだったが、「家にいてくれるなら、好きなことをして欲しい」という本人からの言葉に甘えて、夢を追う道に進んだのだった。
そのときのクラスメイトに『篠塚』がいて、一際目立つ存在だった。別に仲は良くない。家の外では悪ふざけしがちな大貫兄弟と、真面目な委員長タイプの『篠塚』の反りが合うはずもなく対立することも多かったが、奴はクラスで大変に人気があった。学年に数人しかいない女子生徒、顔面偏差値は上級――とくれば年頃の男たちが放っておくはずもなく、融通の利かない面倒な面があっても、周囲に人が絶えたことはない。
規則、規則と煩いところが気に食わず、利也は最後まで馬が合わなかったようだが、勝也は最終的には歩み寄っている。面倒くさいことに変わりはなかったが、言ってみれば「真逆の考えを持っている」ということだ。自分では出せないアイデアや意見をぶつけあい、喧嘩しながら切磋琢磨しあった関係は、今となっては悪くなかったと思う。卒業後の進路を明確にしない自分たちを一番に心配したのは彼女だったし、卒業する日までは頻繁に連絡しあう程度の交友関係だったが、その日を境に全てを切った。
この卒業の日が、国籍不定の武装組織《ドゥラークラーイ》に戦闘員として加入した日だ。
勝也が『篠塚』と知り合ったのと、薄幸の少女ヴィルナエと知り合ったのは、ほぼ同時期だった。入院しがちだった頼子は気付いていないようだったが、彼女があのアパートに来たのはあれが初めてではない。一昨年の春頃に三ヶ月ほど、奇妙な共同生活を送っていたことがあった。ひどい怪我をして敷地内で倒れていた彼女を見つけ、利也と二人で介抱したのが始まりだった。
『おい、これ……事件か何かか……?』
『何にせよ、早く処置しなきゃマズい出血量だぞ。一一九と一一〇――』
携帯電話を取りだして連絡する素振りを見せた途端、死んでいるみたいに動かなかった赤毛が急に動き、心臓が止まりそうになるほど驚いた。血をしぶかせながら険しい形相で飛びかかり、押し倒すかたちで勝也の首を絞めている。さすがに命の危機を感じて、関わったことを後悔していた勝也だったが、赤毛が抵抗する中で見せた目に気が変わった。
怯えている。心細そうに揺れる瞳に、直感でそう思った。
『――――ッ』
その灰色の目が横に流れて見えなくなって、呼吸も楽になる。何事かと目を白黒させながら流れた方を見ると、地面を滑るように転がる赤毛があった。それを追う利也の姿も次いで捉えて、勝也は思わず声を上げた。
『ま、待て利也……!』
利也が赤毛を突き飛ばして、反撃しようとしているのだと解釈した勝也は二人のあいだに割って入る。利也を隔てた向こう側に、赤毛が作った血痕の帯が伸びている。その様にあのときのことを思い出して、勝也は激しい動悸に悩まされた。
『何をしている、待てばお前が死んじまうんだぞ……!』
『大丈……痛っ! ……大丈夫だって……な? お前もちょっと落ち着けって……!』
庇っているうちに体勢を立て直したらしい赤毛に背後から攻められているものの、先ほどの鋭さはない。目に見えて分かるほど弱り切っている。まあ当然だ。一時的にとはいえ意識を失い、倒れて動けなくなる程度に消耗していたのだから――。
本当は、死ぬほど怖かった。でも目の前で死なれる方が余程怖くて、勝也は二人を必死に宥めた。あまり言葉も通じないらしいのを身振り手振りで落ち着かせ、取り急ぎで自宅へ引きずり込む。取りあえず落ち着くまでは監視も兼ねて共生しようと、赤毛を含めて満場一致で決まってからは、頼子が退院できないことを除けば驚くほどに穏やかな暮らしだった。
赤毛の名前はヴィルナエといった。姓はないそうだ。正規の手順を踏まずに生まれたらしく、身分を証明できるものは何も持っていなかった。そもそも名前も持っておらず、《ヴィルナエ》と周りが勝手に呼びはじめ、単に《子猫》と呼ばれることもあるのだと、随分穏やかに教えてくれた。
出生や生活ぶりは変わっていたが、ヴィルナエの内面は意外にも普通だった。一般常識や情動に欠けている部分もあったが、教えればすぐに覚えたし、好奇心旺盛なのか知識の吸収には貪欲だった。無口なまま目を輝かせてそわそわする様が猫のようで、仔猫の綽名も納得がいく。あのときの猛攻が嘘のように穏やかで、当初は警戒しあっていた利也とも今では打ち解け、互いにぎこちないカタコトの英語で会話しているのもよく見かける。
彼女の人格が有害なわけではないと分かっていたが、あの怪我だし銃も所持している。服を剥ぎ取った体は穴だらけで、あれだけの出血量も可笑しくないと納得せざるをえなかった。出血していない部分にも痣や銃創が目立ち、危ないことに首を突っ込んでいる――裏側で生きる人間なのだと言うことは一目瞭然だった。『本当に病院に行かなくていいのか』という問いに何度も拒否の意を示し、『ここじゃあその傷はどうにもできない』というこちらの主張を無視して、ヴィルナエは傷口に指を突っ込み、強引に銃弾を引き抜いていく……。
見ているだけでも痛く苦しいのに、背中の銃弾を引き抜く大役を任されてしまった。勝也は、そのときのことを鮮明に記憶している。ぐずぐずになった肉の感触、引き抜くときの感覚、そのたび新たに噴きこぼれる血の匂いもえぐみも、今すぐにだって思い出せるくらいだ。
明らかに縫合が必要な傷を作っておきながら、市販の消毒液とガーゼによる患部の保護だけで治してしまったヴィルナエは、その間に覚えた日本語でいろんな話をしてくれた。その内容は、主に世界中を巡った冒険譚。たぶん裏社会の話なんだろうなあ……と思ったけれど、まるで映画や小説のような非日常的な出来事を聞くのは密やかな楽しみだった。
ヴィルナエは一般常識には欠けていたが、時事問題にはいやに詳しかった。あの地域では紛争が起こっている、あの国は内部分裂しそうだ、この国の経済状況は芳しくない――現実なのだろうが現実じゃないみたいな、嘘か本当か判別できないような話で己の無知を思い知る。
知らないからこそ判断できず、信じるしかない。飛行機の知識なら持っているけれど、世の中で今なにが起きているのか? という問いの解は、幾ら考えても日本のことすら浮かんでこなかった。
