大戦記各話

八十八式輸送爆撃機

 八十八式輸送爆撃機

 蒼穹の空に銀色の腹を輝かせて、一機の八十八式輸送爆撃機が飛んでいた。上空四時の方向には七式戦闘機が三機編隊で護衛飛行している筈だが、その姿は見えなかった。まさにこの壮大な蒼穹の空は八十八式輸送爆撃機が独占していた。

 これほどの高度になると、空の青さはどんな絵の具よりも鮮やかで、地球の丸みを身体全体で実感することができた。宇宙色に近い青い空の中では、この八十八式輸送爆撃機の陰気な森林迷彩塗装も不思議と鮮やかに映えた。

「高度九万、視界良好、レーダーに敵影なし」

 副機長の高井少尉が、横で操縦桿を握る機長の中尉に報告した。

 中尉のやや緊張した顔がそこにあった。

 誰でも裵中尉の姿を基地内の食堂で見かける事が出来たが、新聞を読みながらコーヒーを啜る裵のその横顔は、気の優しい近所のおじさんのようにしか見えなかった。しかし、いったん操縦桿を握ると瞬時に軍人の顔になり、部下達の尊敬と畏敬の念を集める。

「ドップラー、短波、ケルトエコー、共に無影。発動機、電気系統、全て異常なし」

 迎撃機関士の李勇利少尉が、周囲を数々の計器に囲まれた立体モニターを見つめながら言った。

 李は高井の二年後輩で、ニューガトゥー攻略戦の後に入隊したので前線の経験はほとんど無い。しかし、デーファ軍侵攻の時、多くの学友を喪っていたため、その弔い戦に一つでも多く参加したいと願う血気盛んな青年将校だった。

『アドラー1より「親カモメ」。敵の制空圏が近い。これより高度を下げよ』

 無線から護衛戦闘機の隊長の声が響いた。

「了解」

 裵中尉はそう答えると、自動操縦装置の四つのロックをはずして操縦桿を僅かに押した。高度計の数字がみるみる減少していく。

「しかし、後ろの荷物は何なんでしょうね、中尉」

 高井少尉は高度計に注意してメインレーダーの制御装置を操作しながら尋ねた。

「さぁなあ。新型兵器だと云うが、やたらと重い様だしな…。半減期の短い核兵器でも開発したかな」

 裵中尉は降下に伴う加速を相殺するためにスロットルを微調整しながら言った。

「核は条約違反です。しかもあれほどの重さの核なんて、大昔のヒロシマ級ですよ」

「核なんて、今じゃ敵もこっちも平気で使ってるじゃないか。規模こそ小さいが、放射能に汚染されることには変わりない。アレだって、中身は僅かでほとんどが核融合の圧縮装置かも知れん」

 裵中尉は親指で後方の爆薬室を指さした。

「だとしたら、弾倉開けて落としてみたいですね。中尉殿」

 李少尉が立体モニターを覗き込んだまま軽口をたたいた。李少尉はまだ一度も実戦で爆撃をしたことがなかったのだ。彼は爆撃機乗りとしてこの314爆撃機隊に配属され、八十八式輸送爆撃機082号機が彼の搭乗機となったが、今まで一度も爆撃作戦に参加したことがなかった。

 大型爆撃機は既に過去のものとなりつつあり、爆撃作戦は戦闘爆撃機が担うのが常だった。八十八式も「爆撃機」と名前は付いているものの、緊急物資の空輸や降下兵を前線上空まで運んでやる仕事が主だった。

 八十八式はスマートな機体で高速飛行が可能だったが、戦闘爆撃機ほど身軽に飛ぶことは出来なかった。小型で強力なミサイルが開発され、広域爆撃が非人道的と嫌われる時代にあっては大型爆撃機の活躍の場は少なくなっていた。それ故、常に爆撃ユニットは取り外され、左右に跳ね上げられた輸送甲板は常に下りた状態だった。しかし、今回の任務では貨物室の床板が左右に跳ね上げられ、下部の弾倉ハッチから爆撃ユニットが取り付けられてそこに三台の大きなコンテナがギッシリと吊り下げられた。爆弾倉一杯にコンテナが押し込まれたものだから、通常爆弾の回転ユニットが取り付けられたときのようにその隙間を這って機体の後部に行くことは不可能だった。八十八式には最後尾と上部、下部、左右側面に対空機関砲の銃座がそれぞれ付いていて、通常は、最後尾の銃撃手がそれらを一手に担っていたが、今回は、コクピットと直接連絡が取れなくなることから銃撃手は搭乗しておらず、その仕事は迎撃機関士の李少尉一人のものとなった。

 後ろに積んでいるのは飛行計画書通りの「極秘貨物」なのか、それともいちいち爆弾倉に吊り下げているくらいだから新型爆弾なのか。それならなんでいちいちコンテナに詰めるのか、それともコンテナ型の爆弾なのだろうか、と李少尉は密かに訝しんでいた。

「高度八万」高井少尉が高度計を読み上げた。

「高度八万」裵中尉が復唱する。

 高度は更に下がっていった。高々度爆撃の秘密ミッションと云うわけでもなさそうだな、と高井少尉は密かに思った。高井少尉もこの輸送任務には正直少々辟易していた。

 だが李少尉とは違い、実戦爆撃の経験のある高井少尉にはあまり気持ちの良くない爆撃任務もあると云うことを知っていた。一度、迫りくる敵の戦車旅団の補給を絶つために、後方の補給大隊をオゾン爆弾で爆撃したことがあった。七十台の戦車と百二十台の装甲車の燃料を運ぶ大軍団がオゾン爆弾の青い閃光と共に一瞬で消滅した光景は今でも忘れられなかった。成層圏まで昇ったと云われるあのキノコ雲の跡には巨大なクレーターだけが残されていた。あの爆撃で補給路を断たれた前線の戦車大隊は燃料切れと共に降伏し、敵の軍神・スヴャイコフスキー大佐を人質として生け捕りにすることが出来たのだが、たった一人の人間のために何千人もの兵士が一瞬にして塵となるのは、例え敵でも見ていられなかった。

