Ⅳ—晃生

『僕らで、やろう』


 冬哉のその言葉に、俺ははじめ、唖然としてしまった。

 紗千、という女の子に、協力する。確かにそれについては同意した。


 だけど――紗千を、幸せにする?

 それはまるで問題のように、俺には思われた。だって、ついさっき初めて会話した少女のことなど、俺は全く知らない。

 そんな状態で幸せにする、なんて言われても、そんなものどうしたらいいというのか。手当たり次第に試すような余裕も用意もないし、そもそもそこまでする義理は俺らにはない。


 多分、『残念会』はもう、どうやったって再開不可能だろう。だから俺たちの演奏の機会が訪れることは、この先二度とないはずで。瑞希や冬哉が協力する、と言うからついてきただけの俺が、そこに手を貸す、というのは、どうにも気が乗らない感じがして。


 けれど、ふと冬哉と目が合って、そこに浮かぶ真剣な光を目にして。


 自然と、ため息が漏れてしまう。つくづく、この友人は人が良すぎる。


『わかった』


 そう言葉を返すと、二人が驚いたように俺を見る。そりゃそうだ。今回、一番乗り気じゃなかったのは俺だから。特に冬哉には、俺の覚悟だとかを伝えてあっただけに。

 だけど、これだって、俺の覚悟の延長線上にあるのだ、ということに、俺は既に気づいていた。

 だから。


『で、冬哉、何か当てはあるのか?』


 と、続けて聞く。冬哉は、俺の言葉を受け止めて――しかしそこで、少し固まった。……おい、そこは考えとけよ。


『えっと、そこまでは、考えてなかった』


『だけど、あたしたちでできることで、紗千を、って、難しくない?』


 と瑞希。

 確かにその通り、ただの学生である俺たち三人が集まったところで、できることなんて限られている。その中から、紗千の願いを満たすほど強いなにかを産み出すのは、相当に困難なはずで。


 だけど、冬哉は瑞希の言葉にはっとしたように。


『いや、できることが、多分ひとつだけ、ある』


 と打ち込む。そして――空いている手で、肩にかかった紐に触れた。


 今度は俺が、はっと気づく。そうだ。

 記憶が繋がっていく。冬哉の背負ったギター。以前チラシを配った時に見た、広場のピアノ。そして、俺の荷物の中に入れたままのスティック。


 あたし達が、紗千の邪魔をしたみたい、と、瑞希は言った。

 本来、誰のことも顧みずに、自分自身だけが幸せになる、その結果をただ受け止めることができたはずの紗千。それができなかったのは、俺らと――冬哉と出会って、俺らの幸せが崩れる瞬間を、目の当たりにしてしまったからで。


 ならば、俺らが、何の問題もないんだ、という様子を、紗千に見せることができれば。


 俺と冬哉で視線を交わして頷き合う。お互いに、何に思い至ったのかを、それだけで確認しあう。


 けれど、その横で――瑞希だけが一人、表情を硬くしていて。


 冬哉が、それに気付く。

 いぶかしむように瑞希の方を見る俺たちに、彼女はわずかに顔を俯けて、張り詰めた表情のまま、指先を動かす。


『ごめん』

『あたし、自信ない』




 瑞希の横顔を、しばらく茫然ぼうぜんと眺めてしまう。

 そして、不意に気付く。彼女が、ひどく不安そうな表情をしていることに。


 本番で、あんなことになって。なのに、切り替えて、今できることを探そう、紗千に協力しよう、なんて言いだす瑞希のことを、俺はただただ、強いな、と思っていた。ただただ、怒りを表すことだけしかできなかった俺とは違う、と。