世界を知らない。生まれ育った国のことさえ知らない。ヴィルナエとの出会いで急激に窮屈さを感じるようになって、境のない空に余計に焦がれた。知りたい。そう思って間もなくヴィルナエは去り、その間際に『支えになって欲しい』と乞われ、心が揺れた。
自分と利也には、ハンデを抱えた頼子を助け守る義務がある。けれどその他にやりたいこともできてしまったし、この薄幸の子猫を放っておくこともできなかった。これまで散々押さえ込んできた反動か欲求は膨れ上がるばかりで、決着つかぬ葛藤に苦しめられた。頼子は「好きなことをして欲しい」と言っていたが、それには家に留まるという条件がある。ヴィルナエと共に行くには実家はおろか日本を出る必要があり、不本意ではあるが「頼子を棄てる」という最悪な結果になってしまう……。
「勝也、時間だ」
深い思案をねじ切るような声を聞いて、勝也は緩やかに顔を上げる。自分とよく似ているはずの声は妙にさっぱりしていて、全く似ていないように感じる。腕時計で時間を確認しながら促す様もひどく淡々としていて、それが今の勝也には死ぬほど羨ましかった。
生きる目的がいまいち定まっていない勝也に対し、利也は頼子の存在そのものが生き甲斐だった。彼は、産まれた時から一緒にいる勝也でも少し引いてしまうくらいに妹を溺愛している。全てに於いて頼子中心の人生を送っており、散々悩み抜いて組織への参加を決めたときも、きっと頼子を想いながら考えたのだろう。同じような顔をした一卵性双生児のくせに中身はまるで違う弟の後ろ姿に妬きながら、勝也はゆったりと立ち上がった。ちょっとくらい、その心の強さを分けて欲しい。
「……ああ、分かった」
利也に誘導されるまま、格納庫の中心あたりに並んだ小型攻撃機に歩み寄る。専門学校で得た知識、そして《ドゥラークラーイ》で学んだ最新技術を全て詰め込んだ自慢の愛機は《
これで天敵の――獰猛で粗野な《狼》を狩り取ってやろうと意気込んで作った愛機は、贔屓目なしで優秀な子だと思っている。ステルス性能を高めるためにレーダーは搭載していないが、機動力も攻撃力も抜群だと自負していた。日本に駐留している『協力者』たちのメンテナンスを受けたそれぞれの愛機に乗り込んで、計器板を点検する。
この《ソカール》には、組織の同僚が丹精込めて作った爆弾が積めるだけ積まれている。気化式のサーモバリック爆弾だとか言っていた気がするが、生憎と爆弾に詳しくない勝也にはよく分からない話だった。性能がどうだ、こんな化学反応が起きている、この子を世界一愛しているのは自分だとかなんとか、とにかく熱を上げてあれこれ喋っていたが、とっ散らかっている上に容赦なく専門用語をぶち込み、さらには勝也たちに全く馴染みのない母国語を織り交ぜてくるから、内容はほとんど頭に入っていない。奴には怒られるだろうが、まあとにかく、確実に目標を壊せる威力さえあればどんな爆弾だって構わないのだ。
それにしても、この爆弾は威力がありすぎると勝也は思っていた。作戦をシミュレートしたところで脳裏に浮かんだ結末に、胸のむかつきを感じている。
凄まじい爆圧、熱波、暴風――何もない広大な空地での実験なら、凄いなぁ、なんて気の抜けた感想だけで片付けられる。だが今回は、その渦中に生きた人間がいる。押し潰されて砕け、灼熱に焼かれ、酸素の欠乏に悶え苦しむのかと思うと痛ましく、悍ましかった。
大きく息を吐いて、エンジンに点火する。十分に温まったところで合図が出され、ブレーキペダルを踏む力を緩めながら滑走路を走った。目の前には利也の機がある。彼がふわりと浮き上がったと同時に、勝也も操縦桿を手前に引いて離陸した。翼だけが大きい小型の《ソカール》が、夜の闇に飲まれていく。もう後戻りはできない。
※
真っ暗い夜の空を、二機の《ソカール》が泳ぐように飛ぶ。
明かりのない高高度とは対照的に、地上の都会は深夜でも明るい。旅客機の航路を避け、レーダーに捉えられないよう万全を期しているが、万が一見つかればタダでは済まないし、こちらもタダで捕まる気は毛頭ない。何事もなく過ぎてくれ……と願いながら、周囲に気を配りつつ前進していく。
目標が近づく。緊張感はあるが高揚感はなく、ただただ憂鬱、といった塩梅だった。前方を飛ぶ利也の様子は分からなかったが、きっとマイナスの感情は持っていないのだろう。出発前の彼からは、不安も緊張も窺えなかった。
――双子だし、やっぱりお互い何がなくても分かり合ってるんだろう? ――物心ついた頃から今まで、もう嫌というほど言われてきたが、そんなことは全くないと勝也は思う。そりゃあ長いこと共同生活をしているのだし、なんとなくの行動パターンは把握しているつもりだ。けれどやはり『自分』ではない『他人』だし、何を考えているのか掌握できるはずもない。嗜好も思考も性格も似ていなくて、今だって、利也が何を思って行動しているのか見当もつかない。一卵性双生児のくせに、なんて言われたって仕方がない。例え同じ遺伝子を持っていようが、結局は別々の生命体なのだから。
《目標確認。爆撃を開始》
「……了解」
無線機の向こうからする利也の声は、やはり冷静だった。塞ぎ込んで退きたがっている自分とは大違いで、そこに劣等感を覚えて嫌になる。嫌になってもやらなければならず、淡々と事を進めるしかなかった。眼前で利也の《ソカール》が通常爆弾を投下するのを眺めながら、作戦遂行のために体勢を整える――。
徐々に高度を上げて、目標のビル手前で緩やかに降下しながら、操縦桿の側面上部にある兵装投下ボタンを押し下げる。開いた弾倉から件の爆弾マニア渾身の力作――《
勝也の気持ちに反して《雷沃汀》は正常に機能しているらしく、信管が作動して上手く気化された燃料が、空気を取り込んで炸裂する。その威力は実験で経験したとおりに強烈で、素早く逃げたにも関わらず衝撃波の煽りを受けて大きく揺られていた。
利也の先制攻撃で随分脆くなったビルが、鮮やかな赤と橙に呑まれて押しつぶされていく。標的だけでは物足りないのか、周辺のビルやマンションまで飲み込んでいくのを目端に見た勝也は、無感動にそれを傍観していた。状況に気持ちがついていかず、あまり深く考えられない。