 また、 生物兵器の秘密工場の爆撃をした時も嫌な思いをした。敵の民間人が町ぐるみで生物兵器を作っていたのだ。砂漠の真ん中か山奥の施設を攻撃するものとばかり思っていた高井少尉は、攻撃目標が都市全体と知ると流石に尻込みしてしまった。それでも高井少尉は軍人としてショット爆弾の投下スイッチを押した。落とされた落下中の大型爆弾から無数の強力な小型爆弾が発射され、蜂の巣になった街は地中深くで爆発するその特性のため大きなあぶくのように弾け飛んだ。

「これで何億万の人間が黒疽菌の恐怖から救われたんだよ」

 あの時、躍起になって追ってくるデーファ軍の戦闘機を音速で振り切って逃げ帰る中、裵中尉は呟くようにそう言って高井少尉を慰めてくれた。

「高度六万」

「暗号回線三番にアドラー1アインスより入電です」

 李少尉が機長の復唱を遮った。

「アドラー1アインスより親カモメ。貴機の姿は上空からよく見えている。貴機のステルス機能も問題ない。只、デーファの椰子の実の視認区域が近い。引き続き降下を続けよ」

「親カモメ、了解。二時の方角に低気圧の雲が見える。雲の下に潜る」

「アドラー1、了解」

 そこで暗号回線は切れ、キュウキュウと歯の浮くような音だけが機内に響いた。

「奴ら、やたらと慎重ですね。中尉」

 李少尉がモニターに映し出される暗号アルゴリズムをチェックしながら無線を通常回線に戻した。

「やっぱり今回は只の輸送任務じゃないな」

「奴らは知ってるんでしょうね。コンテナの中身を」

 李少尉は振り返って裵中尉の背中を一瞥した。

「恐らくそうだろうね。今の通信のデジタル暗号は複雑だったのか?」

「今回はそれ程でもありません。只、今回の通信の中に次回通信の暗号アルゴリズムの修正プログラムが隠れてました。次の通信は極秘扱いです」

「じゃ、そろそろ山場って訳だ」

 裵中尉は前を見たまま落ち着いた口調で言った。

「椰子の実の探査圏内に入ります」高井少尉が報告した。

「高度四万五千まで降下。右下の雲の中に入るぞ」

 裵中尉がそう言うと、機体はほぼ垂直にぐんぐん滑り降りていった。

『椰子の実』とは敵の軍事衛星の事だった。親カモメもアドラー小隊もステルス機能が働いているから各種の探査レーダーには引っかからないが、低空を飛ぶ椰子の実の監視カメラに見つかる可能性があった。しかし、敵の望遠カメラに見つかったとしてもこの高速の八十八式輸送爆撃機なら敵を振り切れると李少尉は信じていた。何しろ機長は歴戦の勇士・裵中尉なのだ。

 裵中尉の噂は士官学校でも有名だった。「爆撃機に乗る戦闘機乗り」と呼ばれ、尊敬されていた。八十八式が配備される前の八十六式高速爆撃機に乗っていた時、裵は爆撃して身軽になった八十六式で敵の戦闘機と巴戦をして二機を撃墜し、機体の翼がGに耐えきれずに根本から引きちぎれるまで戦闘機とやりあった話は有名だった。我が軍始まって以来のこの快挙は、大型爆撃機の存続を許し、八十八式のような小回りのきく爆撃機を開発するきっかけにもなったとも言われている。

「高度四万五千」

 高井少尉は高度計を読み上げ、窓の外の雲を見つめた。すると十一時の方角の上空で何か光るものがあった。レーダーには何も写っていない。

「李少尉。十一時の方角に何か見えるか?」

「いえ、何も」

 李少尉は精密探査機をぐるりと見回して言った。

「どうした」

 裵が窓の左上を見上げてそう尋ねるのと同時に緊急回線からアドラー1の声が響いた。

「Tic-30だ。親カモメ退避せよ。親カモメ退避せよ!」

 コクピットから三機のアドラー隊が十一時の方向に向かって加速していくのが見えた。その先には五つの機影がかろうじて見えた。

「ステルス塗装してやがるのか」

 李が毒づいた。

「落下槽、落下!」

 裵がそう言うと、高井は二つの着脱レバーを引いて、燃料の増槽を切り離した。

「くそっ、奴らを見落とした」

 李が慌ててレーダーの調整ダイヤルを回していた。

「レーダーを菱形探査から八角探査に切り替えろ」

 高井が李に怒鳴った。李が慌ててコンソールキーを叩いた。すると高井のモニターにも八角形の光の輪が幾重にも映し出され、それらが急速に収束すると五機の未確認機影が映し出された。ステルス形状に設計されていない、ステルス塗装だけのTic30のような機体はテクニックと知識さえあれば、レーダー捕捉する事が出来た。