 けれど実際は、そんなことはなかった。

 あの場で泣き崩れた瑞希が、こんな少しの時間で立ち直っている、なんてこと、あるはずがなくて。


 だから俺は――言い出せなくなってしまう。

 バンド、もう一回ここでやりなおさないか、という言葉を。


 忘れようとしていた悔しさが、蘇ってきそうになる。

 バンドが、あんなどうしようもない理由で、バンドが中止になって。そして、紗千を助けるために思いついたその方法さえ、実行することができないのか。


 雰囲気にのまれて、俺も、紗千も、俯いたまま、動けなくなってしまう。

 握り締めた拳が痛い。無力感に苛まれる。

 あとはただ、誰かが『諦めよう』と言い出すか、あるいは手づまりなのをわかっていて、他の方法を探しているふりをするかしか、選択肢は残されていない。

 そして、どちらにしろ、そのタイミングは、きっとすぐに。


 スマホが震える。

 恐る恐る、俺は画面に目を向けて。


 そして、そこには。


『瑞希、バンド、


 冬哉が、真正面から、瑞希に切り込んでいた。




『やりなおす、って』

『無理だよ、怖い』


 せきを切ったように、瑞希から弱音が溢れ出す。

 その手が、震えている。目元に、涙がにじんでいる。あのときと――俺らの演奏が中断したときと同じように。


 そして。


『きっと、また失敗しちゃう』


 ついに、瑞希の不安が、言葉となる。


 紗千のことがなくても、きっと演奏は失敗していた、と瑞希は言った。

 それは紗千に対する慰めであったのかもしれないし、自分や俺に対する言い訳だったのかもしれない。

 けれど、それだけでは絶対にない。確かに、演奏の中断を決定させたのは紗千の魔法だったが、しかしその前から瑞希の様子はどこかおかしかった。


 あのとき、瑞希が何を考えていたのかは、俺にはわからない。

 だけど、あのときの思いが今も彼女の中に残っているとしたら――今演奏をしても、同じようになってしまうのではないか。結局また、何もかも失敗してしまうのではないか。


 それがわかっていて、怖くて、だから俺は、そこに踏み込んで行くことができなくて。


 だけど、冬哉は。


『瑞希は、あのままでいいのか』


 それで立ち止まりはしなかった。


『あのまま、って』


『瑞希が、どういう思いで本番に臨んで、どうしてああなったのか、僕は知らない』

『けど、大事なことだったのだけはわかるから』


『そう、だけど』

『でも、また失敗するかもしれない』


『だから、んだ』

『このまま何もしないで終わったら、きっと後悔するから』


 そして。


『それよりも、やって後悔する方が、きっとずっとマシだよ』


 その言葉に、瑞希が驚いたように顔を上げる。そしてその視線が、冬哉と交わって。

 不意に、瑞希が、少しだけ笑う。


『でも、いいの?』

『あたし、あの時よりもっとひどく、失敗するかもしれないよ?』


 その言葉を受け止めて、頷いた冬哉は、笑っていた。


『マイクなしで、機材も違うんだから、もともとそんなにうまくいくとは思ってないよ』

『それでも、大事なのは、僕らでもう一回、演奏をやり直すことだから』


 少しの間。

 そして。


『わかった、やろう』


 そう瑞希が打つ、その視線は、さっきとは打って変わって、開き直ったような力強さを纏っていた。


『だけど、どうすんの、構成は』

『あたしはあそこのピアノ、冬哉はそれでいいだろうけど』


 呆けていた俺は、そこでようやく自分を取り戻す。

 負けていられない、という思いが込みあがってくるのを感じる。俺は指先を画面に走らせる。


『それなら、考えがある』

『準備するから、ちょっとだけ待っててくれないか』


 そう告げて、二人が頷くのを見届けて、それからふと、戸惑ったように視線を彷徨わせる紗千と、目が合う。

 不安げな表情、それは、状況が勝手に進行していく事に対してか、或いは俺らの演奏の成否を巡ってのことか。

 どっちでもいい。腹はとっくに括った。


 だから、俺は紗千に笑いかける。


 そして、走り出す。じっとしていると持て余してしまいそうな衝動を、一歩一歩に込めていく。

 目的のものは、どこにあるだろうか。わからない、だけど場所柄、そう遠くない場所で見つけることができるだろうとは思っていた。


 走りながら、俺の胸の中で、改めて一つの思いが湧き上がってくるのを感じていた。


 俺はやっぱり、この三人でいる時間が大切だ。

 冬哉と瑞希。自分の痛みは幾らでも耐えようとするくせに、知っている誰かが傷つくことを許せないお人良しと、時々空回ったり、不器用だったりするけれど、それでも頼れる意地っ張りと。

 性格が合う、だなんてとてもじゃないが言えない、でも、だからこそ楽しい。


 この思いは、俺らの関係がどうなったってきっと変わらない。

 だから、俺は、余計なことにとらわれることなく、ただ真っ直ぐに、信じていることができる。


 きっと、今度こそ成功する。

 すでに、俺の中ではそんなビジョンが見えていて、そしてきっと、二人はそれを上回ってくる、という予感があって。

 だから、誰かを幸せに、なんて大それたことだって、きっと成し遂げられる。


 ついさっきまでもやもやした思いを抱えていたことも、ちゃんとした場所で演奏できないということも、俺はとっくに忘れてしまっていて。

 今はただ、この楽しさを、少しでも長く全身で感じていたかった。

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