建物が密集する都会の習性が災いして、無関係な人間まで犠牲になっていく。でもこれも「必要経費」なのだと、組織の人間たちが言っていた。何かを成すには、それと同等の犠牲が必要なのだと。
こんなもんだから《ドゥラークラーイ》の悪評は留まることなく広がるし、危険なテロ組織扱いなのだろう。平坦な気持ちのまま『迷惑な話だなあ』と思いながら、ほろほろと崩れていく標的の影を勝也は見送った。作戦はひとまず成功だ。あれでは生存者なんていないだろうし、いても長くはもつまい。親を亡くす痛みを篠塚にまで与えてしまうことに一抹の罪悪感を覚え、そして彼女の気持ちを察して悲しくなったが、すぐに消し去って操縦桿を握りしめた。
『任務完了。見つからないうちに引き上げよう』
「……了解」
無線から聞こえる利也の声に従って、勝也は速度を上げて現場から遠ざかる。自分より随分と冷静な声には非難の色が滲んでいるような気がして、叱責されているような感覚に苛まれた。実際そうなのだろうし、ヴィルナエとの約束を守るためには、割り切った上でしっかりと集中しなければならないのもまた事実だった。勝也は大きく息を吐いて気持ちを切り替え、追跡する影がないか、目視で周囲を隈なく観察する。
そうしていると、嫌でも現場の様子が目に入る。
高温に晒されて轟轟と燃える建造物は不自然なほどに赤く、黒く塗り潰されたはずの夜空を照らして力尽くで塗り替えようとする。地上でけたたましく鳴るサイレンの音を微かに聞きながら、勝也は表情を崩さないまま、自身の中で使命感と罪悪感が鬩ぎあうのを感じていた。頭が痛い。耳鳴りがする。
ヴィルナエも、こんな気持ちを抱えて奔走しているのだろうか。だとしたら、尚更救ってやらないと。やはりこの状況で集中するなんて無理で、気負えば気負うほどに散漫になっていく。観察しながらも脳内ではあれこれ思案してしまって止め処ない。組織の中枢部に組み込んで貰っておきながら何て体たらくだ。ここで狙撃されて死んだら非難囂々だよなぁ……。勝也は浮ついた気持ちのまま、斜め前方を飛ぶ利也を追った。また大勢を殺してしまったのだという事実がじわじわ這い寄る感覚に怯えて、無駄に強ばった体は解れてくれない。
後方に流れていく空は恐ろしいほどに赤く、網膜に焼きついて離れなかった。頼子は元気でいるだろうか。
※
『今日未明、都内のビルが爆発する事件がありました。被害に遭ったビルは貿易会社の篠塚商事本社で、百名を超える死傷者が出ています。――《ドゥラークラーイ》の犯行によるものと見て、調査を進めています……』
深夜から急激に慌ただしくなった社内で、自分たちの不始末にもなりえるニュースを忌々しげに見ている。有限会社とは名ばかりの私立防衛組織《ヴォルク》の代表である
だが、この苛立ちの主原因は出し抜かれたことではない。随分と手緩くなってしまった自分が許せなかったからだ。
これまではどんな手を使ってでも対象を追い詰め、堕としてきたのに、今回はそれをしなかった。その結果に爆破事件が起こってしまったのだから、原因は間違いなく自分にある。現場の状況や報告書からも《ドゥラークラーイ》の犯行であることはほぼ確定しており、だからこそ、あの晩のことが悔やまれた。
ふらりと現れて夕刻から追い続けていたヴィルナエは、やはりあのアパートにいたのだろう。適度な怪我を負わせてしつこく追い込んで、肉体的にも精神的にもうまく疲弊させられていたのは確かだ。あと一歩。あと一歩で手中に収められたはずだったのに、誰がどう見ても素人の小娘に手間取り阻まれたせいで、あの惨劇に繋がった――
否、あれは自分の選択ミスだ。あの小娘の行動や態度が悪かったからというわけではなくて、安宿が本能的に、手出しを拒んだ結果だった。
強行突破なり法的措置なり、多少乱暴になってもやりようは幾らもあった。なのに一番平和な「何もしない」を選んだのは自分自身だ。いつからこんなに温い人間になってしまったのか。こちらの本性を見抜いたかのような態度で「お前が嫌いだ」と叫ぶ小娘に対して、心理的な挙動を観測するなんて。こんなのまるで……
「随分と機嫌が悪そうねぇ。そんなに先手を打たれたのが悔しかったのかしら?」
背後から、誰かの手の甲が頬を撫でる。その手が少し揺れたと同時に「この性悪猫!」と怒鳴る声を聞いた安宿は、背後で揉み合う気配を感じながら、大きく溜め息をついて脱力した。世間はこんなにも切迫しているのに、この同僚たちはいつもと何も変わらない。
「安宿に触るな、若宮! お前が触れたら穢れてしまうだろう!」
「あらあ、心配しなくたって最初から穢れてるわよ。アスカちゃんだって、いつまでも純粋な天使様じゃないのよ?」
ねえ? と意味深に問う
変わり者なのはこの二人だけではない。他の社員も見事に変人揃いで、女好きな性悪女と偏愛的でヒステリックな男というだけでも中々に濃いが、昨年入社した新人幹部も見事に社会不適合者だった。今も持ち込んだ枕に顔を埋めて寝入っており、非常事態に動じる気配がない。まあ、それでも有能だし頼りになるから強く咎める気はないのだが、下に示しがつかないから控えて欲しい。
「そうそう、昨日言ってた女の子の身辺調査、上がってるみたいよ」
責め立てる寿晴を押し退けながら、緋多岐は枕から顔を上げようとしない新人幹部のデスクから書類を拾い上げる。興味ありげにぺらぺら流し読んでいたのを取り上げて、安宿はそれを読み進めた。昨日の小娘について調べさせた書類だった。
(大貫頼子、十七歳。高校生だが通学はほとんどしていない。家族構成は兄二人、両親は四年前に事故で他界。生まれて間もなくの疾患で心臓を痛め、入退院を繰り返しており投薬が不可欠。現在も体調を崩しており入院中――)
「珍しいわね、アスカちゃんが一人の子に執着するなんて」
「してない」
「してるでしょう。こんなに調べさせて……第二の子猫ちゃん現る、って感じかしら」
愉快そうに笑う緋多岐を睨みつけて、安宿は押し黙った。あながち嘘じゃないから否定もできない。些細な嘘でも見破れるだけの慧眼を持っていると知っているぶん、適当にあしらうこともできなくて最高に面倒くさい。今だって、すでにニヤニヤしていて嫌な感じだ。
