Ⅴ—瑞希

 去っていく晃生の後ろ姿を見送って、それからあたし達も、目的の場所へと移動する。

 街の中央にある広場、そこに設置されたピアノと、備え付けの椅子。そこに座って、そっと鍵盤に触れる。高い音が予想より少し大きく鳴って、通りを行く人たちの何人かが振り返る。


 背中に感じる視線。ここに座るのは初めてだった。ここを通る時、思い出したようにピアノに触りたくなることはそれなりにあったのだけど、なんとなく人に見られる場所で、というのが恥ずかしくて避けていた。

 今もちょっと、背中のあたりがむず痒くなる感覚はある。だけど――胸の中の空気を一度押し出して、もう一度吸って。澄んだ夜の空を見上げてから、隣に視線を向ける。


 少し離れた植え込みに冬哉が座って、ケースからギターを取り出している。ゆっくりとした動作で、組んだ足の上にギターを載せ、適当に幾つか音を鳴らす。

 やっぱり小さくない音が鳴って、視線が集まるなかで、冬哉は少しやりづらそうな顔をした。


 だけどそれでも、お互いに逃げ出すことはない。そのまま少し、弾き心地とか、音の大きさとかを確認する時間が続く。

 そのうちに、晃生が息を切らせながら戻ってくる。手に大きめのバケツを抱えて。……予想はしていたけど、少し呆れた。アイツは、ぶっつけ本番でバケツドラムをやる気らしい。あれは普通のドラムとはだいぶ感覚が違う、とか聞くんだけど。


 とはいえ、陰で練習でもしていたのか、それとも今までの練習のおかげか、試しに叩き始めた晃生の音は思っていたよりもちゃんとしていて。

 そんな時間がまた少し。時折立ち止まってこちらを見る人が出てきて、少し離れたところであたしたちの様子を見守っていた紗千が、戸惑ったようにそれを眺めている。


 やがて、自然とできた間。晃生と、冬哉と、視線が合う。準備が整った、ということが伝わってくる。



 あたしは、不思議な感覚の中にいた。


 怖い。そんな思いはもちろんある。やっぱりピアノと向き合っているだけで、失敗するんじゃないか、本番と同じようなことになるんじゃないか、って不安が溢れてきて止まらない。


 だけど、ドキドキする。

 それは多分、不安から来るものだけではなくて、だけど、演奏をやり直せる、って前向きな捉え方の結果でもなくて。


 すごく、不安。

 だけど、だからこそ湧き上がってくる楽しさ。


 演奏したくない、だけど早く演奏したい。そんな相反する気持ちに急かされるみたいに。



 一つ、コードを鳴らす。

 二人が頷く。それで、伝わった、ということを確認するには十分だった。


 晃生がスティックを掲げる。

 一回、二回、三回。その動作が妙にゆっくりと感じられて。


 冬哉が指先で一音ずつ、音を並べていく。アルペジオの、静かだけど明るい旋律。

 心の中で拍を数えて、ここだ、というタイミングで高音を優しく、そこに重ねる。

 パズルのピースが、ぴったりはまったような感覚。うまくいった、という喜びに心拍数が上がる。


 自然と、笑顔になる。少しずつクレッシェンド。静かな街に、あたしたちの奏でるメロディーが浸透していく感覚。

 そうして、あたしたちの演奏が始まる。既に終わった一曲目でも、ぐちゃぐちゃのまま中断してしまった二曲目でもない、三曲目、昔流行ったという、冬の恋をテーマにした曲が。




 思い出す。

 この曲を提案したのは冬哉だった。あたしと晃生が思いついた曲を適当に口にして、それで冬哉は、と尋ねて。


 冬哉は少し悩む様子を見せて、それから、思い出したようにふとこの曲の名前を挙げたのだけれど――それを聞いてあたしと晃生は、渋い顔になった。


「え、なんでそんな反応になるのさ。季節も合ってるし、有名だし、条件としてはばっちりじゃないか」


 その言葉に、あたしと晃生は顔を見合わせて。


「だって、ねぇ」

「なぁ」


 それから、口を合わせて。


「「古い」」


 と、そう答えたのだった。




 そういえば、冬哉の趣味って、大体お父さんの影響なんだっけ。確か、ギターもはじめは親に借りて弾いてた、とか。

 いつそんなことを話したかは覚えていないけど、多分結構前に、なんてことない雑談の中で。だけど不思議と記憶に残っていた。


 案外、単純なことだったのかもしれないな、とあたしは思う。

 成長とか、変わらないとか、そういうことじゃなくて。


 気づくと、前奏が終わりかけていた。

 そろそろ歌い始める準備をしなくちゃ。息を吸って、それからそこで止まる。


 声が出ない、ということをすっかり忘れていた。

 マイクもないし、あっても歌えないし。そして困ったことに、やっぱりどうするか、ということを二人と話していない。そしてあたしたちの演奏はあくまでボーカルがいる前提だから、このままだと主旋律が欠けてしまう。