 裵は強引に機体をひねって雲の中に突っ込んだ。とたんに窓の外は真っ白になった。副操縦席のレーダーにはアドラー小隊を示す見方認識色の緑の光りが敵認識色の赤い五つの光に向かってミサイルを発射する様相が映し出されてる。李はコンソールパネルのダイヤルをいくつか回し、熱感知レーダーの照射角度を絞り、なんとかズームアップした戦闘機戦の様子をもう一つの画面に映し出す事に成功した。オレンジ色の画面には敵機の姿がセピア色の色あせた写真のようにうっすらと映っていたが、その噴射口付近だけは噴射流がガスバーナーのようにくっきり映っていた。

「敵一機撃墜」

 熱感知レーダーのモニターが一瞬パッと閃光を放ち、李の顔を不気味に照らし出した。

 親カモメは、すぐに低気圧の薄い雲の下に出た。雲は断続的に切れ目があり、先ほど上空で見た限りではこのまま跳び続ければすぐに雲のない所に出てしまうようだ。裵はゆっくりとスロットルレバーを押して加速した。裵と高井の背中にGがみるみる掛かっていった。機体は、時化の波に揺られるようなゆったりとした揺れにガタガタと細かく震える振動が加わった。窓の外から見える海面の波もあっという間に大きくなっていった。

「高度一千。速度六百五十」

 高井が興奮をにじませた声で叫んだ。音速を超えた速さにしては異常なくらい低空を飛んでいるからだ。

「ああっ、アドラー2ツヴォーがやられた」

 李が情けない声で呟くように言った。

 速度はじきに七百を超え、モニターに映る緑や赤の光は画面の外側へと流れていった。

『アドラー3ドライ、発動機及び右翼に被弾。機体炎上。消火装置故障。制御不能。脱出する』

 通常回線の無線から王中尉の声が入ってきた。これで残りはアドラー1だけだ。

「敵接近!敵接近!!」

 李が少しうわずった声で叫んだ。高井がモニターを見ると、赤い光の一つが猛烈な勢いで親カモメに近づいていた。降下しながらフルスロットルでこっちに向かっているのだろう。

「李、アドラー1と他の敵機は?」裵が尋ねた。

「接近する敵機以外はレーダーから消えました」

 敵もアドラーもステルス機能が付いているのだから、捕捉にも限界がある。

 敵のTicは八時の方角から真後ろに回って近づいてきた。李が機関砲の照準モニターを目の前に下ろし、コントロールスティックを握った。

 機体が再び回避旋回を始めた。

「李、敵の高度と距離は?」裵中尉が尋ねた。

「高度九千、距離一千二百」

「敵の降下角度は?」

「角度零です。我が機と平行に近づいてきます」

「了解。李、いいと言うまで撃つな」

 裵は自分のレーダーモニターを見つめたまま言った。

「了解しました」

 雲の切れ目が段々多くなってきた。遠く彼方にあるはずの高気圧の風が正面から流れ込むようになり、速度が徐々に落ちていく。キャノピーから上をのぞくと雲が見えている時間より青空が見えている時間の方が長くなってきた。すでに低気圧から脱出したようだ。目をこらして良く上を見ると、二条の白い飛行機雲が親カモメと平行して流れているのが見えた。Ticが鷹のように上空から獲物を狙っているのだ。

 高井が注意してTicの飛行機雲を観察していると、ふとその白い線がぷっつり切れた。

「敵機降下を始めました」

 李の声が聞こえた。高井も慌ててレーダーに眼を戻した。

「来やがったな。みんなしっかり掴まってろ」

 裵が思いがけないほど低い声で唸った。

「降下角七十度で近づいてきます」

 高井がレーダーを見て叫ぶと同時にスピーカーからコンピュータの鷹揚の無い声が流れた。

捕捉固定ロックオンされました。捕捉固定ロックオンされました」

 インテリ風の若い女の落ち着き払った声だ。声と同時に天井に取り付けられた帯状の警告ランプが赤くヒステリックに点滅した。

 高井のレーダーモニターに敵が数発のミサイルを発射する様子が映し出された。その瞬間、機体は大きく右に旋回し、士官学校の対Gテストでも経験した事が無いようなGが襲ってきた。左横のキャノピーから青空が見えた。しかし、次の瞬間には機体はものすごい早さでローリングして今度は左に旋回した。機体はギシギシと軋み、後ろの爆弾庫からはガンガンとものすごい音が響いた。突然、横から殴られたような衝撃波が伝わり、窓の外を見ると海面に巨大な四本の水柱が黄色く光りながら吹き上がっていた。ミサイルが海に突っ込んで爆発したのだ。

 巨人に揺さぶられたように激しく揺れる機体の中で、高井はやっとの事でレーダーを監視していた。震えてダブるレーダーの光の中からようやく今攻撃してきた敵機を見つける事が出来た。

「敵、十一時の方向に離脱。後ろに回り込もうとしています」

 高井の声は機体に揺られてなんだかフワフワしたシャックリのようだった。

「了解」

 裵がそう言うと機体の揺れがピタリと止まった。

 レーダーに映る敵機はぐんぐんと垂直に近い角度で上昇していた。また、上から狙い撃つつもりだ。でも、何故後ろから攻撃しないのだろう。ステルス機能が搭載された八十八式を捕捉固定するには熱感知誘導のミサイルで攻撃するのが一番確実なはずなのに…。そこで初めて高井は気づいた。敵は高井たちを生け捕りにするか、積み荷を無傷で回収するつもりなのだ。そしてほぼ間違いなくそれは後者が正解だ。奴らは熱感知誘導ではなく、翼の先端に発生する流体空渦の出す振動波を追尾する異形波動誘導で捕捉固定しようとしているのだ。