「……《ドゥラークラーイ》に関する重要参考人だ。奴らを殲滅に追い込む鍵になるかも知れん」
そうでなくても、接点は十分すぎるほどにあるはずだ。向こうの新しい幹部に、同じ姓の『オオヌキ』が二人いる。彼女の兄らと新人幹部とでは、推定年齢や加入と出国のタイミングがほぼ一致しており、同一人物だろうと踏んでいた。いざというときはこの小娘を人質に炙り出してやろうと決めて、安宿は資料をソファに放った。
「……ボス」
気の抜けた声に呼ばれて左方を見ると、新人幹部のサラディーノ・ラヴィトラーニが、のっそりと枕から顔を上げている。青い目に金髪という典型的な白人男性のなりをした彼は、期待の新人としてイタリアからスカウトされてきた男だった。
サラディーノはそのまましばらくぼんやりしていて、寝ぼけているのでは? と思うくらいにその後の動きがない。「その呼び方はやめろ」と諫めるのはやめて数秒待ってやると、寝起きの掠れた声がもう一度安宿を呼んだ。
「ボス。言いそびれてしまいましたが、志願者からの連絡がありました。……どうしますか。面接、しますか」
「どんな人物だ」
「篠塚あゆみ、二十一歳、日本人。航空専門学校卒業。航空機の操縦や整備への知見あり。戦闘経験なし。現在は篠塚商事で受付嬢として勤務。生真面目な性格で融通の利かないところもありますが、規則から大きく外れることもなく扱いやすいと思われます。それから……篠塚商事代表の一人娘ですね」
ありがちな復讐劇、と言いたげな気怠い声で、サラディーノはハキハキと志願書を読み上げる。寝ぼけ眼はそのままだったが、語気はだいぶ冷え冷えとしていた。
これには安宿も同意見で、志願者が遺族である場合、九十九パーセントが敵討ち目的で参加を希望している。そんな理由で戦うことを選んだ奴にろくなのはいない。それが安宿の見解だ。冷静さに欠くし、結局は己の復讐を最優先にするから、集団の中に加わられるとかえって迷惑だった。
これまでも《ヴォルク》志願者は大勢いたが、軒並み役に立たなかった。心身ともに強靱な奴はほとんどいなくて、それでも人手不足だからと事務員として雇っても、どれも半年ももたなかった。創立以来、唯一の当たりといえばこのサラディーノくらいで、これに関していえばスカウトした緋多岐を褒めざるを得ない。彼の語学と射撃技術には目を見張るものがあったが、寝過ぎることと女性恐怖症――嫌悪症に限りなく近い――という欠点で相殺されており、本当に勿体ない。今回のこれも、言いそびれていたというよりは忘れていたかったのだろう。なんせ志願者は、彼が最も苦手とするものだ。今のサラディーノといえば、暇を持て余した緋多岐に絡まれてあわあわしている。蒼白になった顔面には、有能なときの面影はない。
「娘だと? 駄目だ駄目だ、そんなもの面接の必要もない! どうせ安宿目当てに決まって、」
「サラディーノ、篠塚あゆみは航空専門学校の何期生だ?」
「に、二十七期生です……」
「安宿!」
絶叫している寿晴を再度無視して、サラディーノに問う。返ってきた答えは安宿にとって好都合で、不敵に笑んで立ち上がる。やはりあの小娘の身辺調査をさせておいて良かった……。
「娘を呼べ。審査を行う」
「安宿……!」
縋る寿晴をやはり無視して、安宿はサラディーノに指示を出す。彼はこの世の終わりかと思うほどに絶望的な顔をしたが、苦手は克服してもらわなければ困る。枕を握りしめてトボトボと歩くサラディーノの背中と、足下で騒ぐ寿晴を一瞥した後、安宿は口元に手を当てて笑む。こんな都合の良いことはそうそうない。複雑なパズルを綺麗に組み上げられたような爽快感が胸に湧いて、じわじわと歓喜に変わっていくのを感じている。
(精々、都合のいい駒になって貰う……)
早くもあの《子猫》に接触できるかも知れない。例の新人幹部と思われる大貫勝也と利也は、篠塚あゆみと同じ二十七期生だった。
※
こんなの、入社審査じゃなくて確認作業だ。目の前で行われている箕輪安宿と篠塚あゆみの《面接》を見て、サラディーノは思った。動機は聞くまでもなく報復のためで、ただ単純に「普通の女だ」と思った。
彼女が語る昨夜の惨状もまた「普通」だった。煙を上げて今もなお崩れるビルのこと。内装は焼け焦げ、備品類が溶けてドロドロになっていること。深夜だったがまだ働いている人もいて、残っていた両親や従業員たちが炭くずになってしまったこと。全てが「異常」なのに、彼女を経由すると「普通」になる。なんだか化け物を目の前にしている気分になって、サラディーノはぐっと右手に力を込めた。
端から見れば、《家族を奪われながらも前を向く、健気で哀れなお嬢さん》なのだろう。でも惨状を伝える様は淡々としていて、「異常」を「普通」に語る目は濁って見えた。狂気じみている。多分あれだ。憎しみが振り切って、かえって冷静に見えるあれ。こんな女と一緒に仕事はしたくないなあ……とサラディーノが思っても、きっと安宿は所属させるのだろう。戦闘員としてはハズレでも、事務員としてはそれなりに使えそうだし。
「あのビルを狙われた心当たりは?」
「ありません。あくどい富豪を――みたいなこと言ってましたけど、父がそんなことするはずないんです。社員たちにも慕われてて、職場の雰囲気もとてもよかったんです」
「そうか……」
安宿との遣り取りを聞いて、自社の実態をまるで把握していないあゆみに呆れた。彼女の思う篠塚商事と、実際の篠塚商事とでは雲泥の差がある。違法取引の元に成り上がった商社だと疑いもせず、クリーンな会社だと思い込んでいるようだ。交代制の会社じゃないのに深夜まで残っている時点でクリーンじゃないのに。まあそう思うのも住む世界が違いすぎるせいだろうと納得して、後ろ手に隠し持った拳銃を弄ぶ。――きっと奴は、下手をすれば俺に眉間を撃ち抜かれる可能性があるなんて、微塵も考えていないんだろうな。
「それからもう一つ。今回の事件とは別にこの二人を探しているんだが……なにか心当たりは?」
「――専門学校の同級生です! あの、この二人がどうかしたんですか?」
「少し前から行方不明でね、捜索依頼が出ているんだ。なかなか難航しているから、少しでも手がかりが掴めれば、と」
