第一部 滄桑の変



 過去の自分が憎らしい。仕方がなかったとはいえ、あの軽率な行動が全ての元凶だと思う頼子は、少し前の出来事を顧みた。体調を崩して入院する前に、自宅で起きた出来事だった。


 春は変化の季節である。頼子もその例に漏れず、この四月から今までとは違う生活を送っている。新しい学校に入学したとか就職したとか家族ができたとか、そんな眩い変化ではない。寧ろ一人きりになってしまい、それに対する不満や不安で、精神的にも肉体的にも追い詰められていた時期だった。何もかもがどうでもいいというか、自暴自棄になりがちだと自覚しており、なぜ自分は生きているのか? と自問することも少なくなかった。まあ、それを考えるのも億劫で、結論まで辿り着いたことは一度もないのだけれど。



(くそう……あいつら、七代先まで祟ってやる……)



 頼子は心の底から憎み、呪った。その対象は、この春に家を出た双子の兄たちだ。家を出た、といっても離縁的なことではなく、ただ遠方の大学に進学するために引っ越しただけだ。仕方がないと分かっていても、自分ひとりを置いて遠くへ行ってしまった彼らが恨めしくて、もう半年もみっともなく拗ねている。


 俺たちが支えてやるって、いつまでも一緒だって言ったくせに。あれは嘘なの? 改まった態度で「出て行く」と言った様子と寂しさや申し訳なさを思い出してしまった頼子は、ぎゅう、と胸を締め付けられる感覚に苛まれていた。私は拗ねてもいい立場ではない。こんなの当然のことだと言い聞かせても気持ちは落ち込んで、鼻の奥がツンと痛くなって視界がじわりと滲んでいく。息苦しい。頭が痛い。頼子はそのまま床に伏して、短く早い自分の呼吸を聞いていた。



(ああ、まただ……)



 不安に誘発された持病の発作なのだと分かっていても、「本当に死ぬんじゃないか」という恐怖で泣いてしまう。頼子は心臓が悪い。上手く機能することが壊滅的に下手らしく、こうして暴れ回っては頼子を苦しめた。甲斐甲斐しく世話を焼いてくれていた両親は四年前に事故で死に、助けてくれていた兄たちももういない。日常生活を送ることもままならない、不出来な妹を見限ったのだろうか。いや、絶対そうに決まっている。短い青春時代を自分の補助に充てさせてしまうという罪を、すでに犯しているのだ。


 いい加減、兄たちにも好きなことを好きなだけさせてあげないと。もうこれからは一人で生きるのだと心に決めて、頼子は心臓の痛みを頑張って耐えた。まだ十七歳の自分には荷が重いけれど、もっとしっかりしなければ。兄たちだって、この年頃から自力で生きられるよう努力していたのだから。怠い体を無理やり起こして涙を拭い、乱れた呼吸のまま、床に散らばった洗濯物を集めて畳む。



「……何?」



 随分と少なくなった洗濯物に物悲しさを感じていると、カン、コッコッという物音を窓側から聞いた。発作後の、十分に酸素が行き渡っていない頭が「猫かな? 鳥かな?」と楽観的な予測を立てたのがいけなかった。躊躇いなく開け放ったカーテンの向こうに見たものに驚き、数秒前の判断を悔いた。



「……!」



 驚きのあまり言葉にならず、カーテンを掴んだまま硬直して動けない。


 そこにいたのは人だが――いやいやいやいや、待てよここは三階のはずだ。近くに足場にできるような建物もないのに、どうやってこんなところに来たのだろう……。窓枠を支えにしてバルコニーの手摺りに立つ赤髪の人間が、無表情でこちらを伺っていた。物音の正体はカン、と金属製の手摺りを踏み、コッコッと窓を叩いた音といったところか。冷静に分析したつもりだったが、窓越しのその人が何を要求しているのか全く汲み取れないあたり、随分と冷静さを欠いているのだろう。頼子は散漫な意識のまま、まるで人ごとのように傍観していた。