「敵、六時の方向、高度一万」

 高井がそう言うと、八十八式は再び上昇した。

「敵、急降下開始。飛び込んできます」

「もう一度回るぞ。掴まってろ」

 裵が操縦桿を倒し、機体はまた激しくローリングしだした。天と地がものすごい早さで何度も入れ替わった。今度は機体すれすれに何基かのミサイルが、すれ違い、次の瞬間には巨大な爆発となり炎と水しぶきを高々と打ち上げた。

 高井は必死にレーダーモニターにしがみつき、六発のミサイルが放たれた事を確認した。Tic-30の搭載可能量からすると、もう異形波動誘導のミサイルは切れている筈だ。

「敵、二時の方角に離脱」

 李のうんざりするような叫び声が聞こえた。

「中尉、次にくるのは熱感知か機銃だけと思われます」

 高井は胃が口から出そうになるのを堪えて報告した。

「敵、暗号無線を発信中。近くの電波基地向けだと思われます」

 機体の姿勢が安定し、李がほっとしたように言った。

「敵、大回りに後ろに回り込んでいます。今度は真後ろに付けるつもりです」

「了解。高井、前方機銃を通常弾から焼夷徹甲弾に切り替えろ」

 高井は驚いた。焼夷徹甲弾は戦車や装甲車などの防弾装甲を焼き貫く機銃で、爆撃機にはあまり似つかわしいものではなかった。裵の命令でこの八十八式にも積んではいたが、一種の曳光弾だったので信号弾として使うものだとばかり思っていた。

「了解」

 そう言うと高井は、前部コンソールの下に手を潜らせて前方機銃の弾薬切り替えレバーを操作して徹甲弾を装填した。

「いいか、高井。合図したら撃つんだ。それまでは撃つな。いいな」

 裵の額にはうっすら汗がにじんでいた。

「タイミング良く撃つ事だけを考えろ。それ以外はどうでもいい」

「分かりました、中尉」

 とはいうものの、何を狙って撃つのか高井にはまるで分からなかった。

 高井が高度計を見ると機体がかなりの早さで上昇しているのが分かった。さっきのロールファイトで三半規管が麻痺しているようで、身体では上昇を感じる事は一切出来なかった。

「敵が真後ろに付きました。」

 李は何も言わずに高井の仕事を引き継いだ。

「ゆっくり近づいてきます。高度三千。後、二分で射程距離。これなら後部銃座で狙えます」

「待て。ギリギリまで引きつけるんだ。今度は本気で掛かってくるぞ」

 Ticは狙いを定めるように後ろにぴったり張り付いて動かなかった。

 裵は天井のコンソールレバーをいくつかいじり、電気回路を非常用の G回路ガブリエレ・シュトローム・クライスに切り替えていた。

「高井、燃料を中央槽に集めて、両翼の槽を空にしろ」

「了解」

 高井は燃料ポンプを操作して燃料を中央に集めた」

 高井も李も裵が一体何をしようとしているのか全く分からなかったが、命令通り動いた。

「敵、接近開始」

 突然、李の叫び声が聞こえた。

 モニターを見ると、Ticが獲物に向かって走り出す肉食獣のように加速しながら近づいてきた。親カモメもゆっくり加速を始めた。裵がワザと発動機をブーストさせてゆっくりと加速しているようだ。

「捕捉固定されました。捕捉固定されました」

 女の鷹揚のない声が響き、コクピットに赤いランプが狂ったように点滅した。裵は左手をスロットルレバーから離し、天井の緊急停止レバーを掴んでいた。

「捕捉固定されました。離脱してください」

 高井が揺れる後部モニターに目をやると、ちょうど敵機が数発のミサイルを撃ったところだった。敵は親カモメを生け捕りにするのは諦めたようだ。

「高井、行くぞ」

 裵はそう叫ぶと、緊急停止レバーを一気に引っ張り、発動機消火装置と減速フラップを手動で作動させた。

 発動機の唸りは突然途絶え、尻餅をつくように失速していった。

「高井、撃て」

 高井は訳が分からず夢中でトリガーを引いた。

 機種から四条の白熱した徹甲弾が眩い光の尾を引きながら、空を切り裂いた。すると、敵の放ったミサイルは親カモメの頭上を越えて、光の帯に向かって飛んでいき、次々と空中で爆破した。