「あの二人が……じゃああの子は……? 一人きりで生活なんて無理だわ……」
勝手に慌てて焦りだしたあゆみに、安宿は目をすっと細めた。――繋がった。実態の掴めない《ドゥラークラーイ》との接点ができはじめているのをじわじわ感じながら、彼の心は高揚していく。嗤われながらも張り続けた網にようやく獲物がかかった感覚で、これまでの行為は決して無駄じゃなかったのだと思うと、泣きたいくらいに嬉しかった。それは背後に控えているサラディーノにも伝わるほどで、よほど《雪原の子猫》に会いたいのだな、とサラディーノはぼんやりと傍観していた。
「あの子、というのは?」
「二人の妹さんです。話に聞いただけなんですけど、心臓が悪いみたいで……ご両親も早くに亡くされてるし、二人がいなくなったら一人きりになってしまうんです。――でも捜索依頼を出したのって、その子じゃないんですか?」
探しているならそれくらい知ってるんじゃないか、と言いたげな視線は無視して、安宿は静かに立ち上がった。その後ろ姿はやはり嬉しそうで、この人は今、どんな顔をしているのだろうとサラディーノは考える。
「寿晴、緋多岐。これから《捜査》を開始する。事前に指示していた箇所を探れ。……何をしているサラディーノ、お前は新人の案内と教育だ」
唐突に振り返ったこの男は、ひどく楽しそうな顔で残酷なことを言う。間接的に内定の報せを受けた女もまた嬉しそうで、元気に「よろしくお願いします!」なんて宣いける。酷だ。
「苦手を苦手なままにしておくと、後々命取りになるぞ」
お前もそろそろステップアップしないとな、と去り際にサラディーノの肩を叩く。新人教育なんてそんなもの、得意なやつに任せれば良いのに。本当に嫌そうなこちらなどまるで無視して、目を輝かせて待っているこの女が憎らしい。しかし他に誰もいなくなったこの環境では受け入れるしかなくて、観念したサラディーノは、肺の空気全てを吐き出す勢いで溜め息をつく。握った拳銃を保険にして、ソファの向こうのあゆみへとにじり寄った。
※
なにも嬉しくないし、安らぎもしない。
せっかく退院できたのに少しも喜べない大貫頼子は、静かすぎる自宅でひとり、ぽつんと座り込んでいた。何もする気になれない。
原因は兄たちだ。彼らのせいで何かあった、と言うわけではなくて、ただあの日打ち明けられたことが受け止めきれないだけだ。好きなことをして欲しい――とは思っていたが、まさかそれが空爆だなんて考えたことはなかった。先日のあれもきっと兄たちの仕業で、彼らが大勢に危害を加える側に立ってしまったことが何より心苦しかった。
テロ紛い――テロではないと信じたい――の行動を起こした動機は何だ? 何か不満を抱えていたのか……と考えて思い立ったのは自分自身だ。彼らが不満を抱えるとしたら、虚弱で手のかかる妹くらいしかない。学生時代の全てを犠牲にして自分の世話をして、更に生計も立てていたのだという事実を思い出した頼子は更に憂鬱になった。部活もできず、友達ともろくに遊べず、ただ自分の看病に時間を費やさせてしまう日々。その罪の重さは計り知れず、もうどうしていいのか分からなかった。――悪い兄ちゃんでごめんな――。兄はそう言っていたが、違う。本当に謝るべきなのは自分だ。不出来な妹でごめんなさい、あの事故で死ぬべきだったのは私だ……。頼子は手で顔を覆い、蹲る。
「――――っ!」
憂鬱と罪悪感に悶えていたところで急に玄関のチャイムが鳴って、頼子は跳ねるように顔を上げた。驚いてしまって心臓が痛む。でも幸いにも発作の予感はなくて、安堵に息を吐いた。
こんな気持ちのまま出たくないなぁ。そう思っても、他に誰もいないのだから出なきゃいけない。家事と近所づきあいくらいきちんとしないと、それこそ兄たちに合わす顔がない。二度目のチャイムに急かされるように立ち上がって、玄関のドアを開ける。その向こう側に見えた姿に、頼子は呆然としていた。
「どうも。はじめまして――ではないですね?」
作り物みたいな端正さには覚えがあった。赤毛と出会った日に訪ねてきた、確か『箕輪』って人だ。相変わらず爽やかな笑顔に全く合わない濁った目をしており、気味が悪かった。なのに……それを見た途端にさっきまでの憂鬱さが消え失せていることに気付く。嫌すぎるあまりに防衛本能が働いて、活力を取り戻したと言うことだろうか。呆然と安宿を見上げたまま、頼子はぼんやりと考え事をしている。
そんな頼子を見下ろす安宿は戸惑っていた。三日前には攻撃的なくらいに反発していた娘が、無防備な状態で目の前に立っている。あの日のことを踏まえて少々手荒な真似をしてでも……と思っていただけに、肩すかしを食らった気分だ。今日まで入院していたと聞くが、弱った女とはこんなものなのだろうか。気の強い女か死体になった女にしか縁のない自分にはよく分からない話だと、安宿はそれ以上の追究はしなかった。
「……赤髪の女なんて来てませんけど」
ややあって口を開いたのは頼子の方だった。多分まだ探していて、疑われていた自分のところに再確認に来たのだろう。そう高を括って答えたそれに嘘はない。入院していた間のことは分からないが、帰ってきてからは誰も来ていない。そういえばいつの間にかいなくなっていたけれど、あの赤毛は無事なのだろうか。勝也か利也が連れ帰ったのかな……そういえば新聞受けに投げ込まれたこの人の名刺、どうしたっけ――。一度にあれこれ思い出して散漫になりながら、頼子は安宿を注視している。
「覚えていて頂けたのですね。でも、今日の用件はそれではないのですよ。あなたのお兄さんたちについて、少し」
「――――」
思いもよらなかった用件に、息が詰まった。
口を開いたまま呆然と見上げている自分は相当な阿呆面なのだろうが、そんなこと気に留めていられないほどに動揺している。
「何か知ってるんですか……?」
この機を逃すまいと、隙間程度に開けていたドアを全開にして詰め寄った。初対面の頃とはまるで違う頼子に、安宿はまた、心理的な挙動を観測している。
類似した心情は、興味と庇護心。一般人の小娘に何を馬鹿な。ただあの赤毛の手がかりが掴めればいいだけなのに、これまで何をどうしようと湧かなかった感情の顕現に戸惑っている。それと同時に弄ばれているような気分にもなって、自尊心を傷つけられたようで気分が悪かった。