 この赤髪に灰色の目をした――中性的すぎて性別不明のその人が、日本人じゃないことは一目瞭然だ。大変失礼ながら、同じ人間なのに未知の生物に遭遇したような感覚になってしまい、ひどく申し訳ない気持ちになっている。それと同時にじわじわと不安になってきて、改めて兄らの不在に心細さを覚えている。なんでこんなときにいないの。恨み言を吐いたって、彼らはここに来てくれない。



「う、わ、待って……!」



窓の外に見えた光景に、頼子は再び慌て、焦った。どうやら『開けろ』と言い続けていたらしい赤毛が、しびれを切らしたのか、なんとガラスをかち割ろうとしているではないか。そんなことをされたら大変だ。近隣住民の皆様に迷惑がかかってしまうし、弁償やら修繕やらのことを考えると頭が痛い。自身の危機よりも体裁や経済面ばかりが気になった頼子はつい、窓の鍵を開けてしまった――。



「あっ……!」



 解放した少しの隙間から、ぬるりと侵入してきた赤毛はまるで猫だ。正体不明の侵入者と近所の野良猫を暢気に重ね合わせて和んだのも束の間、ぐいと勢いよく肩を押され、非力でか細い頼子は床に倒れ込んだ。



「いっ……」



 強か打ち付けた頭が痛い。ガラと窓を、シャッとカーテンを閉める音を聞きながら悶え、起き上がろうとするもすぐに阻まれて押し戻された。もう一度頭を打つ。痛い。なんなのもう。チカチカ白む視界と戦っているうちに、冷えた硬いものが額に押し当てられた。なんだこれ。っていうか、この状況なに。



「Не двигась! If it moves, I will kill you…!(動くな! 動いたら殺す……!)」



 何がどうなっているのか理解できないし、何を言われているのかもサッパリ分からない。きっと外国語なのだろうが、日本生まれ日本育ち、更にはろくに授業も受けられていないから日本語以外の言葉は全く分からなかった。分からなければ答えることもできず、ただただ唸って首を傾げるしかない。


 正常な機能を取り戻しつつある視覚が人影を捉えたが、そのせいで自分の額に当てられたものの正体を知り息が詰まった。拳銃だ。本や映像で見たことがあるそれは、この国では法律で禁止されているはずのものだ。それがどうしてこんなところに……そう考えながら、全身の血の気が引くのを感じている。発作を起こしたばかりの体が更に怠くなり、脳天から爪先まで、満遍なく冷えていく。




「隠して、欲しい」



 頼子が静かにテンパっていると、敵意がないと判断したのか銃口を離した赤毛がたどたどしく言う。一語一語、確かめるように紡がれた声まで中性的で、やはり性別は迷子のままだった。



「えっ、何?」



 隠す? なにを? その拳銃をか? 今度は頼子にもよくわかる日本語だったが、唐突すぎるし主語はないし、何が言いたいのかは依然として分からない。なんのことだと聞き返しても、赤毛は何も言わずにじっと返事を待っている。――これは、こっちが「はい」と言うまで引かないヤツだ。中学の頃の友人にそんな奴がいたな……と思いながら、頼子は真摯な灰色の瞳を見詰めていた。



 恐怖心はなかった。拳銃を手にしている割に悪い感情は読み取れないというか、ひどく澄んだ目をしている。悪い人ではないのか? いや、こういう人に限ってとんでもないものを抱え込んでいるって聞いたことがある。うんうん唸りながら一人で考え込む頼子を、赤毛はやはり無表情で見下ろしている。とりあえずもう一度聞き返そう……と腹を括ったところで、頼子は一際大きく「うぅん?!」と唸ることになった。


 すらっと着こなしたジーンズの左腰あたりに、じわじわと染みが広がっている。足のラインがきれいだなあ、長くて羨ましい……と現実逃避をしたのは数分前のことだが、そんなに暢気なことを言っている場合ではないのかも知れない。