 発動機を停止させ、急速に冷却したため、ミサイルはそれより温度の高い徹甲弾誘導捕捉を変えて飛んでいったのだ。

 敵のTicも悔しそうに親カモメを追い越すと、空の彼方に消えていった。

「失速しています。速度を上げてください」

 女の声がセリフを変えた。

 裵は急いで発動機の点火スイッチを入れたが、パスーッと音がしただけで発動機は息を吹き返さなかった。

「失速しています。速度を上げてください」

 機体は徐々に機種を下げながら落下していった。

 高井は急いで電気系統をAに切り替えた。

「電圧を上げて一気に送ります。三・二・一でスイッチを!」

 高井は横目で裵を見つめた。

「了解」

「三・二・一!」

 発動機が再び唸りだした。

 裵は急いでスロットルに齧り付くと、レバーを押して爆撃機を加速させた。そして操縦桿をゆっくり引くと、機体は水平に戻っていった。

「Ticが戻ってきます」

 李が叫んだ。

「高井、電気系統Cクララへ。自動空戦フラップ起動」

「了解。電気系統Cクララへ。自動空戦フラップ起動」

「二人共、近づいてきたら二手に分かれて打ちまくれ。迎撃ゴーグルを着用せよ」

『了解』

 李は座っているシートを仮想迎撃モードにして銃器コントロールレバーと回転同期させるとゴーグルを付け、高井も後ろの予備の回転銃座に移って、ゴーグルを付けた。

「李、三番から五番を担当しろ」

 そう言うと、高井は自分の銃座コンソールの一番銃座と二番銃座のスイッチを入れた。

「了解。我、三番から五番担当」

 Ticは上空八時の方向から飛びかかってくるようだ。定石通り太陽の方角から攻めてくるようだが、電探照準では丸見えだ。

 高井の銃座がぐるっと回り、足が上を向くとゴーグルの照準にTicの姿が映った。Ticは親カモメに向かって急降下してきた。

「撃てっ」

 高井がそう言うと、三門の銃座が点に向けて火を噴いた。裵の回避旋回に合わせながら、その光の鎖は宙をくねって敵の機影に収束していった。

 敵戦闘機は器用にその弾幕を潜りながら、爆撃機に向けて十三㎜砲を掃射してきた。

 Ticがすれ違うのと着弾するのはほぼ同時に思えた。ダダダン、と数発の破裂音に続いてTicの発動機音が唸るように通過した。

「右翼被弾。飛行に支障なし」

 再び若い女の声が聞こえた。

「“戦闘に支障なし”というアナウンスも追加して欲しいね」

 高井が愚痴っていると下部にある五番銃座の望遠モニターに目をやった李が何かに気づいた。

「ちょっと待ってください」

 李はゴーグルをはずし、探査機械類を操作しだした。

「どうした」

 裵が李を振り返った。

「十一時の方角に暗号電波の発信源があります」

 高井は李の声を聞きながらTicの動きを追った。

「立体ソナーに感度あり。十一時の方角に大型の潜水艦が浮上航行中。マルクス級の巨大原潜です」

「原子力潜水艦…。なんで、そんな骨董品が…」

 高井は李の言葉を疑った。敵にはまだ原子力発動機を操れる技術があるというのだろうか。だが、高井の疑問はTicの再来で何処かへ消し飛んだ。

「李、四時の方向、Ticが戻ってきた。迎撃準備」

「了解」

 李は慌ててゴーグルを装着した。

「奴は原潜の方に誘導しようとしてる」

 裵はどちらに言うでもなく呟いた。

 Ticがものすごい速度で後方から接近してきた。どうやら裵が可変翼を目一杯広げ急激に減速しているようだ。

 再び戦闘機の十三㎜砲が火を噴いた。爆撃機はふわりと浮いて二回スクリューロールしてそのまま揺りかごのように左右にローリングした。二人は定まらない天地に苦労しながら戦闘機に向かって放火を伸ばした。

 空から屋根に鉄球を落としたような音と衝撃が数発機体を襲った。続いて戦闘機が爆撃機の超低速に耐えきれず、爆撃機を通り越していった。

「三番発動機、四番発動機被弾。自動消火装置作動」

 落ち着き払った女の声が言った。

「四番発動機、自動消火装置が作動しませんでした」

 高井はゴーグルに左舷カメラの映像を映してみた。すると、左翼から火が上がり黒い煙をもうもうと流していた。消火装置の手動操作レバーは機体の中央にあったが、今は爆弾槽一杯に荷物が詰まっているため、そこまで行く事が出来ない。

 Ticは再び前方の彼方に消えていった。消えていったはずだったが、それと同じ機影が右上方でこちらと平行して飛んでいるのが見えた。

「中尉、右上方に新しいTicです。こちらに気付いてません」

 高井は裵がいると思われる方向に叫んだ。

「近付くぞ。よく狙って撃て」

 裵は機体を加速させながら上昇した。

 新しいTicの腹が近付いてきた。両翼に被弾の後が見える事から、さっきの編隊機の一機と思われた。

「撃てっ」

 高井が叫ぶと、右側部と上部の機銃が火の矢を放ち、新しいTicの腹を貫いた。Ticの左翼が爆発し、火を吹きながら落下していった。やがて小さな爆発が数回起こり、機体は粉々に爆発した。

「こっちももう駄目だ。出力が上がらない。高井、こっちで補助してくれ」

「了解」

 高井はゴーグルを投げ捨て、副操縦席に飛び込んだ。左翼の四番発動機は既に停止していたが、まだ炎と大量の黒い雲を吐き出していた。他の三つの発動機も何かの衝撃で燃焼室が焼け付いたか、燃料の噴射ポンプに異常を起こしているらしく、みるみる速度が落ちていった。

「全発動機、オーバーブーストの為、出力低下。最大出力は五十パーセントです」

 女のアナウンスは続く。

「三番発動機、噴射発動機が暴走。制御不能。後一分で臨界点を超えます」

「三番発動機停止」

 裵が言った。

「しかし、この状態じゃ、二発では失速します」

 高井が抗議したが、裵は何も言わなかった。

「了解。三番発動機停止」

 Ticがゆっくり左側から後ろに回り込んできた。左下には巨大潜水艦の黒い背中が肉眼でも確認できた。

「李、奴を頼んだぞ」

 高井はそう言うと、緊急時のマニュアルを思い出しながら発動機の出力を上げる試みを順に試していった。

 後ろから李の操る機銃の発射音が聞こえてきた。まだ、機銃の射程圏外だが、李は弾道射撃で奴を威嚇していた。しかし、放物線を描くその弾道はことごとく奴にかわされていった。