「……君が望む情報があるかは知らないが、確認して貰いたいことがある。弊社まで同行願う」
無駄な柔さを取り払って、有無を言わさぬ威圧的な声で安宿は言う。どうせこの娘には猫を被ったって無意味だし、現に冷淡な態度を取っても、彼女の表情は変わらなかった。抵抗されようが無理やり連行するつもりでいる安宿に対し、頼子はどんなに怪しかろうがついて行くつもりでいた。例えそれで死んでしまうことになっても構わないから、兄たちが組織に関わった理由を知りたかった。世間知らずで教育も遅れている自分には、知らないことが山のようにある。それと同じように、既に開示してある理由を自分だけが知らないだけかもしれない。他の誰かには言えても、身内には言えないことだってあったかも知れない。頼子はどうせなら、それを知った後に死にたかった。
「分かりました、お願いします」
一歩踏み出して外に出て、後ろ手に玄関のドアを閉める。その顔は全ての感情を噛み殺すように、苦々しく歪んでいた。それを見た安宿は、鳩尾あたりをギュ、と圧縮されたような息苦しさを感じている。この子にこんな顔をさせるなんて――という身勝手な気持ちはすぐに絞め殺して、安宿は頼子の首根っ子あたりを掴んで導く。
この小娘は、自分にとって有害だ。どうにも思考能力が鈍ってしまうような気がしており、自分が自分でなくなる感覚が嫌だった。絡め取られて呑まれる前に対処しなければ。どうにも丁寧に扱いがちなところから改善しようと思い立った安宿は、渦中の少女をやや乱雑に車の後部座席に押し込んだ。押さえた肩は、折れてしまいそうな程に細い。
※
安宿に連れられてまず見たのは、正面からぎっちり睨んでくる鳶色の猫目だった。何だこれ。私、早速なにかした? 戸惑いながら見返していると、後からぐっと肩を押した安宿に方向転換させられた。神経質そうな男の猫目から解放された代わりに、「見たか、あの迷惑そうな顔!」と難癖つけられてしまった。猫目に訴えられた安宿は全く相手にしなかったが、それでも懲りずに安宿、安宿とつきまとう様は、構われたがりの子猫のようだ。思わず笑ってしまいそうになるのを堪えながら、頼子は安宿に従って奥へと進む。憂鬱だった気持ちは、不思議と楽になっていた。
「寿晴」
「何だ、安宿!」
《ヴォルク》が占領している、オフィスビルのワンフロア最奥の個室――おそらく会議室――に入る前に、安宿に呼ばれた寿晴は、大袈裟なほどに分かりやすくテンションを上げている。それで遂に堪えきれなくなった頼子は盛大に吹き出すが、それにも気を取られない程に寿晴は舞い上がっていた。
「サラディーノを呼んできてくれ。それから……いや、それだけでいい」
「僕は、」
「お前はここで待機だ。件の爆破事件の詳細が分かり次第、連絡してくれ。以上」
「僕は……!」
「以上、だ」
念を押すように冷ややかに断言した安宿と対峙していた寿晴は、その命令が覆らないと認識した途端に、ギリ、と強く歯噛みした。さっきまでの笑顔は微塵も窺えないほど悔しがって、荒々しく振り返って男を呼ぶ。
「……! ラヴィトラーニ!」
この泥棒猫! とでも言うような強い語気の呼びかけに反応して、金髪の青年がのっそりと枕から顔を上げた。ソファの上から乱雑に掴み取ったクッションを投げられている彼は寝起きも相まってか顔色が悪かったが、こちらに視線を寄越すなり、白い顔がますます白くなっていく。すごく嫌そうというか、死にそうな顔だ。
「安宿が! お前に! お前だけに用事だそうだ……!」
「……そうですか……」
ヒステリックに叫ぶ寿晴にも全く動じず、行動を起こす素振りを見せるものの、立ち上がる気配すらサラディーノにはない。寧ろ寝入りそうな雰囲気さえ醸し出していて、せっかく持ち上げた頭は枕を求めて沈みはじめている。
「――あれで実戦では有能だ、安心しろ」
この人たちは本当に就業中の社会人か? と疑うほどの緩い空気に呆然としていると、頼子の心中を察したらしい安宿が囁きかけてきた。その声はやはり冷然としていたが、あのわざとらしいくらいの爽やかな声色よりもずっとましだ。
「そうですか……」
「ラヴィトラーニ! 貴様、安宿に求められておきながら待たせるとは何事だ! 直ちに安宿の元へ向かえ!」
「スバルうるさい……」
「……そうですか?」
「…………」
初対面の知らない人だし、この一面では判断できないか――と一度は納得したものの、この姦しさと怠惰さを見せつけられてしまったら疑わざるを得ない。頼子の懐疑を否定できなかった安宿は、眉間を抑えて押し黙った。随分と見慣れてしまったせいで、まだ「普通」の範疇にあると思っていた自分の異常さに気付き、悶える。かといってこの「異常さ」を正せる自信もなくて、安宿はどうにか、これを正当化させる手段を探っている。
「あっ、ラヴィトラーニさん! すみません、ここの規則について少し確認したいことが――あ!」
入り口側のドアから顔を覗かせた新入社員の声を聞くや否や、サラディーノは堅い表情で素早く立ち上がった。さっきまでの鈍さはなんだったか。あの猫目の男の人、確実に舐められてるよなあ……と頼子がぼんやり思っている間に素早く詰め寄ってきた彼の腕には、しっかりと枕が抱き込まれている。それは必需品なのだろうか。
必死の形相を見るあたり、あの新人に相当な恐ろしい思いをしたのだろう。今まさに追撃されそうになっている彼に「枕を置いてこい」と言うのも酷な話か? と容認を決めた安宿は、戸惑う頼子の肩を抱き寄せて会議室のドアを開いた。
「いいか、ラヴィトラーニ! その女が妙な真似をしないよう見張っていろ! 何かあったら僕に知らせるんだぞ、絶対にだ!」
「あの! それが終わったら質問いいですか? 明確にしておきたい規則がまだ――」
詰め寄る二人から逃れるように、渦中のサラディーノは安宿と頼子の背を押して急かす。ドアを閉めて逃げ切った彼はげんなりしていて、二人を押し込むと同時にその場にしゃがみ込んでしまった姿は哀れだった。こんな苦労が絶えないからいつも寝ているのだろうか。心中を察して労ったが、やはりこの会社は大丈夫なのだろうか、という不安は残る。それでも安宿はそれを気にせず、要領よく書類などの準備を始めている。