 その染みの色は赤だ。ジーンズの色が濃いからはっきりとは分からないが、染みの原因は透明でも黒でもない。――これは血だ……そう思ったらいてもたってもいられなくなって、しきりに窓の方を気にする赤毛が驚くのも構わず、頼子はその黒いシャツを捲り上げた。



「……っ!」



 露わになった鍛え上げられた腹部には、抉ったような傷がある。大袈裟でなく雪のように白い肌に映えた赤が堪らなく恐ろしくなって、無意識に呼吸を止めてしまった。その色に、数年前のあの日を思い出してしまう――。



「Я ска 《Не двигась》! (動くなと言ったはずだ!)」



 頼子の奇行に、赤毛は険しい顔で拳銃を突きつけてきたが、そんなものはもう頼子には見えていない。



「怪我をしているじゃない、どうして言わないのよ!」



 外国語で怒鳴る赤毛に怒鳴り返し、頼子は強引に立ち上がった。バランスを崩し、少し狼狽えたような顔で頼子を見上げる赤毛なんかお構いなしに、床に散ったままの洗濯物を漁る。荒々しくタオルを鷲掴んで赤毛に叩きつけ、見下ろし睨んだ。



「そこを動くんじゃないわよ、動いたら……ええと……な、殴るよ!」



 ビシと指を差して、呆気にとられている赤毛を不格好に脅す。慣れてなさすぎて可笑しなことになってしまったが、この赤毛も殴られれば痛いはずだ、多分。そもそも通じているのかも分からないが、それも大して気にならないほど頼子は必死だった。


 赤毛に背を向けてリビングを出て、自室へと向かう。――今度こそ助けてみせる。そんな妙な使命感を抱えて、頼子はまた滲みはじめた涙を拭った。




              ※




 赤毛は意外と大人しかった。豪快に消毒液をぶっかけられても微動だにせず、無表情のまま手荒い治療――たぶん治療だ、たぶん――を受けていた。


 頑なに名前は教えてくれなかったが、やはり悪い人には見えなかった。追われていて、ここには偶然に逃げ込んできたのだろうか。なぜ? 理由は? 尋ねたって答えてくれないだろう問いを飲み込んで、頼子は救急箱を閉じる。傷の辺りを不思議そうに撫でている赤毛を一瞥した後、筆記用具とスマートフォンを引っ張り出して机に向かった。


 多分、隠して欲しいと言ったのは自分自身のことなのだろう。追われているみたいだし、怪我もしているし。まあ、傷が癒えるまでなら別にいいか……と安易に受け入れを決めた頼子は、それをどうにか赤毛に伝えたいと思っていた。


 危ないかも知れない、という感覚はあるにはあった。しかし最悪死んでも構わないと思っている頼子にとって、そんな危機は危機ではない。親はいない、兄たちもいなくなった。友人だって特にはいないし、自分が死んだところで困る人などいないのだ。


 だからといって落ち込むでもなく、わりと平坦な気持ちで翻訳アプリを立ち上げる。きっと英語なら伝わるはずだ、世界共通言語だし――と文字入力をしようとしたところで、赤毛に腕を掴まれて遮られてしまった。



「な、何……?」


「……」



 さっきまでは緩い感じの雰囲気だったのに、今は服を捲り上げられた後と同じような厳しい目をしている。警戒するように覗き込んだ端末に表示されていたのが、通信を行うものではないと確認して安心したのだろうか。また不思議そうな顔をして小首を傾げ、その後は力も表情も緩めてくれた。無駄のない動きで下がり、付かず離れずの距離感でじっとしている姿は猫のようだ。なんかちょっと可愛いなあ、なんて思うと少しニヤとしてしまう。何か言いたそうにしているけれど、言葉が通じないと分かっているのか何も言わなかった。日本語も話していたが、あの感じからすると少ししか話せないのだろう。



「ちょっと待ってね……あなたに言いたいこと、訳してみるから……」



 赤毛のほうは見ずに、スマートフォンを凝視しながら独り言のように呟く。



(怪我が治るまで、ここにいてもいいです……?)