「中尉、どんどん高度が落ちていきます。荷物が重過ぎるんです」

 高井が叫んだ時、奴の攻撃が始まった。奴の機関砲が垂直尾翼を貫通した。奴は短距離着陸用のフラップを限界まで下ろし、親カモメの速度に合わせて後ろに付いてきた。既に失速限界を超えているらしく、機体がフラフラし、銃撃の狙いが上手く付かないようだった。

 二撃目が始まり、奴の銃弾が何発か機体に当たった時、海面すれすれから急上昇する飛行物体があった。

「アドラー1です」

 李は歓喜の声を挙げた。

「さっきのTicを追っていたんだ」

 Ticはすぐに上昇する七式に気付き、逃げようとしたが、既に七式の発射したミサイルがTic目掛けて追尾していた。失速限界でフラフラになっていたTicは逃げるまもなくミサイルに撃破された。恐らく操縦兵が脱出する間も無かっただろう。

 李は急いでアドラー1に無線連絡を取ったが、無線装置がやられているのか、返信はなかった。

「こちら親カモメ、アドラー1応答せよ。こちら親カモメ、アドラー1応答せよ」

 裵はアドラー1の機体から白く細い煙が何条か出ているのに気付いた。

「何か、様子がおかしいぞ」

 アドラー1は二三秒親カモメの右側を平行して飛行したが、直ぐに高度を落とし、海面に落下していった。

「空戦で既に被弾していたか」

「瀕死の状態で守ってくれたんですね」

 高井は申し訳なさそうに言った。

 しかし、何時までも悲しみに暮れているわけにはいかなかった。八十八式もゆっくりではあるが確実に高度が下がっているからだ。

「四番発動機の温度が火災で上昇中です。このままではブースターファーシュテルカーが溶け出します」

 高井が報告した。コンピューターが自動停止したと判断した四番発動機は僅かに残された燃料を燃焼ブースターファーシュテルカーに送っていたのだ。

「仕方ない。自爆装置を起動させるぞ。全員脱出の準備を」

 裵は座席の下にある自爆装置のコンソールを引っ張り出し、首にかけた細い鎖を取って、その先に付いた起爆キーをコンソールに刺した。

「20秒以内に脱出しろ」

 裵はそう言って起爆キーを回したが、起爆コンソールのカウンターパネルは秒読みを開始しなかった。もう一度回してみたが、結果は同じだった。

「駄目だ。自爆装置が作動しない」

 その時、例の女の声が聞こえた。

「電気系統に不具合が生じました。十八番ユニットを調整してください」

 十八番ユニットは非常消火レバーと同じく機体の後部にあるので調整は出来ない。

「脱出は中止だ。持ち場に戻れ」

 裵がそう言うと、二人は着かけていた救難ジャケットを元に戻し、自分の席に着いた。

「李、この下の海底の深度はどの位だ?」

 裵は李に尋ねた。李は短波ソナーとGPSをいじってコンピューターに海底深度を計算させた。

「大凡ですが、五百から七百の間です」

「分かった。高井、荷物を投下するぞ。投下ハッチを開け」

「捨てるのですか」

「敵の手に渡るのが一番困る。これだけ深い海なら奴らの手も届かないだろう」

「でも、沈むんですかね」

「そう願うしかないだろ」

 高井は投下ハッチを開き、爆撃照準器を覗いた。高度は既に千を下回っていたので、海面の波が太陽の光に輝きよく見えた。

「李、荷物を下ろしたら、後ろへ行って消火レバーを引き、十八番ユニットを修理しろ」

「了解」

「高井、どこでもいいぞ。直ぐに投下しろ」

「了解。投下します」

 三つのコンテナが爆弾倉の固定装置を離れ海面に落下していった。照準器の中でコンテナは徐々に小さくなり、やがて三つの水柱を上げた。

「沈んでくれればいいんだが」

 高井はそっと呟いた。

 投下ハッチを閉じて床板を下ろすと、李は急いでコクピットのハッチを開け、貨物室に向かった。

 やがて左翼から白い消化剤が吹き出し、四番発動機の火災は鎮火した。

「手動消火装置が作動しました。火災鎮火」

 女の声が報告した。

 高井は四番発動機の起動スイッチを押して発動機を生き返らせた。

「四番発動機、起動。出力五十パーセント」

 四番発動機は他の発動機同様、かなりのダメージを受けていて、苦しそうに推進エネルギーを吐いていた。

「尾翼がやられた。フットペダルが効かない」と裵が小さな声で言った。

 高井も試しに自分のペダルを交互に踏んでみたが、反応はなかった。

「十八番ユニットが直れば補助方向舵が動きます」

 高井がパネルから被害の状況を読み取って冷静に報告した。

「高度九百。出力四十パーセント」高井は再び報告した。「このままでは墜落します」

「了解。出力三十五パーセントに低減。フラップ五度」

 裵は冷静だった。

「了解。出力三十五パーセント。フラップ五度」

 機体の降下はどうにか止まった。

「高井。一時の方角、見えるか」

 高井は機首の望遠探査カメラでその方向を見ると小さな島があった。

「小さな火山島のようです。南側に砂浜があります」

「よし、あそこに降りるぞ」

 その時、李がコクピットに戻ってきた。

「十八番ユニット、直りました」

 高井は急いで電気回路を切り替えると、自動修復装置を作動させ、非常用操縦回路に切り替えた。