「大貫頼子、お前に確認して貰いたいのは人相だ。心当たりはあるか、こちらの収集したデータに是正箇所はないか、わかることだけ話してくれればいい」
素直に答えさえすれば危害を加える気はない、と冷たく言う安宿に頼子は頷き、促されるまま席に着く。たぶん兄のことだろうな……と予測はできていたものの、机上に並べられた書類に心を乱され、心臓が少し痛んだ。
一番目立つように差し出されたものには、金髪のよく似た二人の男の写真が添えられている。監視カメラから抜き取った画像らしく、少しぼやけていたが見覚えはあった。入院する直前に見た勝也と利也に、よく似た姿だった。
「この写真は今年の五月にモスクワで撮影されたもので、一連のテロ活動に関与している疑いがある者たちだ。すこしぼやけて見づらいが……この姿に覚えは?」
「……兄たちに似ているとは思います。でもはっきりとはわかりません……これまで二人とも黒髪でしたし、この時期は大学に通っているはずでした。私が知っている限りでは、ですけど」
そうだ、知っている限りでは関東近郊にいるはずで、モスクワに用事なんかないはずだった。画像も鮮明ではないし、他人のそら似という可能性もある。けれどもう彼らの間では、画像の男たちは大貫勝也と大貫利也なのだろう。すでに『オオヌキ』と記された書類を見詰めながら、頼子は強く拳を握りしめた。
「あの、」
「この二名はまだ情報が不十分だ、今後も調査が必要になる。これがお前の兄たちだと確定した暁には、更なる調査に協力して貰う」
二人がテロ活動に関わる理由を問う前に、先手を打たれて締められてしまった。これで、頼子がここに来た理由がなくなった。後はもうどうにでもなれと、半ば投げやりな気持ちで椅子の背もたれに身を預ける。私に協力できることなんて何もないし――と承諾の返事はしなかったが、安宿はそれを気にも留めない。きっと、拒否権なんてこちらにはないのだろう。
「それからこれだ。先日も訪ねた赤髪の女――《雪原の子猫》ヴィルナエ。この人相に覚えはあるな?」
差し出された書類に添えられていた写真には、確かに見覚えがあった。数日前に窓から侵入してきた野良猫みたいな赤毛の顔だ。書類にはあれこれ書かれているようだが、如何せん頼子は「訳ありの外国人」ということくらいしか知らない。確認と言われても……と首を傾げていると、安宿は書類を引き戻して言う。
「何も細かく教えろ、とは言ってない。これを知っているのか、どこで見たか、それだけを言えばいい」
声には相変わらず温かみはなかったが、あからさまな悪意も感じられない。ついさっき言った、危害を加える気はないというのも事実なのだろう。片肘をついて試すようにこちらを見る安宿を一瞥した後、頼子は戸惑いながらもどうにか口を開く。
「……似た人は、確かにうちに来ました。でも、このひと本人かはわかりません。外国人なんだろうな、ってことくらいしか知らないし」
「腹部に傷はあったか」
「? ……はい、少し大きめの傷が」
あの日の罪を問われ、裁判にかけられている気分だ。頼子は下されるかもしれない罰に身構えたが、安宿はそれを気にする気配がない。顎に手を当てて目を細め、品定めをするかのような蛇みたいな顔に耐えきれず、頼子は目線をそらして後背に立つ男を見る。ぴったりと安宿の背後につき微動だにしない――確かサラディーノと呼ばれていた男の顔立ちはぼんやりしているのに、纏っている雰囲気はピンと張り詰めていた。哀れんだ数分前の彼と今の彼は同一人物なのに、全く別の人間みたいだ。私は本当に、とんでもないところに来てしまったのかも知れない。
「そうか、なら覚えておけ。先日お前が囲った赤毛が、武装組織《ドゥラークラーイ》の主導者だ。名前は《プロキオ》…………いやヴィルナエという」
安宿は重々しく、そして忌々しげに言うが、それが頼子にはわからない。そもそも《ドゥラークラーイ》というものを知らないから、厳重注意せよと言われても、いまいちピンとこなかった。少し間を開けて訂正した、《ヴィルナエ》という名前だけ覚えておけばいいか。兄たちも確かそう呼んでいたし。
そんな様子の頼子を見た安宿は、どうしたものかと頭を抱えていた。
動揺や居心地の悪さは感じているらしいが、どうにも危機感を持っているような雰囲気ではない。ほとんどを理解していないようで、一から説明してやるべきか? と悩んでいる。随分と優しくなってしまった自分に辟易しているが、今後を考えると知ってもらわなければ困るのも事実。いつもなら即座に下せる決断もままならず、思考能力の低下を感じていた。この小娘を目の前にすると、どうにも脳が鈍る――と倦ねたところで、いやに流暢な日本語が頭上から降る。
「あなたが接触したと思われる赤髪の人物は、通称が『ヴィルナエ』という、《ドゥラークラーイ》のトップです。本名はありません。ボスが口にした《プロキオ》というのは昔の通称なので、ヴィルナエと覚えていただければ結構です。それから、接触してしまった以上は観察対象になりますので、周囲の不審な動きには今後特に注意して下さい。……ということですよね、ボス?」
これまでのことを要約して、瞳だけで見下ろすサラディーノを、安宿は物珍しげに見上げていた。全ての女性との接触を断ちながら生きているような彼が、自ら積極的に語りかけるところなんてはじめて見た。ポンコツが過ぎる上司のフォローのために致し方なく、だったのかも知れないが、それにしても珍しい。「ボス……?」と怪訝な顔で自分とサラディーノを交互に見遣る頼子に、「ボス」と強く頷き返している様を見送りながら、安宿は気を取り直して咳払いする。
「……そういうことだ。奴に何を言われても、従わないようにして欲しい。我々の監視下に置かれても、この通り人手不足だ。十分に行き届かない部分もできてきてしまうかもしれん」
どうにもお前の兄たちは、奴に勧誘された可能性があると続ける安宿の声は、頼子には届いていない。さっきのサラディーノも言っていたが――監視?