 英和辞典の例文みたいな感じで入力してみて、結果として『You may stay here until the injury is healed.』と表示されたが、果たしてこれで伝わるかは頼子には分からない。じっと傍に控えていた赤毛がもういちど端末を覗き込んで、信じられない、とでも言いたげな顔をした。



「……Are you sure?(本気か?)」



 よく聞き取れなかったが、多分正気を疑われているのだろう。しかしなんというか、そっちから言ってきたのに疑われるなんてどういうことだ。反論しようとしたところで、間が悪く来客を告げる呼び鈴が鳴った。夜の二十時を超えている。こんな時間に来るなんて非常識な……と思っても、きっと明かりが漏れているだろうから居留守も使えない。取りあえず赤毛には待って貰って、仕方なく玄関に向かう。インターフォンなんて便利なものがない古いアパートだから、わざわざ玄関を開けてやらなければならないのだ。



「……はい」


「夜分に失礼します。私、有限会社《ヴォルク》の箕輪みわ安宿あすかと申します。この赤髪の女を追っているのですが、心当たりはありませんか?」



 こちらの窓から侵入する様が見えたのですが――と言いながら、提示してきたのは写真だ。あの赤毛によく似ていたが、生憎と私はあの人の性別を知らないから女かどうかはわからない。軽率に返事をするわけにもいかないし、何よりこの男は胡散臭い。まともに対応するのを躊躇ってしまうくらいだ。


 長身の優男、年齢はたぶん二十代半ば。赤毛の写真と一緒に提示された名刺には捜査本部長と書かれており、この若さで役職を持っているあたり大変に優秀なのだと覗える。けれどやっぱり信用できない。この男の目が濁っているように見えるのだ。それだけで頼子を警戒させるには十分だった。


 爽やかな容姿と甘く優しい声をしているのに、何か後ろ暗くて恐ろしい。ドアにかけたチェーンがあってくれて良かったと思っているが、それでも心許ないくらいには恐怖心を感じていた。



「ありません。部屋を間違ったんじゃないですか」


「まあ待ってください」



それじゃあ、と急いでドアを閉めにかかったが、それよりも素早く隙間に足をねじ込まれる。これじゃあ閉められない。何だこの人は。怖くて顔を上げられない。



「この部屋の奥から血の匂いがするのですが、これは?」


「……は?」



 思わず声が出る。何を言ってるんだコイツは……と呆れて顔を上げてしまった先には、禍々しい安宿の笑顔がある。柔らかに笑んでいるのに目は全く笑っておらず、『これをどう説明するつもりだ?』と挑発されている気になってしまう。


 しかし本当に何を言っているんだ? 確かに血には触れたけれど、香り立つほどの量はなかったはずだ。カマをかけられているのだろうか。それとも、凄まじい嗅覚を持ち合わせているのか? どちらにせよ気持ち悪く、頼子の警戒心は解されない。



「念のため調べさせて貰えませんか。華奢な体つきをしていますが、大変危険な人物なのですよ」



 家主の返事も待たずにドアをこじ開けようとするのを咄嗟に阻止して、頼子は身勝手な来訪者を睨み上げた。



「お断りします、得体の知れない他人を、家に上げたくないので……!」


「……そう抵抗しては怪しまれるだけですよ? 何もないなら、調べても差し支えないでしょう。言ったはずです、あれは危険だと、」


「そんなものどうだっていいです! 私はあなたみたいな勝手な人が嫌いなんです、嫌いな人を家になんて上げるわけないでしょう……! それに私にとってはあなたの方が怪しい人ですよ、一会社員が他人の家に乗り込もうなん、て!」



 元来持ち合わせていた妙な気の強さを発揮して、頼子は一息に捲し立てながら、隙間にねじ込まれた足を蹴り返して今度こそドアを閉めた。きっと、その一会社員はドアの向こうで苛立っているのだろう。が、そんなもの知ったことではない。早く帰ってくれ。ただそれだけを願いながら、立ち塞ぐようにドアに凭れかかった。厚くも薄くもない金属一枚を隔てたすぐ先に奴がいるのかと思うと恐ろしかったが、そこから動くことができなかった。