「制御、戻りました」

 裵が軽くフットペダルを踏むと、機体は小さく尻を振った。

「なんだかフワフワするなぁ」

「尾翼にかなりの損傷があるみたいなので」

 高井が言い訳をするように言った。

「李、ベルトをしっかり締めろ。前方の島に不時着する」

「了解」

 李は固定ベルトをしっかり身体に巻き付け、探査機器を覗き込んだ。

「高度六百。速度百六十。着陸点まで千二百」

 高井が報告した。裵の着陸操縦を補助するために、自分も操縦桿に手を添えていた。

「了解」

 裵は操縦し辛そうに顔をゆがめた。

「さっきのコンテナ、上手く沈んでくれたでしょうか」

 高井が尋ねた。

「さあなあ。後ろにいた原潜も気になるしな」

 裵は何もこんな時にコンテナの話などしなくてもいいのにと思いながら返事した。

「高度三百。速度百五十」

 高井は事務的な口調で報告した。

「了解。フラップ十五度」

 裵はそう言うとフラップレバーを動かした。

 島はどんどん近付いてきた。島のほぼ中央には三角形の火山が聳え、その頂からは微かに火山性のガスが噴き出ていた。島の大半は熱帯性の森に覆われ、青々と茂っていた。海岸線や森のあちらこちらに噴火で出来た巨大な岩が転がっていた。島の南東と南西に岬が付きだし、その間に湾が作られていた。弓状に長い砂浜が延びていたが、その幅は八十八式がようやく着陸できるほどしかなかった。

「砂浜まで距離三千」

 高井がメーターを読み上げると、発動機からゴロンゴロンという異音が聞こえてきた。突然、高度が三十フィートほど下がり、速度も低下した。

「前方に岩発見」

 裵が言った。

 高井が前方を見ると直径十フィート、高さ五十フィートほどの巨大な柱が海面から突き出ていた。

 高度はどんどん下がり、海面すれすれになった。

「ぶ、ぶつかる…」高井が低く呻いた。

「高度を上げろっ!」

 裵は叫びながら操縦桿を思い切り引っ張っていた。高井も裵を手伝い、操縦桿を力一杯引っ張る。操縦桿は信じられないほど重かった。水平尾翼かそれを操る何かの部品に何かが詰まっているのかも知れない。

 裵はフラップを目一杯下ろし、スロットルを開いた。発動機は悲鳴を上げ、オレンジ色の炎を噴いた。

 操縦桿がじりじりと動いていった。機体はゆっくり上昇し、岩の柱の上ギリギリを飛び越えていった。

着陸装置ランディングギア、下ろせ」

 裵が叫ぶと、高井は三つのレバーを次々に下げた。足の下から着陸装置が降りる震動が伝わってきた。

「進入角四十度。不時着する」

 裵は岬の崖を飛び越えると発動機を切り、崖の上昇気流に機体を預けた。

 爆撃機はふわりと海岸線に降り、砂浜に飛び込んだ。後ろの主脚が砂浜を捕らえると、機体は大きく一度バウンドし、二度軽くバウンドすると、三本の着陸脚を同時に砂に着けた。もの凄い震動が三人を襲い、窓の外では砂が舞い上がっていた。やがて補助脚が折れると、機首が地面に着いて舞い上がる砂で窓の外は全く見えなくなった。右翼が海岸線に生えた木に当たり、機体はぐるりと半回転して止まった。

 そして三人はそのまま気を失った。

 どの位気を失っていたのだろう。右側の窓から差す強烈な日差しで高井は目を覚ました。自分の置かれている状況を把握するのに二三秒掛かった。目の前の窓からは暗いジャングルしか見えなかった。

 右側の窓から太陽の光が差しているという事は、今は午前中の筈だ。昨日墜落したのは午後の明るいうちだから少なくとも丸一日近くは眠っていた事になる。コンソールパネルの片隅にある独立電池で動く時刻表示を見て、丸二日が正解だと気付いた。

 手足を動かして怪我の有無を探ってみたが、全身に打ち身があるものの大きな怪我は無いようだった。

「ううっ」

 高井の横で裵が呻いた。

「中尉、大丈夫ですか?」

「大丈夫だ。どの位寝ていた?」

 裵は喉の奥を絞るように言った。

「四十二時間ほどです。お怪我は?」

「軽い打ち身だけのようだ。李はどうした?」

 高井が後ろを振り向くと、李は固定ベルトに縛られてぐったりとしていた。高井は自分の固定ベルトをはずし、李に近付いた。

「李、大丈夫か?」

 軽く肩を揺すってやると、「ううっ」呻いた。

 高井が李のヘルメットを取ってやると、李は額から大粒の汗を流していた。

「李、大丈夫か?」

 もう一度そう言うと、今度はもう少し強く肩を揺すった。

「李少尉!」

「右足が折れているようだ」

 李が苦しそうに言った。

「応急処置をしよう」

 裵は席を立ち上がり、コクピットの後ろに行き、医療キットを取ってきた。

 裵は直ぐに李の骨折箇所を調べ上げ、器用に骨折治療を施した。更に李の左腕に五センチほどの切り傷があるのを発見して、傷口の消毒と縫合をして包帯をすると最後に免疫剤と何かの注射をした。

 李が注射を受けるのを見届けると、高井は空気を入れ換えようとコクピットのハッチを開いた。

 外は雲一つ無い青空だった。直ぐ目の前には砂浜に打ち付ける白い波が輝いていた。南国のリゾート地にいるようだったが、たった一つ南国のリゾート地には無いものがあった。一昨日見たマルクス級の巨大原潜が湾内に鎮座していたのだ。