「ちょ、ちょっと待って下さい、監視って何ですか、見張られるんですか……! 兄たちがその……テロリストの可能性があるから……ですか……?」
「それもありますが主要因ではないです」
「あの場所は、恐らくヴィルナエの日本拠点になっている。奴はまたそこへ来るはずだ、三年前もそうだった」
「三年前……?」
ずっとそこに住んでいるが、彼女が来た記憶なんか一切ない――と言いたいところだが、入院中のことになると自分には何もわからない。そういえばそのあたりに半年入院していたことがあったが、そのときに何かあったのだろうか。そしてそれをきっかけに二人は……?
「もし俺がいないとき奴に会ったら伝えておけ」
ソファから立ち上がって近づき、触れるか触れないかのところまで詰め寄ってきた安宿とがっちり視線が絡み合う。こんなに端正な異性に見詰められても少しもときめかないなぁ、などとどうでも良いことを考えながら戸惑いをかき消して、赤毛とよく似た灰色の目を見て言伝を待つ。
「しっかり組織を管理しろ。――それだけで良い」
「……え?」
必ずお前を捕まえる、的なことを言われると思っていただけに、なんだか拍子抜けしてしまった気分だ。赤毛と敵対しているような空気を醸していたのに、想像と真逆のことを言われている気がする。
「確認したいことは以上だ。家まで送ろう」
目を白黒させて混乱している頼子をよそに、安宿は出入り口へと向かって歩いて行く。サラディーノもいつの間にかドアの前で待機していて、これ以上の追究は許されない雰囲気だった。「そうですか」と大人しく従った頼子は安宿に続いて退室した。
「貴様、いつまで安宿の傍にいるつもりだ!」
会議室を出てすぐに怒鳴られることになった頼子は、今度こそ迷惑そうに猫目の男を見た。いつまでいるつもりだなんて言われても、こちらから好んで寄っているわけではないのだから迷惑な話だ。けれどこの男は聞く耳を持たず、攻撃的に威嚇してくる。面倒だなぁ、と思うのは安宿やサラディーノも同じで、これから家まで送ってくると告げたあとのことを考えるとぞっとする。反撃してもいいか? と言いたげにチラチラ見てくる頼子に首を振って止めた。
「貴様は安宿の何なんだ!」
「はぁ? ただの他人ですけど!」
二人の無言の意思疎通が気に入らなかったらしい寿晴は余計にヒステリックになり、更に熱を上げて怒鳴る。そのあまりの理不尽さについ怒鳴り返してしまった頼子と寿晴の間には、いつでも開戦できそうな剣呑な空気が漂っている。
やめておけと言ったのに。さっきのしおらしさはどこへ行った……と安宿は溜め息をついたが、本来あるべき彼女の姿を見られた気がして少し安堵している。大貫頼子のことなんて、ほんの少ししか知らないのに。
しかし気が強いのは本当のことらしく、あの寿晴にも怯むことなく挑んでいる。けれど、そろそろ止めてやらなければ。自覚していないようだが、少し息が荒くなっている。興奮すると発作が起きる口か……と分析している間に、新人の篠塚が「口論なんて規律が乱れる!」なんて言いながら乱入して更に混乱する。この三つ巴の愚かな争いに割って入らなければならないのが自分の役だと思うと辟易する。上等な役職なんて持つもんじゃない。
「その辺にしておけ。寿晴、幹部のお前が取り乱してどうする。下に示しがつかん。篠塚、お前はもう少し柔軟さを身につけろ。そんなことじゃ、ウチではやっていけないぞ。それから緋多岐……お前は働け!」
安宿にやんわり押し下げられた頼子は、知らずのうちに乱れていた呼吸を整えながらその様を見ていた。あれだけ自由奔放にしていた社員たちが、彼の一喝で大人しくなるのだから不思議なものだ。本部長だとか言っていたが、実質ここの最高責任者みたいなものなのだろう。あの猫目には異常なまでに慕われていたが、それに限らず人望が篤い人なんだなあ、とぼんやり思う。
「――あの、帰りますか?」
横から肩を叩かれたかと思えば、隣で同じように手持ち無沙汰だったサラディーノが至近距離で囁く。そういえばそうだ、これから帰るはずだったのだ。急に思い出して慌てて頷くと、頷き返したサラディーノは安宿を見て声を張る。
「ボス、奥様をお送りしてきます。完了次第、連絡致しますので」
「ん、ああ分かっ…………奥様?」
「は? 今なんて、」
二人はサラディーノの言葉に耳を疑ったが、違う反応を見せたのは寿晴だった。顔面を蒼白にして狼狽え、さっきまでの勢いはどこへやら、「安宿が……安宿が……!」と呻いて崩れ落ちてしまった。情緒不安定か、この人。
サラディーノもサラディーノで、さっきまではハキハキしていたのに、あゆみや緋多岐に注視された途端に青ざめて硬直してしまった。そしてあゆみが一歩踏み出すと同時に、頼子の背を押して逃げるように退出する。
聞き間違いなのか、彼が日本語を間違えているのか、それとも本当にそう思って言ったのか。それも確かめられないほど慌ただしく押し出された頼子は浮き足立っていた。騒がしすぎる環境には疲れてしまったけれど、あの憂鬱さは消えてなくなっている。四年ぶりの賑やかさが、暗く塞いでいた頼子の心を徐に明るくしてくれた。サラディーノを呼ぶ安宿の声を背後に聞きながら、頼子は少しだけ笑っていた。
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