残酷で美しきこの世界
2日目の朝。現在の時刻は9時20分。シャルルさんと約束していた時間の10分前だ。昨日言い含められた通りソファに腰掛けて待ち人が降りてくるのを待つ。
昨夜はお楽しみでした_変な意味ではなく。
部屋に入って最初にしたことは、ペンダントに持ち物を全て突っ込むことだ。考えるまでも無く一番最初に投げ入れたのは『はじめて歩くクレアメイテル』だ。
この国の説明書のようなものだと理解しているが、何分嵩張るし、邪魔なのだ。それに私は取扱説明書は読まないタイプの人間だ。出し入れは自由なようだし、必要とあらば出せばいいのだ。
そして夏であるこちらでは無用の産物であるジャンパーと、おじさんがくれた形代、それと薬品ケースも突っ込もうとしてふと思い至り、その中から一錠、青い錠剤を取り出し、ケースをペンダントにしまい込んだ。
「…お腹は減ってないけど、まあ一番害が無さそうなのはこれだし、試しに一錠っと」
元々1日1食の不健康な生活をしていたこともあってか、空腹は感じなかったが、明日も何も食べないとなると流石に辛いものはある。それに本当に効果があるのかも知りたくて、実験的にそれを口の中に放り込んだ。
薬特有の苦味があるかと思ったが、味はなく非常に飲みやすかった。薬は口の中であっという間に溶けてしまい、その後間もなくやってきたのは満腹感。
フルコースを食べた時のようにお腹は膨れ、食欲なんてものは消え失せた。例え今高級シェフの作る馬鹿高い料理が無料提供されると言われても、一口も食べる気は湧いてこないだろう。
間違いなく本物で、しかも即効性ときている。この調子なら他の薬もそれ相応の効果を発揮してくれるだろう。
薬を飲んだあとは、有難いことに部屋に取り付けられていたユニットバスで汗を流した。置いてあった洗濯機を回せばあっと言う間に洗濯・乾燥終了の赤いランプが点滅し、疑い半分でGパンとTシャツを取り出してみれば、しっかりと乾いており、しかもアイロンがけが施された後のように皺一つない。…魔法って便利だなぁ
そのままそれらを着用して、ユニットバスを出た。
何をするでも無く、ベッドにだらしなく寝転びながらも今日あった事を振り返ってみた。私の体重全てを受け止めたベッドは僅かに軋みはしたが、埃が舞うなんてことは無く、優しく受け止めてくれた。
クレアメイテル_ここは余りにも非現実で、それでいてどこか冷たくて、でも気ままで、圧迫されていない新しい世界。それは私にとっては酷く憧れ、焦がれて、手が届かなかった世界だ。
でも確かに今ここに、存在している。大きく息をした。それは慣れ親しんだ動作のはずなのに、漸く息ができた気がした。
「なんてボロ宿なんだ。こんなので儲けが出てんのかよ?」
「あら本当。_早く潰れてしまえばいいのにねえ?こんな宿屋は潰してしまって、新しいお店の一つでも建てた方がよっぽどいいでしょうに」
突然聞こえてきた男女の声に誘われるようにして窓際に近寄る。この部屋は2階の一番端にある部屋であり、取り付けられている窓からは宿屋の前を通る人達が良く見える。
見えたのは年若い男女だ。彼らは寄り添うように歩いており2人の顔には笑顔が浮かんでいる。幸せそうに笑顔を振りまきながら、宿屋を横目に、楽しそうに話している。そこには悪意は浮かんでおらず、ただ純粋にそう思っているのだということが窺えた。
2人にとってそれは他愛ない日常会話の繋ぎの一言であり、会話が途切れてしまわぬ為の手段に過ぎない。そのまま宿屋を通り過ぎていく男女の話題はあっと言う間に移り変わっていく。
今日は楽しかったね、今度また一緒に行こう、明日は何をしようか。そうして彼等は通り過ぎて見えなくなった。その後ろ姿を見送っていると、少し先の方から今度は年配の男性2人が連れ立って歩いてくるのが目に留まり、思わず口元を緩めてしまった。
シャルルさんはなんて素晴らしい部屋を取ってくれたんだ。狙ったわけではないのだろうが、私にとってはベストポジションだと言える。結局その日は眠る事はなく、窓に張り付き、道行く人達の声に耳を傾けていた。
「ほう…早いな。寝過ごすかと思っていたが、私の思い過ごしだったようだ」
昨夜の出来事に思いを馳せていれば、目の前には件のシャルルさん。彼はそのまま昨日と同じく、私の向かいに腰を落ち着けた。
…気配が無かった、忍者かこの人。