「……分かりました。それでは名刺をお渡ししておきますので、気が向いたら連絡ください。いつでもお話、お伺い致します」



 かたん、と新聞受けに名刺が落とされる音にびくりと体を震わせたがなんとか耐えた。が、足音が遠ざかって聞こえなくなった途端に脱力してしまい、頼子はその場にへたり込んでしまった。



「……なんなの、あれ……」



 怒涛のような出来事に疲弊してしまって、凭れかかったまま項垂れて呟く。一息吐いて顔を上げた先には銃を構えた赤毛がおり、なんだかもう、別世界に飛ばされてしまったようだった。退屈な入院生活が長引くなか、『なんてことない日常に少しの刺激が欲しい』と思ったことはある。けれどさすがにこれは……胸焼けがするというかなんというか、あまりにも激しすぎる。



「……」



 銃を手にしたままの赤毛が静かににじり寄り、頼子の傍で跪く。一瞥した――恐らく《彼女》は躊躇いがちに手を伸ばし、そっと柔らかに、頼子の頭に手を添えた。疲弊しすぎて朦朧とする意識の中に感じた温もりが、赤毛の手だと気付くのには時間がかかった。張り詰めていたらしい緊張の糸がブツリと切れてしまった頼子の目からは、本人の意に反して涙が落ちる。


『そんなに我慢しなくていいんだよ。せめて兄ちゃんの前では存分に泣きな?』


 その手の温かさに兄たちのことを思い出して、堰を切ったかのように大粒の涙が溢れ出た。赤毛の甘やかしを素直に受け取って、図々しくも胸に抱かれる。


 親はいない。兄も友人もいない。頼れる人なんか誰もいなくて、これからのことが不安で仕方ない。一人がこんなに心細いなんて知らなかった。




              ※




「Как - ситуация? (状況は?)」


「Нет никакой проблемы. Это должно выполн завтра. (順調です。明日、実行予定です)」


「Я соглась. Удача успеху.(そうか。成功を祈る)」



 泣き疲れて眠ってしまったらしい頼子は、耳慣れない言語で目を覚ました。赤毛が何か言っているのだろうか――というか、第三者が他にいる……? 明らかに男の声をした誰かの存在に戸惑って、ぎゅっと心臓を鷲掴まれたような感覚に苛まれた。


 あの人だろうか。さっきの箕輪とかいう人がまた来て、それに赤毛が応じたのだろうか。頼子はぞわぞわした気持ちのままそろりと起き上がって、明かりの点いた部屋を覗き見た。半端に明るい部屋には赤毛の他に二人いて、見慣れないはずの金髪に懐かしさを感じている。幼い頃からずっと見てきた後ろ姿だ。見間違うはずがない。



「Я выполняю как вы жела. Верное.(承知致しました、ヴィルナエ様)」


「Я делаю это конечно успешным.(必ず成功させます)」



 何を言っているのかは分からなかったが、赤毛に片膝をついて忠誠を誓うような素振りをしている二人の金髪は、大学へ進学したはずの二人の兄だった。黒かった髪を綺麗に脱色して、特殊部隊のような戦闘服を着ている。その非日常的な装いに、よく知っているはずの彼らが全くの別人のように思えてしまった。


――いや。きっと別人だ、そうに決まっている。


 信じがたい光景に理解を拒む頼子は、どうか見間違いであってくれと切に願う。けれど現実は甘くなくて、容赦なく事実を突きつけてくるのだった。



「Пожалуйста, чтобы не б жесткий. Кацуя,Тощуя.(そんなに畏まらなくていいよ。勝也、利也)」



 悠然と構えていた赤毛から聞いたのは、間違いなく兄たちの名前だった。条件が揃ってしまった……。頼子はなんとも言えない、漠然とした不安を抱えたまま盗み見ている。思考がふわふわしている。なにもよく把握できていないが、風貌と行動から、以前聞いた航空専門学校に通っているとはとても思えない。嘘を吐かれたのか、私は。でもどうして? 突如突きつけられた現実に悲しくなったが、それ以上に途方もない罪悪感を覚えていた。私のことを気遣うあまりに、本当のことなんか言いたくても言えなかったのではないか……。