「うっ」

 高井は思わず呻いた。

「どうした高井?」

 裵が高井の異常に気付いた。

「敵の原潜です。この前見た奴です」

 裵は高井のそばに駆け寄りその黒い巨体を見た。真っ黒の巨大な船体が直ぐ近くまで迫り、僅かに傾いで停泊していた。

「隠れろ」

 裵は高井をハッチの中に引っ張り込んだ。

「自分たちを追ってきたのでしょうか」

 高井は目を丸くしていった。

「分からん」

 裵はハッチの隅からそっと原潜を覗いた。高井もその横から顔を出した。

 落ち着いて原潜を観察するとどこか様子が変なのに気付いた。

 まるで人気がないのだ。それに、湾の内側まで入っているという事は、このサイズの艦艇からすると停泊しているのではなく、座礁しているようだった。

 司令塔の壁やデッキには赤黒いペンキのようなものがあちこちに塗りたくられ、ハッチはどれも開け放たれていた。そして、後部の荷揚げクレーンからは高井達が運んでいたコンテナがぶら下がり、風に揺られたいた。

「なんか、様子が変だな」

 裵は高井を横目で見ながら言った。

「誰もいないようですね」

 潜水艦は不気味なほどに静まりかえっていた。

「近くまで行ってみよう」

 裵はそう言うと自分の座席の下から自動小銃を取り出した。高井も自分の座席に戻り自動小銃を取り出し、ベルトに予備弾倉をねじ込んだ。自動小銃といっても小型のG-9Kゲー・ノイン・クルツだったので、潜水艦の水兵が大勢出てきたらひとたまりもないだろう。

 裵は李にここで大人しく寝ているようにと説得すると、先頭になりハッチから砂浜に飛び降りた。直ぐに近場の岩陰まで走り身を隠した。岩陰から潜水艦を見ると相変わらず人の気配はない。裵は高井にこっちに来るように合図した。

 高井も飛び降り、裵のいる岩陰まで走った。

 二人は暫く身を潜めていたが、何も変化はなかった。

「おかしい」

 裵はそう言うと、岩陰から離れ、堂々と潜水艦に向かって歩き出した。高井は恐る恐る裵の後に続いた。

「誰も出てきませんね」

 高井が裵の後ろで言った。

「しっ!」

 裵は高井を黙らせると、腰をかがめて足早に潜水艦へ近付いた。

 近くで見ると潜水艦は異様に大きかった。まるで黒い高層ビルを横倒しにしたような潜水艦だった。甲板の両舷にはそれぞれ短い滑走路があり、空母としての性能もあるようだった。司令塔の高さは戦艦の艦橋と少しも変わらなかった。艦首と艦尾には八十八㎜三連装砲が格納庫から中途半端に露出し、司令塔の回りには対空砲が葡萄の房のように生えていた。

 座礁しているのは本当のようで、船体は喫水線を露わにし、後部の四連スクリューは上の二基がすっかり海面から顔を出し、既に乾ききっていた。

 さっき赤黒いペンキのように見えたのは恐らく人間の血液で、百人分以上の血が流されているようだった。

 それは地獄図のようだった。

 潜水艦の上とその回りには夥しい血液と肉片が飛び散っていた。原型をとどめた遺体は一つも見あたらなかった。

 海の上に出された避難ボートも血がべっとり付いていて、そのいくつかには人間の身体の部位と思われる肉片が見えていた。

 海岸をよく見ると波打ち際に下半身がざっくり切り落とされた遺体や手や頭だけ、或いは下半身だけの遺体が散乱していた。遺体に張り付いた制服からすると、様々な役職や部署の人間が殺されたようだ。

 遠くの海岸にはシャチの尻尾と思われるモノが打ち上がっていたが、それも同じモノに殺られたのかも知れない。

「誰に殺られたんでしょう?」

「多分、あれだろうな」

 裵は潜水艦のクレーンにぶら下げられたコンテナを指さした。

 吊り下げられたコンテナは防弾扉が開いたままで、ゆっくりと風に揺れていた。その下のデッキの上にも残りのコンテナが置かれていたが、二つとも扉が半開きになっていた。

「自分たちは一体何を空輸したんでしょう」

 高井はコンテナから目を離さずに言った。

「新型兵器だよ。まさしく兵器だ」裵もコンテナから視線をはずせずにいた。「生物兵器も核爆弾も悪魔の発明と言われたが、こいつもその一つだろう」

「中尉殿。自分には、こいつはその中で一番作っちゃいけないモノのような気がします」

「そうだな」

 その時沖合で、何か黒くて巨大なものがその一部を海面に現し、また海中に潜っていった。その回りにもちっちゃく青黒いものがピチャピチャと海面に踊り出し、黒くて巨大なものを追って行った。そして、霧笛のような、鳴き声のような低い低い音が聞こえたような気がした。

 波打ち際の水中で、その音に呼ばれるようにアザラシくらいの大きさの何かが沖に向かって泳いでいった。その回りにももっと小さい動物のようなものが無数に蠢いていた。それが何であったのかは全く分からなかったが、その姿は目の前の巨大潜水艦を曳航する数百隻のタグボートのように見えた。

「高井、海には近付かない方がいいかも知れないぞ」

 裵は風に髪を靡かせながら遠くを見つめていた。

 風が潜水艦のハッチやクレーンのワイヤーに切り裂かれ、ピューピューと泣いていた。

 高井は急になんだかとてつもなく遠い処へ来てしまったような気になった

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黄昏と黎明(仮題) 相生薫 @kaz19

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