寝癖の一つでも付けていれば可愛げもあるものの、昨日と同じく微塵も着崩すことは無い烏の軍服を隙無く着こなしている。寝癖なんてものは以ての外だ。
彼はそのまま私の格好を上から下まで一瞥し、私の胸元に揺れている逆十字を見て薄く笑んだ。
「順応性が高いのはいい事だ。_この国では尚更な」
「お陰様で。来てしまったからには仕方ないですし、順応力には自信があるので」
本音だ。しかし何をするにも一番重視しているのは私が楽しいか楽しくないか。それとメリットが発生するか否かのその二点だ。
折角こんな新鮮で、柵のない世界に来たのだから、楽しまないと損もいいところだ。だなんて思っていても口には出さない。ボロボロの仮面はまだしっかりと己の顔を覆っているのだ。
「貴様は本当にこの国に相応しい_きっと今までこちらに訪れた誰よりも。此処では"大人"は生き辛い。此処はいつまでも大人に成り切れぬ者達の国だ」
シャルルさんが紡いだ言葉はどこか重みを帯びていて、直感的にその言葉が嘘ではなく、真実であるのだと悟る。だからと言って意味がわかるわけでもない。
子供と大人_それはきっと私が知る本来の意味合いで使われていないのであろうということは確かだ。今まで会った"大人"は皆幸せそうで、活気に溢れていた。何かに追われるように走る人もいなければ、仕事に忙殺されている人達も皆無だった。皆自由で放浪で、それでいて開放的だった。
その光景は到底シャルルさんが言った『行き辛い』に当て嵌るとは思えない。揺蕩う銀色を見上げるが、それ以上言葉を続ける気はさらさらないようで、彼は軍服の胸ポケットからおもむろに懐中時計を取り出し、時間を確認した。
耳心地の良い金属音と共に時計が開かれる。それに釣られるように左手に付けていた腕時計に目をやれば9時40分。
_すっかり話し込んでしまっていたようで、競売の開始時刻まで後20分しかない。
「シャルルさん、時間は大丈夫ですか?私はルーカスさんの屋敷の場所は当然知らないんですけど、間に合いますかね?」
昨日歩いていて感じた事だが、人通りが多く、店や施設が充実していた大通りからかなり離れた閑静な土地にこの宿屋は位置していて、人通りも疎らだ。
ルーカスさんとやらはこの国屈指のお金持ちだと言われていたし、しかも開催されるのは屋敷だとデオ姐さんはいったはずだ。どう考えてもこんな何も無い寂しい場所に屋敷がある様には思えない。
全体的に見て建物の背も低く、屋敷があれば2階からも見えたはずだが、そんな目立つものは無かった。視力は検査で引っ掛かった事は無いし、正確なはずだ。
「嗚呼、そんなことか。問題は無い、貴様はそこに立っているだけでよい」
は?なんだそれは。懐中時計を閉じ、それを胸ポケットに入れた彼はそのまま同じポケットから白い羽のようなものを取り出した。一見鳥の羽のように見えるそれはしかしシャルルさんの掌ほどの大きさで、淡く光を放ち、何処か神々しい。
そのままそれを少しだけ掲げ「ルーカス・フェルミー氏の屋敷まで」と短く告げた。
と、足が地面に着いていないような、高所から落下しているような心許ない感覚があったかと思えば、ふわりと何か暖かいものに包まれるような、真綿に優しく頬を撫でられたような形容しがたい感覚。
そして地に足がついたと感じた次の瞬間には照り付けてくる太陽の熱気と、ねっとりと肌にまとわりついてくるような湿気を含んだ空気が間近にあった。
突然の環境の変化についていけず、少し頭が痛んだが、それも直ぐに治まる。足元に目をやれば地面一帯は人工芝、そして周囲の風景は180度変化していた。こっち来た時もこんな感じだったけれど、自らの意思でやって来たか否かの差異がある。
「シャルルさんって_魔法使いなんですか?」
思わず疑問が口から飛び出した。
「_は?それは私を馬鹿にしているのか」
"凄い"という修飾語を言葉外に込めた素直な称賛を送ったはずなのに、塵芥を見るかの如く冷ややかな視線を頂戴した。
夏だというのにヒヤリとした冷気が背中を撫ぜた。え、褒め言葉のつもりだったんだけれど、そのままこちらを見向きもせず、気持ち大股で歩き始めたシャルルさんの背を見る限りは言葉選びを間違えたようだ。
馬鹿に…してないはずなんだけど。あくまでこちらの言い分としては。内心で悶々としながらも、見ず知らぬ土地で置いていかれてはなるものかと、その後に続いた。
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