 しかし、学校に行っていないなら今はどこで何をしている? 赤毛と同じ外国語を使っているあたり、日本国内にすらいないのか? 一体いつからこうなった? 無事でいるならどこにいたって構わないけれど、こんなのまるで……。


色んな感情と思考が綯い交ぜになって、いたたまれなくなった頼子はその場から逃げた。ドアの金具が、ガチャと大きく音を立てる。忍ぶだけの余裕は、彼女にはない。





「頼子!」


「おい待て、利也!」



 玄関からの大きな音を聞いて、逸早く反応したのは利也だった。勝也の制止も聞かずに飛び出し、開け放たれたドアの前には、妹に掛けたはずの毛布が落ちている。――拙い、見られた。よりによって、跪いて過度な忠誠を誓うなんてパンチの効いた場面に立ち会わせてしまったことを申し訳なく思いながら、じっと玄関を見詰めていた。


 いつかは話さなければと思っていたが、今はまだその時ではない。あまりに難しい問題であり、全てを明かすには準備も覚悟も足りていなかった。


 予期せぬきっかけを作ってしまったヴィルナエを一瞥して、勝也は溜め息を吐く。世界中を飛び回らされているヴィルナエに、『日本で何かあればうちに来い』と言ったのは自分だ。だがそれにしては早すぎるというか、こんなにも早々に、日本の企業に手を出すことになるとは想像すらしていなかった。


 数年――少なくとも一年はかけて頼子に伝え、理解を得られた場合にのみ、協力者になって貰うつもりではいた。長年の闘病生活のせいかやや気難しい子になってしまったが、根は優しい子だと兄は知っている。幸か不幸かヴィルナエに出会ってしまった数年前の自分と同じように、匿うくらいはしてくれるだろうという確信はあった。


 それに、なんだかんだで頼子も彼女に心を開いているように思う。ヴィルナエの応援要請に応じて駆けつけた自宅で、赤の他人に膝枕されて眠る頼子は実に新鮮だった。切迫した状況に反して嬉しくなった勝也は、上がりかけた口角を無理くり押さえつけてヴィルナエに向き合った。



「Я делаю за то, что - вы след? (どうします? 追いますか)」



 勝也は探るように、ヴィルナエからの指示を仰ぐ。その『追う』には『始末』の意味も含まれており、機密を多く取り扱っている以上、実の妹といえど特別扱いするわけにはいかなかった。



「Нет…Но я ищу. Ваша младшая сестра слаба. Да?(いや……でも捜そう。君たちの妹は、体の具合があまり良くないんだろう?)」



 それを察知したらしいヴィルナエは、少し悲しそうな顔で言っていた。この顔は、彼女の元に下ってから何度も見た。それを心苦しく思いながらも、勝也には見送ることしかできない。



「Всё ясно. Прежде всего я вхожу в контакт с Тощуя.(承知しました、まずは利也にコンタクトします)」



 言うなり勝也はインカムを操作して、駆け出してしまった利也に応答を求めた。己の好奇心を満たすため、そして病弱な頼子を救うためにと加入した組織ではあったが、それともう一つ、助けなければならない存在を確認してしまった。上司にあたるイザーラやダグラスたちがそう思うように、この赤毛の《子猫コシカ》を救うことが我々の役割なのだろう、きっと。


 心優しい彼女に、こんな組織のトップなんて似合わない。






「頼子……!」



 闇夜の中、全力で駆ける妹を大貫利也は捕まえた。ただでさえ暗くて危ないのに、彼女の体調で走るなんて自殺行為だ。案の定、息も絶え絶えに崩れ落ちた頼子を労ろうと手を伸ばしたけれど、撥ねのけられてしまった。ぱしんと乾いた音を立てて弾かれた手は、行き場を失って宙を彷徨う。