 また、失敗するのだろうか。


 恐怖が、一気に膨れ上がっていく。すくみそうになる。

 やっぱり、演奏をやりなおそう、なんて誘いに乗るんじゃなかった。そんな思いに囚われそうになって。


 だけど。


『やって後悔する方が、きっとずっとマシだよ』


 その言葉が、あたしの背中をちょっとだけ押し出してくれる。それが勇気に変わって。


 そう、今のままやったら、失敗するかもしれない。

 だったら、今のままじゃなくなってしまえばいい。


 だから、ちょっとした賭けに出る。

 ぶっつけ本番。指がついていかなかったり、二人が動揺してしまったりすればそこで終わってしまう。失敗する。


 だけど、二人なら、きっと。

 そんな思いで。



 前奏が終わり、歌い出しのタイミング。あたしはコードではなくて、を指で叩く。



 そして――まるでそれが当たり前のように、演奏はそのまま進行していって。



 鳥肌が立つ。それまでの怖さが、そのまま楽しさに変わる。それで、乗り越えたんだ、ってことがわかって。



 音が楽しげに跳ねているように感じられる。顔を見ることはできないけれど、二人が笑っているだろうな、ってことがわかる。そしてあたしも、笑っていた。


 歌の代わりのピアノと、アコギの生音と、バケツや地面を叩く音と。

 音量とか、そのほか色々と、全然ちゃんとした演奏じゃないと思う。だけど、今まであたし達が重ねてきたどんな演奏よりも、重なってる、という感覚がある。



 ――あぁ、ダメだ。

 こんなもの、クセになるに決まってる。

 取り返しのつかない領域、なんてとっくに超えて。



 サビ前、冬哉が、短く、大きく、断続的にギターをかき鳴らす。

 一瞬のブレイク。その間にちらりと、二人の方に視線を向けて。


 そしたら――ほら、やっぱり、二人とも心から楽しそうに、笑ってて。


 手元に視線を戻す。ひときわ強く、鍵盤を叩く。タメた分が一気に解き放たれて、サビの盛り上がりとあたしの心が重なっていく。



 そして、あたしはふと、驚くほど心が軽くなっているのを感じていた。

 今日まで、さっきまで、色々悩んでいたのが嘘みたいに。


 そう、本当はもう、とっくに気づいていたんだ。

 二人がいなくちゃ立っていられなくなる前に、だって。お生憎あいにく様、とっくに手遅れだ。数日前の自分にそう言ってやりたい気分。


 だってほら、こんなにも楽しいのだ。

 怖さが、楽しさに変わる。なんだって乗り越えていけるような気がする。大丈夫だ、って思える。そんなの、この二人とじゃなきゃ、積み重ねてきたものがなきゃあり得ない。

 意識してこなかっただけで、これまでもずっとそうやって過ごしてきたんだ。それを意識してしまった。こんなにも楽しいことがあるんだ、ってわかってしまった。


 だからもう、嘘でも、『離れたい』なんて、言えるわけがない。


 いつか別れの時が来るとしても、それは多分、今じゃない。だったらそれまで、できるかぎり楽しまないと損だ。


 それが、いびつな関係だとしても、誰かにそう言われたとしても、構うものか。胸を張って、羨ましいか、って言ってやる。

 そうできるだけの強さを、あたしは二人からもらっているんだ。



 気付けば、曲はすでにCメロに差し掛かっていた。

 早い、と思う。勿体ないな、と感じてしまう。ステージの上ではたった一分ほどの時間ですら、長く辛く感じたのに、今は残り一分くらいしかこの時間が続かないんだ、って寂しさすら感じる。

 その思いを、仄かに切なくなったメロディーに乗せる。もっと演奏していたい、もっとこの時間が続いてほしい。

 二人も、きっとそれは同じだと思う。だから――


 だから、届いてほしい。届け、伝われ。そんな念を送る。

 足を止めた人々の中で、一人、切なそうな表情であたしたちを見ている紗千に。


 あたしたちは、今、幸せだよ、と。


 今は、自信を持ってそう断言できる。

 紗千のせいで中断した演奏。だけどそのおかげで、あたしはあの場で別れを切り出さずに済んだ。今、こんなに純粋な気持ちで演奏できている。

 二人といる時間が好きだ、と、失いたくない、ずっと一緒にいたい、と、言い切ることができるよ、と。


 だから、紗千もきっと、幸せになっていいんだ。

 ちょっとやり方は間違えたかもしれないけれど、だからってそれで幸せになっちゃいけない、なんてことはないんだよ、と。


 きっと、その思いは伝わる、と信じる。

 信じて、ただ演奏に全力を尽くす。そして。


 最後のサビ。声も言葉もない。だけど、あたしたちは確かに一つになっていた。

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