 拒絶された原因はありすぎて絞れないが、あえて提示するなら、ついさっきのあの場面だろう。あれの異常さは、重々承知しているつもりだ。言葉は理解されていなかったとしても、動作が意味するものはぱっと見で理解できてしまう。跪いて妄信的なまでに忠誠を誓うシーンなんて、そんなの全然普通じゃない。怪しい宗教にのめり込んでしまったと思われても仕方がなく、正気を疑われても文句は言えないだろう。



(まあ、実際似たようなもんだしな……)



 拒絶を振り切って、今にも倒れてしまいそうな頼子を支えながら背中をさする。苦しむ彼女の姿を見るのは辛かったが、前には進まなければならない。利也は意を決して口を開く。



「頼子、聞いて欲しいことがある」


「嫌だ……!」



 ぐったりしているくせに、いやにはっきりと拒絶する頼子に、利也は少し狼狽えた。俯いた顔にかかった前髪から覗く、こちらを睨む生意気そうな目に息が詰まる。俺の見通しが甘かったのか。想像を遙かに超えて拗れてしまった関係に、真綿で首を絞めるような緩やかな絶望が押し寄せる。何よりも大事に思っている妹に嫌われるなんて、そんなの死んだも同然だ。



「……少しも、聞きたくない?」



 なるべく動揺を表に出さぬように語りかけたが、やはり頼子の意志は変わらない。苦しそうに頷くばかりで、聞き入れようとはしなかった。


 ああ嫌だ、これは本気だ。睨む目には悲しさが全面に押し出されていて、いつもみたく可愛く駄々を捏ねているわけではないと分かってしまい、利也の苦しみを増長させた。その原因を作ったのは自分自身なのに、利也の気分は見事なまでに滑落してゆく。



「利也……頼子!」



 インカムの通信を無視した自分を勘だけで探しあてたらしい勝也は、蹲る頼子を見るなり慌てて駆け寄ってきた。走りながら懐を探り、取り出した錠剤を頼子の口元に押しつける。するとさっきまであんなに拒んでいたのに、素直にそれを口に含むではないか。多分条件反射的なものなのだろうが、その差に妬いた。俺を拒み、勝也を受け入れる理由は何だ? 双子の兄に複雑な感情を抱きながら、朦朧とした状態で勝也に背中を撫でられている頼子を見下ろしていた。



「頼子、お前に嘘を吐いたことは謝る。でも、それはお前が嫌になったわけじゃないし、一人きりにしているのも悪いと思っている」



 落ちかけた意識でこちらに注視する頼子を確認した勝也と利也は、更に言葉を重ねる。



「気付いていると思うが、大学には行ってない。そんな経済力、俺たちにはないしな。……《ドゥラークラーイ》って知ってるか? ……北の方にある大きめの組織なんだが、俺たちは今、そこで世話になってる」



――そこで何をしているの――。声帯を震わす力すら残っていない頼子の唇が、そう言っている気がする。発作と薬の副作用にも構わず喋ろうとする姿が最高に彼女らしくて、勝也はついつい笑んでしまう。昔からそうだ。生まれて間もなく患った大病のせいで心臓を痛め、容赦ない発作に苦しめられようとも、決して負けるもんかと言わんばかりに抗うのだ。それでもやっぱり苦しむ姿を見るのは辛くて、今日にでも死んでしまうのではないかと思うと堪らなく怖かった。ショックで新たな発作が起きてしまわないことを祈りながら頼子を抱きしめ、勝也は妹の耳元で小さく呟いた。



「《ドゥラークラーイ》っていうテロ組織で、兄ちゃんたちな、空爆やってんだ」



 悪い兄ちゃんでごめんな。今までにないような悲しげな声を聞きながら、頼子は意識を手放した。今までのどんな発作よりも苦しく、胸が痛かった。

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